金を借りに行く。
鳥海勇嗣
第1話
電力会社から携帯にメッセが入った。電気料金が二か月不払いだったから明日に電気を止めに来るという。ずいぶんと裁量の狭い話だ。水なんて半年は待ってくれるというのに。
だが金がない。残高は千円を切っているからコンビニのATMじゃあ下ろせない。転々としたバイト先で通帳を作らされたが、解約しまくってかき集めても支払いには届かない。仕方がないので妹にメールを送ったけれど、一時間たっても返信がない。シフトで休みだったはずだからだからまだ寝てるのかもしれない。こうなったら直接電話するより仕方ない。
コールしたらすぐに出た。起きてたのに返信しなかったってことかよ。
「もしもし?」
「う、う~ん……。」
受話器の向こうから、気だるい声がした。うんざりしているようにも聞こえる。
「メール見た?」
「え? メール? ……うううん」
一瞬間があった。なるほどね、相変わらず分かりやすい女だ。
「金貸してくんない? 来週には返せるからさ。で、今から行っても大丈夫?」
電車で二駅程度の距離だ。歩けないわけじゃない。
「え? 今から? でも……部屋汚いし……。」
気だるい声のトーンが上がる。
「玄関で受け渡すだけだから、心配ないだろ?」
「いいけど……いくらいるの?」
「……メールに書いてある」
こいつはこういう女だ。電話でなくてメールにしたのは、事細かに口で言うのが憚られるからだというのに、わざわざ口に出させようとする。金を貸す優越に加えて更なる勝利を、死体に鞭打ち墓標に唾を吐きかける愉悦を味わうために、さらには彼我との上下関係を確認させるために、敢えて屈辱を口にさせる。
ああ分かっている、お前はきっとこう言いたいのだろう。「お兄様が今日まで人道を外さなかったのは私のお蔭。糞尿を垂れ流す以外に社会において何の生産もできないお兄様は、きっと私が見捨ててしまえば途端に悪鬼羅刹の冥府魔道に堕ち、歓楽街の大通りで出刃包丁を振り回し多くの無辜の命を奪ってしまうことでしょう。だとしたら、両親が見放してしまった今、一体私以外の誰がお兄様を人の道に留め得ましょうか。貴方の妹として生まれて以来、ゴルゴダの丘を登ることを定められたのは私の運命。貴方にかまけ続け果てには婚期を逃してしまうなんて、ああなんと私は慈愛と悲哀に満ちた女なのでしょうか」とな。
だがそれも事実だ。バイト先が三か月以上続いたことのなく、日払い週払いの仕事をつないで生き延びて、そうしていたらいつの間にか三十を過ぎてしまった。スタートラインでつまずいた走者が、いくら走ろうと先頭集団に追いつくことなどできないのだから。いったい、自分が最下位と分かっていて、どれほどの人間が真面目に最後まで走り抜けようなどと思うだろうか。いつだって人はトラックの外側を見ているのだ。しかしそんな中、トラックから飛び出さぬよう、あの女はこちらの少し前を走り続けた。目を離そうと逸脱しようとするたびに声を掛けながら。だからあいつには感謝すべきなのだ。もちろんそうだ。
だが俺があいつを何よりも許せないのは!
あいつのその憐れみ慈しみこそが俺を傷つけダメにしたことだ!
俺はいつの間にかあいつに頼らなければ生きていけない人間に成り下がった!
しかもいつまでたっても劣等感を拭えぬままにな!
拳は気づかぬうちに固められていた。真っ白に変色し、中では汗がたまっている。思わず白昼の往来で「クソが!」と叫んでしまうところだった。
通りすがりのスナックの前の小さな黒板に、心霊現象のような老婆が割烹着を着ている絵が描かれ、その横に「ランチ営業中!?」と書いてあったのを見た途端、何事かに耐えかねその看板を蹴飛ばした。歯の隙間から、冷たい吐息が漏れ出ていた。
思った以上に時間がかかったが、妹のアパートに着いた。途中コンビニで雑誌を立ち読みしたせいだろう。しかし奴はチャイムを鳴らしたのにすぐに出てこなかった。
「ちょっと待ってー」
そう玄関のドアの向こうから聞こえてきてから数分後、静電気でところどころ逆立ったように髪が乱れ、多少は汚れていない程度の部屋着の妹が出てくる。アザラシのスリッパにはモップと区別のつかないくらい汚れてる。もちろんノーメイク。妹とはいえ、女のだらしなく乱れた姿に俺はそっと目を逸らす。
「兄ちゃんさ、メール送ったよね?」
「え?」
素っ頓狂な声が出る。ポケットから携帯を取り出して確認すると、確かに『差出人:桃子 件名: 本文:手持ち無いから、あとで振り込んどく。銀行と口座番号教えて』という内容のメールが入っている。
「……メールとか気づかない場合あるじゃん? 返信ない場合に電話しようって思わなかったわけ? 俺、この距離無駄に歩いたってことなんですけど」
「えぇ、気づいてたと思ったし……。」
「『ほうれんそう』は基本だろ? 会社でもこんな感じなわけ、お前?」
妹の目がすわった。……そうかよ、分かったよ。金を借りる側は貸す側に対して一切の人権を剥奪され何ごとも言う権利がなくなるというわけだな、例えそれがどんな正論であろうとも。平身低頭して靴を舐めるがごとき態度を示せと、そう言いたいわけだ。そうだな、俺たちはそういう共生関係だもんな。お前が俺に恩を売り、俺はお前に自尊心を保つ餌を与える。そうやって成り立っているんだ。
「じゃあ……振り込んどいて。15時前にはよろしくな?それ過ぎると明日になるから」
「うん、わかった」
このまま何もせずに帰ってしまうのもなんだと思ったので、帰り際に一つだけ言っとくことにした。金を借りたからといって決してお前の下にいるわけじゃないぞという意味も込めて。
「お前さ、いくら休みだからってそういうだらしない恰好してんなよ」
「……兄貴も髭くらい剃ったら?」
妹が俺に対して軽蔑を隠そうとしないときには、“兄貴”という呼び方になる。
電車賃もないからまた仕方なく歩いてこの距離を帰る。まったく何と無駄なことだ、怒りで顔が歪んでいるのを通りかかったパン屋のショーケースが映していた。その歪んだ顔をした見慣れた男を睨み話しかける。「お前はただ金を借りただけ、そう思ってるだろう? 違うぞ、お前は担保の書かれた借用書にしっかりとサインをしたのだ。お前が借りたのは金じゃない。一生働いても返せないものだ。それどころか、働けば働くほどその借り入れたものはお前の中で膨らむんだ。お前は日に日に少しずつ擦り取っているだけだと思っているのか? 何年後かにまたここに立ち俺に話しかけてみるといい。そのときお前は擦り減り続け、体が取り返しのつかないほど大きく欠損した不具者を目にすることになるんだ」
ふと、ポケットの中の携帯が鳴動しているのに気付いた。妹からのメールだ。
『差出人:桃子 件名: 本文:教えてもらった口座番号だけど、桁が多すぎて振り込めないよ。間違ってない?』
『差出人:自分 件名:re 本文:最初の三桁は店番に決まってんじゃん。常識で考えなよ。』
金を借りに行く。 鳥海勇嗣 @dorachyan
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