2 天鯨
蛮星タギリ。
銀河にちらばる、ほかの
それはタギリの自然が、ほかのどれよりも野蛮だからだ。
けして飼い慣らされることのない、強壮なダイナミズムによって運行される系。しなやかで、かぐわしく、とどまることをしらない変化に身をゆだねつづけている。あまたの
大ンガイの座から見晴るかす大地は、そのことを雄弁にものがたっている。
西側のふもとには、きのうまでねぐらにしていた灌木の点在する乾いたサバンナ。その平野が、
あのジャングルは、はるか南方からやってきたのだろう。植生と、木々にかこまれてある、液体のターコイズを流し込んだような湖の空色でそれがわかる。南で生まれた濃緑の大地が、湖を引き連れながらここまで旅してきたのだ。その恒常性は、もう一方の西生まれの大地よりも強いらしい。すこしずつ、確実に相手のサバンナを咀嚼し、呑みこんで、消化しにかかっている。
さらに遠くをみわたすと、山脈が育っているのがわかった。北西のむこうでは、山が
タギリの大地は、ちいさな生きものどもよりも騒々しい。
地層など、残らないほどに。
いくつもの大地とそこに根ざす生態系のそれぞれが、あたかも境界をもった生きものの個体のように、ある種の恒常性を保ちながら動きまわっている。ぶつかりあい、ときに食みあい、ときに新たな大地を生みながら巨視的な変化をとげてゆく。
タギリに
なぜタギリがこうなったのか、〈呪言手〉どもが
ひとつは、
ひとつは、いにしえの力。
あるいは、蛮星タギリそのものが
いずれにせよ、たしかなことがひとつある。
タギリではあらゆるものが
それは生きものや大地に限ったことではない。
大気もまたタギリの一部だ。
「ああ――すばらしい風だ、マシムーン。あたしの羊水とおなじ匂いがする」
夜が明けるにつれて暴風と呼ぶにふさわしくなってきた大気を胸いっぱいに味わい、カマリは自慢のたてがみをたなびかせた。
タギリは、
かわりに蛮星のまわりをめぐっているのは、ふたつの目にみえない圧力だ。
異なる公転速度を持つふたつの力は、一定周期でタギリをめぐりつづける超巨大低気圧の塊としてぼくらの前に
そして年に一度、ふたつの力の周期がかさなり、タギリ最大の連峰をもひとのみにする、巨大なひとつの渦巻く風域を生みだす。
《大渦巻》。
それが、この夏至の日だ。
《大渦巻》は海から海、大陸から大陸をわたり、あらゆるものをまきあげて運び、その高さは大気の限界である宇宙との界面圏までおよぶという。
ぼくらの目的は、その《大渦巻》のなかを泳ぐ天鯨を狩ることだった。
ぼくはポシェットをまさぐり、必要なものが必要なだけそろっていることを確認する。
「――おまえは、誘発しなくていいのか?」
のぞきこみながらカマリが声をかけてきた。
「ぼくはまだこのままでいい。《大渦巻》の泳ぎかたには習熟してるし、きみの足はひっぱらない。まあ、きみと同じようには、やりたくてもできないけど」
「じゃあせめて、あたしのを見ているといい」
カマリは腰布をとりさって全裸になると、目を閉じて、出産のときのように息をはいたり吸ったりはじめる。
大気にさらされたあわい金色のつつましやかな陰毛がふるふるとふるえている。金色の毛、まっくろな
ヒュゥゥゥリリリリリリリ――
すきとおった喉笛が響きわたる。
それをきっかけとするように、彼女に変化がおとずれる。
かつてカマリの子宮に刻みこまれ、ちいさく畳みこまれていた獲物の
変化はそれだけでは終わらない。
額のあたりにざわざわとふたつの隆起があらわれ、そこから包皮が剥けるようにして、熟れてはじける寸前の
つづけて脇腹のまわりがうごめき、肋骨のあいだをぬうようにして、内側から
いくつものけものども由来の
それがカマリの力だ。
もっとも得意とする《呪言》であり、〈狩猟手〉の誇る力。
からだが弓なりにそりかえる。目が陶然と開かれて、唇のすきまからまっしろな犬歯とあかい舌がのぞく。ぼくは彼女のかたわらでそっとからだを支えながら、熱っぽい吐息と、とめどなくあふれてくるあらゆる体液の匂いをかいだ。そのまま、カマリは何度も絶頂した。
誘発を終えたからだはこのうえなく美しかった。
《大渦巻》を
さながら、天のけもの。
カマリは濡れた全身をゆらめかせながら、産まれたばかりのけものの
「きれいだ、カマリ。きみの刃はきっと『天鯨』にも届く」
ぼくは心からの賛辞をおくる。
カマリはしめりけのある声で、
「あたしと、おまえのだ。遅れるな――さあ、日が昇る!」
――東の地平線が灯る。
まもなくちいさな隙間にはいりこむ水のように光がさしこみ、あたりの大地を横溢してゆく。タギリの太陽が一面を照らし――そして、どんな蜃気楼よりも巨大なシルエットをうかびあがらせた。
天地を支える柱。
あるいは、宇宙から地表までさしこまれた逆円錐。
くろぐろと、夜の海とおなじ色をして大気を旅する奔流。
海の水も、大地の木々も、あらゆるものを巻きあげて、そのなかに閉じこめたまま際限なく膨らんでゆく
《大渦巻》だ。
そこから吹きつけてくる暴風が、粘性のあるコロイドのようにからだにまとわりつく。
そして、体重がすこしずつ消失してゆくのを感じる。
錯覚ではない。これは、大気と宇宙との
やがて《大渦巻》が大ンガイの山腹をも蹂躙して山頂まで呑みこんだとき、ぼくらのからだは完全に大地を離れ、宙を舞ってとてつもない奔流のなかに吸いこまれていった。
まず必要となるのは、空間把握だ。
地面がないところでは、ヒトはいともたやすく上下を誤る。
海でおぼれる者は、海上にあがろうともがいて海底へむかって水をかいて死ぬ。それは、地上に住まうものが
《大渦巻》のなかでは、流れが重力のかわりに基準となる。渦ぜんたいの回転方向はつねに一定――地面に対して反時計回りだからだ。つまり、大きな流れにむかう矢印に対する法線が《大渦巻》の外方向と中心方向、その直交が天方向と地方向になる。
ぼくは全身の官能をひきあげ、からだを容赦なくもみくちゃに洗ってゆく奔流を仔細に感じとる。皮膚感覚のひとつぶひとつぶを空間をとらえるためのセンサとする。
そして、じぶんの感覚中枢を誘発する。
重力ではなく流れで、
とたんに、すべてが明瞭になった。脳をかきまわすような浮遊感が消えてなくなり、おだやかな平原によこたわっているような安定感を宙にうかんだまま味わう。
ぼくはカマリのように肉体を誘発するのは不得手だけれど、感覚を誘発することにかけては自負がある。
それが、この日のためにみがいた《呪言》だ。
「――カマリ、聴こえるか!」
見渡せるまわりにカマリのすがたはない。
うっかり、突入するときに手を放してしまったのだ。
《大渦巻》のなかは外からながめた印象よりも明るかったが、視界は五〇歩長、官能をぎりぎりまであげて一五〇歩長というところだ。音もかきみだされて伝わりにくいから喉笛もとどきにくい。
はやく合流しなければ。
カマリならひとりでもやりとげるかもしれないが、それでは一緒に来た意味がない。
焦りかけたとき、ぐん、と強烈な力が背中を押すのを感じた。
漂流物か、と思った。《大渦巻》のなかでは巻きあげられて閉じこめられた大木や巨岩やけものの屍といった無数のものが高速で流れている。激突すればひとたまりもない。
だがぼくは無事だった。相手は漂流物ではない。
「あたしはここだ、マシムーン」
ふりむくとそこにはカマリの顔があって、にやりと笑いかけてきた。だらしないぞ、という表情。からかうように顔に乳房をおしつけてくる。やわらかく、あたたかい。彼女はぼくを抱きかかえるような格好で流れを渡りながら、《大渦巻》の中心方向へと泳ぐ。
カマリはみごとに《大渦巻》の流れをのりこなしていた。
といって、感心してばかりではいられない。ずっと彼女に抱っこされているわけにはいかない。ぼくはポシェットから種子をとりだし、誘発する。
それは、背丈ほどもあるひとひらのぶあつい葉だ。
カマリの胸からはなれると、ぼくは葉にとりついて流れに乗った。ちょうど海で波に乗るように、葉の裏面で流れをとらえ、傾きによって動きをコントロールする。大地に根を張らず、風に舞って旅をする
「〈植林手〉の
ぼくはカマリの横にならんで、おなじはやさで進みながら言う。
「ああ、いいものだ。もっといいものもたくさん持ってきているんだろ? やつに出くわすときが愉しみだ――」
カマリは
そもそも天鯨について、ヒトはわずかの知識しかもっていない。
ふだんは界面圏にある浮遊物質の雲のなかをぷかぷかと漂っているのが、この夏至の日に《大渦巻》にのっておりてきて、地上から巻きあげられたいろんなものを食らってまた天へのぼっていくのだと
では天鯨はどのようにして生まれた種で、系統樹のどこに属し、いかなる生態系を構成しているのか――それらの問いに答えられるものはない。界面圏は
だいたい、いかに浮遊物質をまとっているとしても、あそこまで巨大な生きものが大気の希薄な界面圏あたりに浮いたままでいられることが謎である。浮力を生みだすための強大な
ともかく天鯨というのは未知だらけだ。
けれど、生きものであることには違いない。
ならば仕留めることも可能であり、〈狩猟手〉にとって偉大な生きものを狩ることは、その偉大な力をみずから得るということだ。――それがかれら〈狩猟手〉の存在目的といってもいい。
だからカマリが天鯨を狩ろうとするのはごく自然の本能だ。
同じように考える〈狩猟手〉が彼女だけではないことも、また自然のなりゆきだろう。
ヒュイッ!
不意にカマリが喉笛をあげた。
その指さす先には、奔流のなかを進んでゆくみっつの影。いずれもおおきな槍のような長大な得物をかついでいるらしい。その一団が速度をおとして方向を変えるのが見えた。こちらへ近づいてくる。
――オーシオー!
太く、どっしりとした勇壮な響きがきこえてきた。
ぼくやカマリとも異なる鳴音法と
かれらはそれで相互にやりとりをしているようだった。訓練された、群れで狩りをすることに長けた氏族の作法。群れの統率がだれかも、喉笛をあげる順番でわかる。統率が最初で、ほかのものがそれに応じる。
――オラオー!
――オーォシオォー!
やがて、おたがいのすがたがよく見えるところまで近づいた。相手は女ひとりと男ふたりの一団。
三人の統率らしいひとりは、たくましく
まるで千年樹の幹だ。
がっしりとした骨格のうえを、たばねた鋼線のような筋肉が被っている。背丈はぼくをかるく越える高さで、目方の差はきっとそれ以上だろう。その背丈よりも長く、腕ほども太い柄の銛を軽々と背にかついでいた。
ぼくは《大渦巻》の奔流にまじってかすかに漂ってくる、かれらのまとう匂いをかいだ。
潮と陽。
波間をねぐらとする海のものの匂いだ。
「わたしはンギリ」
そう女は名乗る。
潮でやけた、低くとおる声だった。
ぼくらはたがいの名をつげあう。ンギリの横にひかえる男はいずれも若く、頭を坊主にした屈強な男がキブ、のっぽで痩せぎすの男はオドゥオールといった。
「――あんたらも夏至参りに?」
ンギリは値踏みするように、ぼくらを頭からつまさきまでじっと
「そうだ。『天鯨』を狩りにきた」
答えるカマリに、ンギリはくっ、と歯をむいた。嘲弄のこもった笑みだ。
「地べたでけものを追いかけてる狩人と、草を植えてあるくのが生業の木の股生まれとが、かい。やめときな。いくら羽をはやそうが、あんたら地べたの氏族に空をゆく『天鯨』は荷が重すぎるってものさ」
「海の狩人だって、空で生きてはいない。おまえたちも
「はっ!
ンギリは片腕だけで背中から大銛をぬくと、その切っ先をぼくらの前に突きつけた。気を抜けば
「いや」ぼくは口をはさんだ。「まだ『天鯨』を仕留めたものはだれもいない」
「なら、わたしらがその最初になるさ。相手によっちゃ組むのもありかと思ったけど、やめとくよ。地べたのもの、ましてやひよわな〈植林手〉じゃね」
「同感だ。こっちも、あたしのマシムーンをあなどるやつと組む気はない」
ふっ、とンギリは鼻をならす。
「あんただけなら考えないこともなかったんだよ、カマリとやら。……まあいい。あんたらがどうしようと勝手だけど、せいぜいわたしらの邪魔はしないことさ」
大銛をかつぎなおしたンギリは、ぼくらにそっぽをむくと、ふたたび《大渦巻》の中心方向へむかって加速した。そのあとにふたりの男キブとオドゥオールがつづく。
やれやれ、とぼくは肩をすくめた。
「きらわれたみたいだ」
「きらわれて困ることがあるのか?」
とカマリ。憤っているというよりは、もう関心がないといった声。合わなければおたがい好きにやるのがいい――と、筋道は違うにせよンギリとおなじ結論に至ったのだろう。狩人とはそうしたものだ。
「困ることはないが、協力しあえるならそれに越したことはない――あの様子じゃとりつくしまもなかったが。なにしろ『天鯨』は分からないことが多すぎる。ぼくにとってこれは、どうやって『天鯨』を狩るかというよりは、いかに『天鯨』を明らかにするかという問題なんだ。……ああいや、もちろんカマリに仕留めてはほしいが」
「そいつはいいな」カマリは大まじめな口調で、「じつに〈植林手〉らしい考えかただ」
「狩人らしくないという意味?」
「そのほうがいい。狩人どうしなら結局は獲物の取りあいになる。目指すものが違えば、いくらでも協力しあえる。それがマシムーンとあたしだ」
カマリは
目指すものがおなじである以上、たぶんンギリとはまた遭うことになるだろう――なにしろ確認されている『天鯨』の個体は一頭しかないのだ。
それまで、おたがい生きていればの話だが。
*
ンギリは無煙
すこしバニラがかって甘い、えぐみのある煙をそのまま液体に濃縮したようなかおりが鼻に抜け、喉にも落ちてゆく。ンギリは漁のときいつもそれを咥えている。火を使わないから波しぶきで駄目になることがないし、そのおかげで《大渦巻》のなかでもやれるのはよかった。
ついさっき遭ったカマリという狩人のことをンギリはわずかのあいだ反芻していたが、それもすぐに頭から追い出してしまった。
からだつきは好みだし、狩りの腕もそれなりに立つのだろう――それにああいう眼をしたむすめを力ずくで屈服させるのは、いかにもおもしろそうだ。そうやってねじふせた獲物から遺伝子の
天鯨。
天鯨だ。
わたしはずっとそれを求めてきた。
ンギリが天鯨というものの存在を知ったのは、ほんの去年のことだ。けれどそれこそがじぶんのちいさな頃から求めていたものだと、ンギリは信じて疑わなかった。組み玩具に欠けていたピースがあることに、指摘されてはじめて気づいたような感覚。そうか、わたしにはずっとこれが欠けていたのか。
ンギリにとって漁とは、狩りとは食餌を手にする手段であり、たまに気がむけば
もちろんそれはほかのほとんどの狩人にとっても同様だったが、おとなの狩人どもがどうして狩りに命がけになるのか、ンギリはちいさな頃から不思議でならなかった。なぜ、じぶんよりもひよわなけものを狩るのに、命を天秤にさしだすようなふりをしなければならないのか?
二歳の頃、たくさんの同郷者を殺した、だれにも
まだ初潮がくる前からンギリのからだは同郷のだれよりもおおきく、かたく、しなやかだった。巨人が
それならわたしは、なにに命を懸ければよいのだろうか?
四歳の頃、ンギリの母が死んだ。
下半身を海竜類かなにかに食いちぎられて、上半身とちぎれた足の先っぽが砂浜に打ち上げられていた。腐肉食性のちいさな蟹どもについばまれる、波に洗われてまっしろになったからだ。すっかり漂白されきったからだからはほのかにすえた腐敗臭がするだけで、偉大な面影をしのばせる匂いはかき消えていた。
ンギリはそうしたものをすでに見慣れていた。じぶんより強い獲物に立ちむかう、それとも横から別の捕食者に襲われる――そうして死んだり不具になったりする狩人は珍しくない。
ひどく母がうらやましく思えたのをンギリは憶えている。
あるいはンギリも、からだが老いさばらえて衰えきったときに、いつかそうした目に遭うことがあるかもしれない。そいつは御免だ、と思った。そうなる前に、衰える前に母は命を懸けることができたのだ。
それからンギリはさまざまなことを試してみた。
タギリじゅうの海や山野や、空まで渡り歩いてみたが、思うような獲物にはついぞ出遭わなかった。
できるだけ――じぶんほどではないにせよ、強い女や男を愛人にみつくろって
ンギリが必要とするものは、どんなに死力を尽くしても完膚無きまでに蹂躙されかねない相手だった。
じぶんの命を天秤にさしだすに足りるものだった。
そんな満たされない願望にたましいが
なによりも
ンギリはそのとき、生まれてからはじめて抱く感情を自覚した。
それはシンパシーだった。
わたしの天秤につりあうかもしれない――わたしとおなじ相手!
これがヒトであったなら
ただちにじぶんの
――そしていま、ンギリは天鯨のひそむ《大渦巻》のなかにいる。
もうずいぶんと泳いだ。そろそろ流れの中心帯にとどいてもいい頃だ。
天鯨は、いつも《大渦巻》の中心軸付近にいると聞いている。流れのまんなかをほとんど垂直にとおって、界面圏から大気をもぐってくるという。とはいえ、いま中心軸のどのあたりにいるかまでは分からない。
捜すとすれば上方向か下方向どっちだ、とンギリが逡巡したとき、ふいにあたりの奔流が乱れるのを感じた。
まるで、おそろしく
そのときンギリは、喉笛を聴いた気がした。
かつて耳にしたこともない、
空間すべてをふるわせるような、
音というにはあまりに低すぎる振動を――
ンギリはたしかに聴いた。
――オオオン
*
ぼくとカマリは中心帯外域の流れをすべるようにのぼっていた。
《大渦巻》のまんなかは台風の目と同じく回転方向への流れがなく、地方向へと流れこむ対流がある――それが天鯨の通り道であるはずだった。そこからすこし外側に外れた流れを、つるまき
このあたりでは流れがいくらかおだやかで、まわりをみわたす余裕さえあった。おかげで漂流物のようすを観察することもできる。ぼくの目にとまるのはもちろん植物類だ――
漂流物には《大渦巻》の力で無理矢理に巻きあげられた不幸な動植物も多いが、すべてがそうではない。風や虫どもが繁殖のための運び屋として草花に利用されるように、暴力的な天災そのものに思える《大渦巻》にも同じことがいえた。生きものはあらゆる環境に適応して現象をしたたかに利用する。まして、このタギリではなおのことだった。
目の前を、背丈の三倍ほどある
もともとタギリの〈植林手〉とは木を植えて利用する者のことではない。
その本質は、
遺伝子や
カマリやンギリのような〈狩猟手〉が本能的に新しい獲物を求めるように、〈植林手〉であるぼくは新しい生態系を求めている。
それが天鯨だ。
天鯨は、とてつもなく
島や、地表を動きまわる大地ひとつぶんほどもあるといわれるが、その正確なサイズを測ったものはいまだない。
それだけ巨大なものは、タギリではそれ自体が生態系として成立していることがほとんどだ。たとえば深海にたゆたう無定形の巨大な太母は、その体内で完結する独自の食物連鎖が成立した生態系を有しているという。天鯨にも同じことがいえる可能性は高い。
仕留めてしまえばそれも失われるかもしれないが、生きものである以上は個体が一頭きりということもあるまいし――体内を調べるにはそれしかない。それに、巨大な生きものの死骸はそれも生態系として成立しうる。もっとちいさな海の鯨でさえ、深海に沈んだ死骸は腐肉食や分解者どもの一大コロニーとして機能するのだ。
天鯨は、どうやって生まれてくる?
天鯨は、どうやって死ぬ?
生態系のなかで、いかなる役割を果たすのが天鯨なのか?
これらの答えは、このタギリの生態系を支配する摂理を解き明かす鍵となるに違いない。
それがぼくの――〈植林手〉の誉れだった。
ふと、唐突にぼくはカマリに訊いてみたくなった。
きみはどうして、天鯨を狩る?
不思議なことに、これまで一度たりとも言葉にしてそれを確かめたことがなかった。おたがいにだ。まるで
〈狩猟手〉の本能?
けれどそれは前提にすぎない。
たとえば生きものが
あのンギリという狩人にも、ぼくにも、もちろんカマリにもそれがあるはずだった。天鯨を追うことを心に決めた、その瞬間が。
カマリのからだのすみずみの匂いまでぼくは知っている――どんなときにどういう顔で笑うのかも、出産のときに喉を鳴らす音と仕草まで。けれどほんとうのところぼくは、カマリのことをまるで知らなかったのじゃあないか?
ぼくが口を開きかけた、そのとき、
――――――ン
「マシムーン」
「ああ、ぼくも感じた」
ぼくらは視線を交わしてうなずきあう。
天方向のそう遠くないところから伝わってくる、あたり一面をふるわせる異様な振動。それは目指すものが近いことを知らせていた。
カマリとぼくは震動の発信源に向かって速度をあげる。
と、そのとき、地に向かう対流に流されてひとつのシルエットが降ってくるのを視界にとらえた。
「あれは――」
ぼくはとっさにターンして腕をのばし、それを受けとめた。じぶんの体重よりもある目方をかろうじて支える。勢いであやうく取り落とすところだった。ぐったりとして力なく、もし受けとめ損ねていればはるか地表まで墜落していたかもしれない。
それは、ンギリの巨躯だった。
からだじゅうがぼろぼろで、左腕はトルソの塑像のように欠損している。はちきれんばかりに束ねた鋼線のようだった肉の張りは、土くれみたいにしなやかさを失ってたよりない。傷口には奇妙なことに血痕さえなく、あたかもそこから風化してえぐれたかのようだった。力でつけられた傷でもなければ、毒でもない。
《呪言》だ。
そう、直感した。
天鯨が《呪言》をあやつるだって?
思考がめまぐるしくまわる。どんな意思によって? いかなる
「――いる!」
カマリが叫んだ。
その瞬間、天方向で《大渦巻》の奔流がおおきくかきわけられるように、ぐわん、と歪んだ。
天からまっしろな、とほうもない広さの曲面が迫ってくるのを、ぼくは見る。まるで空の蓋がゆっくりと降りてきたように思えた。その奥にはかりしれない体積の存在と、まぎれもない生命の
ただひたすら巨大な紡錘形としか言いようがない。
かたちこそ似ても似つかないけれど、ヒトがこれに鯨――
天から降りて呑みこんでゆくもの。
《大渦巻》の
天鯨。
その威容がいま、ぼくの目の前にあった。
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