今日も冷える、お風呂に入ろう
久環紫久
第1話
「他に好きな人が出来たの」
有名な楽曲のように三年目に浮気することはなかったのに、四年目の今年、恋人たちの一大行事が眼前に迫った十二月十日。魅力的な大きな目に涙を溜めてそう言われた。何を言われたのか脳が理解しようとせず、あんぐりと口を開けて呼吸も忘れた僕に、追撃の一打のように彼女は「だから別れて」と涙ながらに言った。
どうにか振り絞った言葉は「え」だった。その次は「えっと」で、三言目でようやく「どういうこと?」と訊ねる事が出来た。彼女はまるで再生ボタンを押されたように「他に好きな人が出来たの」とまた涙ながらに言う。
そうか、好きな人が出来たのか、と思ったけれど、じゃあ僕はなんなんだろうと思い直した。
四年前の春、バイト先で出会って付き合った僕たちだったけれど、僕はもう好きな人ではなくなってしまったのか。あまりにも唐突で、あまりにも身勝手な物言いだけれど、冷静になって考えてみれば婚約もせず、何かしらの契約もしていない僕たちは切った張ったを起こすこともなく、他に好きな人が現れたらそちらに行ってもおかしくはないだろう。でも、僕は彼女を好きだった。未練たらしい女々しい男と思われるだろうけれど、彼女のために生きていたのだから未練があるのは当然だ。
危ないからと言われてバイクもやめた。時間が取れないと言われてゲームもやめた。嫌だと言われたらそれはやめた。
彼女のために少し無理をして車を買った。色んなところに旅行に行こうと言われたからだ。彼女が喜ぶならそれはやった。そうやって彼女が喜ぶように生きていた。
それなのに彼女はそうではなかったらしい。
涙を一粒流した彼女を見て、可愛いな、と思ったと同時にまるで女優みたいだなあと思った。
僕は彼女をヒロインには出来なかったようだ。
「僕の何が悪かったのかな」
聞いてみたけれど、彼女は「ごめんなさい」とだけ言って立ち上がった。
「来週には私の荷物は全部持ち出すから」
それから彼女は部屋を出ていった。
宣言通り、それから一週間経った先週、引越し業者がやって来て、彼女の荷物を全部持ち出した。最後に彼女が僕に鍵を渡して、「今までありがとう、さようなら」と引越し業者と荷物とともに何処かへ行ってしまった。
あっけない幕切れだった。合鍵を持った僕を残して去って行った彼女の代わりに寒々しい冬の風が入ってきて、ばたんと扉が閉まり僕らの関係は終わりを迎えた。
一人暮らしには少し広い二LDKの部屋は寂しいものだった。全体的にがらんとしている。同棲生活をしていたから、一部屋は彼女の部屋だった。今はもうそこには何もない。それどころか玄関にある靴は僕の三足しかないし、洗面台には僕の分の歯ブラシしかない。服もそんなにないし、背の高い本棚には空きが多くあった。どれだけ彼女のものに囲まれていたのだろうと思った。
そして今日。一人寂しく帰宅して、なんとなしに二人仲良く座っていたソファに腰をかけた。彼女はいつも右側に座っていた。触ってみると当たり前だけれど冷たかった。静かに横になった。
噂に聞けば、今彼女は——元彼女は何処かの社長と付き合っているらしい。Facebookに楽しそうな旅行の写真を載せていた。今はバリ島にいるらしい。
スクロールすると元彼女がロールスロイスに乗っている写真があった。隣には持ち主らしき爽やかなおじさんが立っていて、世の中金かと虚しくなった。僕の車はただの軽——国産車で頑丈なのだけが取り柄だけれど、あちらは違う。無理して買った僕の軽と、軽く買ったロールスロイス。何もかもが違っていた。
あっという間に僕なんて振り切って、あの子は幸せそうにしている。怒りとか、悔しさとはないけれど、羨ましさがあった。簡単に次のステップを踏み出せるその胆力というか、勇気というか、根性というか、そういうものがうらやましかった。うだうだと寂しくなった部屋で一人子犬のごとく震える成人男性というのは、傍から見ればなんと情けないことか。
ただ、バリ島旅行の写真のコメント欄に「一周年記念」と書いてあったのをみて、三年目に浮気しとるんかい、と一人突っ込んだりはした。まったく面白くなかった。面白くなかった上に大目に見られなかった。
冬ということもあり、部屋の中にいてもさすがに寒くて暖房をつけた。なかなか部屋は暖まらず、ソファに横たわっているだけで風邪をひいてしまいそうだった。機械音を立てて急速に部屋を暖めてくれるエアコンの下——窓の外を見れば、街はイルミネーションに飾られて、クリスマスムード一色だった。
本当は、結婚しようと言うつもりだった。婚約指輪も買っていた。どんな物を買えばいいのかわからなかったから、例に漏れず給料三ヶ月分を去年から貯めて、ダイヤの指輪を買っていた。それも無駄になった。
なんというか、人生はうまくいかないものである。ネットの世界をさまよえば、僕と同じような経験をしている人なんてごまんといるのだろうけれど、実際自分の身に起きてみると、なんともやるせない気持ちになる。ただの失恋——そう言ってしまえばそれだけのことなのに、なぜかそんな風には思えなかった。
自然とため息が出た。まだ部屋は寒いから息が白い。まるで魂が抜けていっているのを見ているようだった。このまま死ぬのか、なんて馬鹿みたいに仰々しく思ったけれどそんなわけはない。病気もないし悪魔と契約しているわけもない。ただの一般人でただの健康体のそんな僕には明日はあるし、明日は来る。無理して取った休みが明日明後日とある。
クリスマスイブにクリスマス。けれどもディナーの予約はキャンセルしてしまおう。まだ間に合うだろうか。キャンセル料はもったいないけれど、一人で夜景の見える少し背伸びしたレストランに行ったってむなしいだけだ。
常夏のクリスマスはどんなものだろう。と思って、いかんと頭を振った。別れた彼女のことを考えたってなにも変わらない。今更過ぎる。でも、僕に落ち度があったのだろうかと、少し悩んだ。
いわれた通りにしていたのに、何か、よくなかったのだろうか——だからいかんのだ。考えたって無駄だ。ああもう、寝よう。そう決めて寝室に行ったけれど、毛布を鼻までかけても妙に目が冴えて眠れない。
そうだ——レッドブルを飲んだのだった。今日は大事な日だったから——会社でお世話になった先輩の結婚式だったから、朝からしっかりして行こうとカフェインを馬鹿みたいに飲んだのだった。おかげで式は滞りなく進んだ(それに僕は関係ないか)。
花嫁さんはきれいだった。芸能人でいうと深田恭子に似ていた。笑うとかわいらしくて、年齢が三十五歳の姉さん女房と聞いて驚いた。
式は見事なもので、冬のホワイトチャペルで優しく綿雪が降るのはまるで映画のようで、みな口々にホワイトウェディングだと感動していた。少しばかり肌の露出があったから新婦さんは寒そうだったけれど、それも気にならないくらい、二人は幸せそうだった。
僕も、ああいう風になる予定だったのかなあと思うと、なぜか涙が出た。先輩が幸せそうで、僕もうれしくなって感激したのも事実だけれど、自分のことばっかり考えてしまってすごく申し訳なかった。
引き出物はなんだったか。気になってベッドから起き上がり、紙袋から取り出すと、ペアのティーカップが入っていた。
『みんなに幸あらんことを』と底に英語で書いてあった。
幸せ、ありますか。僕にも、幸せはあるんだろうか。
二人がまぶしくて二次会の途中で抜けて出した僕にも、幸せは来るのだろうか。
だーめだ。変に考えてまたネガティブになっていく。寝よう。
今度こそ寝よう。そう思って、ベッドに向かい、スーツを着たままだったことに気づいた。しわになったら面倒だ。とっとと脱いでしまおう。
脱いで、寒くてくしゃみが出た。
今日は冷える、お風呂に入ろう。
体を芯まで温めて、それから眠ろう。
そう思って湯船にお湯を張ろうとしたが、なかなかお湯が出てくれない。なんだよこんなときに。給湯器が壊れてる……。
「先輩、僕に幸せ分けてください……」
ひとりぼっちの部屋で、そんな独り言をつぶやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます