描く魔法と唱うイロ
さちはら一紗
第1話
すべての事象が魔法である。
真鍮の筒が奏でる音楽も、頭を悩ませる関数も、多彩に塗り替わってゆく空の色も、呟いた言葉の欠片さえ。
『だから、アサノの絵も魔法だよ』
あの子の無邪気な笑顔が朦朧と浮かんでは、台詞がくるくると頭の中を回る。見る世界をどうにかこうにか花畑に変えてしまおうと、自分に呪文を掛ける女の子。甘く軽やかな声を振り払うように、私は首を僅かに振った。
キャンバスの横枠を掴んだまま、投げ出したくなるのを堪えて床に置いた。ガタンと不躾な音が鳴る。階段の踊り場を起点に薄ら明かりの暗い校舎の中、嫌になるほど反響した。
誰もいないから。下校時刻を過ぎた学校には、私以外の生徒は誰もいないから。
窓の向こうの月を睨み付ける。まだ昇ったばかりの秋の月だ。立待月だか十六夜だかは知らないが、自分はまだ丸い、と言い張るかの様。
往生際と意地の張りどころは間違えちゃいけない。
深くゆっくりと息を吐いた。荒い息を整えて、震える膝を誤魔化して。セーラー服の襟さえ重く、廊下の肌寒さすらも感じない。キャンバスの縁を握った手には乾き切らない絵の具がべっとりと張り付いている。
──気持ち悪い。ぐっと乱雑に、手の甲で汗を拭った。
何馬鹿なことしてるの、と言っている自分がいて。
早く行かなきゃ、と叫んでいる自分がいて。
空想もいい加減にしなさい、と喚いてる自分がいて。
結局また、キャンバスを持ち上げ階段を上がり出す自分がいる。鈍い足音だけが背景音だ。
「ほんっと……何やってんだろ」
苦笑気味に呟いた。
目指すは屋上。無機質な扉に無断で取ってきた鍵を差し込む。日は落ちてもまだ空は色を失っていない。
一年よりも前に、あの子はどんな風に階段を上ったのだろう。あんなにも騒がしく足音を立てて、どんな気持ちで階段を駆け上がったのだろう。
滲みる薄闇の静寂に、遠くないはずの過去が浮かび上がる。
あの日はそろそろ夏が勢いを増す頃で、私は半袖にカーディガンを重ねるのを諦めたばかり。日はまだ沈んでなんかいなくて、校舎内は程よい騒がしさで、キャンバスは両手にではなく、目の前のイーゼルに掛けられていた。
そこそこに劇的でそれなりに普遍的に、私はあの子と出会った。
まだ、あらゆるものが魔法じゃなかった日に。
◇
一年前──七月。
まともに活動する気のある美術部員は自分だけらしい、と知ったときの侘しさは一週間も経てば忘れてしまった。
部員の大部分を占めていた三年生はもう受験勉強で手一杯で、少ない二年生は幽霊だ。勧誘が疎かになったのも一因して、今年の一年生は私のみ。
「部員、探さないと」
この時期にもなって、まともな部員が見つかるとは考えにくい。
一人であることよりも、焦りを示す顧問の言葉の方が憂鬱だった。勧誘だなんて、人見知り気味な上に未だに同級生の顔も名前も把握していない私には荷が重いのだ。
ゆっくりと背もたれに身体を預けた。下地を塗り終わったキャンバスはまだあまりにも白い。ぼんやりと見つめてしまえるくらいには、集中力が切れていた。
それが物音に気付くきっかけだったのだろう。足音だった。間隔は狭く、そしてよく響く。
そして間もなく。ダンッ、と遠くで美術室のドアが開いた。思わず肩が跳ねる。
「……びっくりした」
比較するように静まり返った空間でじっと廊下の方を見つめた。私がいるのは美術室ではなく、隣のクーラーのある空き教室、実質準美術室として扱われている部屋だ。
そろりと教室から顔を覗かせて、美術室への来訪者にそろそろと声をかける。
「あ、あのー、美術部ならこっちです……」
「わっ、すみません!」
慌てたように振り返る来訪者。背の低い女子生徒。髪型、声、表情、どことなく丸い印象を受ける。角がないと言うべきか。
初対面で値踏みしたのが良くなかったらしく、気付けば女子生徒は怪訝な顔で私を見ていた──気がした。言い訳するように言葉を探す。こんなにも、もどかしいものだっただろうか。
「えっと」
「あの!」
私の細い声と彼女の裏返った声が絡まる。私が口を噤んだ結果、先に手繰り寄せたのは彼女の方だった。
「マサキ アサノさん、ですよね!」
そう言って、一歩詰め寄った。その一歩が重く、私はたじろぐ。ただ二、三度首を振って肯定をする。
彼女は丸い目を見開いていた。ぎゅっと拳を握りしめ、足を浮つかせたまま言い放った。
「あたし、あなたのファンなんです!」
時はそこで止まった。
取り繕わずに言うのならば所感はそう、『一体何を言っているのだろう』。なんて返せるはずもなく。なす術もなく巻き込まれてゆくのだった。
気が付いた時には嵐は去って、机の上に入部届けだけが残されていた。柔らかな筆跡で書かれた名前を見る。
「オイカワ……」
及川真夜。
オレンジ色、夕焼けのビー玉。夜には遠い、マヨだかマヤだかわからない少女のイメージ。読みはおそらく後者だ。なんとなく。
何かに喩えるというのは私の癖だった。その喩えは私だけが分かればいい。まず何色か、と考えるあたりが絵描きの性めいていた。
何気なく首を回して時計を見た。ぱらりと髪が頬を撫で落ちる。少し高い位置に掛けられた時計は三分早く進んでいた。大分前に気付いたけれど直す気にはなれない。多分半年先も直っていないだろう。
下校時刻まであと僅か。
私はのそりと立ち上がり、頭の中で先程の会話をもう一度思い起こす。
あの子は私の絵が好きだと言った。ただそれだけを伝えるために、ここまで駆けて来た。
あの子が見たのは授業で仕上げた一枚だ。正直なところ自己評価では、時間の制約が厳しかったのもあって及第点といった具合だ。だからか、それとも真夜の浮ついた空気が原因か、こちらの心境は半信半疑と動揺、そして困惑といった品揃えだった。
隣のクラスの女の子はつい先程まで知り合い未満で、あまり関わったことのないタイプの予感がしていた。言い方を悪くすれば『不審者』みたいな感じ。いや、流石に悪く言い過ぎか。
だが、彼女はそんな私の印象をたった一言でひっくり返して行った。
教室に入って来た真夜は一枚の絵の前で動きを止めた。先週書き上げたばかりの油絵を、立て掛けられた小さなキャンバスをじっと見つめていた。
かしましい口は閉ざされ、騒がしい言動はなりを潜め、真夜が絵の前に立ち尽くす様子は先の言葉がでまかせなどではないと言っているようだった。
その姿に、私の真っ白な頭は更に塗りつぶされていくというのに。あろうことか、彼女は不意に口元を緩めたのだ。ああやっぱり、と溜息の後に。
「あたし、好きですこれ。こんな風に絵を好きだと思ったの、初めて」
とろけそうな笑みを見た時、真っ白な思考は完全に崩れた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
当たり前のように絵を褒められたことはある。それなりに上手い方だという自負もある。でなければ絵画なんて続けてはいないし、破綻している美術部になんて入ってもいない。
けれど、あんな風に言われたことは無かった。
絵は好きだ。好きだと思う。親に美術講師をもった私は、物心ついたころから筆を握っていた。抵抗感は微塵も湧かないまま、今もこうして絵を描き続けている。
でもそれとは矛盾しないまま、私はどこかでぼんやりとこう思っていたのだ。
「所詮絵だ、って思ってたのに」
その筈なのに。
あの言い方はずるい。
肺の空気を全て押し出すように深く息を吐く。それでもまだ緩む頬をぐっと押さえた。
真夜の入部からしばらくが経ち。ある日の放課後、私は美術部として立ち入りの許可を取った。
この高校の屋上は、今時の学校にしては珍しく立ち入りが禁止されていない。残念ながら屋上で昼食を取りたいから、なんて理由では開放してくれないのだけれど。
エレベーターの扉を開けっ放しにして待っている真夜の元に駆け出して行く。
「ありがと、マヤ」
「どーいたしまして」
筋金入りの人見知りも慣れを知るものだ。当初の警戒はどこへやら。私と彼女の関係は良好だった。そのほとんどは、彼女のありあまる人当たりの良さのおかげだろう。
おんぼろエレベーターで最上階へ。ボタンは押しても点灯しない。最上階から、他とは色味の違う階段を上り、重たい扉を押し開ける。爽やかさをまだ残した初夏の風が吹き込んで、私は少し目を細めた。
学校はただでさえ六階建てという高めの設計、おまけに坂の上という立地だ。高いフェンスの向こうに広がる景色は、空の端が白く滲むほどまで見渡せる。然程都心と言える街ではないけれど、夜景はそれなりに綺麗だろう。
真夜の方を振り返る。
「でも、なんで屋上で描こうって言い出したの」
純粋に景色を求めるならば、フェンスのない最上階の窓が一番だろう。
彼女は微妙に眉を下げて笑った。
「行ってみたくて」
「高いところ、好きなんだ」
「うん。だって高いところって、魔法が使えそうな気分にならない?」
ただ高いだけではなくて、空が近いのだと錯覚するような空気感と風の質感が好きなのだと真夜は言う。
「考えたこともなかった」
否定はできないけれど、積極的に肯定もできなかった。 高所恐怖症というわけではないけれど、高いところの風というのはあまり好きじゃない。フェンスに持たれかかる真夜が理解出来ない。
私の様子がおかしいことに気付いた真夜が笑った。
「怖い?」
「ちょっとだけ。ガラス窓なら平気なんだけど」
「そっか。……戻ろうか?」
「いや、いい。高いところ、嫌いじゃないから」
そう答えたのは、きっと、真夜の感覚が羨ましかったからだと思う。
返事を待たずに腰を下ろして、さっさとスケッチブックを開いてしまう。そうすれば真夜ももう何も言わなかった。
真夜はどこか地に足が付いていない子だった。
ふわりとした発言とぼんやりとしている時間が多い。
口癖は「魔法みたい」。描く絵もどことなく童話的で、現実味を半分だけすり減らしたような題材が多かった。
真夜の絵は、下手ではない。一般的に見れば上手い部類に入れて良いのだろうけど何かが足りていない。積み重ねた時間の問題だろうか。
でも楽しそうに描く。そんな子。絵を描くのが楽しくて、上手くなるのが嬉しくて、上手くなりたいと気持ちを逸らせている。私が幼心のまますっ飛ばしてしまった過程を全力で楽しんでいる。
だからきっと、助言にも成り損なった口出しなんて似合わない真似を、私はよくしたのだと思う。この子が本当に描きたい絵を見たいと思っていた。
お互い部活中は言葉数が多かったわけではない。が、帰りはそれなりに話が弾んだものだし、表情豊かな真夜の側は居心地が悪くなかった。
あまり交友関係に積極的でないと自負している私がこうも真夜と関わることを是としたのが、少し不思議だ。
理由の候補をいくつか数え上げて気付く。
私というのは実に単純な生き物で、真夜のあの一言に陥落されたのだとしたら。
ちっとも否定はできないのだ。
◇
一年目は何事もなく過ぎて行った。慌ただしくも穏やかに、幾つかの展覧会を経ていった。
同じ放課後を共有する内にいつの間にか進級の時期が来て、二人は同じクラスになる。二年生になったというのに、とうとう部員は増えず、後輩がいないまま私たちは先輩になった。
夏休み。二度目の秋の美術展の準備が始まる。
「アサノの絵に見入ってしまうから」と言って真夜は隣の美術室に篭るようになった。
「アサノを驚かせるんだから」と言って真夜はラフ画すらも見せてはくれなかった。
教室はエアコンの音だけが妙に耳を刺激する。
ひとりきり。去年の春に戻ってしまったような、そんな錯覚。まるで寂しがっているような自分に気付き、苦笑する。
そういえば去年の夏休みは大変だった。悲しいぐらいに人手が足りなくて、キャンバスに布を張るのも一苦労だった。
人手が足りないのは今年も一緒だけど、真夜はもう初心者ではなくなっている。
「ああそっか」
私はいつの間にか真夜の絵に口出しをしなくなっていた。
椅子にもたれ掛かる。時計に表示されている時間から三分引こうとしてやめた。この前真夜が不便だからと直して行ったのだった。
クーラーの温度を一度下げ、教室を出る。
ノックをしてから美術室の扉を引く。
「あれ、アサノ、どうしたの」
身体を傾けて、キャンバス越しにマヤがこちらを見る。確かに宣言通り、真夜のキャンバスは見せない配置だった。
素直に期待するとしよう。本音を言えば、過程も楽しみたいものだけど。
「部屋、交代」
本題はそれだ。美術室にはクーラーがない。
真夜がいやいや、と手を振った。
「え、いいよ。あたしの我が儘だし」
「部長権限で命令ね」
「……ありがと」
真夜はやんわりとはにかんだ。
「なんか、二年になってから凄い頑張ってるよね」
「え、そうかな」
「うん、そう見える。すごく描いてる」
「えへへ、まあ来年は描けるかどうかわからないから……」
時期が時期だ。こつこつと描いていれば受験生といえども参加出来ないことはないのだろう。
私は頷いて言った。
「そうだね。でも来年のために単位も拾ってあげようね」
真夜は顔を背けた。
さて、真夜がキャンバスを運ぶのを目に入れるわけにはいかない。一度外にでようと立ち上がる。
美術室を出て行こうと扉に手をかけて、ふと微かに耳に入る運動部のかけ声に気がついた。スポーツドリンクが飲みたいなと考える。
「頑張らなきゃ。ただでさえ、始めたのが遅かったんだから。目標は、遠いんだから」
扉を引く音に掻き消えるはずのそれは半ば独り言だったのだと思う。その声に私はうっかり足を止めてしまった。
自分に言い聞かせるような言葉はいつになく真剣で、何か答えた方がいいんじゃないかと思ってしまう。
振り向いた。
問いかける。
「私、アイス買ってくるけど。マヤ、どれがいい?」
「えっ、やさしい! なんで」
「奢りじゃないよ。ただのおつかい」
結局私は何も答えなかった。
どれだけ長く描いてるからってどれだけ遅く始めたからって、そんなものは結局のところ関係がないなんて、知っていること。
知っているだけなのは、私だったのに。
青春らしい夏とは無縁のまま、油絵の具の匂いを思い出に抱えて夏は終わる。そして気がつかなかったように秋は始まるのだ。
試験一週間前。部室は自習室に変わる。
「……はっ。今、落書きが動いた」
真夜は余裕が無くなれば無くなるほどに、趣味が露骨に漏れ出していく。
「集中、集中」
「うう、休憩だよ」
真夜は数学の問題集に突っ伏した。
「式が魔法の呪文に思えてきた……」
「それ、願ったり叶ったりなんじゃないの?」
普段からそういうものに惹かれた発言が多い真夜だ。
呻き声を上げながら、顔を持ち上げる。
「いや、魔法なら理解できなくても仕方ないかなって。そう、これ全部魔法だから。あたしが分かんないのは不思議なんかじゃないから!」
屁理屈に呆れるものの、ぱっと反論が浮かんでこないのが悔しくてシャーペンを置いて考えた。
「すべてのことが魔法なら尚更に、勉強しなきゃどうしようもないじゃない」
「あっなるほど、そうと知らないまま魔法に喰われてしまわないように勉強するのか」
「……なんで自分で言い訳潰してるの?」
「ほんとそれだよね……」
真夜はもう一度ノートに突っ伏する。
「アサノはすごいね。なんでもできる」
「そんなことないよ。マヤのしていることをしてこなかっただけ」
一年も経てば、ことあるごとに挟まれる褒め言葉も平常心で受け流せるようになっていた。贅沢な話である。
「魔法といえば、さ」
真夜が口に出したのはここ最近の事件のことだった。原因不明の集団幻覚が増えているだとか。ニュースをお供に朝食を取っているから、当然私も知っている。
「なんか魔法だなんだってネットでは言ってるけど」
「信じたの?」
「まさかぁ」
その反応が少しだけ意外だった。てっきり真夜は嬉々として騒ぐものだと思っていた。
どうしたの?と私を覗き込む真夜の表情は至って涼しい。
現実と妄想の区別はついている、とでもいうのだろうか。真夜の理屈で言ってしまえば全ての物事は魔法なのだから、今更そんな噂は関係がないということなのかもしれない。
「ぶっちゃけそんなことよりも次の美術展の方がよっぽど重大だよ」、と真夜はうそぶいた。
「あのね、あたし。アサノの隣に絵が飾られるようになりたい」
「同じ高校なんだから、嫌でも隣だって」
えへへ、と真夜は笑う。
「ま、当面は試験なんだけどね」
う、と喉の奥で短く唸る。
美術展の作品ももうこの時期には大詰めで、間に合わない、なんてことはない。
それでも追試に引っ掛かっている場合じゃないのは事実なのだから。
◇
戯れごとを話した日から、然程経っていないはずだった。
歴史が変わる瞬間というのが、意外にも呆気なく訪れるものだったらしい。
いつもなら星座占いを流している時間帯、朝のニュースが騒がしかった。
専門家が専門外に狼狽えて、飛び交う言葉は要領を得ない。幻想的神秘的宗教的。神は死んで生き返っただとか、論理が死亡して終末が訪れるだとか。中学二年生の落書き帳のような有様だ。真夜の妄言の方が百倍素敵だった。
母は眉をひそめてテレビから私の方に視線を移す。
「ねえアサノ、今日学校あるのかしら」
「ん、わかんない」
「警報とか出てないの」
トーストをゆっくりと飲み込んだ。
「魔法注意報?」
そんなものはあるものか。少なくとも、今は『まだ』。
「行って来ます」
その日から、いくつかの事象が魔法になった。
それでも、玄関の向こうの景色はなにも変わりはしなかった。
現実化した幻影。集団幻覚は幻だけど幻じゃない。そんなことを言われたって、原因不明を魔法だなんだって言ったって、ロマンもなにもありはしない。
私は何か悪い病気が世界中で流行しているんじゃないかと、心配しながら通学路を行く。途中で心配事がテストのことにすり替わるぐらいには、真剣に悩んだ。
そんな風に一日二日一週間、と過ぎて行った。
時たま変なものが見えるぐらいじゃ、何も変わりはしなかった。
一つ変わったことがあるとすれば。
もう真夜は涼しい顔なんてしていなかったことだ。予想通り、ある意味これが正しかったのだと思うほどの浮かれよう。こちらが安心するほどに真夜は真夜の調子だ。
口癖が「魔法だね」に変わった。
魔法よりも大切なのは試験で、試験よりもずっと大事なのはその先の美術展で。優先順位は相も変わらぬまま。
夏休みに頑張りすぎた真夜は私より少し早く絵を完成させて、隣で延々とスケッチブックに鉛筆を走らせている。
私が見ていることに気付いた真夜が顔を上げて、笑った。
「ほら、見て」
真夜のスケッチブックに描かれた、落書きの列車が細い黒色の線路上を走っている。
「すごいよね」
私は頷いた。その呆気なさがすごいと思った。
平たい列車が紙の上の線路をぐるぐるとなぞるのを、数秒後に何事もなかったように止まるまでじっと見つめていた。
スケッチブックを手元に戻した真夜の満足げな横顔から目を逸らして作業に戻る。現実化したファンタジーに浮かれる真夜とは対照的に、私は鬱屈と色を塗り続けた。
世界はもっと劇的に変わるのだと思っていた。
世界恐慌とか第三次世界大戦とか、そんな風に転がり落ちていくのだと思っていた。突拍子もなく言ってみれば、空が割れて星が降って宇宙人が攻めてくるのだ、とか。
魔法は世界を劇的に変えずに、試験の点数程度にしか揺らがなかった。
ただ見えないものが目に映るようになった、それだけのこと。
この街に魔法が追いついた日のことを、忘れることはできない。真夜があのとき触れたのはたった一部、いわば予兆だったのだ。
十月の終わり頃。一年に一度の中高生を対象にした美術展。その搬入作業の日のことだった。
飾られた沢山の大きなキャンバスをうっとりと眺めて、ふらふらと歩いていく真夜。その腕を私は握って引き止める。
「後で、ね」
「あ、ごめん。つい」
まずは自分たちのを飾らないといけない。
私が脚立に乗り、二人分の絵を立て掛ける。流石に一人で持つには大き過ぎて、周りの人に手伝ってもらった。
降りようとしたときにふと周りを見渡せば、いくつもの大きな絵が壁になって生徒たちを取り巻いていた。
中学時代から何度この時に立ち会っても溜め息が出る。特に美術系学科のある学校のブースは圧巻だ。
どうしてそちらの学校に進まなかったのか、と聞かれたことがある。私だって一応は、考えたのだ。ただあの頃は、その場にいる自分の姿にしっくりと来なかった。それは多分、今も変わっていない。
そう答えたら、もごもごと声にならない声で真夜に何かを言われた気がする。あれは、非難だったのだろうか。今となっては分からない。
真夜が身体をこちらに向けないまま、ぽつりと言った。
「扉、ないかな。扉の絵」
「それってどういう?」
「なんか普通の、本当に開きそうな扉の絵。何処かに繋がってそうじゃない?」
それは面白いかもしれない。発想が真夜らしいと思う。何よりも今なら本物のドアになりかねない。
「浮くけどね」
「それがいいんじゃん。こういうただっぴろい場所にポツンとあるの」
この場から全ての絵を取り払って、白い壁の中央に、人が通れそうなほどの偽物の扉を立て掛ける。そんな想像をしてみた。
きっと背筋が寒くなるほどに、思わず泣きたくなるほどに、不気味なんじゃないかな──なんて思って苦笑する。
そんなことを作業中に考えていたせいだろう。脚立の最後の二段ほどを踏み外した。
小さく悲鳴を上げてよろめいて、真夜に受け止められる。その数秒間、私たちの視界はとても狭くなった。
「え……」
真夜の声を追うように私は顔を上げ、凍りついた。
「何、これ」
空気の中、シロイルカがゆったりと泳いでいた。白熱灯の木漏れ日が目の前でゆれる。キャンバスの中から動けるものはつぷりと這い出して、人々を平然と透過する。水彩の風鈴が一斉に音をかき鳴らし、絵の具の眼球はぎょろりと平面上でうごめいた。
絵の中のブドウに手を伸ばした生徒がいた。半透明のそれは彼の手の中にしっかりと収まって、そのまま弾けて消えて行った。ただ香りだけがほんのりと残っている。夢じゃないと言うように。
一言で言ってしまえばただの幻影で魔法だ。それだけが景色を異世界に変えてしまっていた。今まで見たのとは訳が違う。羽虫のようにちらつく些細な幻とは。
呆然としたまま、すっかりと鈍ってしまった頭で考える。
扉の絵がなくて良かった。何が出てくるか、わかったものじゃない。
隣をそっと窺えば、真夜は震えていた。堪えきれない笑みをこぼして、声も出ないといったように、震えていた。
この子が喜ばないわけはないのだ。
「マヤ」
何も害は無い、と世間的には言われていても確実だとは言えない。これだけ大きな規模のものは初めてだろう。既に施設の人間が事態の収拾にあたっている。
隣でシロイルカが蒸発した。
大事には至らないと思いたいけれど、私にはこの空間に長居することが怖い。
真夜に呼びかけたその時。ぐらりと背後でキャンバスがゆれた。
深い青の彩りが目を刺した。瑠璃の鱗を持つ魚。及川真夜の絵が魔法になっていた。
初めて見せてもらった時、平静のまま『すごい』と賞賛を述べた絵を直視した。初めて、この時凝視した。視界の奥に焼き付いていく。
息が詰まる。目が凍る。
真夜がひっと息を引いた。
ゆらりぐらり。大魚は私たちをすり抜け、くるりと泳ぎ、口を開けた。白い歯が並んでいた。
魚が食らい付いたのは私のキャンバスだった。木の枠が砕かれていく幻影。布が引き裂かれていく幻覚。平面上のガラスが悲鳴のように割れていく。そんな幻想の中、真崎朝乃の名が水に滲んだ。
瑠璃の魚はオレンジ色のガラス玉を飲み込んで、砂のように崩れて消えた。目の前には何事もなかったかのように絵が二つ並んでいる。
私は声を失ったように立ち尽くしていた。
「ごめんなさい」
マヤが一人、泣きそうな顔をしていた。
その日から目が合わなくなった。その日から交わす言葉が少なくなった。
真夜の筆はどんどんと魔法の杖に変わっていく。
私の絵は相変わらず沈黙したままで、スケッチブックの落書きだけが増えていく。あの日から絵の具には触れていない。
目眩の理由も頭痛の原因も苛立ちのわけも知っている。知ってしまった。
「あ、アサノ……!」
怯えるように声をかける真夜が、腹立たしかった。腹立たしいと思っている私が、憎らしかった。
答える代わりに足を速める。
「アサノ!」
耐えられなかった。
「何、なんなの」
気がつけば私の声は鋭く尖っていた。
「あ……ごめ」
私が謝るよりも先に、真夜はそっと微笑んだ。
「ううんごめんね。なんでもない」
夕焼けは、割れそうなほどに赤かった。
その日が金曜日であったことを、カレンダーに感謝した。そして月曜日までもう五十時間も無いことを恨んだ。
全部見えてしまった。見せつけられてしまった。
『あの子』なんて呼び方、一体何様のつもりだったんだろう。
私は真夜を見ていなかったのだ。私を肯定した真夜を、私は肯定しなかった。あろうことか見下していたのだと、気付かされた。追い上げてくるのに、気付かなかった。真夜の努力を私は肯定しなかった。
都合良く蓋をして、気分良く先輩風を吹かせて。その果てが八つ当たり。
いっそ笑ってしまえばいい。
豆電球の灯りの中、ぎゅっと枕を抱きしめた。
泳ぐ瑠璃色の魚を見たときの感情がこびりついて離れない。
怖い。
真夜が怖い。
私が真夜の憧れでなくなるのが、怖い。
そして何よりも、真夜のなにもかもが羨ましい。気負いなく他人に好意を振りまけるところも、転がるガラス玉のような感性も、真夜にとっての絵そのものも。
オレンジ色の暗がりの中、私がどんどん白くなっていく。
ああなんだ。
だから私は魔法使いに、真夜に喰われたんだ。
月曜日。真夜の席は空白だった。
私の知る限り、真夜は身体が丈夫なはずだった。登校も早い。胃がぎゅうっと締め付けられる。
悩みに悩んだ末にメールを送っても、反応がないまま全ての授業が終わってしまった。担任は休みの連絡すらない、とぼやいている。
直帰するのも罪悪感、部室に行くのも抵抗感、と言った具合で校舎内を彷徨った末に靴箱へと辿り着く。
ふと、僅かに開いた靴箱を見つけた。ここは確か真夜の位置だ。先週閉め忘れたのかな、そう思って手を伸ばし──気付いた。
中にはローファーが入ったままだった。
私は脇目も振らず、部室へと駆け出して行った。
部室の扉の向こうには、扉があった。真っ赤な扉の絵が、イーゼルの上で存在を主張していた。
机の上に置かれた鞄は明らかに真夜のものだった。弁当箱には重量がある。朝、来ていたのだろう。
考えるのをやめた。
考える間もなく、結論が弾き出された。
きっとそれは、私のせいだから。
真夜はきっと扉の向こうに行ったのだ。疑問よりも先に確信が湧いた。
同じ魔法は一度しか起こらない。真夜の扉はもう意味をなさない。
絵の具の棚をひっくり返す。行事かなにかで買い込んだ余りだろう。大量に単色が見つかった。腕ほどにも太いチューブのアクリル絵の具を引っ掴む。
いつか何かを描きかけだったキャンバスに、そのまま青をぶちまけた。
陰影も立体感も装飾も、そんなものは知ったことか。画法も作法も何もかもあったものではない。
無粋なほどに鮮烈な青。
なんとか扉の絵であることは認識出来る、その程度。
それを私の最初の魔法にしなければならなかった。
しかし、いくら待てども何の反応も示さない。
「なんで」
何が足りない。いや、足りないものしかない。私に魔法はわからない。
私は、魔法使いになれない。
『高いところって、魔法が使えそうな気分にならない?』
「屋上……」
屋上に行かなきゃ。
真夜がそう、言ったから。
理性は多分、美術展のあの日から。とっくに迷子になっていたのだろう。
そして私は階段を、上る。
◆
これは、多分。呪文だ。
「すべての魔法は可視化され、思考回路は露呈した」
ノロイであってマジナイである、そんな言葉だ。
空色の列車の通路にあたしは立っていた。
水色ではない。座席もつり革も窓も、一面が空の色だ。まばらに散らばった雲が少しずつ形を変え、流れて行く。
この情景には覚えがある。顔をしかめた。去年の美術展の題材だ。朝乃の隣に飾られるのが、苦でしかなかった絵を思わせる。
振り返れば後ろの真っ赤な扉は消えていた。
方向幕は回送。
いつからこうしているのかわからない。
まあいいか──心境は、そんな感じ。
「見られたく、なかったな」
あたしは多分。夢を見ている。
美術の時間は好きだった。
昔から変わらない。絵は好きだ。ノートの隅に落書きはするし、二段重ねの箱入りの色鉛筆も持っている。あまり、使わなかったけれど。
ごくごく自然に絵を習いたいと言い出して、特に大した理由もなく絵画をやめた。
ほどほどに描けるようになって満足したのかもしれない。渇望も挫折も、なにもなかった。
もう一度絵を始めよう、そう思ったのは中学時代の美術展で見た絵だ。周りの作品よりも一際目立つ絵だった。柔らかい光が差し込むような絵。作者の名は真崎朝乃と言った。
再会は忘れた頃にやって来た。
乾かしている最中の、たまたま目に入った絵。美術の時間の課題。
見入った。動けなかった。
流石に中学時代の絵の作者名なんてあたしの記憶からは抜け落ちていて、その時にはわからなかったけど。
一目惚れだというのは間違いなかったはずだから。気がつけば美術部の戸を叩いていた。
掻き立てられたその感情を、『好き』で表すのは不適切だと、そう気付いたのは高校一年の夏、既に遅く。まだ完成すらしていない、朝乃の絵を見たときだった。
幾重に重なる色彩。織り込むような陰影。ミルクを流し込むような、光。
音が消えたような感覚だった。
波長とでも言うべきものなのか。あまりにもしっくりと、来てしまった。
何かが耐えられなかった。
あたしの中にある何かが累乗されたような──そんな奇妙な感覚。
いままで沢山絵は見て来た。沢山美術館に連れて行ってもらった。いいなと思った絵も、もう一度見たいなと思った絵も有り余るほどにある。
だけど何かが違うのだ。朝乃の絵は、違うのだ。
なんで。
なんでこの絵を描いたのはあたしじゃないんだろう。
そう思ってしまった時の嫌悪感をいまだ忘れられない。
何様だ。あたしは絵描きじゃないのに。絵描きじゃなかったのに!
こんな気持ちは間違ってる。同じ舞台に立つ人間がかき立てられるべき感情だ。曲がりなりにもそう思ってしまったのなら、そう思う権利が欲しいのなら──。
朝乃の視界に入ることもできない自分が許せなかった。
だからあたしはあの日扉を開いたのだ、と。
朝乃の隣を選んだ理由を、そのときに知った。
そのときから、あたしの日々は朝乃の心に残るナニカになるためにあった。
だけれども。
朝乃に追いつきたい一心で描いた魚の絵は、真崎朝乃の絵をあざ笑うかのように壊した。絵の中のガラスがばらばらに砕けていく。
あたしを馬鹿にするように。及川真夜の嫉妬心を嗤うように。
朝乃はあたしにとって、魔法使いだった。
たとえどれだけ魔法を手にしても。全ての物事が魔法に変わる前から、あたしに魔法をかけ続けた朝乃には届かない。
おいかけておいかけておいかけて、思い知った。
──あたしは、どうあがいても朝乃には成れないんだ。
通路を進む。空の上を歩いているような感覚。落ちてしまいそうなぐらいに澄んでいる。
次の車両へ移るドアは目に痛いほどに濃い青だった。
形が列車らしくない。手をかけるところがどこにもなくて、押すしかなかった。
軽く力を入れた、それだけで青い扉は砂のように崩れゆく。
「マヤ」
瞬きをした。それでも朝乃が扉の向こうにいたのは変わらない。
「なんでいるの?」
「頑張った」
「何その手。真っ青じゃん」
くす、と笑う。朝乃は笑わなかった。
いつものように真面目で堅苦しい、そんな目をしていた。初めて会ったときもそんな目であたしを見ていた、そんな気がする。
「覚えてる? 最初にアサノに会った時のこと」
朝乃は頷いた。
「あたし……まだ、ファンでいていいかな」
その問いかけに答えてはくれなかった。
「言わなきゃいけないことがあるの」
朝乃の言葉を黙って聞いた。
「あのね」
聞きたくないな、と思った。
◆
真夜の顔をじっと見つめた。
「あのね」
言いたくないな、と思った。
「私、すごく嫌な子だった」
言わなきゃならない、と思っていた。
「あたしとどっちが嫌な子か、勝負する?」
真夜は笑う。とても、角のある笑みだった。
私はそのまま黙り込む。
とっくに弾き出された感情は、今にも吹き出しそうに煮立っている。
久しぶりに合わせた真夜の瞳は何かを待っているようだった。
「私は──」
本当のことを言おうと思ってここに来た。このままじゃ駄目だと思って追いかけた。
「私は、マヤに──」
けれども意地っ張りな私は、まだ真夜の期待を、浴びたいと思ってしまった。
丸い目に見つめられ、すくむ。
言いたくない。たとえ全てがばれていたとしても、私の口からは言えやしない。
私が許しても、真夜が許さない。
そう思い込んで、決めつけてしまったその瞬間。全ての言葉が裏返されて行く。
私は真夜の絵に嫉妬した。
「私はマヤの絵が好きだ」
私は真夜に敵わない。私は真夜の期待を背負えない。だから私は。
「負けないから。私が、私の絵を一番好きになってやるんだから」
急ごしらえの宣戦布告。気持ちは何処かに置いて来た。
これはきっと半分以上嘘でできている。
無理矢理に出した結論は不完全で、言葉ほど私は割り切れていない。実体がない。耳障りだけがそれらしく、文脈すらも放棄した。
だからこれはただの呪文だ。真夜に憧れられるに足る私を演じた、願いを込めたおまじない。
それを見透かしたかのように、真夜も困った風に笑う。
「それ、すごくずるい」
それでも、結論の始まりになれないわけではなかったから。
「あーあ、折角アサノから逃げて来たのに」
真夜が子供っぽく、列車の廊下を跳ねるように踏み出した。
「帰ろっか」
「うん」
二人して苦笑する。窓の景色が戻り始めた。ちゃちな空色が暗く浅い夜色へと移り変わってゆく。
私は、真夜に目を向けない。
「ねえ、この前何を言おうとしたのか聞いていい?」
私が断ち切ってしまった金曜日の夕暮れを。真夜の言葉を。
一拍遅れて、思い当たり真夜は言葉を返す。
「だめ。いつか胸を張って言えるようになるまで、黙っておく。決めたの」
真夜の笑顔に沿うように、方向幕はぱたぱたと古くさく回る。
言いたいことも聞きたいことも、きっと大したことじゃなかったのだ。だから要らない。今はまだ。
列車の空色はゆっくりと滲んで消えた。
すべての事象が魔法である。
紙の上を踊る鉛筆も、ぴんと張りつめた白い布地も、混ざり合っては移りゆく色彩も、筆が描いた軌跡さえ。
だけどまだ、私たちは魔法使いにはなれない。
描く魔法と唱うイロ さちはら一紗 @sachihara
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