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 謙三が学校を終え、帰宅するのを待って、母は毎日のように浜側に買い物に出かけた。山側の北野町には市場がなく、浜側には、百貨店、商店街、中華街、三宮市場と揃ってあった。父は刺身で晩酌を楽しみとした。母は心臓が少し弱かったが、新鮮な魚をと、謙三を荷物持ちにしたのである。毎日となると、遊びに誘われていても、遅れてしか参加出来なかったので不満であった。

 しかし、一つの楽しみが、途中でラムネを買って貰って、母と一緒に飲むことだった。その店は『Fruit』と書かれた看板の果物店で、店先で『ラムネあります』と日本語で書かれた旗があった。謙三は「変なの」と思った。


 店をやっているのはミセス・ブラウンとかいう未亡人のイギリス人で、あまり流暢でない日本語で「おおきに」というのが、謙三には可笑しく笑えた。実際に笑って、母にえらく怒られたことがあった。

 その店には謙三と同じ歳ぐらいの女の子がいたが、アメリカンスクールに通っているとかで、学校は一緒でなかった。金髪で、青い目で、「まるで、お人形さんやなぁ~」と、謙三は思ったもので、近所の子らと遊ばず、いつも店の奥の椅子に座っていた。


 謙三はラムネを飲む時は必ず上ってきた方を向いて飲んだ。この店の前から振り返ってみた黄昏の神戸港は、西日にシルエットを浮き立たせたマストの林立である。謙三はため息が出るほど見惚れてしまう。「大きくなったら、船長になって外国に行く」が夢だった。

 あるとき、いきおいよく上げた拍子に、ラムネが噴きだした。謙三の慌てたようすを見て、その女の子が笑った。その女の子の笑った顔を謙三は初めて見た。母が差し出したハンケチで、濡れた顔や手を拭きながら、謙三も女の子に向かって笑返した。


 謙三はその女の子と一度だけ一緒に遊んだことがあった。かくれんぼうで遊んだのだが、その子は軽くびっこをひいていた。謙三はその子がいつも座っている理由を理解した。

 それから、しばらくしてその『Fruit』の店はなくなった。なんでも、ミセス・ブラウンは再婚して国に帰ったそうだと、賢三は母から聞いた。


 謙三は、今日は外国人倶楽部で取引先のアパレルのショーがあり、それに招かれたのである。謙三は大阪の大手商社に勤めていて、現在は芦屋に住んでいる。会社での肩書きは、繊維部部長である。三宮からタクシーでと思ったのであるが、久しぶりに歩いて坂を上ってみるか、と思ったのである。かってあった生家の前を通るのは苦手なものである。でも近辺まで来たときは、無性に通りたくなることもある。

 その女の子がいた『Fruit』店は、今は子供服店になっていた。謙三の生家の跡はカフェになっていた。カフェでラムネはないだろうと、汗を拭きながら、賢三は外国人倶楽部のアプローチを登った。

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『神戸ラムネ物語』 北風 嵐 @masaru2355

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