あしおと

@hakononakaniha

第1話

深夜のコンビニバイトは退屈だ。ましてや、田舎のコンビニともなれば尚更だ。掃除や検品を終えて、客が一人もいなくなってしまうと、仕事よりも、バイト仲間との会話にうつつを抜かしてしまう。

「沙保里さんストーカーにあってるらしいっす」

「え」

 綿矢が唐突に持ち出した「ストーカー」という単語は、「ツチノコ」や「ネッシー」あるいは「幽霊」といった単語達と似た響きを持っているように思えた。身近にも感じられるし縁遠くも感じられるような、そんな響きだ。

「それ、本当かよ」

「はい。ここ最近あとを尾けられてる気がするっていってました」

「それだけだと沙保里が自意識過剰なだけでしたってオチになりそうなんだけど」

「それだけじゃないっす。鞄を開けたら体液入りの避妊具が入ってたこともあったって」 

「え」

 嫌な汗が出た。

「お、おいおい。もはやストーカーどころの騒ぎじゃないだろ、それ。警察には行ったのか、沙保里は」

「行ったそうなんですけど、その避妊具は気持ち悪くて捨てちゃったから、まともに取りあってくれなかったらしいっす」

「なるほどな」

 綿矢は、本気で憤っているようだった。いつもより、ずっと声が大きくなっている。こいつは滅多に怒る男ではない。しかし、惚れた女がそんな目に合えば、彼といえども怒るのは無理もないように思えた。

「沙保里さんってほんとに不幸体質なのかもしれませんね。本人もよくネタにしているじゃないですか。第一志望の大学すべったとか、飲食店に行くと絶対に定休日だとか」

「ああ、あれか」

 自身の不幸体験を沙保里はよくネタにする。プロ野球の試合を見に行くと、必ずひいきにしている球団が負けるといっていたし、盗まれた傘の数がついに三十本を超えたともいっていた。こういった笑えるものもあるが、中には、笑えないものもある。父親が生まれた時からおらず、ずっと貧乏暮らしだったというのがそのうちのひとつだ。おそらく今回のストーカー事件はもっとも笑えないものに分類できるだろう。

「このままだとほんとに危ない気がするんです。このあたり、最近殺人が起きるくらい物騒ですし」

「ああ、そういえば殺人があったな。たしか、もう三件目か」

「いえ、今のところ二件だけだったように思います」

「そうだっけ」

「ええ。まあ、どちらにせよ、十分怖いっす」

 綿矢は、続けてこう言った。

「沙保里さんのために、なにかしてあげられないっすかね」

 やっぱりそうなるか。はっきり言って、沙保里の手助けをするのは、あまり気が進まなかった。

「うーん、せいぜい家まで送って行ってあげることくらいじゃないか」

「それはもう、結衣さんがやってあげてるみたいっす」

「じゃあ、出来ることなんてもう何もない気がするぞ」

「ええ! そんな! 切原さんつめたすぎるっす」

「じゃあ何ができるっていうんだよ、俺たち如きに」

「そ、それは」

「それは」

「えーと」

 綿矢は少し黙った後に、こう言ってのけた。

「犯人捜し、とか」

 どうやらそれを、ずっと言いたかったようだった。

         

「だから犯人はその、深尾ってやつに決まってるんだってば」

結衣は大声でそう捲し立てた。俺たちは大学の食堂に集まって、沙保里をつけまわしている犯人をつきとめるべく、話し合いをしている。食堂でする話でもないような気がしたが、昼時を過ぎてだいぶ人もいなくなっていたし、まあ問題ないだろう。

「ちょっと待って欲しいっす、深尾って誰っすか」

「俺もわからん」

「あ、そ、そっか、まだ結衣にしか話してなかったね」

 明らかに、沙保里は参っているようだった。いつも以上に顔色は悪く、目線もいつも以上に俯きがちだ。つけ狙われるだけでなく使用済みコンドームなんてものを鞄につっこまれれば、こうなるのも無理はないだろう。

「深尾さんっていうのは、私のバイト先の先輩なの」

「そいつさ、先輩つっても、五十よ、五十。五十でスーパーのバイトって、ありえないでしょ」結衣がすぐさま会話の舵を奪った。

「まともな人生送ってたらさ、アタシたち位の子供がいる年齢なわけ。そんなやつ、前科者か、そうでなきゃ変態に決まってるって!」

「決まってないって」

「暴論っす」

「あ? なに? 文句あんの? 言っとくけど、深尾が前科者かもしれないっていうのは、全く根拠がないわけじゃないから。むかし何かやらかして捕まって、出所してきた所を、店長のお情けで雇ってもらったっていう噂を聞いたの」

 噂かよ。

「まぁ、その噂は置いといて、その深尾ってやつは、どうして、容疑をかけられてるんだ」

 結衣に聞いたところで話は進まないように思えたので、当事者である沙保里に聞いた。

「尾けられてるって感じた時に、一度だけ思い切って振り返ってみたの。そうしたら、少し離れたところに、深尾さんがいて」

「見間違いってことはないんすか?」

「えっと、ないと思う。深尾さんってね、すごい背が高くて、二メートルくらいあるかな。かなり暗かったから、顔は、ほとんど見えなかったけど、身長は間違えようがないでしょ」

「背の高い別人、って可能性も無くはないぞ」

 言うと、即座に結衣が割り込んできた。

「こういう変態的な犯罪はね、知人による犯行が六割超えてんの! 通りすがりの見知らぬ人が犯人って可能性は少ないわけ、そもそも身長二メートル近い男なんて、そうそういないっつの、NBAじゃないんだからさ。それにあいつ、バイト中に沙保里のこと、かなりジロジロ見てた。沙保里のバイト先に行って確認したから、絶対間違いない」

「なるほどな」

「怪しいっす」

 ジロジロみていたかどうかは、結衣の言うことだから、あまりあてにならないようにも思えたが、見過ごすわけにもいかないだろう。

「あ、でも、鞄に、なんていうか、その、イタズラしたのは、深尾さんじゃないと思う」

「へ? なんでよ?」

「イタズラされた鞄は、学校にしか持って行かないやつで、バイト先には持って行ってなかったから、あの人にはできなかったはずなの」

「え、うそうそうそ、ちょっとまってよ」

 結衣は少し頭をかいた後、ちょっと話を整理しよっか、とでも言うように、身振り手振りを交えて、こう続けた。

「つまり、ストーカーは深尾だけど、鞄にイタズラしたやつは、深尾とは別の誰かってこと? しかも、学校にしか持って来てない鞄にやられたってことは、イタズラ犯は学校にいるやつってわけ?」

「そうなると、男なら誰でもできたでしょうし、容疑者圏はかなり広がるっすね……特定するのはかなり難しそうっす」

「ちょっと待て」

「ん? なに?」

 咳払いをかました後、どうすべきか逡巡し、俺は、こう切り出した。

「それだけでストーカーとイタズラ犯が別人だと決めつけるのは、まだ早いんじゃないか。俺はどちらも深尾がやった可能性が高いと思う」

「は?」

 結衣はすぐに噛みついてきた。

「あんたさあ、今の話聞いてたわけえ? 沙保里がバイト先に鞄を持って行っていない以上、深尾がイタズラ犯なわけないんだっつの」

「そんなことはない」

「ああ?」

 一呼吸置いて、こう続けた。

「深尾が沙保里の家に侵入し、鞄の中にモノを置いていった可能性はある」

 場が沈黙した。

 さらに続ける。

「学校に行こうが、バイト先に行こうが、家の鍵は持っていくはずだ。沙保里が働いている間に、深尾は鍵を盗んで複製し、侵入を試みたのかもしれない」

 沙保里の顔色が、一相、悪くなった。手は震えて、目線は一点を見つめているようで、どこにも定まっていないように見えた。

「ごめん、私、帰る」

「あっ、沙保里! 待ってよ」

 結衣も沙保里も、椅子の位置を戻しもせずに、食堂を出て行ってしまった。

「き、切原さん、とりあえず僕たちも出ましょう」

「ああ、そうだな」

 食堂を出るや否や、溜まっていたものを噴きだすかのように、綿矢は喋りだした。

「あ、あんなの憶測でしょう! あるはずがないですよ、部屋にまで入るだなんて。

それに、バレないように鍵をつくるなんて、無理に決まってるっす」

「可能性はゼロじゃない」

「そうですけど……」

 綿矢はまだ何か言いたげだったが、結局すっかり黙ってしまった。

 深尾は一体何者なのだろう。深尾に対して、何か行動を起こしたほうがいいようにも思えたし、何もしないほうがいいようにも思えた。


『昨夜未明、S山付近で女性の遺体が発見されました。遺体にはスタンガンによる火傷の跡、そして、暴行された形跡が認められました。よって、A市で起きている連続強姦殺人事件と関連があるものとして警察は捜査を開始しました。これで、被害者は三人目……』

 ベッドがきしむ音が聞こえた。

沙保里が起きてきたようだ。今の沙保里に、こんな血生臭いニュースは見せたくない、結衣はそう考えて、テレビの電源を切った。

「沙保里、大丈夫?」

「うん……今何時」

「11時半くらいだよ。ほとんど丸一日眠っちゃってたね」

「そっか……」

 結衣は、今の沙保里を一人にしておくのは良くないと思い、昨日から沙保里の家に泊まっていた。

この家にいるのは危険だから、自分の家へ来ることを結衣は提案しようとしたが、提案する前に沙保里が眠ってしまったため、仕方なくここに泊まることにした。

 目が覚めてくるにつれて、沙保里は、切原が昨日言ったことを思い出したようだった。

「もういや」

「え?」

「どうして私ばっかりこんな目にあうの、もういやだ……」

「沙保里……」

「昨日切原くんが言ってたこと、本当なのかな? だとしたらもう、こんな家、いられないよ……どうしたらいいの。結衣、ねえ、怖いよ。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い……」

「沙保里っ」

 結衣は沙保里を抱きしめた。震えが体に伝わってくる。沙保里をここまで追い詰めた深尾を結衣は心底許せなかった。

「大丈夫。警察に行けば、きっと力になってくれる。あいつが捕まるまでは、うちに泊まればいいから」

「結衣……」

「みんなで沙保里を守るよ。そうすれば、あんなやつすぐに捕まえられる。そうに決まってるよ。ね? だから、安心して」

 結衣は沙保里の頭をなでた。沙保里は本当に不幸だ。矢継ぎ早に嫌なことが起きる。彼女自身は何も悪いことはしていないというのに。こんな仕打ちはあまりにも割に合わないじゃないか。酷すぎる。結衣はそう考えた。

 さらに強く抱きしめる。震えは、幾分か収まってきているように感じられた。

「よしよし、もう泣くな」

 結衣は勢いよく立ち上がり、精一杯おどけてみせた。

「とりあえず、ここを出る準備をしちゃおう。そしてこのまま、学校もサボってしまおうではないか」

 沙保里は涙を拭った。

「こんなに晴れてる日に、勉強などできるかっ」

 結衣は大げさな身振りでカーテンを開けた。陽光が差し込んでくる。沙保里の顔に、微かに笑みが浮かんでいるのが見えて、結衣は、安堵した。

 しかし、その安堵も長くは続かなかった。 

 視界の端に、結衣は何かを捕えた。

 窓の外に目を向ける。

 電柱の傍。

 一人の男がこちらを見ていた。忘れもしないあの顔。

「あ、あいつ……」

「え?」

 長身の男。

 深尾だ。

 目があった。

 沙保里が悲鳴を上げた。

 深尾は背を向けて逃げ出した。

 結衣はすぐさま駆け出す。

「あの野郎」

 扉を開け、階段を駆け下り、道に出た。しかし、深尾の姿はどこにも見えなかった。

「くそっ」

 深尾が逃げて行ったであろう方向に向かって、走り出したが、走っても走っても、深尾は見当たらない。これ以上追っても、無駄なように思えた。この辺りは道が入り組んでいる。その上五十歳とはいっても、かなり体格の良い部類に入るであろう男に、女である自分が追いつくのは不可能だと結衣は考えた。すぐにでも戻って、沙保里のそばにいてあげたほうがいい。

 沙保里の部屋へ向かう間、結衣の頭には、さっき見た連続強姦殺人のニュースが頭にちらついていた。

 結衣が部屋に戻ると、沙保里は完全に放心していた。

「沙保里、もうここを出よう。切原と綿矢も呼んで、すぐに警察に行こう」


「警察に行っても無駄だ」

「なんでよ」

 結衣は切原に思わず掴み掛りそうになった。

 四人は結衣の家に集まって、これからすべきことについての話し合いをしている。

「落ち着けって。民事不介入ってのいうのが、あるんだよ。」

「はあ? なにそれ」

「ストーカー程度じゃ、警察は動いてくれないってことだよ」

「じゃあ黙っておとなしくしてろってわけ? なんのために警察がいんの」

「俺に当たるなよ」

「警察が動いてくれないなら、私があいつをしばいて埋めるから」

「捕まるぞ」

「ほかにどうすればいいわけ」

 ニュースを見て結衣は思った。深尾はチンケなストーカーなどではなく、このあたりで最近起きている連続強姦殺人の犯人なのだろう。深尾は四人目の標的を沙保里に設定したに違いない。

 沙保里をあんな奴の手に掛けさせるわけには行かない。絶対に、阻止してみせる。結衣は決意した。

「あの、すいません」

「なに?」

 綿矢は意外なほど強い眼差しを結衣の方へ向けた。綿矢のことを頼りない奴だと結衣は思っていたが、視線から綿矢なりの強い怒りを感じ、いくらか考えを改めた。

「確かに警察は動いてくれないかもしれません。でも僕たちにもできることはあるっす」

「実力行使でしょ」

「違うっす」

「じゃあ何。もったいぶってないで、さっさと言ってよ」

 全員の顔を綿矢は見回した。覚悟はできているか、とでも言いたげだ。

「決定的瞬間をおさえるんです。部屋に侵入する瞬間とか、襲い掛かってくる瞬間とかを写真に撮るなりしてしまえば、警察も動かざるを得ないでしょう」

「……なるほどな」

 綿矢の案は、具体的で、なおかつ、実力行使なんかよりもずっと効果的なように皆には感じられた。そして、これ以外に取れる行動は無いようにも感じられた。

「よし、すぐに作戦をたてよう!」


 今日まで出来る限り、沙保里を一人にしないようにして来たが、深尾が後をつけてきたりすることは、なかった。しかし今日は、深尾が行動を起こしてくる可能性が高いような気がする。沙保里が深尾に後をつけられていることに気づいた日は、水曜日だった。沙保里の家を深尾が眺めていたという日も、水曜日だった。そして、今日の曜日も、水曜だ。今日で、決めてしまいたい。こんな宙ぶらりんの状態が長々と続いていては、沙保里も、参ってしまうだろう。俺と綿矢は、沙保里の住んでいるアパートが見渡せる路地裏に潜み、機会をうかがっていた。沙保里と結衣は、部屋の中だ。

 二階建てのアパート。沙保里の部屋は階段を上がってすぐのところにある。

 部屋は、誰もいないようにしておき、全員で路地裏から見張ったほうがいいのではないかと最初は思ったが、四人も隠れていると窮屈な上、他に隠れられる場所も無いので、二人ずつで別れることに決めた。

 かなり長いこと待機しているが、深尾は現れない。

「寒いっすね」

「手袋くらいつけてこいよ」

「うっかりしてたっす……しっかしなかなか来ないっすね」

「ああ」

「怖気づいて、もうやめることにしたんでしょうか、それとも、今日もこないんすかね」

「その可能性もある。背を向けて逃げ出したらしいからな。かなりビビったのかもしれない」

「このままずっとやめてくれればいいんすけどね。全く」

 鼓動が、早い。緊張しているからか。それとも……

「切原さん、その鞄何が入ってるんすか」

「ん、ああ、催涙スプレーとかだよ。かなりガタイのいい男らしいから、やはり武器があったほうが、心強いだろ」

 俺の身長は175程度で、綿矢に至っては160と少しくらいしかない。二メートル近い巨漢に素手で敵うとも思えなかった。

「用意がいいっすね、そんなもの、どこに売ってるかすら知らないっす」

「ドンキに売ってた。というか、お前こそ、バットを持ってきてるじゃないか」

「まぁ、このぐらいは、持ってきたほうがいいかと思って」

 まだか。

 来るのか来ないのかはっきりしろ。

 限界は、すぐそこまで来ている。


「今日はもう、来ないのかもしれないね」

「うん……」

「どうかした?」

「今更だけど、あの人、どっかで見たことある気がしてきたの」

「前科者らしいから、手配書かなんかで見たんでしょ」

 沙保里は黙り、どこで深尾を見たのか思い出そうとした。


 何故こんなにも抑えが効かないのだろう。満月だからか。

 満月の夜。

 人々は狂気に走り、罪を犯すという。

 狼男や人狼というのは、あながち、虚構の存在とは言えないのかもしれない。

 狼男。 

 今の俺に、お似合いの言葉じゃないか。

 ああ。

 駄目だ。

 ここが限界だ。

 大丈夫だ。

 すべてあの男に擦り付けてしまえる。

 綿矢は今、背を向けている。

 好機だ。

 限界なんだ。

 俺は鞄から改造スタンガンを取り出し、それを使って綿矢を気絶させた。

 

 切原は階段を上っていく。

 一段、また一段。

 上っていく。

 沙保里のいる部屋を目指す。

 扉の前に立ち、叩いた。


 あしおとが近づいてくる。

 扉の前で止まった。

 乱暴に、扉が叩かれる。

「誰!」

「俺だよ」

「……切原か」

 扉を開けた。

「どうしたの」

「喉が渇いてな、しかも寒いし。お茶をくれないか」

「ん、わかった。あれ? 綿矢は?」

「待機してる」

「そっか。お湯沸かさなきゃね」

 切原が、何かを振り上げたのが見えた。


「結衣!?」

 結衣はあっさり床に倒れこんだ。

「ちょ、ちょっと、切原くん、なにを」

 有無を言わさずに押し倒し、馬乗りになった。

 沙保里は何が起きているかわからないようだった。叫び声を、あげることもない。

 みんな同じだ、と思う。

 犯して殺したあの三人。悲鳴を上げたものは、一人としていなかった。あげれなかったのだろう。ただただ怯えた表情を見せるだけで、大して抵抗もせず、なされるがまま、犯され、殺されていった。

 そうだ。

 その表情だ。

 恐怖に歪んだその表情が、たまらなく愛しい。

 精液入りのコンドームをプレゼントする程度では、やはり、飽き足りない。

 もっと、もっと怯えろ。

 沙保里のシャツのボタンに手をかけた。その時だった。

 扉が開いた。

 そこには、バットを握った男が立っていた。その男の身長は、二メートルほどあるように見えた。

「娘から手を放せ」

 男はそう言った。


 病院のベッドの上で目が覚めた。脇腹に、思いのほか大きな火傷があり、そこがじんじんと痛む。

 昨日起きたことが夢ではないということを、この火傷が証明していた。 

 伝聞で知ったことだから、全く実感が伴わないが、事の真相を記しておこうと思う。どこから記せばいいのか、やはりまずは、結論から書くべきだろうか。

 端的に述べれば、切原さんは、沙保里さんの鞄にイタズラをした張本人であり、なおかつ、連続強姦殺人の犯人だった。そして深、尾さんは、いないと思われていた、沙保里さんの父親だった。深尾さんが沙保里さんのもとを離れていたのには、理由があった。

 沙保里さんが生まれたばかりの頃、深尾さんは、上司の一人と、確執を抱えていて、ある日、決定的な喧嘩を始めてしまった。深尾さんは、その上司を突き飛ばした。その上司は、突き飛ばされた先の椅子につまずき、かなりの勢いをつけて、頭から床に転倒した。打ち所が悪く、そのまま帰らぬ人となった。

 深尾さんは傷害致死罪に問われた。深尾さんには、大学生の頃、バーで酔った客と喧嘩になった前科もあったため、裁判官の心証はかなり悪かった。結果として、懲役8年を言い渡された。

 奥さんは深尾さんと離婚し、姓を変え、土地を移し沙保里さんと共につましい暮らしを始めた。

 深尾さんは、刑期を終えた後、奥さんが移ったところとは別の土地である、このA市に引っ越してきた。そしてその後、かつてのよしみということで、スーパーの店長に雇ってもらったのだ。結衣さんが聞いたという噂は、いみじくも当たっていた。

 時が経ち、そのスーパーに、自分の娘が店員として雇われた時は、さぞかし驚いたことだろう。

 自分が父親だとは言えなかったそうだ。父親としての責任を何一つ果たしていないどころか、前科までついている自分に、今更父親面はできないと深尾さんは言っていた。それでも、娘がしっかり働けているかどうかは気になったそうで、勤務中は、ついつい沙保里さんをじろじろ見てしまったようだ。

 しばらくして、沙保里さんが、悪質なイタズラにあっていると深尾さんは小耳に挟んだ。激しく憤った深尾さんは、俺がボディーガードになってやらねばなるまいと考え、沙保里さんが下宿先へ戻るまでの間を、出来るだけ「見守る」ことにした。

 さらに日が経つと、今度はストーカー被害にあっているという噂を聞き、いよいよ深尾さんの怒りは頂点に達した。自分が父親であることを明かし、沙保里さんをストーカーから守らねばと考えたそうだ。まさか自分がストーカー扱いされてるとは思わなかったらしい。なんだか、まっすぐな人だと思う。沙保里さんよりも、結衣さんに似ている気がする。

 しかし、深尾さん、なかなか「自分が父親だ」とは言い出せない。そもそもどこで言い出せばいいのだろう。バイト先で二人きりになれる時間はほぼ無い。ならば、下宿先から出てきたところで、打ち明けるほかないと思いついた。

 今か今かと電柱の傍で待機していると、沙保里さんの部屋のカーテンが開き、結衣さんと沙保里さんと目が合った。悲鳴をあげられて、肝をつぶしたそうだ。思わず背を向けて逃げ出すのも、無理はない。

 ああ、あれは一体なんだったのだろう。何故悲鳴をあげたのかがわからない。深尾さんは悩んだ。とにかく自分に出来ることは、沙保里を守ることだけだ、こうなったら、沙保里の部屋を見張っていよう。怪しい奴が来たならば、直々にとらえてやろう。そう考え、毎日ひたすら路地裏に隠れ見張った。

 来る10月16日、なんと、先客がいた。しかも、一人はバットを持っているではないか。怪しい、怪しすぎる。奴らがストーカーに決まっている、そうだ間違いない。深尾さんはそう考えた。全く皮肉だ。お互いをストーカー認定していたとは。

 しばらくすると、背の高いほうが背の低いほうに、スタンガンのようなものを押し当てた。背の低いほう、は気絶したようだ。何だ? 一体、何が起きているんだ!? しかもその背の高いほうは、沙保里の部屋に向かっていくじゃないか、まずい! 背の低いほうが持っていたバットを拝借し、自分も沙保里さんの部屋へ向かった。

 そして切原さんは捕えられた。本当に、驚いた。まさか、切原さんが連続強姦殺人の犯人だったなんて。





         1996年10月17日13時40分


「おーっす」

「あ、結衣さん。もう大丈夫なんですか」

「まあね、しっかしひっどい目にあった」

「ほんとっすね」

「スタンガンってこんなやばいもんだったのかあ、規制しろよ、ほんと。死んじゃうって」

「いや、あれは改造されてたんすよ。普通に売ってる奴は、人を気絶させたり出来ません」

「ほー、なるほどね。てかさ、この火傷なおんの?跡になったらどうすんのこれ」

「どうすんのって、どうしようもないでしょうね」

「はああ。全く、乙女の体を傷物にしやがって」

「その言い方は、誤解を招くっすよ」

「きっしょ」

「ひどい」

 窓の外から風が吹き込んで、カーテンが翻った。カーテンも壁もベッドもシーツも、病院にあるものは、何もかもが白く、現実感がない。なんだかひどく、地に足がつかない気分だ。

「ねえ」

「はい」

「あいつさ」

 結衣さんは、言い淀んだ。現実感が無いのは、この病院にあるものだけじゃない。実際に起きたことすら、現実感が無く、受け入れることが難しかった。

「ほんとに、人を殺してたの?」

 口ごもってしまった。

「そうみたいですね」

「……信じられない」

「僕もです」

「さっき起きたばっかりだからかな、夢の中にいるみたい」

「もう少し、寝てたほうがいいっすよ」

「大丈夫。ありがと。あ!」

 結衣さんは急に血相を変えて、立ち上がった。

「そういえば、沙保里は!? ねえ? どこにいんの」

「警察の人と話をしてるっす。沙保里さんは五体満足で、無傷っすよ。なにもされてないっす。安心してください」

「ああ、そっか。良かった。あいてててて」

「病人なんだから、大人しくしたほうがいいっす」

「わかってるって。いっつつつつ」

 こんなやり取りをしながら、僕たちは、なんとか現実を取り戻していくんだろう。すっかり現実を取り戻した時、悲しくなるか、恐ろしくなるかはわからない。

 ただ、その現実を、二度と手放すことのないようにしたい、そう思う。 




                                      

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