人生の三分坂

駅員3

人生の三分坂

 赤坂サカスはその昔、乃木将軍で有名な近衛歩兵第三連隊のあった場所に位置する。その南側に三分坂と名のついた坂がある。青山通りから左折して薬研坂のアップダウンを越えると、その先に三分坂はある。三分坂は、坂の途中で直角に右に曲がって一気に下る坂で、江戸時代の切り絵図と現代の地図と重ね合わせると、ほぼその道筋は一致する。

 三分坂はとても急な坂で、坂下に小遣い銭稼ぎの子供達がいて、坂を登る人力車の後棒を担ぎ・・・後押しして、駄賃をもらっていたことから付いた名前のようである。

 明治の軍人乃木希典大将は、現在も乃木神社の敷地に残る自宅を人力車で出発し、乃木坂を下って、ここ三分坂を登り、近衛歩兵第三連隊へ通った記録が残っている。三分坂を登る際、子供好きの乃木大将は、後棒を担いでくれた少年の頭をなでてあげたという。


 三分坂の登り口に築地塀がある。瓦と瓦の間に土を挟んで何層にも積み重ねた築地塀は、離れて見ると、細かい縞模様が立体的に描かれているようで素晴らしい。加えて、ここ三分坂の築地塀は坂に沿って弓なりに反っていることから、背景に見える水平に建った建物との対照が、まるでトリックアートの世界のようでもある。

 築地塀の寺は『報土寺』といい、山号は咲柳山で1614年(慶長19年)に赤坂2丁目に創建され、1780年(安永9年)にここ三分坂の袂に移転してきた。


 寺の前には、東京都教育委員会の設置した標識が立っている。その標識には、次のように記されている。


【港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)】

 報土寺は、慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八○)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。

 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。


 少し離れて坂と築地塀を見ると、少し違和感を感じる。よく見ると、坂に設置されたガードレールは、練塀の角度に比べてやや緩やかなのである。このことから、江戸時代に築かれた築地塀も、現代に作られたガードレールも、もともと坂に沿って造られたものであり、現代の坂よりも江戸時代の坂の方が、急であったことがうかがえる。

 1959年(昭和34年)に撮影された坂の下から見上げた写真をみると、車1台が通れるくらいの道幅で築地塀にそって坂が伸びていた。その後報土寺と反対側の丘が削られて道が拡幅されたときに、坂の勾配が修正されたのだろう。


 報土寺にある有名なものは、この練塀だけではない。寺の境内に入ると、次のような標識が立っている。


【雷電為右衛門の墓】

 明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれ る。天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九○)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三 十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八一四) 当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政八年(一八二五)江戸で没した。


 これだけの実績を上げながら、横綱免許皆伝を受けなかった理由は色々言われているが、何れが本当なのか真相はわからない。富岡八幡宮の横綱力士碑には、「無類力士」として顕彰されており、横綱と同格に扱われている。

 雷電が寄進したものの取り壊されてしまった鐘には『天下無双雷電』と記されていたことから、幕府の怒りを買い、壊されてしまったとも言われている。


 その後しばらく梵鐘の無い時代はつづいたが、1908年(明治41年)に復元され、第18代横綱大砲万右ェ門が一番鐘をついている。

 折角復元された梵鐘も、1943年(昭和18年)に戦時下の金属回収に供出された。鐘楼から鐘が降ろされる前に、住職は涙を流しながら万感の思いを込めて最後の一突きをした。赤坂の谷間に響き渡った鐘の音は、哀惜の念を残して消え去った。


 時は下り1988年(昭和63年)、たまたま港区史跡めぐりの一行が、東京都あきる野市戸倉にある普光寺を訪れた際、同寺にあった鐘に「東京市赤坂咲柳山報土寺」と記された鐘があるのを発見する。

 ここ普光寺も1944年(昭和19年)に鐘を供出したが、この鐘は、戦後つぶされなかった鐘を供出した寺に関係なく、抽選で配られたものだった。

 その後両寺の話し合いにより、1989年(平成元年)12月、46年ぶりに報土寺に戻り、その一番鐘を第58代横綱千代の富士貢が突いた。

 残念ながら、46年前に鐘を涙で送り出した住職は亡くなり、その子息に代は替わっていた。

 涙で鐘を送り出した先代住職は大変な子供好きで、毎年夏になるとあきる野市の普光寺近くの戸倉キャンプ場で「子供キャンプ村」を開いていたという。

 その際、普光寺から伝わってくる鐘の音を聞くと、「なんと素晴らしい鐘の音か。」と言い、普光寺の方に向かって手を合わせて聴き入っていたという。

 先代住職と鐘は心で結びついていたのだろう。

 坂は、人の歩む人生の山谷であり、橋は人と人を結びつける絆である。

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