第2話
翌日。僕は結局その日はお風呂に入ることをあきらめて、シャワーもあきらめて、ディナーのキャンセルだけを忘れずにして、とにかく眠ることに集中して眠りこんだ。どうにかこうにか眠れたあとは、誰かからの着信で目が覚めた。頭の近くにある携帯を触感だけで手繰り寄せ、操作して電話に出る。
「あい」喉ががっさがさに渇いていた。エアコンつけっぱなしだった。
「元気してだの?」田舎の母だった。
「元気だよ」
「寝でだの?」
「うん、寝てた」
「何時だど思ってんの?」
「何時?」
「十時だよ、十時。お昼だよ」
「そう。今日休みだから」
「ああそうなんだ。よがったね」
「うん」
「クリスマスだよ」
「イブね」
「なにそれ?」
「前日ってこと。明日がクリスマス」
「まーたそうやって屁理屈ばっかり語んだもんなや」
うるせえよ。僕だってこっちに来たてのころはそんなこと知らなかった。彼女が——元彼女がそういうのにうるさかったから覚えてしまった。というかうつってしまった。って、もう思い出すなよ……。
「それで何か用?」
「今年は帰ってくんでしょ? 可愛い彼女を連れて」
電話口で母がにやけたのが分かった。
「紹介しだい人なんて、あんだも隅に置げねえな」
そういえばそうだった……。母さんたちに今度帰省するときに彼女を連れていくと言っていたんだった。失敗した。
「誰に似だんだがね。あだしじゃないな、お父さんがな? どうがな。あ、そうそうお父さんなんか張り切っちゃってさ、あんだの部屋綺麗にしてさ、新しい服まで買ってんだから。じいちゃんもばあちゃんもね、おいしいもの食べさせるって言って色々準備してんだよ?」
電話口で楽しそうな声に胸が痛む。ダメになったとは言いたくない。というかそれは申し訳なくて、どうしても言えない。だからと言って、僕一人で帰ってしまってはそれはそれでばれてしまうだろう。だったらここは——でも、仕事が忙しくて帰れなくなってしまった、と言っても、それはそれで残念がらせてしまう。両親にしてみれば、何をしたいのかわからない一人息子がようやく家庭を持つかもしれなくて、さらに言えば初孫のチャンスだったわけだし。とするとどうすればいいんだ。
「——ちょっと、聞いでんの?」
「え。あうん、聞いてるよ。聞いてるけど、そうだね、帰るけど、彼女は遅れてくるかもしれないなあ。なんか、仕事が立て込んでるらしくてさ。ほら年末だからさ、忙しくなっちゃうんだって」
「あらそうなの。まあでもちゃんと帰ってくんのよ? 楽しみにしてっからね。じゃあね」
一方的に電話が切れた。口から出まかせだったけれど、これでいいかもしれない。なんだったらいっそ、今から実家に帰ろう。それで今日明日と過ごして、それでお茶を濁そう。適当に電話がかかってきたふりをして、仕事が入ってしまったから帰る、ということにして。彼女のことを紹介したかったけれど、それは都合がつかず無理だった、ということにしよう。でも、そうすると、彼女の印象が悪くなってしまうか。よくないかな——って、もういないんだから、架空の彼女の心配してどうすんだよ。
準備をして、上野駅に向かうことにした。軽い服装だ。寒いからコートを羽織ることにした。コートを手にかけて、これは去年のクリスマスにプレゼントしてくれたものだっけと感慨深くなった。……だから、なぜ、思い出す! いい加減、自然にしよう。元彼女だ。元、元だ。で、このコートは着心地がいいから着てるんだ。捨てるのもったいないし。きっと高かったのかな。
ああもう! もう! とりあえず上野駅に行こう。東京駅か。どっちでもいいや。とにかく行こう。外に出ると太陽は出ているのに思いのほか寒くてマフラーでも買えばよかったと反省した。
駅について、みどりの窓口に行くと、田舎へ向かう新幹線のチケットは余っていた。まだ帰省ラッシュにはぶつかっていないらしい。
ラッキーと早速購入して新幹線に乗り込む。指定席に深く腰掛けた。ありがたいことに窓際だったから、退屈であっても窓の外の景色を眺めていれば数時間で田舎につくことができる。
周りは家族連ればかりだった。田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに会いに行くらしく、お年玉たくさんもらえるかな、なんて現金なことを言っていたりした。窓枠に肘をついて、ホームを眺める。
アナウンスがあって、動き出した。少しずつ、ホームが伸びていって外の景色が見えるようになる。雪は積もらない東京から、雪積もる東北まで、ほんの数時間の旅。窓の外に広がるビル群は、次第に遠く彼方の世界になって、山や田んぼが広がっていく。少しずつ、外は白んできて、冬らしい姿が見えてくる。呆れるほどの速度で進む新幹線は、いくつかの駅に停車して、仙台駅についた。降りると、東京とはまた違った寒さがあった。なんというか、暖かいようでいて、寒い。よくわからないけれど、田舎の寒さと、都会の寒さはちょっと違う。
そこからタクシーに乗って、市の外れにある実家に向かう。
駅前は田舎とは到底かけ離れた都会であるけれど、少し外れればどこだここはと言いたくなるような田んぼと山に囲まれた街になる。
二年ぶりくらいに帰ってきた我が家はいつのまにか少し様変わりしていて、犬小屋が立派になっていたり、見知らぬ車がガレージに止まってあったりした。
チャイムを鳴らす。玄関が開いて、母親が顔を出した。
「はーい、ってあんだどうしたの!?」鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのはきっとこの顔だろう。
「帰ってきた」
「帰ってきだって、今日帰ってくんの? ちょっと、だったら言ってよお。あだしだってさー、帰ってくるって聞いだらごはんとかいろいろ準備どかしてだよ?」
「いいよ別に。ごちそう食べたくて帰ってきたわけじゃないしさ」
「あら? 一人?」
「ああうん、僕だけ。とりあえずね」
「とりあえずあがらいん」
催促されて、ようやく家の中に入った。茶の間に向かうとじいちゃんとばあちゃんがこたつに入っていた。
「おや、なして?」ふたりしてそういった。まあそうだよね、帰ってくるって聞いてても今日帰ってくるとは思わないだろうからなあ。僕も思っていなかったし。
「ちょっとね、仕事の都合で年末、ほんとに末はあっちにいなきゃいけなくなっちゃったから、早めに顔見せようと思ってさ」
ごまかすように苦笑いした。申し訳なさを気づかれないように、取り繕う。
「明日には帰らなきゃいけないんだ。それで、彼女も予定つかないから、どうしても来たかったとは言っていたんだけど……ごめんね」
「なにを謝るごどあんの。別にそれはしかたねえべ。よぐ帰ってきたな。ほれ、炬燵入れ」
じいちゃんに言われて炬燵に入る。ひさしぶりの炬燵だ。暖かくて眠くなってしまいそうだ。学生の頃はここで勉強すると息巻いて何度睡魔に負けてしまったか。
「なあんだやあ、せっかく餅ついたりすっかなあど思ってだのに」
残念そうにばあちゃんが言った。
「なあに別に雄介に食わせでやりゃいいべ」
「だげどやあ」
「ああいいよ、あのごめんね。急にきて。お構いなく」
本当にお構いなく。むしろもてなされてしまったらそのほうが心苦しい。ぞんざいなくらいがちょうどいい。
「ばあちゃんの言うごだ気にすんな」
じいちゃんが笑った。と廊下から足音がして、襖が開くと、父さんが顔を出した。
「あれ? 今日帰ってくんだっけ?」
「仕事の都合だど」僕の代わりにばあちゃんが答えた。
へえ、と父さんが答えて炬燵に入った。けれどもどこか落ち着きがなく、そわそわしている。
「彼女は来られないんだって」母さんが台所から戻ってきてそういうと、ようやく父さんは落ち着いた。落胆した、といったほうが正しいかもしれない。
「ああ、そうなの」
「仕事の都合がつかなくて。ごめんね」
「いいよ、気にすんなって。こっちにどれくらいいんの?」
「明日には帰る。仕事、僕もあるから」
「そっか。まあゆっくりしてげ。東京みでえに遊ぶどごもねえがらな」
ふっと父さんが笑った。
確かに、僕の田舎は電車の駅もなく、遊ぶところもない。いわゆるアミューズメントパークなんてものは存在せず、それはおろかゲームセンターすらない。コンビニだって近くにはない(車で十分が最寄りのコンビニだ)。駅前とか、そういう遊べるところに向かうには車が必須の田舎町。そんな町を、僕は彼女に見せたかった。
ここが、僕が生まれ育った町なんだと、そう教えたかった。なにもないけれど、僕はここで生まれて、小学校中学校と勉強したんだと、そう教えたかった。
父さんはビニールハウスで野菜を育てている農家で、母さんは全校生徒が三桁もいない小学校の校長先生で、じいちゃんがゲートボールが上手で、ばあちゃんはもう八十を迎えるのにバイクに乗れるんだって、教えたかった。
別に、ここに嫁いで一緒に暮らすわけじゃないけれど、僕の家族はそんな家族だって、教えたかった。
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