第20話 説得と真実

 夢の回廊を介して、委員長が今いる夢の中へとやってくる。場所はいつも利用している通学路。住宅街を突っ切るように学校へと続く道。電柱の位置や壁の風化具合、細部にいたるまで忠実に再現されていて、夢の中の光景だと知らなければ、ここが現実だと信じてしまいそうだった。俺はもうじき現れる人物達を待つために、普段なら通りすぎていく道で、壁に背を預けたまま時間を過ごす。まもなく、向こう側から歩いてきた三人組の姿に思わず、涙があふれてしまいそうになった。同じ学校の制服を着た男女。どうやら三人は寝坊した男子生徒について話しているようだった。呆れた顔をしながらも笑顔の委員長、夢の中と同じように優しい笑顔を浮かべる恵、そして苦笑いしながら、二人に詫びる俺の姿があった。とても幸せそうな光景。三人が夢見ていたものが、目の前にあった。

 委員長は俺に気付いたようだったが、一瞬こちらに視線を向けて眉をひそめただけで、すぐに会話へと戻る。そのまま何事もなかったように、前を通り過ぎていった。なぜだか俺には、その顔が沈痛なものに見えて仕方なかった。もう彼女にとって俺の存在は、ドリームハンターと同じように、自らの幸せな夢を妨害してくる邪魔者でしかないわけだ。現実では彼女が俺を起こす側だったのに、夢では俺が彼女を起こそうとしている。普段と立場が逆転してしまっていた。やられる側も嫌だったけど、やる側も気持ちのよいものではないと、ようやく気付く。ただ、眠っていても彼女自身の本当の気持ちから、目を逸らすことだけはしてほしくなかった。胸中に沸いてくる思い。いつも感じていたけれど、目を背けていた感情。委員長の幸せそうな姿を見るたびに、胸のわだかまりはドンドンと大きくなっていき、普段は心の奥底にしまっていたものが堪えきれず、とうとう外に漏れた。「俺はただ、優子に現実へ帰ってきてもらいたいだけなんだよ……」

 思わず呟いた言葉は、優子には届かなかった。気付かずに偽りの俺と恵と一緒に、幸せな時間を過ごしている。一見、とても幸せそうで、羨ましくなるほどに悲しい夢だった。「……幸せか?」

 問いかけずにはいられなかった。

「え?」

 今度は俺の声が聞こえたらしく、優子が振り返る。

「幸せかって聞いているんだ!」

 怒鳴る俺に、優子は『当然じゃない!』と叫ぶ。

「本当か? 誰も自分に逆らわないこの世界が、誰もが自分を肯定してくれるこの状況が、自分の思い通りに動く人達が、本当にお前の望んだものなのか? 自分しか本当のものがないこの夢が、お前の求めていた幸せなのかよ!」

 彼女が願っていたのは、目覚めた恵と現実で過ごすことだったはずなのに。

「私は幸せよ! 百枝京子もっ、神野渚もっ、灰村隆もみんな目覚めて、両親がいて、あんたは遅刻もせず、授業中も起きていて……恵が、やっと目を覚まして……だから幸せに……決まってるじゃないっ」

 勢いがあったのは最初だけで、最後の方はまるで今にも泣きだしてしまいそうな声だった。一つ一つ口にする度に、夢と現実とのギャップを思い知ったのだろう。ここが夢だと知っているからこそ、現実との違いを挙げるたびに落ち込んでいった。彼女の気持ちは痛いほど共感できる。現に俺も、恵とのこれまでの記憶が夢の中だけのもので、本当は存在していないのではないかと、常に心のどこかで怯えていた。ただ、俺には確かめる機会があった。例え、苦しむことになっても恵が現実にいてくれたことは、夢での彼女が本物であることの証明だった。だが、優子はこれが偽物であることをとっくに知っていた。そして実際がどうであるかも、それこそ夢に見るくらい痛感していた。だから先ほど、彼女の顔があんなふうに見えたのかもしれない。夢を夢と知らずに見られるなら、これほど幸せなことはない。悟ってしまった時点で、手に入らぬ願いということになる。だから自分は幸せだと信じることにした。ここが夢の中だと認めているからこそ、こんな世界はありえないのだと理解もしていた。元の世界に戻ったところで、恵のいない現実が待っているだけだから、夢で満足することにした。優子はいつもそうだった。辛い中頑張らずとも悲しめばいいのに、自分が悲痛な表情をしていることに気付いていない。

「じゃあ、夢遊病になる前の優子の願いはなんだったんだよ?」

 先ほどの攻め立てるような口調と打って変って、なるべく優子を気遣うように優しく問いかける。こんなふうに接したのは優子と知り合って以来、初めてかもしれない。彼女自身それに気づいたのだろう。戸惑いながらも自分の本当の願いを口にする。

「それは……『現実』で恵と一緒にいられること」

 眼鏡の奥にある瞳が濡れていた。賢い優子は心のどこかでずっとわかっていた。違うと理解していながら受け入れた。本当はこれが自分の望んだ願いとはかけ離れていることも知っていた。きっと恵が忘れられていくことに耐えられなかったのだろう。だけど彼女が本当に望んでいることは変わっていなかった。だからこそ、幸せな夢の中に後悔している夢があり、自分の味方をするはずの偽物の俺も恵も、先行きを見守るだけで邪魔してくるようなことがないのだ。前回、帰る間際に二人の顔がどこか悲しげに見えたのは、俺が優子を救ってあげられなかったからなのだろう。きっと優子も、そして偽物の俺と恵も、手を差し伸べられるのを期待していたのだ。ごめん。もう大丈夫だ。前は気付くことができなかったけど、今はもう優子の本当の気持ちを知っている。だからもう、三人で過ごす現実を諦めることはない。諦めたくない。

「その願いを叶えるには、優子が現実にいないじゃないか」

「わかってる。わかってるわよっ! けど、あんただって、私を現実に返そうとするのは、ただ目覚まし代わりにしたいから戻ってきて欲しいだけでしょ! それどころか、むしろ私がいなくてせいせいしたんじゃないの? 朝起こされたりしないし、睡眠の邪魔もされないし、いいことづくめでしょ!」

「……優子がいなくなってから、よく眠れないんだ」

「え……」

「最初は俺も優子の言うふうに思っていた。いや、思おうとしていたんだ。だけど、どれだけ眠くても気持ちよく眠れない。どんなに気持ちのいい布団に寝転がっていても、どれだけ目をつむっても、心のどこかで何かがつかえていて、目覚めた後も最悪だった。まるで大切な何かを失ってしまったかのように、現実が味気なくなった。俺、優子がいなくなってから、ようやく気付いたんだ」

 皮肉を込めた優子の言い分に、もう怯んだりはしない。俺にはもう彼女の求めているものがわかっている。以前来た時に言ってあげられなかった俺自身の言葉を、本当の気持ちを口にする。

「俺はただ、優子に現実へ帰ってきてもらいたいだけなんだよ」

「あっ……」

 先ほど届かなかった言葉。彼女が求めてやまなかった一言をようやく告げたとき、優子の瞳から一筋の涙がこぼれた。

「……だって、いつまで待っても恵は起きないのよ!」

 両手で口を覆うと、自らの本当の気持ちを独白する。たぶん現実にいるはずの俺が、彼女のところに来た時点で、今見ている夢が本当の意味で自分の望んでいたものではないと理解していた。ただ彼女の求めていた言葉を、現実を諦めていた俺には告げることができなかった。だから優子は夢で我慢するしかなかった。そうしなければ恵が目覚めないままの現実にただ戻るだけになってしまうから。

「俺が、一緒に待ってやるよ」

「え?」

「何ヶ月でも、何年でも、何十年でも一緒にあいつが起きるのを待ってやるよ」

 もうすでに三年も目覚めの時を焦がれている。それが一人から二人になったというだけのこと。優子は俺とは違い、恵との現実での距離が近かったため、精神の摩耗が早かったのだろう。とうとう待ちきれず、夢遊病になった。それでもたった一人で、幼馴染のお見舞いをしながら、三年も待ち続けたのは大したものだと思う。本当に尊敬する。現実では一切関係を持とうとせず、夢にしか行かなかった俺と違って、優子は毎週欠かさずに恵と会っていたのだ。実際にはそれ以外に方法がなかったのかもしれない。だけど、その行動をとれたことを素直に俺はすごいと思っている。優子を忘れたクラスメイトのように、いなかったことにして日常を過ごすこともできた。でも、しなかった。しないまま、三年もの時間を待ち続けた。当時の恵の友人達が忘れてしまった中で、彼女一人が覚えていた。だからこそ、ここまで頑張ってきた優子がついに諦めてしまったという事実が、俺はとても悲しかった。恵を待っていてくれている人物がいるという現実は、俺にとっても心の支えとなっていたからだ。

「恵のこと知らないくせにっ、なんであんたが待ってくれるのよ!」

 激昂する優子。現実でなんの接点もない俺と恵が、夢の中でそれこそ優子と同じか、それ以上の時間を過ごしているなんて夢にも思わないだろう。連れ戻すために口からついて出た方便か、同情からの言葉だと考えたらしい。

「俺にとっても、咲野恵は幼馴染だからだよ」

「……え?」

 前回会ったとき、俺がドリームハンターのように人の夢を行き来できる力があると告げた時点で、本来の優子であれば気付いただろう。だけど幸せなこの場所が、彼女の考える力を奪ってしまった。

「優子と出会うよりも前から俺は、恵と夢の中で幼馴染の関係だったんだ」

「そんな……うそ……うそよ」

 ありえないというふうに首を振る。俺は目を閉じ、本来二人だけの思い出を振り返る。恵から何十回、何百回と繰り返し聞かされ、もう瞼の裏で容易に想像できるほどだ。

「小学校の時に体が弱い恵のことを、学級委員長だったおまえが面倒見る過程で仲良くなったんだよな。今の俺と優子のように」

 俺は知っている。

「だけど中学に上がって、同じ委員長という立場でも、小学校の頃より周囲から頼られることが多くなった。優しい恵は自分だけに構わず、委員長なんだから他の人も手助けしてあげてと遠慮したんだよな」

 普段、俺の話を聞いていることが多い恵が唯一、饒舌に語ってくれる思い出。

「優子が日々の業務をこなして過ごしている内に、いつしか恵は遅刻するようになり、学校を休みがちになったんだよな」

 恵から話を聞き、優子の夢を覗き見たからわかる。

「気付けばここ数日、姿を見せていないことをおかしいと思った優子はお見舞いに行き、恵が眠り続けていることを知ったんだよな」

 二人がどうやって知り合い、どうやって過ごし、

「委員長になって、いろんな人に頼られるようになっている優子の重荷にならないよう、身を引いたことをその時親から聞かされて」

 そして、どうやってすれ違ったか。

「『親友と思っておいて、こんなことになっているとようやく気付くなんて、恵が夢遊病になったのは自分のせいだ』と責任を感じるようになって、それ以来週一回お見舞いをしながら恵を待っていたんだよな。いつか目覚めると信じて」

 確認のために優子に視線を戻すと、彼女は俯いて体を震わせていた。

「なんで……なんで、今まで黙っていたのよ!」

 悲痛な叫び。胸倉をつかまれ問い詰められる。あまりの勢いに、正直殴られるかと思った。彼女にはそれをする資格があるし、俺にはそれを甘んじて受け入れる責任がある。優子に恵との関係を話した時点で、親友である彼女からなら、どんな罰でも受ける覚悟をしていた。だが、結局殴られることはなかった。込められていた力が急激に弱くなると、先ほどとは打って変って、か細い声で彼女のこれまでの思いが絞り出されたからだ。

「そうすれば、いつまでも一人で待たずに済んだのに……」

 殴られたほうがどれだけ楽だっただろう。きっと優子は心細かったのだろう。俺はまだよかった。夢から出てこれなくなった恵の様子をいつでも見に行けたのだから。罪悪感を感じることはあっても、彼女が元気に過ごしている姿を見れるだけ、幾分か救われていた。だけど、優子はいつ目覚めるかもわからない幼馴染を同じように、罪悪感に苛まれながらも待ち続けた。何度行っても、何の反応も示さず眠り続ける恵を前にしながら、それでもお見舞いを欠かすことはなかった。想像するだけで耐えられない。きっと植物状態になった患者の目覚めを待つ人達はこのような心境なのだろう。心が折れてしまいそうな現実に何度も足を運びながら、夢遊病にならずに三年も続けたのだ。だからこそ、弱々しく漏れた言葉は他の何よりも俺の心に響いた。

「言い出す勇気がなかった……だって、恵が目覚めなくなったのは俺のせいだから」

 弱まっていた手に再び力がこもる。間近で向けられる瞳には怒りの色が見て取れる。優子が恵のことで、本気で怒っていることが一目にわかる。だけど、まなじりに浮かぶ涙と少し震えた声が、彼女が相当に参っていることを物語っていた。

「ど、どういうことよ?」

「正確には恵は夢遊病になっていない」

「……じゃあ、なんで目覚めないの?」

 俺は自分の知っている事実を洗いざらい白状した。夢遊病の核が存在すること、それを壊せば目覚めること、だけど壊されてしまった場合、現実で夢を失うこと。信じてもらえないかもしれないけど、恵のことを語るには必要なことだった。

「――ドリームハンターが恵の夢を半分壊したせいで、あいつは自分の望む夢も見れなくなったし、現実に帰ることもできなくなった。夢に閉じ込められてしまったんだ」

「……ど、どうすれば目覚めるのよ?」

「たぶん、壊れた夢の片割れを見つければ……」

 話しているうちに自信がなくなってくる。本当はもう恵の夢は完全に壊れていて、どこにもないのかもしれない。『たぶん』だなんて、それこそ夢物語だ。

「それは……どこにあるのよ?」

「ドリームハンターが人の夢に行けるように、半分の夢もどこかの人の夢に行ってしまったんだと思う」

 彼女の夢はまだどこかに存在している。だから、恵は目覚めることができない。そう信じて探し続け、三年という歳月が経過してしまった。

「それって……もう二度と目覚めないも同然じゃない……」

 先ほどとは違い、俺の言葉の真意を正確に理解したらしい。怒りの色はすっかり消え失せ、絶望した顔をしている。

「恵が戻ってこないなら、このままここにいたほうがましよ……」

 気持ちはわかる。きっと俺も自分の夢というものが見れていたなら、間違いなく恵がいる幸せな夢を選んでいただろう。だけど今は違う。恵が望むものも、優子が望むものも、俺が望んでいるものもわかった今では。

「なんでだよ……なんで夢を選ぶんだよ!」

 初めて、俺はこれまで肯定してきた自分の考えを否定した。

「当然でしょ……あんただって言っていたじゃない」

 本当は心のどこかで、最初から否定したかったのかもしれない。いくら頭でわかったふりをしていても、心の中ではいつも疑念が渦巻いていた。だがそれは、世間一般で言われている夢に引きこもるのは悪いからという考えからではない。

「俺は現実で、優子と一緒にいたいんだ」

 ただ単に俺は自分の大切な人と現実世界で、一緒に過ごすことができないのが嫌だったんだ。

「一人だってお前の思っていることと違うことを言ったやつがいたか? 一人だって現実で心配していると投げかけてくれるやつはいたのか?」

 彼女の親友である恵が帰ってこれなくなったのは俺のせいだ。優子が待ちきれず、夢にとらわれてしまったということは、俺が彼女を夢遊病にしたも同然だ。なんで、俺にとって現実からいなくならないで欲しい人ばかりが、夢遊病になってしまうんだろう。

「ここにあるものは偽物かもしれないけれど、俺だけは本物だ! 俺の姿も、言葉も、お前を助けたいっていう気持ちも、一つだって偽物なんてない。優子と一緒に現実に帰りたいと思っている俺は、偽りだらけのこの世界で唯一真実なんだよ!」

「けど……あっちに戻ったら結局私は、誰かが夢遊病になったとしても委員長としてクラスをまとめないといけなくて……恵が目覚めないまま、また一人で待っていないといけないのよ」

「誰が決めたんだ。やりたくなければやらなければいい。辛ければ、みんなと一緒に悲しめばいい」

「そんなわけにはっ!」

「それにっ!」

 反論しようと口を開いた優子の言葉をさらに大きな声量で遮る。

「一人で待つのが辛いなら、俺を頼ってくれていい」

「……あんたいつも寝てばっかりじゃない」

 俺の言葉が嬉しかったのか、僅かに顔を赤らめながら軽口をたたく。

「優子と恵のためなら……いくら眠くても、睡眠時間が短くなっても、一緒にお見舞いに行きながら、恵が目覚めるのを待つよ」

「なによそれ、結局寝るんじゃない」

 文句を言ってはいるが、優子の表情は柔らかかった。呆れたように息を吐いた後、居住まいをただし、俺としっかり向き合うと弾けるような笑顔を浮かべ、一言呟く。

「私、あんたと恵のいる、現実に……帰りたい」

 夢の中の優子が胸に秘めていた思いを口にする。楽しい夢を否定する一言。それがこの夢の終わりを迎える方法だった。出る方法は簡単だ。ここは夢の主が望んだ世界なのだから簡単でいいのだ。徐々に夢の情景、人物が霧散したかと思うと、夢の主の前に楕円形の暗い穴が現れる。けれど本番はここからだ。

「なにこれ……」

「厳密には違うけど、簡単に言えばこの夢の出口みたいなものだよ。ここをくぐれば、とりあえず『ここから』は出られる」

 これまで明るく楽しい場所にいたためか、ぽっかりと空いた暗い穴に入るのに抵抗があるのだろう。しばし暗闇に視線を向けたたまま逡巡する優子。だが、いくら中を覗いても何も見えはしない。扉のようなものなので、くぐらなければ向こう側の景色を知ることはできないのだ。不安そうにこちらを見た彼女に、俺はなるべく優しい笑顔を心掛け、『大丈夫』と返した。俺の笑顔は優子を安心させることができたのか、少しばかり表情を引き締めた彼女は意を決したように足を踏み出した。

「な、なによここ……」

 帰れると信じていた彼女は、目の前の光景に戸惑いの色を隠せない。

 それはそうだろう。出た先にあったのは、俺が夢の回廊と称している光のアーチと遥か彼方まで続く暗い道だった。

「これって……」

 自分の側で光を発しているものに目を向けた彼女はさらに驚く。

「さっきまで私がいたところ?」

「ああ、そうだ。そしてこの道は、俺が夢の回廊と呼んでいる場所だ」

 首を巡らして再度あたりの様子を確認する優子。

「夢の……回廊」

「目的地に移動する際の道みたいなものさ。両脇で映像が見えながら光っているのは、さっき優子自身が言っていた通り自分の夢。いくつも他に種類があるのは、子供の頃はいろんななりたかったものがあったように、夢遊病中に見る夢も複数あるからさ。人は浅い睡眠中に夢を見ると言われていて、その周期は三十分から一時間と言われている。普通の人は夢を一度に一回しか見れないけど、夢遊病者は何度もいくつでも、好きな時に好きなだけ見ることができる。それが両脇で輝いている光ってことさ」

「なんでこんなところに来たのよ。私は夢から出たいのに」

 少しムッとした表情で、抗議の声を上げる優子。

「『ここから』は、って言っただろ? 迷路でもゴールに着くには歩き続けなきゃいけないように、夢の出口も自分で歩んでようやく到達できるんだ。決意して踏み出したのはたった一歩だけだったけど、その一歩はとても大きかった」

 そして道があればゴールがある。移動する距離が長くなっただけで、目指すところに変わりはない。

「じゃあ、現実に戻れるのはどれなのよ?」

 未来に無限の可能性があるように、数えきれないほどの夢がある。左右を見渡しながら、この中から探し出すのは不可能なのではないかと思っているのだろう。もしかしたら探しているうちに決心が鈍るのではないかと、不安を抱いているのかもしれない。確かに一度心に決めたとはいえ、自分の望んでいるものしかない場所なのだ。何度も行き来しているうちに、誘惑に負けてしまっても不思議ではない。

 過去の自分を思い出し苦笑する。俺自身わき目も振らず逃げ出した結果、偶然出られただけだったのだから。

 突然自嘲する俺に、優子は首を傾げている。

「ここから出られる道はあれだ」

 ある一点を指さす。指先にある光景を見た優子の顔が一瞬驚きに変わり、次に恐る恐るといった感じで口を開く。

「……な、なにもないじゃない」

 そこに広がるのは光輝く夢とは違い、一筋の光もないほどに暗く、どこまで続くかもわからないほど長い道だった。

「夢ではなく、この先に続く道が現実へ繋がっている」

「と、とりあえずここを行けば出られるのよね。それならさっさと行きましょうっ」

 暗い道を進む不安からか、俺を急かすように歩み始める優子。しかし、俺が動こうとしないことに気付き、数歩進んだところでこちらを振り向く。

「どうしたのよ?」

「残念だけど、俺はここまでだ」

「え……」

 俺の言葉を聞いて優子は完全に足を止める。

「こ、ここまで連れてきておいて、今さら行かないってどういうことよ!」

 こちらに詰め寄り詰問してくる。その顔には戸惑い、不安、怒りなど、ネガティブな感情がないまぜになっているのがうかがえる。瞳はそんな心の内を移すように、僅かに潤んでおり、夢からの光を反射してとても綺麗だった。

「正確には行かないんじゃなくて、行けないんだ。俺が行き来できるのは夢の中だけ。現実に向かう道は夢ではないから進むことができないし、それ以前に夢の主しかそこを通れないんだ」

「じゃあ、あ、あんたはどうやって出るのよ?」

「俺は元々この夢の住民じゃないから、目が覚めれば自然に出られるよ」

「そ、そんな……」

 俺を見据えたまま、ショックを受けて後ろによろめくように距離をとる優子。体は震えており、顔には現実に戻るという決心が揺らいでいるのが見て取れる。瞳が徐々に不安で彩られていくのが見て取れた。

「やっぱり、やめるか?」

 現在、彼女の心の中でわだかまっているであろう思いをあえて口にする。

「……」

 その問いに返事はない。どう答えるべきか迷っているのだろう。だから少しでも不安を取り除こうと自分の過去を語る。

「俺も夢を出る時は不安でしょうがなかった。だから少なからず、優子の気持ちはわかるつもりだ」

「出る時って、あんたさっき現実に戻る道は夢の主しか通れないって……まさか!?」

 不安と疑念一色に染まっていた顔に驚愕が混ざる。

「ああ、俺はもう夢遊病になったことがあるんだよ」

 だから自分の夢を見ないのではなく見れない。ただそれでも他の人と違うのは、夢遊病になる前から人の夢を行き来できたということ。なる前も後も変わらない。壊れゆく夢から逃げるために背を向けて、がむしゃらに走った結果、現実に戻って来れたのだから。自分の夢を見たのは、あれが最初で最後だった。あそこで俺が目覚めさせてしまったドリームハンターが現れなければ、現実に帰る方法がずっとわからないままだった。そういう意味では、あのドリームハンターには感謝している。

 だけど自分の夢から目覚めた瞬間、ようやく理解した。恵の夢が壊される原因を作ってしまったことの重大さを。自分のしていることが、どれほど愚かだったのか。彼女という犠牲を払うことで、ようやく俺は気付いたのだ。それから俺は、夢遊病をさらに肯定するようになった。恵は……夢を見続けることは幸せだと思うようにした。

「あんたはどんな夢を見て――ごめん」

 口にしかけた問いを、優子は顔を伏せて飲み込んだ。夢遊病から目覚めたものは、本来であれば現実に戻ったとき、内容を覚えていないと言われているからだ。それは正しい。一般的に夢遊病から目覚めたものは、自分が幸せな夢を見ていたという記憶しか残らない。だが、俺という例外はそれには当てはまらなかった。

「覚えているよ」

 伏せられていた顔が勢いよくあがる。興味津々といった気持ちと、なぜ覚えているのかという疑問が半分半分といった様子。

「あんたはどんな幸せを望んでいたの?」

 結局、好奇心には勝てなかったらしい。先ほど途中でやめた質問を改めて続けた。

「優子と同じだよ」

 偽りの世界から出るために優子と一緒に行くことはできないが、同じ夢を抱いたもの同士、心の支えになるくらいのことはできるのではないかと考える。

「この場所はいわゆる人生みたいなもんさ。未来ってのは不透明なもんだろ? 暗いのは未来に対する不安の表れ、両脇に輝いている夢は過去の思い出ってところだよ。たまにあるだろう? あの時はよかったなって思うことが」

「……」

 本当にここを進めば現実に帰れるのだろうかという疑念や迷いが、頭の片隅から離れないのだろう。口を閉ざしたまま何も答えない優子。

 俺は一つの夢に足を向けると中を覗き込む。そこにはクラスの連中と一緒に、ファミレスで食事をとりながら、談笑している当たり前の日常の風景があった。一見どこにでもありそうな景色の中に、眠そうにしながらも参加している俺の姿があるのは、喜ばしいことなのだろう。優子が夢見る世界の一つに、俺が必要だと思われていることの表れなのだから。

「だけどさ……おかしいんだよ。こんな幻想が、こんな絵空事が、こんな自分だけにとっての幸せだけが……理想だなんておかしい。おかしいんだ。多くの人は自分の幸せだけを考えるけど、きっと他のだれかも幸せになる。恋人と一緒にいたいなら二人が幸せに、家族と一緒にいたいなら家族が幸せに、友達と一緒にいたいなら友達が幸せに。じゃあ、夢遊病は誰にとって幸せなんだ?」

 最後には何もかもなくなり死んでしまう偽りの悲しい夢は、最終的に誰が幸せになるのだろうか? 

「これらの夢の中で幸せなのは、本当に自分一人だけしかいないんだ」

 そして、その一人さえも最終的には幸せでなくなってしまう。死んでしまった両親のいる夢を見続けた少女のように。いつの間にか無言のまま、俺の隣に並び夢を眺めていた優子に構わず続ける。

「夢としてじゃなく、現実で優子と一緒にこんなふうに過ごしたい。俺は優子には現実にいて欲しいんだ」

「……ねぇ、あんたはなんで夢遊病になったの?」

 急に投げかけられる俺自身への質問。これは興味本位か、それとも決心をつけるために必要なことなのか。どちらにせよ真剣にこちらを見つめる眼差しに、嘘はつけないなと感じ取った。

「俺の場合は、取り返しのつかないことをしてしまったからかな……その罪の意識と事実から逃げるために、なったんじゃないかと思う」

 夢遊病になる人物達には何かしらきっかけがある。それがどんなきっかけにせよ、現実より夢を選んだ結果、偽りの世界から戻ってこれなくなる。

「取り返しのつかないこと? もしかして、それって……」

 予想がついた優子だったが、最後まで口にするのはためらわれたらしく、途中で言葉を濁してしまう。だから、俺ははっきりと事実を口にした。

「ああ、優子の想像通り、恵を夢に閉じ込めてしまったことだよ」

「……」

「俺は夢の中を行き来できる力を持っているって言ったよな。だから優子とこうやって会うことができたし、話をすることもできた。物心ついたときからありとあらゆる人の夢を見てきたよ。たくさんのおもちゃで遊ぶ夢、おいしいものをたくさん食べる夢、たくさんの幸せに囲まれる夢の人達と共に過ごしてきた。そんな中、恵の夢に入り浸るようになった。この場合寝る間も惜しんでの逆だな。起きる間も惜しんで眠り続けた。今の優子のようにな」

「……っ」

 罰が悪いのだろう、優子は歯噛みして下を向く。彼女の気持ちは俺自身経験してきたことなので、痛いほどわかる。だからそのまま話を続ける。

「だけど、実はそれだけじゃない」

「え?」

「以前、両親が夢遊病の研究者って話をしたよな?」

「そういえば、そんなこと言っていたわね」

「なんとか俺を起こす方法はないかと苦心した両親は、夢に入れるという人物を使い、夢にいられなくなれば現実に戻ってこれるのではないかという仮説を立て実行した。これが俗にいうドリームハンター」

「ちょっと待ってっ!」

 語られる話の中で、あることに気付いた優子が叫ぶように声を上げる。

「あんた恵の夢に入り浸るようになったって言ってたわよね。ということは……もしかしてあんたはまだその時、夢遊病になっていなかった?」

 俺は静かにうなずいた。

「試験的に導入されたドリームハンターの実験で俺が起きたため、夢を壊せば夢遊病患者が起きると考えられた。夢遊病研究者である両親にだ」

 突然目覚めるという奇跡が起きない限り、手の施しようがないと言われた夢遊病にドリームハンターが介在したことで、結果的に夢遊病は不治の病ではなくなってしまった。俺と恵の身に起こったことはどうであれ、仮説自体は正しかったのだ。俺が恵の夢に行っていたから彼女の夢は壊れ、そして目覚めてしまったから、ドリームハンターが誕生した。この事実は俺を長い間苦しめた。決して自分の意思で起こした結果ではないとはいえ、それ以降嫌でも目の当たりにする誰かの夢が壊されていく光景に『俺はどうして起きてしまったんだろう』という思いに苛まれた。

「結果、恵の夢は半分壊され、あの日以降二度と現実に起きることができなくなった。そして俺は恵への罪悪感から『本当に夢の中へ』閉じこもるようになる」

「……どうやって夢から出たの?」

「幸せな微睡の中にいたある日ドリームハンターがきたんだ。夢を壊されまいと、この道を走って逃げていたら、いつの間にか現実に帰ってきていた」

「じゃあ、あんたが普段眠っているのはどうして? もう一度夢遊病になりたいって思うから?」

「言っただろ、俺は他人の夢の中を行き来できるって。いつも眠ってばかりいたのは、恵が夢の中で一人にならないようにするため……そして、彼女の夢を探し出して現実に帰れるようにするためだよ」

「え? だって恵の夢は壊されたんじゃ……」

「ドリームハンターに夢を破壊されたのなら現実に起きるはずだろ? だけど彼女は目覚めない。だから俺は半分って言ったんだ。単なる気まぐれか、それとも見つけることがでいなかったのか、完全には壊されなかった。そのせいか現実へ戻れなければ、好きな夢も見ることができないという状態になってしまったんだと思う。だから俺は恵が戻れるように今も夢の中を探し歩いているんだ」

「……あんたが普段から夢遊病にこだわっていた理由が、やっとわかった気がするわ」

 恵を絶対に救い出そうと決心したのは、つい最近なんだけどな。それに関連して優子を助け出そうと思ったわけだし。

「これが俺が夢遊病になった理由だ。優子はどうして現実よりこっちを選んだんだ?」

 次は優子の番だというように問うと、明らかに視線が彷徨う。夢遊病者には三つのケースがあるから、そのせいだろうかと答えられない様子を見て考える。一つは最初から自分が夢遊病になったことを自覚しているケース、二つ目は自分でも気付かないまま夢遊病での日々を送っていたケース、三つ目は途中で夢だと気付くケース。前回会った時、ここが夢であることは知っていたから、優子は三つ目のケースなのだろう。

「わからないなら――」

 夢遊病だったことに気付いていなかった相手に、なんでなったのかと尋ねても、当然返答に困るだろう。そう考え、この質問を取り下げようとしたのだが、

「違うわ!」

 優子に遮られる。

「私は……みんなで卒業を迎えたかったのよ。みんなと一緒の時間をもっと過ごしたかったのよ」

 言わんとしていることはわからなくもない。こんな俺にさえお節介を焼いてくれる優子は、日に日に増えていく夢遊病のクラスメイトに心苦しい思いをしていたんだろう。

「ちなみにこの中にはあんたも入っているんだからね。だから居眠りしないよう注意していたのに、どっかの誰かさんは暇があれば寝ようとするしね」

 眉間を寄せて皮肉気味に言われる。こちらとしては苦笑するしかない。

「まあ、もう夢遊病に罹っていたから、二度とならないことはわかっていたしな。それが周囲に知られれば、どうなるか優子も知らないわけじゃないだろ?」

「……」

 夢から覚めた人達に待っているのは、大抵が奇異の視線。現実から逃げて眠り呆けたという事実は、今の世間では後ろ指をさされることが多い。夢のように現実は優しくはない。それがわかっているからだろう。優子の表情が曇る。先ほど決意した思いが揺らぐように、瞳にも迷いが生じた。

「じゃあ、私が戻ったらクラスのみんなにそういうふうに見られるのよね?」

「……」

 今度は俺が沈黙する番だった。優子の目が覚めたら、まず間違いなくと言っていい。喜んでくれるものもいるだろうが、手放しで喜んでくれるのは少数派だろう。俺自身それを経験してきたからこそ、過去に引っ越しをして今この土地にいるのだ。

「そう考えると……怖いわね」

 思わず漏れた短い本音。その一言に、優子の気持ちの全てが詰まっている気がした。戻ったときを想像したのだろう、膝は笑い、体は小刻みに震えている。

「俺がいる」

「え?」

 当時の環境では夢遊病は本当に奇病で、どんな病気でどんな治療をすればいいのかもわかっていなかった。そんな中目覚めた俺に対する人達の反応は物珍しいものを眺めるもの、寝ている間はどのような夢を見るのかと聞き出そうとするもの、なんとか治療する方法を聞き出そうとするものなど様々だった。結局、それに耐えることができず、俺を心配した両親と共に逃げるようにこの土地まで来た。

「俺の時は夢遊病に対する理解者がいなかったから、引っ越しするしかなかったけど……今は優子が帰ってきても、俺がいるから……だから安心して戻ってきてくれ」

 夢遊病者に対して、ここまで自分の意思を伝えたのは初めてかもしれない。これまでは本人が幸せなら、無理に起こさなくてもいいじゃないかと思っていた。

 だけど、自分の身近な人が現実からいなくなったとき物足りない気がした。なんだかんだで優子との日々は、俺自身失いたくないものだと気付いた。それが自分のエゴだいうことはわかっている。だからって、優子のいた現実を諦めるわけにはいかない。親友だった恵は、彼女がそんなふうになることを喜ばない。

「……」

 何事にも執着しない、熱くなろうとしない、常日頃から惰眠を貪っている俺に、そんな言葉をかけられ優子は驚いている。

 ここで恵を引き合いに出して、現実へ戻る決心をさせることも可能だろう。恵は優子が夢遊病になったことを悲しんでいると言えば、彼女は戻るはずだ。恐らく、その方が確実かもしれない。だがあえて俺は、彼女の親友であり、一緒の時を過ごすことのできなくなった、身近で一番最初に夢遊病に罹った恵を引き合いには出さなかった。そうしてしまえば、優子は確実に現実に戻ってから後悔するから。誰かのためにという理由で帰ってしまえば、心にしこりが残ったまま日々を過ごすことになるだろう。あくまで自分の意思で、甘い夢との決別を覚悟して欲しかった。彼女が夢見た、恵と俺と優子の三人で過ごす日常を実現するために。

「……ねえ、これだけのことをあんたに言われていても、目覚めたときには忘れるのよね?」

「ああ」

 俺は誤魔化すことなく頷いた。夢遊病から目覚めた人達の共通の特徴として、夢での記憶を忘れてしまう。まれに覚えているものもいるらしいが、ほとんどは覚えていない。とても幸せな夢を見ていたという思いだけしか残らない。だから、目覚めた後も夢焦がれ、中には自殺するものまでいる。これまで優子に言ってきたことも、目覚めた時に覚えていないのなら、いくらでも反故にすることができる。そう言いたいのだろう。幸せな空間から抜け出した今、俺よりも頭の良い優子がそこに気付かないはずがなかった。いずれ聞かれるだろうと予想していたから、冷静に返すことができていただけで、彼女を説得できるだけの理由があるわけではなかった。

「そっか……忘れるのか」

 俺のあっさりとした返答に、優子は残念そうだった。言葉には落胆の色が隠せない。それも当然のことだろう。現実へ戻ろうと説得する言葉が、現実に戻ってから一緒に親友が目覚めるのを待つという約束が、全部なかったことにされてしまう可能性がある。信じていた相手に裏切られたも同然なのだから。

「優子が忘れても、俺は覚えているよ」

「え?」

「絶対に……絶対に、俺は忘れないから」

 だから俺は誓った。例え夢から覚めても、自分は約束を忘れないと。いつかの優子のように、本人を目の前にして。確実にこの思いが届くように誓いを立てた。

「あんた、どうしてそれを……」

 優子の目が驚きに見開かれる。自分しか知らないはずのことを人が知っている。仰天するのは当然だろう。

「ここで見たんだ。幸せな夢と一緒にあるくらいだから、よほど大切な思い出だったんだな。だから優子が恵に誓ったように、俺は優子に誓うよ」

「もの覚えの悪いあんたが夢のことを覚えているの?」

「なんでかは知らないけど、それだけは忘れないんだ」

 しばらく黙っていた優子が口を開く。

「……一つ約束して」

「約束?」

 予想もしない言葉に、首を傾げて問い返してしまう。先ほど目覚めた時には、夢のことは忘れてしまうのだろうと聞いてきたばかりなのに、この期に及んで一体なんの取り決めをしようというのだろうか。これから目覚めようとしているのだから、約束というのは恐らく夢に関係することではないだろう。

 恵のことを必ず起こすという約束でもさせるつもりなのだろうか?

 優子の一言からどんな内容なのか考えていると、

「べ、別に大したことじゃないわ」

 なぜか頬を赤らめた優子が早口に答える。

「授業中もずっととは言わないから、せめて休み時間くらいは起きていなさいよね」

 厳しいようでいて、こちらを気遣った譲歩案を提示してくる優子。現実で失われていた懐かしい感覚が蘇る。

「せ、せっかく目覚めても、あんたが眠ってばっかじゃ、起きた意味がないじゃない! それなら現実に帰ってからも、目に見えて結果がわかるしっ!」

 ムスッとしながらぶっきらぼうな感じで言っているが、耳まで真っ赤にしている。

 優子の様子を見て少し笑ってしまう。

「な、なによっ!」

 微笑ましかったのもあるが、それ以上に現実で俺と過ごす時間を求める人がいてくれたことが嬉しかった。

「いや、悪い。嬉しくなってな」

「そ、そう」

 いつもなら寝ること以上に重要なことはないのだが、先ほどの優子とのやり取りを、三人一緒の現実を、実現するためにも、この約束は破るわけにはいかない。

「わかった約束する。なるべく起きているようにするよ」

「私が忘れてもあんたは覚えていなさいよね。破ったら承知しないから」

 安心したのか、はたまた恥ずかしかったのか胸をなでおろす優子。それもつかの間、表情を引き締めると、緊張した面持ちで、ある場所に視線を向ける。見つめる先には、果てしなく続く暗い道。それはまるで、これから現実で幼馴染が起きるのを待ち続ける未来を予感させた。

「ここを進めば……目が覚めるのね」

 だけど今度は一人じゃない。二人で恵を待つことができる。

「ああ」

 真剣に向ける瞳から、現実での約束を心の支えに進むことを決意したのがわかった。背中を後押しするように言葉を投げかける。

「心配しなくていい。大丈夫だ。一緒には行けないけど、必ず俺が側にいてやるから……だから、迷わずに進め」

 夢遊病の世界から出るには、夢の回廊を暗闇に向かって歩かなければいけない。脇にはこれまで自分が体験してきた楽しい夢や、体験したこともないような夢が光輝いている。 まるで『自分のところに来い、なんで辛い現実に戻る必要がある? ずっと楽しい夢にいればいいじゃないか』と語りかけるように、夢の主が側を通るたびに光が一層強くなる。

 しかし、本当の出口があるのはわき目も振らず、まっすぐ進んだ闇の中。幸福な夢から過酷な現実に向かう勇気を振り絞ったものだけが、夢から目覚める。俺は過去にそうやって決意して夢から覚めたんだと言えればかっこいいが、逃げた先にたまたま現実があっただけだった。覚悟をする暇もなく、目覚めた時は本当に死んでしまおうかとさえ思った。今考えればこれでよかった。偽りの恵と一緒に、夢に残るという選択肢もあったかもしれない。だけど、その道を選ばず元の場所に帰るため、現実に立ち向かうことを選べたのだ。

「恵が目覚めなくなって以来、夢に出てくるようになった男の子そっくりのあんたに、起こされることになるとは、思ってもみなかったわ」

「それって……」

 俺に答えることなく歩み始める優子。

 まるでここで会話するのを嫌がるように、決意が揺らぐ前に決別するかのように、現実への道を進んでいく。俺はただただその背中を見つめていた。

 彼女の姿が闇に飲まれる寸前、いくつかある内の一つの夢が一層眩く光を出す。俺の時と同じだった。自分が望む夢ほど、自分のところに戻ってこいとでも言うかのように輝きが増すのだ。

 振り向き様、少しだけ視線を向けた優子は、それがなんの夢なのか気付くと微笑む。表情を変えぬままこちらに目を向けると、

「じゃあ、続きは目が覚めてから……先にあっちで待ってて」

 遅刻するんじゃないわよ、という言葉を最後に残して、今度こそ優子の姿が闇の中へと消えていく。

 俺はといえば、驚きを隠せなかった。自分が最も望む夢を見ても、優子の瞳には少しも揺らぐ様子が見えなかった。それどころか、決意を新たに希望を胸に進んでいったようだった。彼女が望んだ夢に興味の湧いた俺は、未だに周囲より一層輝きを放つ場所へと足を向ける。

 そこには優子と俺と……今も変わらない恵の姿があった。何気ない日常の風景。一緒に登校し、食事をし、勉強をし、遊び、時には笑い、時には泣き、共に同じ時間を過ごす光景が広がっていた。

「そうか……だから、優子は俺に声をかけてきたのか」

 こちらに引っ越してきたばかりで、誰も知り合いがいなかった頃、真っ先に俺を見て話しかけてきた人物こそ優子だった。それこそまるで『夢でも見ているかのように』驚いた顔で。彼女が最初にかけてきた言葉は「あんた今朝の夢で見たわ」だった。当時は恵を夢に閉じ込める原因を作り、夢遊病から目覚めて周囲から向けられる奇異の視線から逃げてきた直後だったため、彼女のその言葉がとても恐ろしく感じたものだった。以降、夢の登場人物とうり二つの俺に優子が何かとちょっかいをだしてくるようになった。それが今に至る優子とのつながりだ。

「……とうとう始まったか」

 しばらく優子の中心となる夢を眺めていると、夢想の世界に変化が訪れる。強い輝きを放っていた核となる夢の光が弱まり、無数にあった夢が徐々に消滅しだした。

「これが始まったということは、優子が現実に戻ったんだな」

 ドリームハンターに壊され、夢の原型を留めることができず、弾けるように消える時とは違う。生命が終わりを迎える瞬間のように、段々と光の度合いが弱まり、まるで息を引き取るかのように夢は光の粒子となって終焉を迎える。ドリームハンターによって起こる終焉がフィナーレを飾る花火だとすれば、暗闇の中、光の粒子となって漂い、光を失うこちらの光景は命を賭して輝く蛍のようだった。

 世界の終わりの瞬間は見とれてしまうほど綺麗である一方、永い闘病生活を送り、とうとう息を引き取る人を看取るようで物悲しかった。

「今まで、優子を支えてくれてありがとう」

 消えゆく夢の景色を一人眺めながら、感謝の言葉を口にした。まるで返事をするように最後の瞬間、強い輝きを放つと、光の粒子は闇に解けるように消えた。

 散り際の光景が嘘のように、今度は辺り一面真っ暗になる。先ほどまで不気味にさえ見えた暗い道は、今では周囲の闇と溶け込み、どこにあったかもわからないほどだ。

 これが夢の世界が終わるということ。これが現実に戻るという選択をした結果後の夢。なんだろう。胸に去来するこの気持ちは。まるで大切なものを失ったように、心にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚に陥る。他人の夢でこれなのだ。自分の夢だったら現実に戻っても、しばらくショックで物事が手に付かないだろう。まあ、自分の夢も何も、すでに俺は夢遊病になっているのだから、二度とその瞬間があるはずもないが。

 暗闇の中、呆然と立ち尽くしていると、一つだけ淡く光を放つものがあった。これまであった夢と比べてずいぶん小さく、ビー玉くらいの大きさしかない。放つ光は今にも消えてしまいそうだったが、それでも自分の存在を誇示するように懸命に輝いていた。

「もしかして……」

 全て消滅するはずの夢が残る。今にも消え、先ほどの夢達のように、闇に紛れてしまいそうなほどの儚い夢。これこそが、俺の探し求めていた恵の夢だった。この時になってようやく思い至る。優子と面識のないはずの俺が、彼女の夢に出てきたということを、当時は深く考えようとしなかった。自分のことがばれてしまうのではないかと恐怖していたが、もっと重大なことに気付くべきだったのだ。優子のことを言えないな。考えることを俺もしなくなっていた。おかしいと思うことはあった。ここに彼女の夢があったということは、恵の発言は嘘だったということになる。

 ということは彼女は、俺のように人の夢に行くことなんて実際にはできず、この三年間文字通り夢に閉じ込められたまま、恵はずっとあそこに一人でいた?

 両親と優子のところにしか行くことができないと言い、俺の話に耳を傾けていることが多かった。いつも俺よりも先に待ち合わせの夢にいた。彼女が他の夢に行くところを、一度も見送ったことがなかった。夢で俺の話を聞いていることが多い恵が唯一、饒舌に語ってくれる夢。それは彼女が実際に体験した過去の思い出だった。俺はなんて馬鹿なんだろう。彼女がついてくれた優しい嘘をそのまま信じこむなんて。あって欲しくなかった可能性。俺はいったいどうすれば罪を償えるのだろう。

 本来であれば、優子との約束のためにそろそろ起きる頃合いなのだが、

「……ごめん、優子。ちょっと、寝坊しそうだ」

 三人で夢見た現実を実現するために、もうしばらくここに残ることを決めた。

「これさえあれば……」

 今にも消え入りそうな探し続けた夢に、恐る恐る手を伸ばす。消えてしまわないように、壊してしまわないように、夢のまま終わってしまわないように、願いを込める。もし無くなってしまえば、これまでの苦労は水の泡。俺はまた夢の中で長い放浪の旅を続け、優子は現実で気丈に待ち続け、そして恵は眠り続ける。せっかく見つけた今、それだけは避けたかった。これまでの思いを実現させたかった。そっと、そっと、初めて赤ん坊にでも触れるかのように怖気づきながらも、慎重に丁寧に優しく手を伸ばした。

 恵の夢は、まるで安心したかのように光が強まると、手のひらに納まった。慈しむように両手で包み込み一安心する。彼女の思いが詰まった結晶だからか、ほんのり温かく、希望の光に満ちている。触っているだけで、胸にぽっかりと空いてしまった穴が埋めつくされるようだった。覗いてみると、彼女の夢が映りこむ。今よりも幼い姿の面影のある三人が笑顔で遊んでいた。たった一人だけ取り残されたように、全員の姿が幼い恵の夢。だけどこれで、一緒の時間で、一緒の姿で、一緒の現実を過ごすことができる。結局、俺達三人の思いは同じだった。だけど、ずいぶんと時間がかかってしまった。

「さあ、帰ろう」

 夢を大切に胸に抱くと、俺は現実への一歩を踏み出した。

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