『神戸ラムネ物語』
北風 嵐
p1
ポン、シュワーワーと空向いて飲めば、昭和がやって来る。あふれ出る泡、「もったいない」と、口からラムネを迎えにいき、上を向いてごくりと一飲み。独特な形をしたあの愛嬌のある瓶。
子供の頃、あの緑色の透明なラムネの壜の中に、壜の口より大きいガラス球が入っているのを、「どないして、入れたんやろぅ?」と思ったものだ。初期のころはコルク栓を使用していたそうで、明治20年代以降、炭酸の力で効率よく密封できる玉入り瓶がイギリスから導入されたという。ポン、シュワーがなかったらラムネとは云えない。
ラムネという名称は、イギリスからもたらされたレモネードが転化したもので、独特な瓶の意匠もこのとき同時に持ち込まれたものだそうで、明治初期に神戸旧居留地の『シム商会』が日本で初めて製造と販売を行なったとされている。
いや、長崎が先や(せやからながさき)とか横浜が先や(よこやり、よこはまぁ~)とか『初めて物語』には、ご当地はうるさい。
このシム商会のアレキサンダー・キャメロン・シム(1840年―1900年)さんは、スコットランドの出身で、神戸にやってきて、当初は薬剤師として勤務したが、商会を設立し、薬品の輸入・販売などを手掛け、実業家に転身した。シムは居留地自治会の役員や、日本で初めての『スポーツクラブ』の設立や、社会的活動に貢献したとされている。
ラムネが広く普及したのは、明治19年、コレラが全国的に流行すると、「炭酸水を飲めばコレラにかからない」という噂で、飛ぶように売れ、品切れが続出したという。
いつしか、コカ・コーラーがジーンズとともに、アメリカンファッションとしてカッコイイとなって、清涼飲料水の世界でラムネに取って代わった。そしてラムネは昭和を思い出させるレトロな飲み物となった。
北謙三の生家は、神戸はトーア・ロードにあった。謙三の父はそこでテーラーの店をやっていた。トーア・ロードが突き当たったところに外国人倶楽部がある。倶楽部の裏はすぐ山である。山本通りと交差する角に店はあったから、トーア・ロードの一番高い辺に位置していたことになる。『トア・ロード』の名前は、いま外国人倶楽部になっているところにあった『東亞・ホテル』に由来しているらしい。
赤い円錐屋根をつけ、蔦の塔を四隅に配し洒落たホテルだったそうで、ホテルは戦災で焼失したが、名前は残ったというわけだ。「トア」とは呼びづらいのか、神戸の人たちは「トーア」と呼ぶ。三宮神社横にある入口を表示するアーケードのサインには、『TOR・ROAD』と書かれてある。
浜側から上ると三宮、北長狭、下山手、中山手、山本、と実に5つの通りを縦断している。母と大丸まで買い物に行くのは良かったが、帰りは荷物を持たされて、フーフー云って坂を登らねばならなかった。夏などは、来たお客も暫くは、扇風機の前で顔を拭きながら汗を入れねばならなかった。
そんな時、母が「暑かったでっしゃろぅ」と出したのが、ラムネだった。家は洋服店であったが、母はいつも和服であった。
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