3 空の幻燈
原初の記憶――
乳の匂い。
あまく抗しがたいかぐわしさの、血から変容された生命そのものの匂い。いまははるか遠い宇宙のかたすみの
満腹したぼくの耳に、極上の乳にひけをとらないあまさの、やわらかなここちよい響きが降ってくる。喜びと名づけられた
――あたしのマシムーン。
ヒュゥ――リリリリリィッ!
天鯨の巨大な鳴動をきりさくように、カマリがひときわかんだかい喉笛をあげる。
それははじまりを告げるホイッスルだ。燃えるひとみには歓喜の色を
稲妻のように見えたカマリの勢いはしかし、天鯨のまっしろな表皮に近づくにつれておとろえてゆく。押し戻されるというよりは、無色透明な粘性のゼリーに突っこんでからめとられていくようなイメージ。天鯨がはじめて発見されて以来だれにも狩られていない理由のひとつが、これだ。おそらくは浮遊物質が天鯨の分泌液によってゲル状に濃縮、堆積されたものと
だが、カマリは止まらない。
フスの山刀の切っ先を突きだし、かきわけるようにして進んでゆく。
それを見てぼくは、じぶんの《呪言》がよく機能していることを確信した。
カマリに捧げた山刀に織りこんだ
解体の《呪言》はもとより〈狩猟手〉の得意とするところだ――ぼくはカマリから学んだ解体の
ぼくは天鯨から距離をとり、視覚をめいっぱいに向上してカマリの背中を見守っていた。かたく握りしめたてのひらが汗でぐっしょりと濡れているのを感じる。できることならじぶんもあの傍らに並んでいたかったが、ぼくにはぼくのまっとうすべき役目があった。
カマリのすがたがみるみる超巨体へと肉迫し、やがてそのはてしなく広大な表皮へと到達する。
同時に、山刀が渾身の力によって振りおろされる。
刃が突きたてられる。
天鯨は、まるで動じた様子もない。身をふるわせも、
生粋の〈狩猟手〉にとってそんなことは問題にならない。
ぼくはじぶんの分身ともいえる山刀の刃を通して、カマリの《呪言》がいま発現するのを感じた。
ぴしゃん、としずかな水面にしずくを落としたみたいに、カマリの突きたてた刃を中心として天鯨の表皮が、波紋のようにざわめく。タギリの生きものなら何者であれ、そこに致命的な力の機序を読みとったに違いない。抗いようもない権能を感じとったことだろう。
――死の泉。
それが、あの《呪言》の名だ。
それは、タギリにおけるもっとも
〈狩猟手〉の本質は、
生命を殺し、その肉とともに遺伝子を胎内にとりこみ、出産によってみずから望むかたちで再構築する。
だが、いやな予感がした。
ぼくは腕に抱えこんだままのンギリにちらりと目をやる。
もっともすぐれた狩人でさえ、けものの牙にかかることはある――けれどこれは牙の仕業ではない。どんな力がンギリをこうしたのか?
彼女もまた〈狩猟手〉ではなかったか。その力は通用しなかったのか――だとすれば、なぜ?
ンギリのふたりの連れはどうなったのか?
――オオン
空間がふるえた。
咆哮と呼ぶには低すぎる、可聴域を越えた振動の圧力が押しよせてくる――否、包みこまれる。
それが天鯨の発したものであることに気づいたとき、ぼくは唐突に悟った。
――もしかするとぼくらは、とんでもない思い違いをしていたのではないか?
しかしそのときにはすべてが遅く、《大渦巻》そのものよりとてつもない力の奔流がぼくの意識を
……トン。
トン、トトン。
水を伝わって振動が響く。あたたかくおだやかな場所で、その刺激を聴く。
喉は肺まで水で満たされている。目はぴたりと閉じられている。味はなく、光もない。ただ、トン、トトンといつくしむようにタップされる振動と、羊水のゆらめきがここちよい刺激を与えてくれる。
これはぼくの幻燈だ。
まだ意識さえない、この世に生まてくる前の。
胎盤のなかで、遺伝子の
《呪言》をあつかう者が、みずからを構成する
そしてこれは、すでにおこなわれたことの忠実な再現だ。記憶というより記録。それがぼくの頭をとおして再演されている。
トトン、トン。
しかし、なぜ?
かつてぼく自身の意識にのぼったことさえない幻燈。なぜそれを
不意に羊水のあたたかさがかき消えて、ぞっとする戦慄がすべてを支配した。
だれかがぼくを盗み視ている。
ぼくの、じぶんですら知らない領域を何者かが掘りかえしている。掘りだされて、あらわに散らばったぼくの深いところのかけらが、
だれによって?
考えられるのはひとつしかない。
天鯨だ。
天鯨がなにかを起こしているのだ。
ンギリの姿が頭をよぎる。生きものであることをやめたみたいにぼろぼろに風化したようなからだ。その原因を推測するのはもはや難しくなかった。
ぼくは意思を総動員してみずからの五官へと集中する。
トン、トトン。
ここちよい響き。
幻燈だ。たとえそれが実際にあったかけがえのない事実だとしても、すでに過ぎ去った影絵でしかない。いま必要なのは、外界の、ほんものの刺激に耳を澄ませることだ。わずかな刺激をたぐりよせて増幅し、みずから意識を誘発する――ぼくは感覚を誘発することには長けている。幻燈に上書きされてどこかへ霧散してしまった表層意識を取りもどす。やるしかない。懸かっているのは、ぼくの命だけではないのだから。
――カマリ!
ぼくは
ロロロロロロロロ――
ぼくの喉笛。
それを聴いてぼくは、じぶんが覚醒したことを知る。
はじめに意識したのは痛みだった。
擦れてあふれだす血のなまあたたかさが、いやに現実だった。痛みをつたえる痛点のひとつひとつまで
だから、カマリがどういう状態か知ることができた。
――『死の泉』は効いていない。
そればかりか、突きたてた山刀の刃そのものが、天鯨の体内で
天鯨は悠然とそこにたたずんだまま、身じろぎもせず浮かんでいる。カマリの突きたてた刃の傷は目に見えてちいさくなり、水面を切りつけた波紋のようにもはや消えそうになっている。
ぼくは全力で
畜生。
ぼくが無力を呪いかけたそのとき、突然ものすごい力が加わるのを感じた。
「〈植林手〉はやっぱりひよわだ。ざまあない」
ンギリだった。
いつのまに覚醒したのか、蒼白でぼろぼろだったンギリが、残った右腕で
ずず、と綱引きの均衡が崩れるように、カマリのからだが徐々に牽引されてくる。やがてコルク栓が勢いよく引き抜かれるみたいに、一気に天鯨のもとをはなれてぼくのふところまでとびこんできた。
「カマリ、カマリ!」
返事はない。
彼女に捧げた山刀はすでに解体されきってあとかたもない。その柄をつかんでいた右腕は漂白されたようにまっしろだった。それでも、生気は喪われきってはいない。
ぼくは、ほう、と息をついた。
ンギリはぼくらを見下ろしながら、
「そのうち気が付くだろうさ。わたしら〈狩猟手〉はあんたほど弱かない。まあ、あの蔓はそこそこ使えそうだったがね」
ふところから無煙
「ンギリ、あなたはどうする気だ」
「どうするかだって? まるで〈狩猟手〉に、狩りのほかにすることがあるみたいな口をきくんだね、ぼうや」
予想した答えだった。ンギリはやはり生粋の〈狩猟手〉で、芯まで狩人なのだ。
「違う……」
「なにが違う?」
「違うんだ、これは狩りじゃない。ぼくらはみな思い違いをしていた。みんな間違えていたんだ――ヒトが『天鯨』の存在を知ってからずっと。あれは獲物にはならない。生きものですらないんだ。それ以外に『死の泉』が通じない道理があるか? ぼくの深奥をのぞきこんだり、あなたやカマリのからだを解体しようとしたあの振動は、もっとはるかに
ンギリは答えない。
「あなたは火山の噴火や大津波や、この《大渦巻》そのものを狩れるとでも? あれは、そういう種類のものだ」
ふいにぼくを見て、ンギリが歯を剥いた。それは喜びの笑みだった。
「素敵だ。素敵なことさ。天災にもし意思と肉があって牙を剥いてくるとしたら、そいつを狩ってみたいと――わたしはずうっとそう思ってた。命の天秤に釣り合うのはそんな存在だと信じていた。それが目の前にある。これほど素敵なことはない」
無煙
「あなたはそうやってあれに立ち向かったのか。それで、ふたりの連れはどうなった?」
「わたしのせがれ? 死んだよ、ふたりとも」泰然とした声だった。怒りも、憎しみもない。ただ喪失の寂寥だけが感情だった。「キブとオドゥオール。わたしほどでないがすぐれた狩人だった。血気だけはわたしに勝っていた。だから、大銛をぶちあててわれさきにと殺到して、まっさきにあの振動をあびた。ふたりとも、わたしほどに強くはなかった」
「だからあなたは
ンギリは一瞬
「仇討ちだとでも? やっぱりあんたは〈植林手〉だ。……そうじゃない。せがれは最期まで狩人だった。誉れだよ。わたしはそれがとてもうらやましい」
「死ぬことが?」
「いいや、命を懸けることさ。生と死のあわいを知ることが。わたしはいま、それをはじめておぼえた」
精悍な眉の下でうっとりと、濡れたひとみが天鯨を見上げている。狂気はなく、凶暴さもない。敵意さえもなかった。けものを狩ることをはじめておぼえた幼い狩人の喜びにも似た感情がそこに
ンギリはごく自然な動作で、大銛をかつぎなおし、宙を蹴ってぼくの横をすり抜ける。悠然ととどまったままの天鯨のほうへ向かってゆく。
「待っ――」
声は続かなかった。ことばが見つからない。孤高の〈狩猟手〉たるンギリをひきとめるべきことばも、哲学もぼくは持ちあわせていなかった。
ンギリもそれを知っている。どんなことばも力も、彼女と天鯨のあいだに立ちふさがるものは何もないのだと。
加速する寸前、ちらりとンギリがこちらを振り返って、
「あばよ。――栄えあれ、かわいい〈狩猟手〉と、〈植林手〉のぼうや」
おおきな背中が、まっすぐに天鯨へと向けてちいさくなっていった。
*
ンギリの眼前に、広大でまっしろな天鯨の表皮がみるみる近づいてくる。
まるで、処女雪の降りつもった海岸のようだ。ンギリと、ふたりのせがれと、それからあのかわいい狩人がつけた傷痕はもうすっかり埋まっている。ンギリは、心臓を凍らせる冬の海もおそれたことがない。新雪の砂浜にま新しい足跡をきざみ、一番銛を投げるのはいつもじぶんだった。
まとわりつくゲル状物質を力づくでかきわけ、残った右腕を振りかぶる。ぴりぴりと、筋肉が古びたゴムのようにすこしづつ断裂してゆく不快な感触をンギリは感じた。意に介さず、さらに腕を全身ごと引き絞ってエネルギーを限界までたくわえる。そして、解放する。
――オォォォシオー!
満身の喉笛をあげる。
もはや応える者はないが、それで構わなかった。
無双の
それでも、やはり天鯨は動じない。そのはずだった。〈狩猟手〉の最高の権能たる死の泉の《呪言》さえ通じないのであれば、いったいこの星で何をおそれることがあるだろう? あるいは、おそれなどという観念すら持っていないのかもしれなかった。
――わたしと同じだったな、天鯨。
ンギリはそうひとりごちる。
だが、いまはもう同じではなかった。わなないて震えるてのひらを、太股にぴしゃりと叩きつける。はじめて自覚するおそれという感情を、ンギリは噛みしめていた。やけにここちよい感情だと思った。
大銛の尻にくくりつけたロープをたぐって、ンギリはさらに天鯨へと接近する。やがてその突き立った表皮までたどりつくと、ふたたび大銛をにぎりしめた。歯を食いしばり、屹立する柱を引き倒すように力をこめる。どんなけものとも違う、奇妙な感触とともに天鯨の皮膚が裂けてゆく。そこからピンクがかった灰白色の肉がのぞく。ンギリは太腿を支点にして大銛を
奥歯の砕ける感触がした。全身のそこかしこでいやな音がして、肉体がすこしずつ崩れて終わっていくのを自覚する。いや、もうすでに終わっているのかもしれなかった。すでに生命を喪っているからだを、じぶんを無敵たらしめてきた〈狩猟手〉としての系がンギリという
歯が残らず砕けるよりも、天鯨の皮膚が屈するほうが早かった。
大銛が抜け、まっしろな雪原に深く長い
――『死の泉』が通じないだって?
ンギリは思う。
「それならそれで、やりようはいくらでもあるさ」
クレバスをまたいでしゃがみこんだンギリは、左足のかかとと右手をそれぞれ
とてつもない膂力の継続。
力だけではない。ンギリの《呪言》が、クレバスからのぞく灰白色の肉を同時に誘発している。それは解体の
ンギリは天鯨を生きたまま解体するつもりでいた。
天鯨が生きていようといるまいと関係がない。生きていない岩を殺すことはできなくとも、ふたつに割ることも、ばらばらにすることもできる。ただ少々、巨大なだけのことだ。
しかしンギリにとって、天鯨はただの岩などとは違う。ただ一種一頭の孤高へのシンパシー。たがいに天秤の両端をわかちあい、生と死のあわいを共有するとすれば天鯨以外にありえないという熱病めいた確信。それは、恋にも似ている。
不意に、足元がぐらりと揺れた。
まるで身じろぎをするように、天鯨の超巨体がゆらりと動く。
効いているのか……わたしの力は天鯨に通じているのか?
ンギリが自問した、そのとき――
――オオ、オオン
ふたたび、振動。
抗いようもない響きがからだを突きぬけてゆく。
そのときンギリは、じぶんの望みが、ただの片恋でしかないことを知った。
命の天秤をわかちあうなど、とほうもない思い上がりにすぎかったことを悟った。天鯨にとってじぶんは仕留めるべき獲物ではない。呑みこまれようとする肉でさえない。すでに咀嚼されて、いま消化されつつあるのがわたしなのだ。
――それが、どうした?
ンギリは力を発揮しつづける。
唐突に、右の視界が失われる。右目の感覚がなかった。痛みはなく、ただやたらにすうすうと風が吹き抜けるような
からだに目を落とすと、すべてがまっしろだった。天鯨の
残された左の視界にふと、母の姿がよぎった気がした――否、確かにそれはそこにあった。
なかば砂に埋まって、陽光にぎらつく波打ち際でたわむれる海水にひたひたと撫でられる、まっしろに朽ちた母の幻燈を
これがじぶんの原風景であると、ンギリは知っている。
――かあさん。
「そうさ」唇のない母が口をきいた。「わたしのむすめ、あんたのうらやましがったわたしだよ」
ぽっかりとあいた、眼球のないふたつの
――もうきっと、うらやましがることはない。いま願いを遂げようとしてるのだから。
「願いだって? じぶんの心を知った気でいるわたしのむすめ。じゃあこれも知っているかい、わたしがずっとあんたを疎んでいたこと、
――知っていたさ、かあさん。
「あんたには父がない。わたしがじぶんで対となる
――わたしはだれよりも強かったから。
「だから、分からないのさ。獲物に命を懸けざるをえない、あんたよりも弱い狩人のことを。母のわたしがあんたに抱いた感情がどういうものかも。知りはしても、理解することはできなかった――それであんたは願ったのさ。命の天秤をね。あんたを《大渦巻》まで来させてここまで導いてきたものは、あんたの願いは、そこからみな出発している」
――。
ンギリは、幻燈の母のことばがたとえ真実であれ、それがほんものの母ではありえないことを理解していた。
対話している相手は、わたし自身だ。意識にさえのぼったことのない深層から掘りかえされたわたしの遠い遠い断片が、朽ちた母の
べつの幻燈がまたたいて、視界を横切っていった。
せがれのオドゥオールがふわふわと泳いでゆく。その頭は振動で綿をほぐすように分解されていて、もはやのっぽとは呼べない。もうひとりのキブは左半身がなく、半分だけの顔でほほえんでいる。
そのうしろでは無数のけものの群れがゆらゆらと漂いながら列をなしている。それはみなわたしの狩ってきた獲物だった。わたしが死を与えてきた、わたしの血肉の記憶から掘り起こされてきたものどもの葬列だった。
まっしろに朽ちた母はあいかわらずそこにいて、眼球のない目で見つめている。
「呪いだとは思わないかい」
――これは狩人の誉れだ。
「呪いだとは思わないか」母はくりかえした。「狩人は獲物の血肉を食らって満たされる。だがあんたは
ンギリは答えない。
クレバスの
天鯨。
天鯨だ。
――呪いであれ何であれ、わたしは満足さ。わたしは生きたいように生きて、そして
幻燈の母は、それきり何も語らず、ゆっくりと波に
ふたつの
幻燈が終わる。
それは、ンギリの底の底、最後のひとかけらまで掘りかえし尽くされたことを示していた。
クレバスをなおも押し広げようとしている脚は、すでにからだと繋がっていない。
からだが境界をうしない、ぼやけた輪郭からやがて空に融けるように希釈されてゆく。
痛みはなく、苦しみもなかった。それらの官能を生じさせる機能も、ンギリの肉体にはもう残されていない。すべての感覚が、綿がこまかな繊維にときほぐされるように四散して融けあい、風のように吹き去ってゆく。
ンギリとして統合されていた意識の核だけが最後まで残っていたが、それもほどなく失われる。
――あばよ、天鯨。
そうして、ンギリという存在はあとかたもなく消失した。
*
ぼくは空に融けていったンギリを見送った。
消えていくその瞬間は、かつて見たどんな狩人の死に顔よりもやすらかに思えた。
その願いが何であったにせよ、彼女の満願成就のときが今日この瞬間であったのだ。
ンギリをおいては他に誰もできなかっただろう――天鯨の広大な腹を長く長く横切る亀裂だけが、その証を刻んでいる。
「――あいつは、
意識を取りもどしたカマリが、ぼくのかたわらに立っていた。
「ああ、『天鯨』に呑みこまれて消えた。一歩間違えれば、ぼくらもそうなってた」
そうか、と呟いて、カマリはじぶんの右腕に目を落とす。
「山刀が無くなってしまった。あたしに捧げられたマシムーンの精髄が」
「あとでぼくの一振りのほうを渡すよ。きみが持っていた方がいいはずだ。しばらくしたら、もっと強くて美しい刃を鍛えよう。ぼくの至高の一振りは、いつでもきみのものだ」
狩りは終わりだ。
というより、最初から狩りですらなかったのだ。
夏至の日が沈む頃には《大渦巻》もほどけて消える。そして天鯨も空の果てに
「いいや、マシムーン。いまそれが欲しい。山刀をあたしにくれ」
「どうして?」
「夏至はまだ終わってない。いくらあたしでも、得物なしで『天鯨』とやりあえるものか」
ぼくは肩をすくめて、カマリの燃えるひとみをのぞきこむ。
「終わったんだよ。ンギリの最期を見ただろう? もはや狩りじゃない。帰るんだ、カマリ」
カマリの目がきゅっと細まり、赤い舌がちろりと犬歯の先を舐める。この仕草はむかしからよく知っている。――聞き分けのない奴め。そう、ぼくに言い聞かせるときの
「あたしを舐めるな、マシムーン」腕が蛇のように頭を掴み、ぼくの顔を乳房に押しつける。「ひとりで
あたたかなカマリの乳房に、ぼくは幻の匂いをかぐ。あまい乳の匂い。きっと幻燈の副作用だ――記憶からの連想がたやすく現実めいた錯覚に結びつく。いまカマリは孕んでおらず、だから乳房も張ってはいないが、その匂いはたしかに憶えている。
ぼくと
〈植林手〉の母となるのは〈植林手〉しかいない。母でないもう一方が父だ。
母とは、ペアとなる遺伝子の片方のひとそろいと、結合した遺伝子の形質を発生させる元となる核を提供するものをいう。
その核を〈植林手〉は、とくべつの
けれどぼくは、木の股から生まれてはいない。
カマリの
その乳でぼくは育った。
はじめての出産だったと聞くが、それ以前の彼女をぼくは知らない。カマリの方では、ぼくがどう生まれて、どういうふうに乳を飲んだかまで余すところなく知っていた。かなわない。なんて不公平だと思う。
「カマリ、けど――」
ことばを塞がれた。カマリはぼくの頭を両手ではさみこむようにして、くちづけてくる。舌を吸われて、犬歯の先でもてあそばれる。おどろくほど熱かい。
「聞け、マシムーン。あたしは『天鯨』の本質をほんのすこし垣間見たんだ。あの振動にやられずに肉薄することが、できるかもしれない――あたしならば。だというのにあたしを帰すというのか、あたしの
否応はなかった。
獰猛な愛撫から解放されたぼくは、のこり一振りとなったフスの山刀を手渡す。
「きみのものだ。でも、そいつにはぼくの《呪言》が組みこまれてる。だからきみが振るい、ぼくが誘発する」
「それでいい。――さて急ごうか、マシムーン。やつもそろそろ、
見ると、いかなる襲撃にも動じず、そこに留まったままでいた天鯨が、からだをその場で廻すように動きはじめていた。方向転換をするつもりなのか、もときた空の果てへと向かって?
決意した以上、逃すつもりはない。
ぼくはポシェットから一本の小枝を取りだし、誘発する。あたりに漂う物質を取りこんで尖端から長く、硬く鋭く伸びて成長する。
ぼくの膂力と
「食らわせたぞ。さあ、カマリ」
差しだした手を、カマリが強く握りしめる。
次の瞬間、ぎん、と張り詰めた蔓に引っ張られる衝撃。向きを反転させた天鯨が、猛然と天側へと泳ぎはじめたのだ。
いいだろう。
ともについて行こう、空の果てまで。
天鯨の空 @bolero_MURAKAMI
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