今は居ぬ人

及川シノン@書籍発売中

5年後の少年

【犬】

イヌ科イヌ属に分類される哺乳類。


***

「まってぇ」

 背中から聞こえるボンの声が俺を呼び止める。

 だが俺の四本の足は止まらない。振り向きもしない。コイツの速度に合わせていたら、日が暮れちまう。俺は首の力でリードを引っ張り、坊を散歩させてやる。

「ホラ見ろ坊。桜が咲いてるぞ」

 道中、矢本西小学校の駐車場に咲く、何本もの白桜の前で立ち止まる。静かに、音もなく舞い散る花弁が、今年も咲き誇っている。

 だが坊はそれを無視し、駅の方へと向かって行く。

 ……子供にはまだ風情なんぞ分からんか。

「しかし懐かしいな坊。お前はまだ赤子だったから覚えていないだろうが、西小の体育館に避難してた時に、坊は毎晩泣いていてな。俺が横にいてやらんと、お前の親父さんは一晩中他の連中に頭を下げなきゃならんかった。俺が居なくちゃ、本当にお前はダメな奴だった」


【居ぬ】

ア行上一段活用の動詞「居る」の未然形である「居」に、打消の助動詞「ぬ」が付いた形。

用例:鬼の居ぬ間に洗濯


 小学校を過ぎて矢本駅近くのトレーニングセンター『ゆぷと』も素通りし、俺達は海浜公園の方角へと向かう。

 少し前まで代行バスが乗り付けていた駅前には、今はタクシーが数台、客を待っているだけ。仙石線が復旧してからは、バス待ちの学生も姿を消した。

「駅前まで水が来たって聞いてな。駅から海に近付くほど、辺りはそりゃあ酷い有様だったよ。海水のはずが黒くて重くて、鉛でも流れてきたのかと。水の力か知らんが車が3台重なっていて……しかもあの季節だ。曇り空から雪まで降ってきやがってな。寒さと臭いと光景と……って」

 ふと、首元が楽になったことに気付く。

 振り向けば、坊は俺の話など聞かず、駅前のアイスの自動販売機に釘付けだった。

 俺は一声「わぉん」と吠え、坊を注意する。

 リードはゼッタイ手離すなって、親父さんから言われてただろ。まったくコイツは、俺が見張ってないとフラフラと。どこへ行ってしまうのやら。


【往ぬ/去ぬ】

1:行ってしまう。去る。


 本来の目的を思い起こさせ、ようやっと坊の足を反対方向へ向けさせる。

 少し遠出にはなるが、まぁ、足腰を鍛えると思えば。来年には坊も小学生だ。貧弱な身体だと、他の奴に負かされちまうかもしれん。

 45号線の道路を渡るため、坊は少しばかり背伸びして、信号機のボタンを押す。

「信号の使い方も覚えたか。よーし、偉いぞ坊」

 定期的に褒めてやることも、ガキを良く育てるコツだ。去年はボタン式信号の仕組みを理解するどころか、手だって届かなかったのに。子供の成長はなかなかどうして早いものだ。

 ……そういやココの信号、いつの間にか新しくなってるな。


【往ぬ/去ぬ】

2:時が過ぎ去る。時が移ってその時刻になる。


 それから俺達は歩いた。自衛隊基地の近くを通り、何台もの工事車両とすれ違い、ずっとずっと歩いた。

 そして、俺達は到着した。

 矢本海浜緑地公園は、もう長いこと閉鎖されている。海水浴などここ5年開かれていない。

 野蒜海岸の『余景よげ松原まつばら』も、ここの防風林も、海水にやられちまって寂しくなった。ここに来るまで、周囲には建物の姿もなく。なんも、無かった。無くなっちまった。


【戌】

1:十二支の第11。

2:滅びる。枯れる。


「おかあさん?」

 不意に、坊が母を呼んだ。

 俺は驚いて坊の顔を見た。だが恋しさや幻が見えたわけでなく、防波堤に置かれた花束の、そこに差し挟まれたカードの文字を読んだだけだったようだ。

 「おかあさんへ」と、小奇麗だが幼さの残る文字で、たったそれだけ。花束は潮風に吹かれていた。

「……坊、お母さんは恋しいか。……顔も覚えちゃいないだろうけどよ」

「おかあさん……」

 俺に返事したわけじゃない。だが坊はちゃんと、メッセージカードに書かれた文字を読んで口に出している。

「そうだ。お前のだ。遠くでお前を見守ってる……なんて科学的じゃない事は言わんが、まぁ……今のお前を見たら、きっと安心するだろうよ」

 ひらがな、読めるようになったんだな。賢いところは母親譲りだろうな。


【往ぬ/去ぬ】

3:世を去る。死ぬ。


 俺達はしばらく、海を眺めていた。水平線の向こう。海と空の境。静かで、穏やかで。坊はそんな、静かなる海しか知らない。

「……なぁ坊。お前もいつか大人になって、仙台や東京で暮らすことになるかもしれんが……ここは、この街は、いつでもお前を待ってるからな。そういうモンだ。それが、故郷ふるさとってやつなんだ」

 全国的に有名な観光名所があるわけでもない。美味い名物があるわけでもない。米は美味いが。

 だがこんな田舎と見限って、坊はさっさと都会に出るだろうか。

「5年あれば家は建つ。道も舗装される。全てが元通りに、なんてならんが……この街も変わっていくんだよ。少しずつ。坊みたいにな」

 海風がひとつ強く吹いて、俺を見つめる坊の大きな目が閉じられる。首を傾げつつ、ゴシゴシと目をこする。ゴミでも入ったか。

 良い話をしてるってのに、格好付けさせてくれない子供だ。自分で自分がおかしくなって、俺は笑う。

「分かんねぇか。分かんねぇよなぁ。……でもいつか、分かる日が来る。その時まで俺は隣にいないだろうが、まぁ……何とかなるわな」

 何せお前はあの親父さんとおっかさんの子供だ。薄汚い子犬を拾って育てるような優しい、一晩中赤ん坊が寝るまでような辛抱強い、そんな人達の子だ。

 そして、この街で生まれた子供だ。


【居る】

1:人や動物が、ある場所に存在する。

2:滞在する。住む。


「……帰るか、坊」

 あんまり遅いと親父さんが心配する。

 俺は坊を引っ張って、ちゃんと家に帰してやる責任がある。コイツがいつか全てを知り、そして自分の足だけで歩き出すようになるまで見守る、義理がある。

 俺達は海に背を向け、元来た道を戻る。

 春の陽気を乗せた潮風が、俺と坊の足を急かすように吹き抜けていった。




『今はイぬ人』

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