水中に沈んだ思い出

@kotohatoha

第1話 彼と私

元彼と出かけた場所を挙げてみろと言われれば、真っ先に名古屋港水族館が浮かぶ。じゃあその前の彼はどうかと訊ねられれば、これもまた名古屋港水族館。帰納法で、おそらく次の彼氏ともこの水族館をかなりの確率で訪れるのだろう。

 目を閉じればつい最近のことのように思い出せる。入ってすぐに、左手の水槽。優雅に泳いでいるのはシャチやアザラシだ。いつきても水槽の前はカメラを持つ子どもや大人で溢れている。

「ねえ、ちゃんと見えてる?」

 彼と私の身長差は、十センチ以上。見上げれば、彼は心配そうにしながらも、ちょっぴり意地の悪い笑みを浮かべていた。

「見えないって言ったら、肩車でもしてくれる?」

 斜め前にいる親子連れを見て言うと、彼はうーんと困ったように笑った。その表情が可愛くて、私もこっそり笑うと水槽の方へ目を移した。底まで沈んだアザラシがくるりと回転して明るい方へ上がっていく。かしゃかしゃ、と絶えず機械音が耳の奥で響いていた。

 水族館に行こうと言いだしたのは彼。おそらく「愛知、デートスポット」というワードで検索をかけたのだろう。元々愛知には遊びに行ける場所なんて少ないし、恋愛経験の少ない私にとって出かける場所を探すのは一苦労だった。そして、それは彼も同じ、だったに違いない。

 ゆっくりと歩きながら奥へと進んだ。彼との距離が、まだ付き合って間もないことを示していた。近すぎず、遠すぎず、お互いの視線を気にしながら足を動かす。時折触れる手の体温がくすぐったかった。

 彼との時間がとても穏やかに流れていく。私がベルーガの親子を見て、いいね、なんて笑うとそうだねと彼は頷いた。

「ベルーガって可愛い顔してるんだね」

 ベルーガの動きを目で追いながら彼が言う。悠々とした動きはとても優雅でずっと眺めていると眠くなってきそうだ。

「名前も、可愛いよね。ベルーガって」

 ふと、以前に来たときベルーガの水槽の前で交わした会話を思い出した。

『俺、将来ベルーガ飼おうかな』

 今隣りにいる人とは真反対の性格の彼は、おちゃらけたことばかり言う。大きな水槽がいるね、と私が呆れ気味にため息をつくと、それくらい稼げるように頑張るよと返ってきた。ふざけたことばかり言うくせに、私との将来を誰よりも真剣に考えている人だった。次第にお互いの考えが食い違うようになり、結局私がだめにした。

 これだから、水族館はいけない。同じ場所に違う人と訪れると過去の出来事が否応なしに蘇ってくる。私は一生、水族館に記憶を囚われたままなのだろう。

 気持ちを切り替えるように入口でもらったマップを広げた。それに気づいた彼も歩みを止め、マップを覗き込む。柔らかそうだと思っていた髪が、その通りだとでも言うように微かな音をたてて落ちた。水族館が薄暗くて本当に良かった。火照った頬はどうしようもなく熱い。シャンプーか洗剤の匂いが鼻をくすぐり、くらくらする。

「俺、ペンギンのところ行きたいな」

 どこか見たいところはあるかと聞かれ、私は迷わず深海魚のコーナーを指さした。

「だんだんと暗くなっていくのが好きなの」

 自分でもおかしなことを言っているのは分かっている。でも彼は笑わずに、じゃあそこも行こうと、私の手を取った。

 大きさの違いに少しだけ驚いた。線の細い彼に、あまり男性らしさを感じていなかったのだな、と初めて気づく。男性というよりも男の子だと失礼ながら思っていたのだ。

 彼は何も話さないまま進んでいく。私も繋がれた手を見つめながら彼についていった。急に感じた男性らしさに、どきどきと心臓が跳ねていた。

 ペンギンの水槽に着いても、私も彼も口を開かなかった。水槽の中では、何十羽というペンギンがばたばたと動いている。アクティブに泳ぎ回るものもいれば、隅の方でじっとうずくまっているものもいた。

「泳ぐの早いんだねぇ」

 先に沈黙を破ったのは私の方だった。少し手に力がこもったあと、そうだね、と優しい声が落ちてきた。

 それから、二人であれは可愛い、これも可愛いと言い合ったりして、いつまでもペンギンの水槽の前から動かなかった。


「イルカショー、何時からだっけ」

十分にペンギンの水槽を楽しんだあと、独り言のように呟く。

「あと三十分くらいで始まるよ」

 彼が時計を見ながら教えてくれた。水族館に来た回数は私のほうが多いはずなのに、彼は私よりもこの水族館のことを把握していた。

 私のために、勉強してくれたのだろうか。胸の奥がじんと暖かくなった。でも口にはしない。一人で笑っていると、頬をむにと掴まれてしまった。


 最後に、彼はスマートフォンを取り出して写真を撮ろうといった。私は黙って頷き、彼の隣に並んだ。けれど、画面には私の頭しか写っていない。

「あそこ、座ろうか」

 彼の指さしたベンチに座り、レンズに向かって白い歯を見せた。夕日が画面に反射して眩しい。けれど、ちょっとでも可愛く写りたくて頑張って目を見開いた。

この一枚が最初で最後の二人で撮る写真になるなんて考えもしなかった。

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