第22話 現実と夢
目が覚めると、自分の部屋のベッドだった。体を起こして時計を確認すると、時刻は一時半。もうとっくに登校時間は過ぎ、遅刻確定だ。いつも惰眠を貪っている俺としては、このまま学校をサボってしまいたいくらいだ。いまいちはっきりと覚めない頭で上半身を起こし、半分布団に入ったままボーッとこれまでのことを考える。一晩の夢とは思えないほど、実に濃い内容だった。優子を説得して現実に帰るのを見届け、恵の夢を手に入れて返すなど、実に様々なことがこの一晩で起こった。正直まる三日くらい眠っていたと言われても違和感はない。むしろ、そっちのほうがしっくりくるくらいだ。走馬灯でも見ていたのか、もしくは浦島太郎にでもなったかのような気分だ。あっという間に過ぎ去った夢での出来事を振り返ると、思いのほか疲れていることを実感する。今日はこのまま二度寝して、学校をさぼってしまいたい衝動にかられるが、「先にあっちで待ってて」優子の言葉が頭の中で繰り返される。
「ああ言われたばっかなのに、さすがに行かないのはまずいよな」
そもそも眠ったところで恵が現実に戻ったであろう今、夢の中ですることなんてない。学校に行けば優子がいるだろうし、彼女から恵の話を聞くこともできるだろう。まあ、今となっては俺と恵が夢の中で幼馴染であったことを優子は覚えていないので、怪しまれるかもしれないが。ここ数年で初めて、夢より優先すべき現実の用事ができた。もう俺には眠る理由がないのだ。学校に行くことを決意すると、もそもそと布団から出て制服へと着替え、ハンカチをポケットに突っ込み準備をする。
制服姿の人間が誰一人いない通学路を歩く中、俺は学校に行ったら優子にどんなお小言を言われるかを心配していた。あの約束は忘れているだろうが、遅刻して午後に登校して来るなんて、普段から口うるさい彼女が何も言わないわけがない。この際、何をしていたか正直に告白するべきか。だが、夢での出来事を覚えていない彼女にそれを言ったところで、懐疑的な視線を向けられるだけだろう。はたまた適当に話をでっちあげるか。しかし、これも先ほどと結果は同じだろう。もしくは開き直ってしまうか。まあ、これが一番無難な気がするな。あれこれ思考を巡らせていると、見知った姿が角から出てくる。向こうもこちらに気が付いたようだ。
「……優子?」
「うっ……信士」
俺が純粋な疑問として、この時間になぜ優子がいるのだろうと思うのに対し、彼女は気まずそうな反応だった。しばし足を止めたまま見つめ合う俺達の脇を、他の歩行者や自転車が追い抜いていく。
「なんで優子がこの時間にいるんだ? もしかして……寝坊?」
「ち、違うわよ! こっちはいつも寝坊しているあんたとは違って、きちんとした理由があってこの時間になったのよ!」
少し慌てた様子で言い訳を始める優子。
「目が覚めたら病院のベッドの上で、私はすぐに学校に行きたいって言ったのよ! それでも検査が必要って言われて、午前中で終わらせてようやくここまで来たのよ!」
夢遊病になるまで無遅刻無欠席だった手前、遅刻したことを後ろめたく思っているのだろう。大きな声が辺りに響く。道行く人達の視線が、こちらを見ながら通り過ぎるのを見て、それに気付いた優子がわざとらしく咳払いをして話の矛先を変える。
「そういうあんたこそ、なんでこんな時間に登校しているのよ」
ジト目でこちらを見ながら非難する優子。やっぱり見逃してもらえなかったか。なんでと言われても、結局夢の中での出来事を話すわけにもいかず「いつも通りの理由で……」と答えるしかない。
「遅刻するなって、最後に言ったわよね」
「悪い、悪い」
負い目があったので反射的に謝ったが、そこで違和感に気付く。
「え?」
「あんなことがあった後くらい、遅刻せずにきちんと登校してなさいよね」
呆れ顔で言われてしまう。
「もしかして……」
そんなことありえない。あるはずがないんだ。両親の話では、目覚めた後も夢の内容を覚えているものは少なからずいるらしい。だけど、それは極少数。男女、年齢関係なければ、法則も何もない。誰が覚えているのかは、起きた本人に聞いてみるまでわからない。覚えているといっても、夢で見ていたこと全部を覚えている人なんておらず、記憶にあるのは極一部の内容だけ。それもどうでもいいことばかりで、夢遊病の原因解明にいたるようなものはない。忘れていて当然、夢遊病から目覚めた人達は眠っていたときの夢の内容を、一切覚えていないというのが世間一般での常識だった。だから、偶然、俺と約束した部分だけを起きてからも覚えているなんてこと――
「全部、覚えているわよ」
信じられないと言いたげな俺の視線を、優子はまっすぐに見つめ返す。自分には確かにあの夢での記憶があると訴えるかのように。
「まあ、今日は私も遅刻してるし大目に見るわ。だけど、休み時間は起きていなさいよね。聞きたいことが山ほどあるんだから」
口を尖らせながらも、約束の内容について口にする優子の姿に、俺は彼女にあの時の記憶があるのだと確信する。
「な、なんで……」
「そんなの、私にだってわからないわよっ」
疑問を口にした俺に、優子は声を荒げて答える。研究者である両親であれば、ここからさらに様々なことについて質問攻めにするのだろうが、俺にはそんなことを聞いてもどうしようもない。本人でさえわかっていないのだから、質問するだけ無駄だろう。
「……よく、午前中だけで帰ってこられたな」
両親に夢遊病から起きて内容を覚えている人物は、とても貴重だと聞いたことがある。だから原因究明のため、例えそれがどんなにくだらない内容であっても、時間をかけて詳しい話を聞き、色々な検査をするらしい。それが午前中だけで終わるとは思えなかった。「覚えてないって、嘘ついてきたのよ」
どうやら俺との約束を優先し、わざわざ病み上がりに登校してきたらしい。
「あんたには色々と聞きたいことがあるんだから、道すがらたっぷり答えてもら――」
~♪~♪~♪
優子から怒涛の質問攻めが始まろうというときに、携帯からと思しき音楽が響き渡る。俺は睡眠の邪魔をされないよう基本的にサイレントモードにしているため、自分のものではないことは明白だ。そもそも連絡をくれるような友人がいないしな。必然的に優子ということになるため、当人を見ると鞄を探り、音楽を奏でている携帯を取り出す。着信表示を見て「恵の……お母さん?」と呟き、首を傾げると携帯に出る。俺はというと、その一言で、どういう内容の電話であるかを確信した。最初は訝しんでいた顔が、会話が進むにつれて驚きへと変わり、喜びを彩り、最後には涙ぐんでいた。
「はい……グスッ……わかりました。学校が終わったら、すぐ行きます」
本当は今すぐにでも駆け出して、向かいたいであろう気持ちを押し殺して、優子は電話を切る。待ちわびた幸せにすぐに手を伸ばすのではなく、きちんとやることはやっておこうとするのは、律儀な優子らしい。話し終わった優子に、俺はハンカチを差し出す。いくら現実世界で友人があまりいない俺でも、これくらいの気遣いは持ち合わせている。
「……ありがと」
涙を拭うと、返されると思っていたハンカチは「洗ってから返すわ」と言われ、彼女のポケットへと消えていった。
「それより聞いてよ、信士!」
泣いた鴉がもう笑った。不意に満面の笑顔を浮かべる優子。恐らくこれから聞かされる内容は、俺がこの三年間、最も待ちわびた言葉に違いない。そう確信を持っていた。
数ヶ月後、俺と優子は通学路である人物が来るのを、今か今かと待ちわびていた。
「大丈夫かしらあの子……どっかで転んだり……もしかしたら事故とか……」
ブツブツと呟きながら、さっきから同じところ行ったり来たりする優子。かと思えば急に立ち止まり、待ち人が来ないか道の向こうに必死に目を凝らしている。不安そうに心配する姿は、まるで娘の安否を気遣う親のようだった。
ここで待っているようにあいつ自身から連絡があったのだから信じて待てばいいのに。「あんたは心配じゃないの? だって、今までは万が一がないように誰かが側にいたのに……今日だって私が迎えに行こうかって言ったのに、一人でいいっていうし……」
実のところ、そこが優子的にショックだったらしい。まるで溺愛していた娘が独り立ちする瞬間を迎えた親のようだ。
長い夢から目覚めた後、驚異的な回復を見せた恵は、今や普通に生活できるまでになっていた。今日はそんな彼女がいよいよ学校に通う日である。
もちろん心配じゃないと言ったら嘘になる。だけど、彼女が優子の申し出を断ってまで一人で行くと言い出したのは、ある夢を現実にするためだとわかっている。だから俺は、彼女を信じて待つことに決めていた。
「あ、来た!」
優子と同じ制服に身を包んだ女子生徒が、こちらに向かって歩いてくる。以前は枯れ枝のようだった手足は肉が付き、今は瑞々しい肌となっている。背は低いが、あの頃よりは随分と身長が伸び、成長していた。髪も伸びて、今は腰くらいまである。少し見ただけでは別人かと思ってしまうが、顔だけは三年前の面影が残っていた。ゆっくりとだが、確かな足取りで歩を進める。過去から現実へと向かって、幸せな夢しかない世界から、俺と優子が待つ、当たり前な現実へと向かって。彼女が目覚めてから数ヶ月、この瞬間をどれだけ待ちわびたことか。今にも駆け出して側に行きたいであろう優子も、少しそわそわしながら、彼女が自分で来るのを待っていた。だけど、あの足取りなら心配は無用だろう。
「おまたせ」
待ち人は俺達の元へ到着すると、開口一番そう言った。
「大丈夫だった? 転んだりしてない? 怪我は?」
転んだ後の子供を見るように体の隅々を確認する優子。
「なんともないよ」
仲良く談笑している優子と恵の姿に感慨にふける。優しい笑みを浮かべて無事を知らせる彼女の顔が、夢の中で見た面影と重なる。これが今の幼馴夢……いや、恵の風貌なんだな。現実で対面するために三年もかかったと思うと、申し訳なさや罪悪感、本当に自分は二人とここにいてもいいのかという気持ちが押し寄せてくる。結局、今日この時まで俺が恵と対面したことは一度もなかった。お見舞いに行こうと誘ってくる優子には『三人での夢を叶えるために待っているんだ』と説明していたが、本当はどんな顔で会えばいいのかわからなかった。優子曰く、幸か不幸か、恵もなぜか俺との夢での出来事を覚えていたらしい。それで実際に学校に通えるようになるまで、時間がかかってしまったのだ。現実で友人だった優子とは違い、夢の中で会っていただけの俺はどういう対応をすればいいかわからず、口を閉ざしていた。二人の話す様子を眺めていると、不意に声をかけられた。
「やっと会えたね、信士」
自分にも同じ笑みが向けられる。それだけで、なんだか安心した。自分はここにいていいんだと思えた。実は忘れられているんじゃないかと内心ひやひやしたが、優子とは違い、彼女とは夢遊病になる前から面識があったので大丈夫だったようだ。
「えっと……久しぶり」
彼女の思いに対して答えたいと思った俺は精一杯、口角を上げ、目を細めて笑顔を形作る。俺はきちんと笑えているだろうか?
「うん」
想いは届いたようだった。同じように笑みで形作った顔で、恵が答えてくれる。
「「……」」
それっきり、しばし無言になる俺と恵。正直、次になんと言えばいいのかわからなかった。俺は夢で恵に会いに行くために現実を蔑にし、恵は俺のせいで夢から出られず本来現実で過ごすはずの時間がなかった。だから、お互いに現実でのコミュニケーション能力が圧倒的に欠如していた。夢では毎日顔を合わせていたが、それが現実になった途端、なにを話せばいいのかわからなかったのだ。
「まったく、お見合いじゃないんだから見つめ合ってないで、相手を見て思ったこと、伝えたいと思っていたことを言えばいいのよ」
見かねた優子が助け船を出してくれる。言われて改めて恵に視線を向ける。恵を見ていると、心の奥底から一つの感情が湧き上がってくる。
俺が伝えたいと思っていたことが……
「ごめん」
自然と口から出たのは、謝罪の言葉だった。いや、最初から謝ろうと心のどこかで思っていたのかもしれない。夢ではなく、現実でこの言葉を口にすることで、初めて許してもらえるような気がした。
「ありがとう」
恵から出たのは感謝の言葉だった。現実に戻ったら、最初にお礼を言おうと思っていたらしい。片方が謝り、片方が礼をするという変な構図ができてしまった。
「……あんた達、ずっとそれを引きずっていたのね」
優子は伝えたいと思って出た一言で、俺達の胸中を察したらしい。現実を蔑ろにしてまで罪を償うかのように恵の側にいた俺の心を。それに気付いて寂しさを紛れさせ、いつか現実に帰れるという希望を抱いていた恵の心を。優子は瞳を潤ませて、その光景を見ていた。
「もういいんだよ。こうして帰って来れたんだから……それより、あの夢を叶えて欲しいな。わたしが……ううん、わたしたちがずっと願い続けた幸せを……」
最後に夢の中で見たままの笑顔を向けて懇願してくる恵。三人の夢の先にあったもの。俺達がずっと願い続け、やっとのことで辿りつこうとしている現実を恵は求めた。
「じゃあ、まずは朝の挨拶からね。まずはそこから始まるべきじゃない?」
目元を拭いながら、優子が間に割り込んでくる。彼女の意見に俺と恵は頷くと、一旦居住まいを正す。一度それぞれが視線を合わせて首を縦に振ると、三人同時に声を上げた。「「「おはよう」」」
この瞬間、俺達の夢は叶い、幸せな日常が始まった。
俺達の幸せは現実にあったんだ。
夢見るものと夢追うもの @takenoko1215
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