(k)not the end

@NordicNomad

崖の端、じょうてつ

 札幌の駅周辺に勤めていると、よく観光客に声をかけられる。僕は英語と中国語が多少できるので、よく職場の人に呼ばれて応対する。その日の若いアジア系観光客一行の道案内にも、僕の出番がやってきた。

「定山渓に行きたい。バスの乗り方とチケットを買いたいんだがよくわからない」

 コンパクトヘアー頭の、ダウンに身を包んだ眼鏡顔の青年が僕に訴えかけた。

 札幌駅のビルの二階にあるバスチケットセンターへと英語を話しながら誘導した。じょうてつのチケットが買えるカウンターへ案内する。青年は家族分のチケットを買えたことに満足した後、ふと「じょうてつ」と言う平仮名に目を止めた。

「ジョウテツとはどういう意味だ?」

 僕は定山渓鉄道の略称で、鉄道とはレイルウェイのことだ、と答えた。昔この街とあの温泉町は古い鉄道で繋がれていたのだと補足した。なるほど、と彼は答えた。

「ありがとう。僕はガブリエル。温泉から帰ってきたら君の所に寄るよ」

 ガブリエルは流暢な英国英語で僕に握手を求める。僕はいつでも、と答えて手を握り返した。おそらく香港人である彼の手はしっかりと暖かかった。

 ガブリエルと家族を見送りながら、頭の中に熱の塊が生まれたのを感じた。さっき説明したわずかな言葉が、パスワードのように、一気に過去を思い出させていた。


 同じことを僕に話してくれた人が、僕の人生では二人存在した。一人はマユミと言う名前の少女だった。

 豊平という、札幌の中心部から少し離れたところにある大学で僕と彼女は出会った。二人ともその大学の夜間部で学んでいた。夜間部にもサークルがあり、僕は連絡会に所属していて、彼女のサークルにも顔を出した。サークル部屋のテレビを横目に本を読んでいた。ショートカットで目が細く、春先を過ぎても長袖を着ていた。普通の大学生とはちょっと違った雰囲気に惹かれて僕は声をかけた。

 かなり郊外の、定山渓温泉に近い豊滝と言う地域に住んでいた彼女の読んでいた本は、小野不由美の小説だった。僕は彼女に田中芳樹の本を貸し、小野不由美を借りて読んだ。それを返す名目でデートに連れ出し、告白して付き合った。

 彼女が割と重いアトピーであったことを知ったのは、夜を超えてからだ。

 

 北海道の春は遅いから、五月から桜の季節になる。

「一緒に行きたいところがあるんだけど行かない?」

 マユミがそう言ったのはそうした時期の真ん中のとある夜だった。僕はいいよと言った。僕の中古の車に乗って30分。彼女の住む豊滝の、幹線道路から抜けた小道に入る。

「昔豊平から豊滝にも「じょうてつ」が走っていたんだって。今通ってきたあたりに駅があったはずなんだけど」

 じょうてつがあったらもっといっぱい会えるのにね、とマユミは笑った。彼女と僕は週一度くらいしか長くは過ごせなかった。彼女は札幌駅まで戻って「じょうてつ」バスを使って帰らなければならなかったのだ。

 マユミに言われて車を止めたところには、大きな桜の木があった。僕は目を奪われた。こんな穴場があったのだ。

「一緒に見たかったんだぁ」

 マユミは僕の手を握って言った。僕は手を握り返してマユミにキスをした。


 マユミとはその後秋の学園祭がきっかけで別れた。彼女が連絡会業務と昼の仕事で疲れた僕をさしおいて(と僕は思った)、女友達と連絡会室で騒いでいたからだ。自分が優先されなかった、そのほんの一時に腹を立てた。僕はマユミを詰った。短い、子供っぽい言い合いのあと、「もうやめよう」「わかった」と言って僕らは離れた。


 冬に差し掛かる前、僕は祖父に呼ばれて祖父の家の冬囲いを手伝った。祖父は上手にビニールロープを本結びして植木を覆う。ふと、話が豊滝のことに触れた。

「昔な、月寒には陸軍の連隊本部があって、じょうてつの駅の側によく行ったもんだ。あすこから定山渓までよく電車が走っておってな」

 今はすっかりバス会社になってしまったなぁ、と話しながら、祖父は僕が本結びを上手にできないのを見ている。

「お前な、人の話をよく聞かずにすぐ物事に取り掛かるのはよくないぞ。焦るんでないよ」


 その日の帰り道、祖父からもらった小遣いで缶コーヒーを買って飲みながら、ずっと僕はマユミのことを考えていた。

 僕の賃貸で、滅多に見せない肌を晒してくれたマユミ。小さなユニットバスで湯船に浸かりながらこっちに微笑むマユミ。途中までいって避妊具がなかったことに怒るマユミ。メガネを外してもやっぱり目が小さくて鋭くて、でも可愛いマユミ。仕事場の休憩所からかけた電話に答えてくれたマユミ。

 大学の屋根部分に登って、豊平川の花火を一緒に眺めたマユミ。

 学園祭の当日、疲れてパイプ椅子にもたれ眠っていた僕を後ろから抱きしめてくれたマユミ。

 彼女は一生懸命だった。僕は、彼女なりの背伸びに甘え、すっかり子供になってしまっていた。

 求めてばかりいた自分が情けなくなり、そして素直に甘えることすらできず、すねてしまっていた自分を嫌になり、僕はコーヒーを飲みながら泣いた。

 力になれなくて辛かった、というマユミの気持ちは、後で人づてに伝わってきた。


 数日後、ガブリエルはたくさんの商品を買っていった。定山渓はとても良かった、と彼は言った。

「ところでトヨヒラとはどういう意味だ?」

 ガブリエルは僕に聞いた。ディ・エンド・オヴ・クリフ、崖の端だ、と僕は答える。そうか、では豊平と定山渓はジョウテツで結ばれていたんだな、と彼は言った。楽しい旅になった、と謝意を示して彼は再び僕と握手をした。

「きみの英語は素晴らしい。僕らはそれで助かった」

 最後の言葉に、僕は笑顔でありがとうと答えながら、別のことを考えた。

 僕はマユミを助けてあげられていたのだろうか―。


 春が来ると、僕はよくあの桜とマユミのことを思い出す。もう今は少女ではないあの子と会うことができるとしたら、あの時はごめんね、と言えるような気がしている。

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