第21話 三年越しの謝罪
普段待ち合わせをしている教室のドアを開けると、やはり恵はそこにいた。
落書きされた机、周囲には破かれた教科書やノートが散乱している。他に綺麗な勉強机があるにも拘わらず、彼女はそこに座って待っていた。まるでいるべき場所はここであるというように、自分はここにいるべきだと主張でもするかのように。夢が壊れたあの日から、いつもいつも同じように待ち続けていた。だが、それも今日で終わりだ。俺は扉を閉めると、彼女の元へと歩みを進める。三年間待ちに待った瞬間をようやく迎えるのだ。きっと彼女は、これまで見たこともないような顔で驚くだろう。なんといって声をかけようか。素直に夢が見つかったと言おうか、それともちょっとひねって、これがなにかわかるかと問いかけてみようか。悩みながら歩いていると、俺が彼女の傍についた途端、
「見つかったんだ」
こちらを見た恵から、開口一番にかけられた言葉。
「な、なんでわかったんだ?」
正直、彼女が驚くのを期待していた部分もあったので、逆にこっちがびっくりした。やはり俺は、思っていることが顔に出やすいのだろうか。
「自分の夢だもん。それくらいわかるよ」
視線を俺の手に握られている夢へと注ぎながら優しく微笑む。
「それが、わたしの夢だよね?」
突然言い当てられてしまい、多少面喰ってしまったが頷く。
彼女は笑みを浮かべたまま嬉しそうではあるのだが……どうしてだろう?
その笑顔には喜び以外の感情が隠れているようでならない。本来であれば、他の感情が入り込む余地なんてないはずなのに、彼女の奥底に眠るものはなんなのだろうか。
「現実に帰るのが怖いのか?」
一番に思い当ることを尋ねてみる。何年も眠り続けてきたのだから、戻った際の不安がまったくないはずはないだろう。勉強についていけるかとか、以前の友達は変わらず接してくれるだろうかとか、夢遊病から目覚めたことで周囲から向けられる奇異の視線とか、軽く考えるだけでもキリがない。だが、そんな心配は無用だ。だからこそ、俺と優子が現実にいるのだから。
「それもあるかな」
彼女は机を撫でる。まるで別れを惜しむかのように、ここを残して自分だけ去ってしまうことを後悔するように。
違う、彼女だけが戻るんじゃない。思いも一緒に現実に帰るのだ。だからこの場所は一人ぼっちじゃない。
「大丈夫だよ。一人じゃない。現実に戻っても俺と優子がいるよ」
「……うん」
なぜだろう、未だに彼女に迷いが見えるのは。
いったい何が彼女をここまで引き止めるのだろうか?
「わたし、戻ってもいいのかな?」
「当たり前だろ!」
ようやく念願の夢を見つけてきたというのに、恵の反応は芳しくなかった。
彼女への贖罪になるのだと思っていた。だけど、なぜだろう。恵が喜んでいるように見えないのは。現実に戻ることは恵が望んだことじゃなかったのだろうか。確かに恵の口から聞いたし、俺自身そうだと信じていた。なのに、未だに躊躇している。これが違うとなれば、果たして俺はどうすれば許されるのだろう。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「だって……あの時、俺が君の夢に入り浸りさえしなければ、ドリームハンターが来ることはなかった。両親も優子の夢にも行けずに、たった一人で何年も夢の世界に閉じ込められることなんてなかったっ」
恵が起きてこなくなってから、今までずっと後悔していた。彼女の人生を奪ってしまったも同然なのだから。俺の胸くらいしかない彼女の身長。元々小柄なようだが、それでも病院で見た現実での姿と比べると、明らかに彼女の背は低い。その差が、これまで俺が恵から奪ってきた時間の証明だった。
「……気づいちゃったんだ」
嘘がばれた子供のように罰が悪そうにしている。彼女は悪くない。悪いのは俺で、恵は何一つ責任を感じる必要はない。優しい嘘を三年間つき通してくれたのだ。騙されて気付いてあげられなかった俺が馬鹿だった。
「そんなことないよ。ずっと一緒にいてくれたじゃない。現実を犠牲にしてまで」
彼女は俺の不器用な思いに気付いていた。暇があれば夢の中へ来ていたのは、現実で友達がいなかったのもあるし、恵が現実に帰れるように彼女の壊された夢を探すためでもあった。だがそれ以上に、彼女が夢の中で一人ぼっちになってしまわないようにという思いからだった。現実でそんなことをしていたら、勉強なんてついていけるはずもないし、誰かと遊べる時間がとれるわけもない。だから自然と人が周りにいなくなっていった。それに一抹の寂しさ感じたこともある。けど、彼女を夢に残して、俺だけのうのうと生きることなんてできなかった。
「夢の中だと時間の感覚が曖昧になるけど、それでも信士がなるべくわたしと一緒にいる時間をとろうとしていたことはわかってたよ」
微笑む彼女の優しさに涙がこみ上げる。どうして夢から出られなくなったのか真実を告げて以降、時折現実に帰りたいとつぶやくことはあっても、一度だって俺を攻めたことはなかった。むしろ、本当のことを話してからは、俺の前で帰りたいということさえなくなった。本来であれば、罵倒されても仕方ないのに。涙を見られたくなくて、申し訳なくて拳を握ってうなだれる。
「え……」
そんな俺の頭を、優しく撫でてくれる感触があった。顔をあげると、一生懸命背伸びしながら、優しく微笑んでいる恵の顔があった。頭を撫でてくれる手の温もりに不安が消えた。優しくさすってくれる感触に嗚咽が漏れた。気遣う思いに涙が溢れた。我慢なんて、できなかった。気づいた時には、俺は膝をついて泣いていた。
「うぁ、あぁぁ、うああああぁぁぁん! あああぁぁぁ、ごめん! お、俺のせいで、ぐすっ、こんなところに閉じ込められて」
「いいんだよ。信士が来てくれたから、寂しくなんてなかったし平気だよ。だから泣き止んで」
「くうぅぅぅっ、あああぁぁぁん! ごめん! ごめん!」
密かに盗み聞きしてしまったので、その言葉が嘘だったことは知っている。彼女は自分の本当の気持ちに蓋をしてまでも、俺を慰めようとしてくれているのだ。自分のほうが辛いはずなのに、こんな時でも相手のことを思ってくれる優しさに、涙を止めることなんてできなかった。自分より小さい恵を前に膝をついて俺は号泣した。それでも彼女の夢だけは、しっかりと胸に抱いて離さなかった。いや、離せなかった。夢の温もりと、彼女の手の温もり、二つが同時に俺を包んでくれて安心してしまったからだ。
ひたすら謝罪する俺を、彼女はひたすら許してくれた。夢自身も俺を慰めるように、先ほどより温もりが増したような気がした。
「ぐすっ……ありがとう」
「うん」
ひとしきり泣き腫らすと、ようやく落ち着いてくる。恵はその間もずっと優しく頭を撫でてくれていた。立ち上がると、彼女は撫でていた手を引っ込める。
「やっぱり信士が持ってきたのはわたしの夢だね」
「どうして?」
笑顔で確信したように言う恵に、俺は疑問を返した。
「信士が泣いている間、元気だしてっていうように光っていたから」
先ほど温かさが増したように感じたのは、気のせいではなかったのだ。
「だけど、その夢も恵も、望んでいることは一緒だよ」
どういうことかわけがわからないというように首を傾げる彼女。こういう仕草は今の見た目通り、子供っぽかった。
「恵が戻ってきて一緒の時間を過ごすのは、皆が望んでいることなんだ。俺も、優子も、そして恵自身も」
「わたしも?」
「夢を見てみればわかるよ。ここには恵の思いが詰まっているんだから」
言われて彼女は俺の手に包み込まれた自身の夢を覗き込む。
「ど、どうして……」
彼女が覗いた自分の夢には通学路で挨拶を交わして登校し、三人で学校生活を過ごすという彼女の願いが詰まっていた。
「この夢には信士がいるの?」
夢の世界から出られなくなってから、自分の夢がどういうものだったか彼女自身が語ってくれたことがある。それは優子と何気ない日常を過ごすという夢。病弱な彼女が望んだのは、当たり前のことを、友達と一緒に当たり前のようにするということだった。だからこそ、そこに存在しないはずの俺の姿があることに驚いたのだろう。だって俺は、当初彼女が望む夢にはいなかったのだから。
「それは、恵自身がそれを望んだからさ」
「わたしが?」
首を縦に振り肯定する。恐らく長い間過ごすうちに、彼女が望む日常に俺もいて欲しいと無意識に思いを抱くようになったのだろう。それに合わせて、夢の内容も変わったというわけだ。まあ、この虚構の世界で俺しかまともに話せる相手がいないとなれば、こうなるのは当然のことだろう。
「だから……」
先を続けるのをためらい、言いよどむ。
「もし、恵がこの夢を実現させたいと思うなら……帰ってきてくれないか」
これを言うのはずるいような気がした。俺が夢を引き合いにして帰ってくるように誘導しているようで。だけど俺自身、本当に帰ってきて欲しいと思っていた。最初は罪悪感からだったかもしれない。だけど、この三年で変わったのだ。彼女の夢が変わったように俺の願いも変わったのだ。
「わたし……もう一度、夢見てもいいのかな?」
何年もかけて育み、何年もかけて思いを馳せ、何年もかけて望んだ夢。夢の形は変わるもの。誰だって子供の頃いくつもの将来の夢を持つように、夜に見る夢も一つだって同じものはない。最初彼女が望んでいた夢の形は違うものだった。それを俺が介入したことで壊れ、そして変わってしまった。
だが、それでも彼女が叶えたいと思っていてくれているなら、俺は恵に夢ではなく、現実にいて欲しい。幼馴夢ではなく、恵として傍にいて欲しいんだ。
「信士も帰ってきて欲しいの?」
今までは彼女が戻ってくることに対して、どこか迷いがあった。現実に帰ったとき、経過した時間の長さに彼女が落胆する様を見たくなかったのかもしれない。元凶として責められるのが怖かったのかもしれない。自責の念に押しつぶされそうになるのが、嫌だったのかもしれない。だけどなによりも、目覚めたときに俺と夢の中で幼馴染であったことを忘れてほしくなかった。でも、今ならそれらをひっくるめて確信を持って言える。恵と優子と一緒に幸せでありたいのだ。幸せの形は人それぞれで、その時々で違う。俺は数ある幸せの中で、優子と恵との三人で、現実を一緒に過ごすという形を選びたいのだ。例え、目覚めた時には二人が忘れていたとしても、三人で過ごす現実を望んでくれていたという希望を胸に夢を叶えたいのだ。そういう色々な意味を込めて、彼女をしっかりと正面から見据えて笑う。
「ああ、もちろんだ」
恵は俺から一度視線を外すと、教室をぐるりと見渡す。これまでの思い出を振り返るように。これから別れを告げる場所を惜しむように。一通り眺めると、これまで彼女の特等席だったいじめの形跡が残った机を慈しむように撫でる。そして最後に俺を見た。
「……信士が望むなら、そうするよ」
その一言に、思わず安堵の息が漏れる。
なぜ最後までここから離れることを渋ったのか俺にはわからないが、きっと彼女なりに思い入れがあるのだろう。例え、それが過去のいじめの形跡が残った場所だとしても、閉じ込められてからずっと過ごしたここを離れるのは、愛すべき家を手放すのと同じ心境だったのかもしれない。
だが、彼女は過去を過ごしてきたこの場所より、未来へと続く現実を選んだ。寝るときに見る夢は、過去から形成される。将来の夢は、想いから形成される。彼女の選んだ道は、きっと幸せな未来へと続いているだろう。あとは三人が夢見た夢を叶えられるように、俺が現実で努力するだけだ。
「じゃあ、これを返すな」
膝をついて泣いても、手放さなかった彼女の夢。それがようやく主の元に帰る。ここに至るまで長かった。時に絶望し、時に諦め、時に無為な時間を過ごしてきた。彼女自身が傷つかないように、ここにいることが幸せなのではないかと思ったこともある。それでも、夢に来ることだけはやめなかった。彼女を一人にしないため、彼女への罪悪感のため、彼女が僅かな希望にすがれるようにするため。半ばあきらめていた夢をようやく見つけ、やっと俺と恵と優子の時間が進む、そんなような気がした。
恵が両手で夢を受け取ると、少し眩しいくらいだった輝きが落ち着く。それは彼女らしい、優しい温もりに満ちた光だった。
「ずっと、待ってたよ」
夢に対して積年の思いを告げると、恵の胸に向かってスーッと光は飛んでいき、そのまま入って行ってしまった。
「お帰り……わたしの夢」
胸に手を当てながら、大切な家族が帰ってきたときのように呟いた。俺はというと、恵の一挙手一投足をずっと眺めていた。ここに至るまでの道程が、まるで走馬灯のようによみがえる。やり遂げたことによる安心感からだろうか。先ほど以上に、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気がした。何事も最後の瞬間は切ないものだ。
「じゃあ、起きようか?」
「……うん」
小さい声だけれど、はっきりと聞こえる声音で頷いた恵。
「出る方法は、わかっているよな?」
「もちろんだよ」
悠久とも思える夢の中、恵と出るためにいろいろと模索した時期がある。そのどれもが失敗に終わったが、今となっては特別なことをする必要はない。優子と同じように、現実と未来へ、俺達の幸せを叶えるために歩みを進めればいい。
「じゃあ、いったんここでお別れだね」
「一人で大丈夫か?」
一緒に行くことはできないとわかっていても、聞かずにはいられなかった。ずっと夢の中にいた恵には、優子のように過去にすがれる希望が少ない。
「大丈夫、わたしには現実に戻って三人で過ごすっていう幸せが待っているから」
過去を振り返るのではなく、未来への希望を胸に抱いて笑顔を向けてくる恵。三人同じ思いで現実に戻るのだから、きっと大丈夫。なぜだかそう確信できた。
俺は黒板側から彼女は教室の後ろ側の扉へ手をかけると、一旦恵に目を向ける。あちらも同じようにこちらを見ていた。まるでそれが合図であったかのように、ほぼ同時に扉を開け、廊下へと出る。
中央付近で立ち止まると、今度は目だけではなく体ごと向き合う。ここでどういう言葉をかけて別れようか一瞬迷う。現実での友達が皆無の俺には、こういう時、なんといっていいかわからなかった。少し困った俺は、彼女から視線を外して頭をかく。昨日までの俺なら、また夢に来ることを誓うように、恵に「またな」と言って別れていた。しかし、これから現実へと帰る彼女にかける言葉としては、不適切な気がする。「じゃあな」でもこれからの門出として、あまりしっくりこない。ひとしきり頭を悩ませていると、恵から口を開いた。
「また明日」
恵が発した言葉は、普段俺が言うような再会を誓うものだった。けれど、この一言に含まれている意味は、俺とはまるで違う。罪の意識からまた夢に来ることを宣言するのではなく、現実で再会することを約束する言葉だった。
考えてみれば、恵から「また」と言われたことはなかったかもしれない。恵は俺が「また」という言葉を使う度に頷くか、待っていると告げるだけだった。俺は誓えても、恵は誓うことができない。無数にある夢の中、恵を避けるように行動すれば、本当に会うことはない。普段からの待ち合わせ場所を決めて、会えやすいようにしていたのはそのためだ。恵はいつも、俺の言葉を信じて待つことしかできなかった。だから「また」という一言を口にできなかったのだろう。俺は今更ながらに、そのことに気付いたのだ。内心で恵が、明日は俺が来ないかもしれないという不安を抱いていることも知らずに。今更ながらに恵の心中を察するなんて遅すぎる。本当に俺は恵に対して、謝っても謝りきれないことを繰り返してきたのだなと実感する。だが、それをここで口にするのは恵が望んでいる言葉とは違う気がした。何も言わない俺を、じっと見つめてただひたすらに待っている。彼女自身が現実で会うことを約束するのだ。それに対する答えは、俺も同じものでなくてはならない。
「……ああ、また明日な」
長い時間をかけて、ようやくその一言を口にした。恵は満足そうに笑顔で頷くと、背を向けた。彼女が廊下の奥に歩み始めるのを確認して、俺も後ろを振り返る。互いに背を向けて歩き出す。相手が行くまで、お互いに振り返ることはしない。だって、次に会うのは現実の世界なのだから。過去に思いを馳せ、後ろを向くのではなく、進むために前を向いて歩くのだ。この夢も、そろそろ消滅が始まるだろう。ここがあったおかげで、俺は恵と会うことができていた。過去に受けた傷が、彼女の居場所になるなんて皮肉な話だ。だが、もうこの場所は必要ない。夢の主が目を覚ます今、この場所がある意味も、形を保つ必要もない。最後にもう一度だけ後ろを向くと、すでに恵が行った方の夢は、半分消滅していた。俺は意識が浮上していくのを感じながら、ただ一言、優子の時と同じように、
「今まで恵を支えてくれて、ありがとう」
感謝の言葉を口にして、夢を出た。
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