3 空の幻燈

 原初の記憶――

 乳の匂い。

 あまく抗しがたいかぐわしさの、血から変容された生命そのものの匂い。いまははるか遠い宇宙のかたすみの地球ガイアで最初の哺乳類の先祖が生まれて以来、等しく遺伝子の呪列コードに刻印された刺激。胎盤の庇護を出て、羊水に濡れたからだではじめて現世の大気を吸いこんで産声に喉を鳴らしたとき、抱きかかえられた胸からぷんと漂ってきた。それがこれからじぶんのからだを育むのだと知っていたから、ぼくはそれを口にふくんで心ゆくまで味わう。

 満腹したぼくの耳に、極上の乳にひけをとらないあまさの、やわらかなここちよい響きが降ってくる。と名づけられた呪詞プロトコル。ぼくはそれを受けとって、じぶんがじぶんであること、生まれてきたことの意味を知ってほほえむ。その韻律はこういっていた。

 ――あたしのマシムーン。



 ヒュゥ――リリリリリィッ!

 天鯨の巨大な鳴動をきりさくように、カマリがひときわかんだかい喉笛をあげる。

 それははじまりを告げるホイッスルだ。燃えるひとみには歓喜の色をたたえている。笑みにかたちづくられた唇が、そこからのぞく犬歯の獰猛な激情にいろどられている。少女のまま幼形成熟した肉体の器に、溢れるほどの狩人の意思がそそぎこまれて満ちる。若木のような手脚に限界まで引き絞られた弓さながらの力が溜められ、つばさがはためき、カマリはんだ。

 稲妻のように見えたカマリの勢いはしかし、天鯨のまっしろな表皮に近づくにつれておとろえてゆく。押し戻されるというよりは、無色透明な粘性のゼリーに突っこんでからめとられていくようなイメージ。天鯨がはじめて発見されて以来だれにも狩られていない理由のひとつが、これだ。おそらくは浮遊物質が天鯨の分泌液によってゲル状に濃縮、堆積されたものとわれている。やつがみずから呑みこむものを除いては、近づくことさえ困難なのだ。

 だが、カマリは止まらない。

 フスの山刀の切っ先を突きだし、かきわけるようにして進んでゆく。

 それを見てぼくは、じぶんの《呪言》がよく機能していることを確信した。

 カマリに捧げた山刀に織りこんだ呪列コードは、発現させれば浮遊物質の粒子どうしのまとまりをときほぐし解体してゆく。

 解体の《呪言》はもとより〈狩猟手〉の得意とするところだ――ぼくはカマリから学んだ呪列コードのいくつもの雛形をフスの種子に織りこみ、浮遊物質に作用する呪列コードを突きとめた。その精髄たる一振りが、あれだ。

 ぼくは天鯨から距離をとり、視覚をめいっぱいに向上してカマリの背中を見守っていた。かたく握りしめたてのひらが汗でぐっしょりと濡れているのを感じる。できることならじぶんもあの傍らに並んでいたかったが、ぼくにはぼくのまっとうすべき役目があった。

 カマリのすがたがみるみる超巨体へと肉迫し、やがてそのはてしなく広大な表皮へと到達する。

 同時に、山刀が渾身の力によって振りおろされる。

 刃が突きたてられる。

 天鯨は、まるで動じた様子もない。身をふるわせも、ほうこうに口をあけたりもしない。たとえ痛覚があったとしても、あのスケールではヒトが蚊に刺されたほども感じないだろう。

 生粋の〈狩猟手〉にとってそんなことは問題にならない。

 ぼくはじぶんの分身ともいえる山刀の刃を通して、カマリの《呪言》がいま発現するのを感じた。

 ぴしゃん、としずかな水面にしずくを落としたみたいに、カマリの突きたてた刃を中心として天鯨の表皮が、波紋のようにざわめく。タギリの生きものなら何者であれ、そこに致命的な力の機序を読みとったに違いない。抗いようもない権能を感じとったことだろう。

 ――死の泉。

 それが、あの《呪言》の名だ。

 こんこんと湧きでてくる尽きせぬ水脈のように、呪列コードが天鯨の奥深くまで浸透してゆく。外皮から肉体の奥へ、さらには肉体をかたちづくっている系そのものへと境界を侵襲する。その最奥にひそむ水源――タギリのあらゆる生きものに刻まれた生命の基幹部へと致命の毒を運んでゆく。

 それは、タギリにおけるもっともふるい契約だった。

 地球化テラフォームシステムがみずからの被造物たる生命に組みこんだ自壊のスイッチ。スクラップ・アンド・ビルド式の環境改造を成し遂げるためのそれは、いまでも機能を失っていない。そんなナイーブな基幹を護っている恒常系を侵襲し、自壊を誘発するとくべつの呪列コードのひとそろいが『死の泉』だ。いかに巨大であろうと、どれほど未知であろうと――タギリの生きものであるかぎり、これに抗うことはできない。

〈狩猟手〉の本質は、しゅを摘むものだ。

 生命を殺し、その肉とともに遺伝子を胎内にとりこみ、出産によってみずから望むかたちで再構築する。地球化テラフォームシステムからゆだねられた淘汰と再生の権能をふるうのが〈狩猟手〉の氏族だ。その力の最たるもの――死の泉がいま天鯨をとらえている。

 だが、いやな予感がした。

 ぼくは腕に抱えこんだままのンギリにちらりと目をやる。

 もっともすぐれた狩人でさえ、けものの牙にかかることはある――けれどこれは牙の仕業ではない。どんな力がンギリをこうしたのか?

 彼女もまた〈狩猟手〉ではなかったか。その力は通用しなかったのか――だとすれば、なぜ?

 ンギリのふたりの連れはどうなったのか?


 ――


 空間がふるえた。

 咆哮と呼ぶには低すぎる、可聴域を越えた振動の圧力が押しよせてくる――否、包みこまれる。

 それが天鯨の発したものであることに気づいたとき、ぼくは唐突に悟った。

 ――もしかするとぼくらは、とんでもない思い違いをしていたのではないか?

 しかしそのときにはすべてが遅く、《大渦巻》そのものよりとてつもない力の奔流がぼくの意識をさらってゆくのを感じた。



 ……トン。

 トン、トトン。

 水を伝わって振動が響く。あたたかくおだやかな場所で、その刺激を聴く。

 喉は肺まで水で満たされている。目はぴたりと閉じられている。味はなく、光もない。ただ、トン、トトンといつくしむようにタップされる振動と、羊水のゆらめきがここちよい刺激を与えてくれる。

 これはぼくの幻燈だ。

 まだ意識さえない、この世に生まてくる前の。

 胎盤のなかで、遺伝子の呪列コードがその設計図どおりに発生しぼくを組みあげてゆく過程。

《呪言》をあつかう者が、みずからを構成する呪列コードを知らない道理があるだろうか? 現に〈狩猟手〉はその変奏を演じることで、みずから自己書き換えをおこないさえする。

 そしてこれは、すでにおこなわれたことの忠実な再現だ。記憶というより記録。それがぼくの頭をとおして再演されている。

 トトン、トン。

 しかし、なぜ?

 かつてぼく自身の意識にのぼったことさえない幻燈。なぜそれをている……ているのは、はたしてぼくだけか?

 不意に羊水のあたたかさがかき消えて、ぞっとする戦慄がすべてを支配した。

 

 ぼくの、じぶんですら知らない領域を何者かが掘りかえしている。掘りだされて、あらわに散らばったぼくの深いところのかけらが、たまさか幻燈としてえているのだ。

 だれによって?

 考えられるのはひとつしかない。

 天鯨だ。

 天鯨がなにかを起こしているのだ。

 ンギリの姿が頭をよぎる。生きものであることをやめたみたいにぼろぼろに風化したようなからだ。その原因を推測するのはもはや難しくなかった。

 ぼくは意思を総動員してみずからの五官へと集中する。

 トン、トトン。

 ここちよい響き。

 幻燈だ。たとえそれが実際にあったかけがえのない事実だとしても、すでに過ぎ去った影絵でしかない。いま必要なのは、外界の、ほんものの刺激に耳を澄ませることだ。わずかな刺激をたぐりよせて増幅し、みずから意識を誘発する――ぼくは感覚を誘発することには長けている。幻燈に上書きされてどこかへ霧散してしまった表層意識を取りもどす。やるしかない。懸かっているのは、ぼくの命だけではないのだから。

 ――カマリ!

 ぼくはつがいの名を、あらんかぎりの声でさけんだ。



 ロロロロロロロロ――

 ぼくの喉笛。

 それを聴いてぼくは、じぶんが覚醒したことを知る。

 はじめに意識したのは痛みだった。鋼糸蔓ワイアードが右手にくい込んで血を流している。あらかじめカマリの腰に繋げておいた命綱だ――ぼくは思いきりそれをたぐりよせる。

 擦れてあふれだす血のなまあたたかさが、いやに現実だった。痛みをつたえる痛点のひとつひとつまでしゅんべつできそうなむきだしにクリアな感覚。これまでの官能向上の比ではない。はだを撫でていく《大渦巻》の流れや漂う匂いが可視化された細密画のように感じられ、鋼糸蔓ワイアードでつながったカマリの官能でさえわがことのように感じる。

 だから、カマリがどういう状態か知ることができた。

 ――『死の泉』は効いていない。

 そればかりか、突きたてた山刀の刃そのものが、天鯨の体内でかたちを喪いされつつあった。溶かすようにではなく、繊維のひとつひとつがばらばらにときほぐされるように。あるいは、彼女の肉体まで?

 天鯨は悠然とそこにたたずんだまま、身じろぎもせず浮かんでいる。カマリの突きたてた刃の傷は目に見えてちいさくなり、水面を切りつけた波紋のようにもはや消えそうになっている。

 ぼくは全力で鋼糸蔓ワイアードをたぐる。カマリをこちらへ引き戻すために。だが、重い。天鯨の周囲のゲル状物質が彼女のからだを捕らえている。感覚が極限まで鋭敏になっても、膂力の足しになるわけではない。

 畜生。

 ぼくが無力を呪いかけたそのとき、突然ものすごい力が加わるのを感じた。

「〈植林手〉はやっぱりひよわだ。ざまあない」

 ンギリだった。

 いつのまに覚醒したのか、蒼白でぼろぼろだったンギリが、残った右腕で鋼糸蔓ワイアードを掴んでいる。いまにも崩れそうにもろくなっていた肉体にふたたび力が宿っている。大木の幹のような脚がふくれあがり、腰を起点としてすさまじい膂力が振るわれる。

 ずず、と綱引きの均衡が崩れるように、カマリのからだが徐々に牽引されてくる。やがてコルク栓が勢いよく引き抜かれるみたいに、一気に天鯨のもとをはなれてぼくのふところまでとびこんできた。

「カマリ、カマリ!」

 返事はない。

 彼女に捧げた山刀はすでに解体されきってあとかたもない。その柄をつかんでいた右腕は漂白されたようにまっしろだった。それでも、生気は喪われきってはいない。

 ぼくは、ほう、と息をついた。

 ンギリはぼくらを見下ろしながら、

「そのうち気が付くだろうさ。わたしら〈狩猟手〉はあんたほど弱かない。まあ、あの蔓はそこそこ使えそうだったがね」

 ふところから無煙葉巻シガーをとりだしたンギリは、その先端を噛みちぎって咥え、かすかに眉をひそめた。唇が弾力をうしなってひび割れている。さきほど見せた力はすごいものだったが、肉体はいまだぼろぼろだった。むしろ、どうしようもなく朽ちかけている肉体を、驚異的な恒常性でぎりぎり繋ぎとめているように見えた。

「ンギリ、あなたはどうする気だ」

「どうするかだって? まるで〈狩猟手〉に、狩りのほかにすることがあるみたいな口をきくんだね、ぼうや」

 予想した答えだった。ンギリはやはり生粋の〈狩猟手〉で、芯まで狩人なのだ。

「違う……」

「なにが違う?」

「違うんだ、これは狩りじゃない。ぼくらはみな思い違いをしていた。みんな間違えていたんだ――ヒトが『天鯨』の存在を知ってからずっと。あれは獲物にはならない。んだ。それ以外に『死の泉』が通じない道理があるか? ぼくの深奥をのぞきこんだり、あなたやカマリのからだを解体しようとしたあのは、もっとはるかにふるくて強い権能だ――それをぼくは感じた。『天鯨』はきっとこの星の環境をつかさどっている系そのものに属する力か現象で、それがあたかも意思や肉のからだに見えているだけなんだ」

 ンギリは答えない。葉巻シガーを噛みながらぼくのことばを咀嚼している。

「あなたは火山の噴火や大津波や、この《大渦巻》そのものを狩れるとでも? あれは、そういう種類のものだ」

 ふいにぼくを見て、ンギリが歯を剥いた。それは喜びの笑みだった。

「素敵だ。素敵なことさ。天災にもし意思と肉があって牙を剥いてくるとしたら、そいつを狩ってみたいと――わたしはずうっとそう思ってた。命の天秤に釣り合うのはそんな存在だと信じていた。それが目の前にある。これほど素敵なことはない」

 無煙葉巻シガーの、ほのかにあまくかおる無色の息が吐きだされる。

「あなたはそうやってあれに立ち向かったのか。それで、ふたりの連れはどうなった?」

「わたしのせがれ? 死んだよ、ふたりとも」泰然とした声だった。怒りも、憎しみもない。ただ喪失の寂寥だけが感情だった。「キブとオドゥオール。わたしほどでないがすぐれた狩人だった。血気だけはわたしに勝っていた。だから、大銛をぶちあててわれさきにと殺到して、まっさきにあの振動をあびた。ふたりとも、わたしほどに強くはなかった」

「だからあなたはくのか、むすこを殺したものをたおすために?」

 ンギリは一瞬ほうけたような表情になり、つぎに声を漏らして苦笑した。思ってもみなかったことをどもから訊かれたというような仕草。

「仇討ちだとでも? やっぱりあんたは〈植林手〉だ。……そうじゃない。せがれは最期まで狩人だった。誉れだよ。わたしはそれがとてもうらやましい」

「死ぬことが?」

「いいや、命を懸けることさ。生と死のあわいを知ることが。わたしはいま、それをはじめておぼえた」

 精悍な眉の下でうっとりと、濡れたひとみが天鯨を見上げている。狂気はなく、凶暴さもない。敵意さえもなかった。けものを狩ることをはじめておぼえた幼い狩人の喜びにも似た感情がそこにたたえられていた。

 ンギリはごく自然な動作で、大銛をかつぎなおし、宙を蹴ってぼくの横をすり抜ける。悠然ととどまったままの天鯨のほうへ向かってゆく。

「待っ――」

 声は続かなかった。ことばが見つからない。孤高の〈狩猟手〉たるンギリをひきとめるべきことばも、哲学もぼくは持ちあわせていなかった。

 ンギリもそれを知っている。どんなことばも力も、彼女と天鯨のあいだに立ちふさがるものは何もないのだと。

 加速する寸前、ちらりとンギリがこちらを振り返って、

「あばよ。――栄えあれ、かわいい〈狩猟手〉と、〈植林手〉のぼうや」

 おおきな背中が、まっすぐに天鯨へと向けてちいさくなっていった。


     *


 ンギリの眼前に、広大でまっしろな天鯨の表皮がみるみる近づいてくる。

 まるで、処女雪の降りつもった海岸のようだ。ンギリと、ふたりのせがれと、それからあのかわいい狩人がつけた傷痕はもうすっかり埋まっている。ンギリは、心臓を凍らせる冬の海もおそれたことがない。新雪の砂浜にま新しい足跡をきざみ、一番銛を投げるのはいつもじぶんだった。

 まとわりつくゲル状物質を力づくでかきわけ、残った右腕を振りかぶる。ぴりぴりと、筋肉が古びたゴムのようにすこしづつ断裂してゆく不快な感触をンギリは感じた。意に介さず、さらに腕を全身ごと引き絞ってエネルギーを限界までたくわえる。そして、解放する。

 ――オォォォシオー!

 満身の喉笛をあげる。

 もはや応える者はないが、それで構わなかった。

 無双の投槍器スピアスロアーと化した肉体からはなたれた大銛はゲル状物質をたやすく切り裂き、深々と突き刺さる。

 それでも、やはり天鯨は動じない。そのはずだった。〈狩猟手〉の最高の権能たる死の泉の《呪言》さえ通じないのであれば、いったいこの星で何をおそれることがあるだろう? あるいは、おそれなどという観念すら持っていないのかもしれなかった。

 ――わたしと同じだったな、天鯨。

 ンギリはそうひとりごちる。

 だが、いまはもう同じではなかった。わなないて震えるてのひらを、太股にぴしゃりと叩きつける。はじめて自覚するおそれという感情を、ンギリは噛みしめていた。やけにここちよい感情だと思った。

 葉巻シガーが噛み切られて、落ちる。もう必要がなかった。ンギリの胸は、葉巻シガーのフレーバーよりもあまい歓喜で満たされていた。

 大銛の尻にくくりつけたロープをたぐって、ンギリはさらに天鯨へと接近する。やがてその突き立った表皮までたどりつくと、ふたたび大銛をにぎりしめた。歯を食いしばり、屹立する柱を引き倒すように力をこめる。どんなけものとも違う、奇妙な感触とともに天鯨の皮膚が裂けてゆく。そこからピンクがかった灰白色の肉がのぞく。ンギリは太腿を支点にして大銛をとし、さらに巨人の振るうくっさくのような膂力を発揮する。

 奥歯の砕ける感触がした。全身のそこかしこでいやな音がして、肉体がすこしずつ崩れて終わっていくのを自覚する。いや、もうすでに終わっているのかもしれなかった。すでに生命を喪っているからだを、じぶんを無敵たらしめてきた〈狩猟手〉としての系がンギリというかたちを保って動かしている。

 歯が残らず砕けるよりも、天鯨の皮膚が屈するほうが早かった。

 大銛が抜け、まっしろな雪原に深く長いきずのクレバスができていた。

 ――『死の泉』が通じないだって?

 ンギリは思う。

「それならそれで、やりようはいくらでもあるさ」

 クレバスをまたいでしゃがみこんだンギリは、左足のかかとと右手をそれぞれきずふちにあてがう。そして、割れ目をこじあけるように全身を踏ん張った。めりめりとクレバスが押し広げられてゆく。

 とてつもない膂力の継続。

 力だけではない。ンギリの《呪言》が、クレバスからのぞく灰白色の肉を同時に誘発している。それは呪列コードだった。

 ンギリは天鯨を生きたまま解体するつもりでいた。

 天鯨が生きていようといるまいと関係がない。生きていない岩を殺すことはできなくとも、ふたつに割ることも、ばらばらにすることもできる。ただ少々、巨大なだけのことだ。

 しかしンギリにとって、天鯨はただの岩などとは違う。ただ一種一頭の孤高へのシンパシー。たがいに天秤の両端をわかちあい、生と死のあわいを共有するとすれば天鯨以外にありえないという熱病めいた確信。それは、恋にも似ている。

 不意に、足元がぐらりと揺れた。

 まるで身じろぎをするように、天鯨の超巨体がゆらりと動く。

 効いているのか……わたしの力は天鯨に通じているのか?

 ンギリが自問した、そのとき――


 ――


 ふたたび、

 抗いようもない響きがからだを突きぬけてゆく。

 そのときンギリは、じぶんの望みが、ただの片恋でしかないことを知った。

 命の天秤をわかちあうなど、とほうもない思い上がりにすぎかったことを悟った。天鯨にとってじぶんは仕留めるべき獲物ではない。呑みこまれようとする肉でさえない。咀嚼されて、いま消化されつつあるのがわたしなのだ。

 ――それが、どうした?

 ンギリは力を発揮しつづける。

 唐突に、右の視界が失われる。右目の感覚がなかった。痛みはなく、ただやたらにすうすうと風が吹き抜けるようなせきばく。だが、そこに手をやって確かめるわけにはいかなかった。どうなろうと、の力をゆるめる気はもとよりない。

 からだに目を落とすと、すべてがまっしろだった。天鯨のはだと同じ色。波に洗われて漂白された、あの偉大な母の屍体のようだと思った。

 残された左の視界にふと、母の姿がよぎった気がした――否、確かにそれはそこにあった。

 なかば砂に埋まって、陽光にぎらつく波打ち際でたわむれる海水にひたひたと撫でられる、まっしろに朽ちた母の幻燈をた。

 これがじぶんの原風景であると、ンギリは知っている。

 ――かあさん。

「そうさ」唇のない母が口をきいた。「わたしのむすめ、あんたのうらやましがったわたしだよ」

 ぽっかりとあいた、眼球のないふたつのあながンギリを見つめている。生前の面影はなくとも、それは母でしかなかった。

 ――もうきっと、うらやましがることはない。いま願いを遂げようとしてるのだから。

「願いだって? じぶんの心を知った気でいるわたしのむすめ。じゃあこれも知っているかい、わたしがずっとあんたを疎んでいたこと、ねたんでいたことを?」

 ――知っていたさ、かあさん。

「あんたには父がない。わたしがじぶんで対となる呪列コードを組みあげて、ひとりでみごもったのがあんたさ。それはどこでもやってることだけど、たまたまあんたは特別だった。突然変異だった。あんたはだれとも違って、どんなすぐれた狩人のよりも強かった。もちろん、母であるあたしよりも。あたしは狩りのわざをみんな教えたけど、あんたの強さをかたちづくったのはわたしの形質でも智慧でもなく、運命盤の生みだした偶然の呪列コードだった。それが〈狩猟手〉にとってどれほど屈辱か、あんたはけっして分からない」

 ――わたしはだれよりも強かったから。

「だから、分からないのさ。獲物に命を懸けざるをえない、あんたよりも弱い狩人のことを。母のわたしがあんたに抱いた感情がどういうものかも。知りはしても、理解することはできなかった――それであんたは願ったのさ。命の天秤をね。あんたを《大渦巻》まで来させてここまで導いてきたものは、あんたの願いは、そこからみな出発している」

 ――。

 ンギリは、幻燈の母のことばがたとえ真実であれ、それがほんものの母ではありえないことを理解していた。

 対話している相手は、わたし自身だ。意識にさえのぼったことのない深層から掘りかえされたわたしの遠い遠い断片が、朽ちた母のかたちで再構成されている。じぶんであるがゆえに、それは真実でしかなかった。

 べつの幻燈がまたたいて、視界を横切っていった。

 せがれのオドゥオールがふわふわと泳いでゆく。その頭はで綿をほぐすように分解されていて、もはやのっぽとは呼べない。もうひとりのキブは左半身がなく、半分だけの顔でほほえんでいる。

 そのうしろでは無数のけものの群れがゆらゆらと漂いながら列をなしている。それはみなわたしの狩ってきた獲物だった。わたしが死を与えてきた、わたしの血肉の記憶から掘り起こされてきたものどもの葬列だった。

 まっしろに朽ちた母はあいかわらずそこにいて、眼球のない目で見つめている。

「呪いだとは思わないかい」

 ――これは狩人の誉れだ。

「呪いだとは思わないか」母はくりかえした。「狩人は獲物の血肉を食らって満たされる。だがあんたはかつえたままだった。おそれを知らず、死を知らず、それがため生きることも知らなかった。これが呪いでなくて何なのだと? そしていま、はじめておそれを知った。おめでとう、わたしのむすめ。願いは遂げられる。あんたは無為に死んで、呪いは成就する」

 ンギリは答えない。

 クレバスのふちにかけた手脚をさらに引き絞る。もはや五体の感覚は失われていた。耳はきこえず、味や匂いもない。もしかすると視覚さえすでになく、彼岸の心象に幻燈がゆらめいているだけなのかもしれなかった。それでも、やることに変わりはない。

 天鯨。

 天鯨だ。

 ――呪いであれ何であれ、わたしは満足さ。わたしは生きたいように生きて、そしてく。それを導いてきたものがあるとすれば、何であろうと、それこそがわたしの祝福なんだ。だから――ありがとう、かあさん。わたしを産んでくれた。

 幻燈の母は、それきり何も語らず、ゆっくりと波にさらわれていき、やがて見えなくなった。

 ふたつのあなが、最後までンギリを見つめていた。

 幻燈が終わる。

 それは、ンギリの底の底、最後のひとかけらまで掘りかえし尽くされたことを示していた。

 クレバスをなおも押し広げようとしている脚は、すでにからだと繋がっていない。

 からだが境界をうしない、ぼやけた輪郭からやがて空に融けるように希釈されてゆく。

 痛みはなく、苦しみもなかった。それらの官能を生じさせる機能も、ンギリの肉体にはもう残されていない。すべての感覚が、綿がこまかな繊維にときほぐされるように四散して融けあい、風のように吹き去ってゆく。

 ンギリとして統合されていた意識の核だけが最後まで残っていたが、それもほどなく失われる。

 ――あばよ、天鯨。

 そうして、ンギリという存在はあとかたもなく消失した。


     *


 ぼくは空に融けていったンギリを見送った。

 消えていくその瞬間は、かつて見たどんな狩人の死に顔よりもやすらかに思えた。

 その願いが何であったにせよ、彼女の満願成就のときが今日この瞬間であったのだ。

 ンギリをおいては他に誰もできなかっただろう――天鯨の広大な腹を長く長く横切る亀裂だけが、その証を刻んでいる。

「――あいつは、ったのか」

 意識を取りもどしたカマリが、ぼくのかたわらに立っていた。

「ああ、『天鯨』に呑みこまれて消えた。一歩間違えれば、ぼくらもそうなってた」

 そうか、と呟いて、カマリはじぶんの右腕に目を落とす。

「山刀が無くなってしまった。あたしに捧げられたマシムーンの精髄が」

「あとでぼくの一振りのほうを渡すよ。きみが持っていた方がいいはずだ。しばらくしたら、もっと強くて美しい刃を鍛えよう。ぼくの至高の一振りは、いつでもきみのものだ」

 狩りは終わりだ。

 というより、最初から狩りですらなかったのだ。

 夏至の日が沈む頃には《大渦巻》もほどけて消える。そして天鯨も空の果てにかえる。そうなる前に、地上へ戻る算段をしなくてはならなかった。獲物があろうとなかろうと、狩人は去らなければならない。

「いいや、マシムーン。いまそれが欲しい。山刀をあたしにくれ」

「どうして?」

「夏至はまだ終わってない。いくらあたしでも、得物なしで『天鯨』とやりあえるものか」

 ぼくは肩をすくめて、カマリの燃えるひとみをのぞきこむ。

「終わったんだよ。ンギリの最期を見ただろう? もはや狩りじゃない。帰るんだ、カマリ」

 カマリの目がきゅっと細まり、赤い舌がちろりと犬歯の先を舐める。この仕草はむかしからよく知っている。――聞き分けのない奴め。そう、ぼくに言い聞かせるときのかおだ。

「あたしを舐めるな、マシムーン」腕が蛇のように頭を掴み、ぼくの顔を乳房に押しつける。「ひとりでかせるものか。あたしを帰らせて、おまえはひとりでく気だろう。こう考えているはずだ――『天鯨』があれほどのきずを受けることがこの先あるだろうか、すぐれた狩人がどれだけ束になっても、この機会をおいて他に――と? かわいい探求心のばけもの。おまえのことは何でも知ってる。それはおまえが、だからだ」

 あたたかなカマリの乳房に、ぼくは幻の匂いをかぐ。あまい乳の匂い。きっと幻燈の副作用だ――記憶からの連想がたやすく現実めいた錯覚に結びつく。いまカマリは孕んでおらず、だから乳房も張ってはいないが、その匂いはたしかに憶えている。

 ぼくとつがいになる以前、カマリはぼくのだった。

〈植林手〉の母となるのは〈植林手〉しかいない。母でないもう一方が父だ。

 母とは、ペアとなる遺伝子の片方のひとそろいと、結合した遺伝子の形質を発生させる元となる核を提供するものをいう。

 その核を〈植林手〉は、とくべつの呪列コードを固体(たとえば琥珀など)に刻みこんでつくりだす。これを誘発して、保護と栄養の循環をおこなう系さえ調えればとしてかたちをなす。〈植林手〉によってはある種の樹木を利用することもある。という揶揄の原因だった。

 けれどぼくは、木の股から生まれてはいない。

 カマリのはらからぼくは生まれた。

 その乳でぼくは育った。

 はじめての出産だったと聞くが、それ以前の彼女をぼくは知らない。カマリの方では、ぼくがどう生まれて、どういうふうに乳を飲んだかまで余すところなく知っていた。かなわない。なんて不公平だと思う。

「カマリ、けど――」

 ことばを塞がれた。カマリはぼくの頭を両手ではさみこむようにして、くちづけてくる。舌を吸われて、犬歯の先でもてあそばれる。おどろくほど熱かい。

「聞け、マシムーン。あたしは『天鯨』の本質をほんのすこし垣間見たんだ。あのにやられずに肉薄することが、できるかもしれない――あたしならば。だというのにあたしを帰すというのか、あたしのつがい?」

 否応はなかった。

 獰猛な愛撫から解放されたぼくは、のこり一振りとなったフスの山刀を手渡す。

「きみのものだ。でも、そいつにはぼくの《呪言》が組みこまれてる。だからきみが振るい、ぼくが誘発する」

「それでいい。――さて急ごうか、マシムーン。やつもそろそろ、かえろうとしてるみたいだ」

 見ると、いかなる襲撃にも動じず、そこに留まったままでいた天鯨が、からだをその場で廻すように動きはじめていた。方向転換をするつもりなのか、もときた空の果てへと向かって?

 決意した以上、逃すつもりはない。

 ぼくはポシェットから一本の小枝を取りだし、誘発する。あたりに漂う物質を取りこんで尖端から長く、硬く鋭く伸びて成長する。穿刺樹スティンガーの枝による投げ槍。その根元に鋼糸蔓ワイアードをくくりつけ、天鯨めがけて投擲する。

 ぼくの膂力とりょうでは、射程も威力もンギリやカマリのそれとは比べものにならない。まともにやれば周囲のゲル状物質に阻まれて届かないだろう。けれど、ぼくが狙ったのはンギリの刻みつけたきずの付近だ。いまだ再生しきらないそこは、被っていたゲル状物質ごとぽっかりと空白地帯のようになっていた。

「食らわせたぞ。さあ、カマリ」

 差しだした手を、カマリが強く握りしめる。

 次の瞬間、ぎん、と張り詰めた蔓に引っ張られる衝撃。向きを反転させた天鯨が、猛然と天側へと泳ぎはじめたのだ。

 いいだろう。

 ともについて行こう、空の果てまで。

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天鯨の空 @bolero_MURAKAMI

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