赤塚野良猫夜話

神坂 理樹人

深夜の出会い

 人混みに流されるままに地下鉄のホームに押し出され、そのまま改札外まで放り出される。逃げ惑うように券売機の前まで小走りに向かって、無言で歩を進めるスーツ姿と顔の赤い酔っ払いの集団から抜け出した。もう東京に来て三か月になるというのにまだ人がたくさん乗っている地下鉄には慣れない。

 夢を見て東京へと繰り出した日のことはもう遠い昔の記憶になってしまった。今では視界いっぱいに広がる故郷の田畑が恋しくすら思えてくる。少し落ち着いた地下鉄の通路をゆっくりと歩き長い階段を上りきると、すっかり日が落ちた川越街道かわごえかいどうが見えてくる。もう終電も近い時間帯では大きな通りとはいえ歩いている人の姿はまばらだった。

 地下鉄が主要な街に直通していて住みやすいと選んだこの赤塚にもずいぶんと慣れた。観光名所も少ない町だが、裏を返せば外から人が入ってくることの少ない落ち着いた町だ言える。

 赤塚中央通りは青い街灯に照らされて静かに北へと伸びている。レンガ地の道の先へ疲れた体を運んでいると、どこかから低い鳴き声が聞こえた。

 猫だ。くすんだ金色と白の虎柄の猫はもう冷え切っているはずの誰かのバイクの上に我が物顔で座っていた。こいつは、たぶんエースだ。近くのパン屋の店主がそんな名前で呼んでいた。この辺り一帯を縄張りにしている野良猫で、ゴミ箱を決して漁らずネズミを狩って食いつないでいるらしい。おかげで店にネズミが出なくなったと喜んでいた。

 確かに精悍せいかんな顔付きには野良でありながら幾分かの自尊心が感じられる。ここらの野良猫は近づくとすぐに逃げてしまうのだが、エースは後数歩というところにいる私を見つめながらもバイクから降りようとする気配はなかった。

 ふと故郷に残してきた愛猫を思い出した。気ままな性格が多い猫には珍しく我が家のトラジは人懐っこかった。家に帰ると玄関まで駆け出してきて、早く撫でろと言わんばかりの表情でこちらのことなどおかまいなしに見つめてくる。そして満足するまで撫でてやるとそのまま後ろをついてきて足に体を擦りつけてくるのだ。

 このエースはどうだろうか。そう思ってそろりと手を伸ばす。するとエースはさっと身を翻し、路地の方へとまっしぐらに逃げていった。少し残念な気分になったが、相手は誇り高き野良だ。ひっかかれなかっただけ慈悲がある。

 いつもなら見送って帰ってしまうところだったが、疲れと懐かしい故郷のことが思い出されて、私はどうにかあの猫を一撫ででもできないかとエースが去った方を見た。夜も更けてきて人の気配もない。寄り道をしたところで咎められるようなこともないだろう。

 路地に向かって歩いていくと、街灯もやや心細くなってくる。それでも整備された東京の一端にあるこの街ならば真っ暗で周りが見えないということはない。夜目の利く猫相手といっても見つけられないことはない。

 明かりを頼りに辺りを見回す。猫の目は暗闇でもきらりと光るおかげですぐにエースの姿は見つかった。アルミの引き戸柵の向こう側、コンクリートの塀に身を隠しながらもその姿ははっきりと見えていた。ここに逃げ込めば追っては来られないとわかっているのだろうか。こちらをじっと見つめてエースは動かなかった。確かに柔道場の庭に潜り込まれては塀を乗り越えて勝手に入ることも叶わない。

 私は猫と高さを合わせようと屈んだ体を立ち上がらせて、星のない空を見上げた。野良猫一匹すらこの町では思い通りにはならないのだ。帰ろうか、と思ったところで足元からにゃあ、と高い鳴き声が聞こえた。エースではない。彼ならば、もっとしわがれた太い声で鳴くはずだ。

 また視線を足元に戻す。トラ柄のエースの隣にそっと寄り添うように真っ白な毛並みの猫が並んで座っていた。影に目を凝らすと、数匹の小さな子どもも連れている。

 なるほど、父親だったのか。

 それならば伸ばした手からさっと逃げていった理由もわかる。父親となればたとえ猫でも他者に甘えているようなところは見せられないだろう。まして自尊心の強そうなエースともなればなおさらのことだ。私は引き戸柵の向こうに小さく手を振って立ち上がった。やはり人の姿は少しもなく、誰かに見られているという気配もない。密集した家の隙間を流れる風が心地良くさえ思えた。

 なんだ、ここもそれほど変わらないじゃないか。

 人の数が多くて、車も一日中走り続けている。深夜でも店の明かりはなかなか消えない。そんな町だと勝手に思っていたが、どうやらそうでもないらしい。こうして耳をすませば、猫の鳴き声も虫の声も聞こえてくる。去年までは眠りの邪魔にしかならない耳障りなものだと思っていたのに。

 いつの間にはエース一家はどこかに行ってしまったようで、引き戸柵の向こうには猫の姿は一匹も見えなかった。それを確認して、私はゆっくりと赤塚中央通りへ向かって歩き始める。いろいろと頭に詰まっていたものが柔らかく溶けていくようだった。

 明日、母にでも連絡をしてみようか。赤塚も思っていたより故郷と変わらない、と。

 何もいなかった塀の向こう側から、にゃあ、と同意するようにしわがれた鳴き声が聞こえた。

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赤塚野良猫夜話 神坂 理樹人 @rikito_kohsaka

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