歩いてまわるスピードで

さや豆

第1話

 来年の手帳を買った時にもらった抽選券を、ふとした時に財布の中に見つけた。券をよく見ると抽選会場はちょうど仕事の帰り道にある。まだ期間内だし、せっかくだから立ち寄ってくじを引いてみることにした。何の期待もなく抽選箱から取り出した紙に、特賞という文字が見えたとき、僕も店員さんもすぐには状況を理解できず、2秒ほど眉をしかめた。もしやこれはすごい当たりなのではないか? ようやく意味を理解して、店員さんがハンドベルを鳴らし、周りにいたみなさんに拍手をいただいた。急に目立ってしまったので、さすがにちょっと照れた。こうして僕は思いがけず旅行券を手に入れた。

 家に帰って、妻に「たまたまこんなものを手に入れたんだけれど」と旅行券を渡すと、彼女は目を輝かせながら笑顔でぴょんぴょん跳ねた。「ちょうど旅行したい気分だったのー!!」とずいぶん激しく喜んでくれたので、僕も一緒に跳ねてみた。こういうのも悪くない。

 ということで11月後半のある日、妻と僕は小さな黒いスーツケースを転がして岡山県の倉敷に来た。案内所や土産物店、美術館で出会った和やかな人々と言葉を交わしながら人間が主役の温かい街だなと感じた。特別に何かがあるというわけではないのだが、ここを良い場所にしようという、住民の気持ちが街のいたるところから感じられ、素敵だなと思った。ガラスがきれいに拭かれていたり、小さな花が飾ってあったり。気持ちというものはそういった細かいところに宿って魅力的な場所がうまれる。

 2日目の朝。ホテルからでると、さすがに肌寒い。朝食をどうするかは特に決めていなかったので、冷たい手をこすりつつ、ゆっくりごはんを食べられる所を探しながら、市内の細い道を歩いていたら、白い湯気が出ているお店を見つけた。看板を見るとカフェで、雰囲気が気に入ったのでそのお店に入ることにした。

 キッチンが真ん中にあり、周りがカウンター席になっていたので、そこに座った。少し凹んだ大きなヤカンにたっぷりのお湯が沸いて湯気がたっている。メニューをもらって、ピーナツバタートーストのモーニングセットに決めた。妻は悩みに悩んで、結局僕と同じセットにすることにした。

 センターキッチンには店員のお姉さんが1人だけ。それもなんだかいいなと僕は思った。システム化された流れのようなものがなかったからだ。ひとつひとつ確かめるように丁寧に作業していて、僕はその様子を飽きることなく見ていた。コーヒーをペーパードリップする。細いお湯を、10円玉ひとつ分くらいの範囲に回しながら注ぐ。白い大きなトースターで焼いた食パンを並べて、新鮮なバターとピーナツクリームを塗る。冷蔵庫から生野菜をいくつか出してきて、よく手入れされた銀色の包丁で刻み、冷たそうな水に潜らせる。静かに茹でていた卵を、皿に乗せてほんの少しの塩を添える。お待たせしました、と出してくれたプレートを受け取り、ありがとうと伝えた。妻を見ると彼女もうれしそうに笑っていた。

 いただきます、と言ってサラダから食べ始める。みずみずしい野菜を口に入れて噛みながら、畑の様子を想像した。

 少しして、店員のお姉さんが大きめのマグカップに温かいコーヒーをたっぷり注いで、僕らのプレートのとなりに出してくれた。まずはブラックのまま一口飲む。クセのないさわやかな味だ。甘さがほしかったので、僕は砂糖を1つと、ミルクを入れてカフェオレにした。

 お父さんと小学生くらいの男の子が店に入ってきて、メニューを見ることなくすぐに注文していた。常連さんなのかもしれない。

 僕が「とてもおいしいです」とお姉さんに話しかけると、彼女はにっこり笑って「それはよかったです。ひとりでやっているので、時間がかかってしまってすみません」と言った。「逆にゆったりしていて、待つ時間も心地いいから問題ないです」と僕は言った。「寒くないですか?」と訊かれたので、じゅうぶん暖かいから大丈夫です、ありがとう、と応じた。

 彼女は冷蔵庫からマッシュルームを取り出し、薄くスライスして、それをたっぷり食パンの上にのせてオーブンに入れた。パンにたくさんのマッシュルームをのせるというのは考えたことがなかったので、妻と一緒に驚きながらその光景を見ていた。「このメニューもとってもおいしいんですよ。機会があったらぜひ試してみてください」と店員のお姉さんが言う。「いったいどんな味がするんだろう。マッシュルームは好きだから興味があります」と僕は言った。

 おなかがいっぱいになった妻と僕は、席を立ち、支払いを済ませた。「とても良い時間を過ごせました。また倉敷に来たときには寄ります。もちろん、マッシュルームトーストを注文しますから、メニューからなくさないでくださいね」と言うとお姉さんは笑って「大丈夫です。たくさん用意しておきます」と言ってくれた。妻と僕は店から出ると、手をつないでゆっくりと歩き始めた。

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歩いてまわるスピードで さや豆 @hiroli

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