あとがき

 

「なんだぁ、キャシーかぁ」


 救世主の登場かっ?と期待に胸を膨らませていた分、エマは友人の来店に落胆を隠せなかった。


「何よその言い方っ。随分と酷い待遇じゃないのよ」


「ごめん、ごめん。今月もネタがなくってさ。お客さんかと思ったの」


「レイチェルはどうしたの?見当たらないけど」


 と言いつつ、ソファの上しか見ていないキャシー。


「わかんない。いつも通り取材に行ったっきり帰ってきてないわ。夕暮れ過ぎには帰ってくると思うけど。あ~レイチェルがまともなネタを持って帰ってきてくれたらなぁ」


 エマはそう嘆きなら、頭を抱えた。


「その分だと、相変わらず変なのしか持って帰ってないみたいね」


「そうっ!アトランティス大陸発見した話とか、不倫中に妻が乱入してきて修羅場になった話とか……」


「アトランティスって…ホラ話決定ね。不倫の修羅場なんて、論外だし」


「でしょう⁉そのくせ、経費の領収書は札束みたいに多いのよ。今月も経理さんに怒られるぅ~」


「エマも大変ね……」


「はぁ。ところでキャシーは今日どうしたの?」


 エマはため息を吐きながら、ソファまで歩いてやってきた。


「えぇ、実は、ノーフォークに行くことになってね」


 キャシーはうつむき加減で言った。


「またどうして、ノーフォークなんかに?」


「詳しくは言えないんだけど、とにかく行かなくちゃなのよ」


 今回の特ダネは貴族絡みだから、下手に喋るとエマも巻き込んでしまうかもしれない。キャシーはそう思って、エマに詳細を話さなかった。


「急に決まったの?もっと早く教えてくれたら、お別れ会もできたのに……」


 エマは少し怒った顔をしていた。

 キャシーにはどうしてエマが怒ったのかはわからなかったが、どうやら、詳細を話さなかったことに対して怒っている様子ではなかった。


「まぁね。昨日決まったから。それにお別れ会なんてお大袈裟よっ。それじゃまるで、私が無事に帰って来られないみたいじゃない」


「昨日決まったの⁉えぇ。よく受けたねそんな無茶なの。ノーフォークはそんな治安の悪いところじゃないんだから、そんな意味じゃないよぉ」


 エマは驚いた表情を浮かべたが、次第に優しい顔になっていった。

 表情豊かなところは相変わらずだなぁとキャシーは思った。

 そんなところも、エマの良いところだとも思った。


「無茶も何も私が申請したんだもん。文句は言えないわ」


「えぇ、そうなんだ……ロンドンの町はキャシーには合わなかった?」


「なにそれ?別にロンドンの町も嫌いじゃないわよ?細々してるところもあるけど」


 唐突にどうしたのだろうか?キャシーはエマの的外れな問いかけに首を傾げたが、とりあえずは答えた。

 交通の便も良いし、行きつけのBARもあるし。何より、エマがいるのだから、合わないはずがない。


「そっか。それじゃあ、忙し過ぎたんだよね。それで、いつ発つの?」


「えっと、明日の夜、二十二時発の夜行で行くつもり」


 もしかして、エマは見送りに来てくれるつもりなのだろうか?キャシーは思いがけない幸福の予感に胸をときめかせた。


「夜行で行くの?それに、昨日の今日って、いくらなんでも早すぎない?向こうの住む所だって、引継ぎだってあるだろうし」


 住むところ?引継ぎ?


「ホテルは、もう予約してあるから大丈夫よ、引継ぎは別にしなくても大丈夫だし」


「ホテル住まいなの?すぐにお金なくなっちゃうわよ⁉ノーフォークが田舎だからって物価だってロンドンとそんなに変わらないんだからねっ!それに引継ぎしないって、それはいけないことだと思うの。立つ鳥あとを残さずって言うじゃない」


「そんな無責任なの、キャシーらしくない」エマは困惑した顔で続けて言った。 


えっと、エマさん?


「んーとエマは何か勘違いしてる気がする。ノーフォークに行くのは大体一ケ月間くらいよ?まあ、場合によってはそれより長くなるかもしれないけど……」


「へっ⁉もしかして、出張?ノーフォーク支局に異動になったんじゃないの?」


 エマは思わず立ち上がった。


「そうよ、出張よっ。異動なんてしないしないっ。大体、ノーフォーク支局なんて聞いたことないし。もぉ~さっきから、なんか嚙み合ってないなぁって思ってたら、エマってば早合点しすぎよぉ」


 キャシーは笑いながらそう言ったが、一方のエマは、


「ちゃんと言わないキャシーが悪いんじゃないっ。私、てっきりキャシーがノーフォークに異動になったんだと思ったもんっ!異動になるなら、前もって教えて欲しかったし、ちゃんとお別れ会だってしたかったのに。まぁ、ちゃんと聞かなかった私も悪いけど……」

 

 と頬を膨らませて怒っていた。


「たとえ私が異動になっても、エマの日常には何の変化もないわよ。心配しなくたって」


 キャシーは自分で言って、悲しい気持ちになってしまった。そうなのだ、例え、自分がいなくなったとしても、エマの日常にはなんの変化も来さない。

エマには、レイチェルが居て、ネイマールが居て、ヴェラも居るのだから……自分一人が欠けたところで……

 今回の取材は少し危険な香りがするので、せめてエマにだけでも、最後に話をしたいと思って寄稿文店に顔をだしたのだが、かえって虚しくなってしまった。


「どうしてそんな寂しいこと言うの?キャシーが居なくなったら、寂しいに決まってるじゃない。普通、友達が居なくなったら寂しいと思うでしょ?」


 エマはさらに怒った風に、唇を尖らせて言った。もしかしたら、照れ隠しなのかもしれなかったが、キャシーにとってはそんなことはどうでもよかった。

 エマがくれた言葉だけで十分だった。


「えっ、ちょ…うそ…」


 キャシーは降って湧いた、幸せの瞬間に眩暈をもよおしてしまった。

私、こんな幸せでいいのかしら……

はぁ、どうしてエマってばこんなに可愛らしいのかしら。唇を尖らせちゃって……もう、抱きしめてしまいたい……最後になるかもしれないから、食べてしまおうか……

 キャシーの倫理の鎖は、欲望の前に切れてしまいそうになっていた。


「たっだいまぁ~っ。あれ?キャシーじゃん。どったの?」


 キャシーが両指をワキワキし始めた頃合いで、ドアベルがけたたましく鳴り響き、元気よくレイチェルが返って来た。


「お帰りレイチェル。収穫あった?」


「もちろんですともっ!今日はね、〈田舎のお爺ちゃんが拾って来た犬が、どう見ても狸にしか見えない〉って言う話っ!っで、キャシーはなにしてんの?」


 レイチェルはいつも通り、エマの机の上に領収書を置くと、鞄をソファの上に放り捨てて、冷蔵庫から牛乳を取り出すと。腰に手を当てて飲んだ。


「また、そんな使えない話拾ってきて……」


 キャシーがそこまで言うと、これに反論しようとしたレイチェルが、急に噎せ込んで含んでいた牛乳を床に吐き散らかした。

どうやら、牛乳が気管に入ったらしい。呼吸すら苦しそうに噎び苦しんでいる。

「もおぉ、何やってるのよっ、レイチェル大丈夫⁉」キャシーの前をエマがそう言いながら駆けてゆく


「(レイチェルらしいわね)」


 何一つ特別じゃない平凡な日常こそ、何ものにも代え難い貴重で愛すべきもの。

キャシーはそれを噛みしめながら、所々、軋む床を歩き、ベルを鳴らさないようにドアを閉めたのだった。


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ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅳ ~ 紅茶一杯ほどのロマンス ~ 畑々 端子 @hasiko

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