第3章 過去編 茶葉は剣、水は涙

第13話 この無力な小役人を許してくれ

 私は寮のラウンジでスツールに腰を掛けながら、ふーっと息を吐き、本から目を離した。昇進した中佐との仲は、未だに治癒の兆しが見えない。一週間が経とうとしていたが、彼女は急に外回りを増やし、本部ではあまり会わなくなってしまっていた。

これがあの女でなければ、持ち前の作為と計算によって工夫し、仲を取り持たせることができたはずだ。だが生憎ながら、のれんのような彼女に腕押しは効かないだろう。そう思わせるだけの強さ、ずぶとさをかの女は感じさせ始めていたのだ。

(なるほど、案外私の苦手なタイプは、ああいう奴なのかもしれないな…私の思ってもみなかった強さを発揮してくる。まいったものだ。)

 傍らに置いてあるペットボトルの紅茶に目を向けた。暖房で少し暑くなりすぎた部屋では、アイスティーの表面が、あの日廊下で見た結露よりも、穏やかな水滴がほんの少し光っていた。


 警察総長は少ない相槌と共に私の相談を聞いていた。私が話し終わると、右手で首の後ろをバリバリと搔き、腕を組んだ。

「なるほどねー。そんで、ゴリ押しが効かないことが辛いんだ。で、何?私にその仲を取り持てと?まさかそんな…」

「いえ、これは私が解決しなければならない課題です。お手伝い下さるというのならばありがたいのですが、私はそんなことまでは期待しておりません。」

「そうだよなー。この作戦の遂行手伝ったデカい恩を返せるかもわかんねーのに、更に借りを作るったら、お前さんの若いプライドが許さないもんなー。」

 私は貸し借りの所にはあえて何も言わず、一番上のボタンを外したワイシャツの襟をはためかせた。部屋は燭台の灯で橙色に染まり、外には工場街の光が煌めく。もしここが高級レストランだったらまだ風情があったのだが、私はこのようにまどろっこしい部屋の雰囲気は好ましく思わなかった。

「総長、私のプライドが許さない…そう見えるようであれば、それはこんなことを一人で解決に導くことができない自分の、なんと弱小たることか、という事実の方が深刻な事であるという自覚ぐらいは、抱いています。だから、願えるならば、手をお出しにならないでください。プライドに免じて。

 …本来なら、今まで何度でもあったはずのことなんです。たかだか喧嘩の仲直りに、悪かったと頭を下げることなんて。でも、今回はちょっと大きすぎたと思ったし、反省してもしきれないところはあります。」

私は一呼吸置いて、改めて中佐の事を思い浮かべた。やはり私はあの女の事が苦手で、できることならもう会いたくないと、逃げ出したい気持ちにかられた。だが、私はあの凛とした顔を、ひょうきんに笑う顔をだけでなく、すべての表情をこの目で捉えることができたのなら、どれほど幸せだろうとも思った。私はなぜ彼女が私をそこまで希望と共に想定していたのか分からなかった。

 総長はグラスに水を入れてくれた。ステンレスでできた急須は、水差しのようでもある不思議な形をしていた。いつの時代の流行かは分からないが、総長の趣味に合っているようにも感じる。テーブルに置かれるときの、金属特有の衝突音は、濡れた白いタオルが包んでしまった。

「もうひとつ、私は喧嘩という喧嘩を経験していません。だから相応しい謝り方を知らないのかもしれません。」

「お前さんは、ちと特殊な過去を持っとるな。といっても、特殊とは少数を表す言葉でもなければ、このご時世にあっては稀有であるとも異なるから、特殊なんて言葉は大して重要でもないことは分かるだろう。なあに、私や私の同業者から見て、珍しいと言うだけの事だ。」

恐らく、この男にとっては本当に珍しいだろう。私を傷つけまいと、とぼけながら言うほどの紳士だ。私もこの男が珍しい。

「話してみるかい、顧問。」

 私は軽く一礼してグラスを持ち、目をつぶってそれを眉間の前で掲げる。口をゆすぎながら飲むその水は、今まさに私が欲していた、目の覚めるほど冷たいものだった。



 10年以上も前だっただろう。

「いやはや市長、素晴らしい手腕ですよ。数年前までの紛争の傷跡なんて、もう探そうと思わなきゃ見えてこない。ひとえに、どこよりも早く市債発行の許可を国からこぎつけた、あんたの交渉力のおかげだ!あんたが市の代表に選出されて本当に正解だった!」

「いえいえ、市民の皆様が私に着いてきて下さったおかげですよ。私一人でどうにかなったわけでもないし…野党の市議に嘆願書を提出してくれたのだって、相当助かりましたから…」

 今の首都のすぐ南東にある、とある街。ここが私の故郷。病巣あり。

 時の大臣閣下の座が閣僚内で受け渡されたときに、職のたらいまわしに憤った暴徒達がいた。首都から蹴りだされた彼らは、私達の街になだれ込んだ。町に生きる者たちの生活が、その喧騒の中で踏み荒らされたのは言うまでもない。例の如く、政治的に色が着いているかいないかの区別は問題とならない。略奪者どもの目の前に現存していたから…彼らにはそれで破壊される理由には十分だったようだ。そこで、私の母が経営していた料理店も巻き込まれ、店が破壊されてしまったのだ。

 地獄のような光景にもめげず、我が自治体は破壊された商店の、のっぴきならない被害規模から立ち直ろうと冷静だった。そして、「いっそ町全体で復興を目指そう」と励まし合いながら、当時の市役所開発と区画整備に乗り出した。多くの職を失った人々に、仮とはいえ、雇用を与えるためである。

 この際に首都との間を隔てていた山林の一部を解体し、トンネルを開通させた。結果、現在その町は首都と直接に隣接することができ、物や金の移動が活発化した。紆余曲折を経て、いよいよ本腰を入れて商売や生産に臨もう、と人々は湧いた。


 しかし、その直後であった。例のイデア・エレベーターが空間移転装置を発明させた。この発明は物流の革命児で、対応する産業品をどんどん生み出し、その移動が三次元的な横移動を無に帰してしまった。

 その装置だって、人々の役に立たせようと発明されたはずだった。しかし、多額の金を積み、トンネルを開通させたにも関わらず、一瞬でリターンが消え去ったことに、我々市民は恐れおののくことしかできなかった。方針を見誤った町の行政は、侃々諤々の議論をすることになったが、行政の信用不足から必要なリーダーシップを取ることもできず、ただ受け身の姿勢で何の手立ても得られない。

 だが街は運動する足を失っても、食い物だけは流れてきて、異様にぶくぶくと太り続けた。行政が麻痺したとしても市場は生きており、イデア・エレベーターの物流改革によって首都から溢れ出てきた金を大量に循環させる。金を得た傍から食って消化し、更に街は上に横にと拡大した。そこに目を付けた都市の資本家たちは、投資の応酬で肥え続け、首都圏一帯に空前の繁栄が開花したのであった。


 街からは国に不満を持つ暴徒が消えた。その代わり、取り残された自治体の地位は失墜し、見るも無残なその姿が、軽蔑どころか同情さえ呼んだのであった。インフレで跳ね上がった債務金利は、何年も整えられていない髪のように枝分かれし、返済金が歳出を圧迫するから、まともに歩き回ることもできない成人病の患者そのものだ。

 確かに市場は優れていた。多くの者たちを富ませ、生活を豊かにした。小金もちも、都市への出稼ぎ労働者も、反国家を標榜した元暴徒達でさえも。だが待ってほしい。暴徒を富ませながら、暴徒に襲撃された私達「中間所得者」の立場はどうなる?必要な資本が破壊され、自治体の下で発展を画策していた、奪われた我々はどうなる?自治体に貸し付けていた債権者は?自治体から受注していた周辺業者は?

「ああ有権者諸君よ!この無力な小役人を許してくれ!」

そう言いながら、当時の市長は首をくくったと言われている。嘲りに身を染める報道会社の前で。

 街はいまや私達の知る街の顔を潜め、醜悪な怪物と化した。今まで安定して働いていた中流階級はほとんど泣き寝入り、被害を受けた自営業者らは都落ち、まさに革命と呼ぶべき惨劇だ! にも関わらず、今まで無駄に税金を払いたくないと、「自分は自分、他人は他人」で自治体を顧みなかったプロレタリアートと、初めから外にいた資本家は躍進してしまった。その特異な街が、私の故郷であったのだ。

 そんな世情の中、母は体を壊してひっそりと息を引き取り、私は教会の営む孤児院で生活し始めることになったのだ。



「なあるほど、院に入るまでの過程はよく分かったよ。確かに暴徒を追放したのは、物流革命よりもほんの少し後だったな。そんで、ラッキーなことに――ああ、首都から見ればだが――その後ぐっと経済が発展して、暴徒達のことはうやむやになっていたな。」

「えぇ、その隙間で苦しむことになったのが我々だった、ということでしょう。そして孤児院時代に、他者の顔色を伺う事と、つまらない喧嘩の不利益を学ばされた。」

「だが、悪く思わんでくれ。あの時代の首都には、そいつらを抱えて生きていけるほどの余裕はなかったのさ。旧皇帝陛下の崩御に始まり、政変、戦乱と目まぐるしく変わってきたわけだし。」

 このオッサンは遠い目をして言うが、当時のこいつはそもそも今の私より年上だろう。ましてや総長現職のエリートなのだから、警視くらいの、社会にある程度の責任を持つ肩書を持っていたという推測はして然るべきなんじゃないのか。まあ推測はあくまで推測で、過去は過去だ。今はそれは関係ない。当時の社会状況を間接的に見ることしかできない私よりかは、妥当な物の見方はできるのだろう。目を背けなければの話だが。

 顔をしかめるのを見られないように、金属のコップを口に運ぶ。中の水は既に飲み切っていたため、水滴が一粒、唇に滴って触れただけだった。

「俺たち警察は…いや、警察でなくとも公務員はね、より多くの者たちの味方でなきゃなんない。んでも、貧しさに苦しむ層を見捨てることもできないし、更に、高額に納税してくる金持ちたちにも、当然ながら手を尽くさなきゃいけないわけだ。」

総長は遠い目のまま言う。案外ロマンチストなのだろうか、なんて今はからかいながら言い返すことができない。なぜだろう、どうしようもなく悲しいのだ。

「最近思うんだよ。『じゃあ、どっちにもいい顔をしたくてもできないとき、俺たちは心を無にして、機械のように対応しなきゃいけないのか?全部を立法府の責に投げて、現場は順法主義に徹してれば、それで全部解決するのか?』ってさ。でもな、ハウンティ顧問。その時のデモ隊は、パパドーラにこう叫んだんだよ。『心ある顔をした民主主義制度をよこせ』ってな。当時の警察がそいつらをただ追い出すだけで、そのまま放置したのは、警察組織が煩雑な状態だったとか、牢屋の数が足りないとかいう事務的な問題でもあるが、でもみんな、見逃す仕方のない理由があってホッとしてたんだ。」

 怒る気になんてならなかった。代わりに言いようもないくらい重苦しい空気が、私の内臓を握りつぶそうとする。一度胃や肺を取り出して水で濯ぎたいくらいに、気持ちの悪い泥水が体を汚していく。

 ようやく見えてきた。私が中佐を怒らせたその咎が。

「私も、その話の大臣閣下にそっくりですね。」

ただその人の為に尽くす事、それだけで勝手を働くことはできないのだ。我々は言葉によって関係性を紡がなければならない。時に甘えることになっても、それが傷のなめ合いに過ぎないと、批判をぶつけられることになっても。その痛みを引き受けてもよいと思えることが、相手を愛しているといえることなのである。

「…よければ話を続けてくれ、と言おうと思ったが、これから先は、お前の上官サンにでも話をしてやることだ。孤児院の敷地に入ってから、今に至るまでをな。」

総長は私を真っ直ぐ見つめながら小さく言った。


 水滴は涙の郷愁に似ていた。もう一度、私は中佐に会わなければならない。ボトルをラウンジ脇のごみ箱に捨てに行くため、私は立ち上がって腰を伸ばした。

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走狗のガーディアン*執筆休止中 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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