天鯨の空
@bolero_MURAKAMI
1 夏至のはじまり
タギリの夏至は、風とともにやってくる。
はるか東方から運ばれてきた潮の匂いとしめりけを孕んだ大気が、渇いた大地にしがみつく
風が匂いを運んでくる――。
土埃と、地に根を生やす地衣類と堅強な木々、その間をかけずりまわる地のけものとさんざめく虫ども、はるか遠くの潮騒、波間をいきかう水の落とし子のざわめき、……それらタギリじゅうの生きとし生けるものどもの息づかいすべてがかき混ぜられた濃密な匂いとなって吹き抜けてゆく。
それは夏至のおとずれを意味していた。
カロロロロロロロロ――
ぼくは氏族につたわる喉笛を真夜中の空に捧げると、衣服のほかはたったふたつの持ち物である
ふもとから中腹に近づくにしたがって、あたりのさざめきは大きくなっていく。
地中に住まうものどもはいそいそと巣にもぐりこみ、そうでない地上のものどもはいっせいにふもとのほうへ殺到する。ちいさな多足類や蟹どものたてる無数の足音がぞろぞろと絶え間なく響き、次いでがさがさと藪をかきわける中型のけものの群れ、そしてひときわ巨大な竜類どもが地を踏みならす震動をベースリズムとするハーモニーが大ンガイ一帯を横溢する。
かれらはみな、逃れようとしているのだ。この風の向こうからやってくる《大渦巻》から。
いつか夏至の陽が大ンガイの座から見えるころには、このあたりは息ひとつなく、まっさらな静寂に包まれていることだろう。そうなってしまってからでは、ぼくは食べるものもなく、すきっ腹をかかえて夏至の朝を迎えることになる。
そいつはごめんだ。
ぼくは駆けながらジャンプすると、強靱なしなりのある若木の枝をつかみ、その反動と全身のバネをつかって空中にとびあがる。槍の穂先みたいにとがった棘の木に気をつけながら、放物線の頂点ちかくで別の枝にとりつき、さらに上をめざす。密林の天蓋のように屹立する巨木どもの樹冠のはるかてっぺんへと。
――いた。
薄闇に見わたす木々の間をどしんどしんと駆けぬける、竜類よりも高い首と美しいくちばしをそなえた眼のさめるような蛍光紅の巨体。ハグゥワドだった。
ぼくは幸運への感謝を大ンガイに呟くと、契約のことばをいにしえの
カロゥロルルルルルルル……
ただひとつ不安なのは、あのハグゥワドの個体がどこか遠い別の文化圏に属する氏族の誘発をうけた末裔で、ぼくの知らない異なる
ハグゥワドは立ち止まってくちばしをこちらに向けると、くっくっと値踏みするように二、三度首をかしげる。クゥルル、という承諾を意味する
ぼくはかれの首の根元まではいあがると、てのひらに青と黒で刻まれた文様をそこへ押しあて、じかに
――ソラ、ソラ、さあどうした、《大渦巻》までにはまだ間がある、それまですこしぼくに付きあっちゃあくれないか、けものの氏族の
――好奇と承諾、よろこびの汽笛!
筋肉の敷きつめられた巨大な樽のようなハグゥワドの胴がぶるりとうちふるえると、まださざめきの鳴りやまない上方の六合目あたりへと地響きが逆走をはじめた。行き先はかれが知っている。おそらくは狩りの相手にふさわしい、すばしこく強壮な竜類のねぐらへと。
ハグゥワドの首のたてがみにつかまったぼくは、揺れにリズムをあわせながらようやく一息をついた。
そういえば、たてがみのあるハグゥワドというのもめずらしい。
ぼくはポシェットから
赤に金毛まじりのたてがみ。
遠目の暗がりでは気づかなかった色彩。
それはカマリの氏族がつたえる象徴だった。カマリ、むかしぼくと
ロロゥ! と期待に喉を鳴らすと、その気分にひたる暇もなく、地響きにまじって低い竜類のうなりがすこしずつ近づいてくるのを感じた。
さあ、狩りの時間だ。
やがて行く手にめざす竜類の群れが見えてくる。
ぼくは視覚の官能をいっきにあげて、連中のすがたを仔細にとらえる。
視えるかぎり六頭の群れで、竜類としてはややこぶりな中型の小といったところ。それでも背丈はぼくの三倍はあり、するどく曲がった後脚のかぎ爪はひとつひとつがぼくの顔面ほどに長い。それを突きたてる俊敏さときたら、のっそりした巨竜類の比ではないだろう。そんなやつらが踵の隠し爪まで伸ばして殺気をぎらつかせながら、鼻をふんふんと鳴らして警戒態勢にはいっている。つまりぼくらの襲撃は匂いと音でとっくにばれており、連中はそれに備えている。……いい感じだ。
ルルル、とぼくはハグゥワドに指示して、竜どものすがたが官能向上なしに見えるほどじゅうぶん近づいたところで一気に反転、逆走させる。
そして右手にフスの山刀を抜き、左手にポシェットからとりだした
――いまだ!
投げた
風を裂く触覚とともに、官能をあげた視覚にぐんぐんと近づく竜類の鼻先がとびこんでくる。やつが獲物だ。
狙いは完璧だった。
なにしろこの
ぼくは宙を飛びながら抜き身の山刀を振りかぶる。
やつが跳びあがってかぎ爪を突きだすのが見える。
山刀の刃がひらめく。
二頭が交錯する。
衝撃。
カロロロロロ……
まもなく響き渡ったのはぼくの喉笛だった。
フスの山刀。
ぼくの氏族が誘発した精髄である、
その一撃が竜類のかぎ爪を砕き、さらに堅牢な表皮と肉を裂き骨まで断っていた。
なまあたたかい血の匂いがたちこめ、風がそれをさらっていく。獲物はまだかろうじて息があったが、もう立ち上がることはないだろう。
ォォン、
と怨嗟のうなりをあげてのこり五頭の竜どもが殺到してくる。
バック宙して体勢をたてなおし、連中のかぎ爪をすんでのところでかわす。激突の勢いでからだじゅうが
そこへ地響きが近づいてくる。ハグゥワドの足音だ。狩りのなりゆきを見届けにきたのだろう。
ぼくは喉をうならせ、竜類の
――ソラ、ソラ、もうじき《大渦巻》がやってくる、おのれらもろとも巻き込まれるのが早いか、復讐の爪が届くが早いか、一族ことごとく絶えるとひきかえに試してみるか――でなければこの大ンガイから離れて永らえるか、選ぶ間はないぞ、ソラ、ホウッ!
――憤り、憤り、諦念……。
やつらも引き際はこころえている。ハグゥワドの巨体にはどんなかぎ爪も通じないし、逃げるぼくに追いつくまで時間をついやす危険はおかさない。竜どもは悲しげなうめきを一声あげると、ほかの虫とけもののさざめきにあわせて大ンガイのふもとへとくだっていった。
あとにのこされるのは、狩人に与えられた獲物の肉だ。
もはや息もない。
ぼくは山刀で獲物の首を切り落とし、大ンガイに感謝を捧げると、その腹を割いてハグゥワドにさししめした。
――
かれは感謝の
そのほかの肉はぼくのものだが、ひとりぶんには多すぎる。ぼくと同じく夏至参りにきているだろうやつらに分けようにも、ほかの連中を探すには時間がもったいない。そうこうしているうちに空が白みはじめるだろう。
さてどうしたものか、と逡巡するうち、山頂側から猛烈な勢いで近づいてくるなにかを視界の端にとらえた。
まるで崖をころがりおちる岩のはやさでまっすぐにぼくめがけてとびこんでくる一陣の風。
ちいさなからだ、若木のようにしなやかな手足、まっくろな
ヒュゥゥゥリリリリリリリ――
かん高く、どこまでもまじりけのない喉笛が大ンガイの山腹にこだました。
――カマリ!
ぼくは
地を蹴ったカマリが鞠みたいに宙を舞い、その勢いのままぼくにおおいかぶさるように山刀を振りおろしてきた。
ギィン!
ふたりのあいだで火花が爆ぜる。
ふたつの姉妹刀の刃が縫い止められたように拮抗してつながりあう。
ぼくの脚は勢いで地面をはなれ、カマリをまきこんであいだに刃をはさんだまま斜面を転がった。
えぐられてまいあがる大ンガイの芳醇な腐葉土のかおりとともに、まぎれもないカマリの体臭を感じる。匂いはもっとも雄弁な
膨らんだ蟻塚の土饅頭にぶちあたって転落をとめたぼくらは起き上がるよりも先に、たがいに刃をといて、抱擁をかわした。
「よく来た、逢いたかったぞ……。栄えあれ、あたしのマシムーン」
彼女がぼくの名を呼ぶ。
ここちよい響きに、狩りのために敏感になった聴覚が
「ぼくもだ、きっと逢えると思っていた。栄えあれ、カマリ」
ぼくらは鼻先をくっつけあってから、おたがいの腋に顔をおしつけあう。
カマリの腋毛はあわく縮れた繊細な金毛で、そこから汗と獣臭にまじって、からだのなかから湧きでてくる、雨期の前の夏の森のかぐわしい匂いをかいだ。それは彼女が、今日までしばらくのあいだこの大ンガイで過ごしていたことをあらわしている。
「さあマシムーン、おまえの獲物のところに戻ろう。ガジも待っている」
「ガジってのはあのハグゥワドのことかい、やっぱりきみの
「四旬前くらいかな。ここはいつも肥沃で、ひよっこどもの世話を気にしないですむ。《大渦巻》があたしははじめてだからゆっくり準備したかった」
「ぜひ見たいな」
「朝になればいやでも見れるさ。あたしは外も中もすごいんだ」
以前のカマリと違うことは、後ろすがたをながめただけでも分かる。
ぼくより頭ひとつ以上ちいさい骨格や肉づきは幼形成熟といってよく――むかし性交したころと変わりなかったが、練度は段違いだった。頭からつまさき、たてがみの毛先にいたるまで狩人としての意思に充ち満ちている。なにより皮膚の下に刻まれた赤い
ぼくらはハグゥワドのところまで戻ると、フスの根の
「こいつが獲物か」
カマリは指を黒曜石のナイフのようにすべらせ、器用に竜類の腱を断ってばらしては火のまわりに突きたててゆく。
「ああ、カマリ」
「相手はいくつだった?」
「そいつをいれて六頭」
「やるじゃないか。マシムーンも腕をあげた。けど、あたしなら六頭みんな仕留めていた」
竜類を素手でさばきながら、にいっと白い犬歯をみせるカマリ。
「ぼくは〈植林手〉が本業で、狩りはおまけさ。きみのような生粋の〈狩猟手〉と違って、ただの狩人は食べるぶん以上は仕留めない」
「口のうまいのは好きだよ、マシムーン。でもべつに獲物が六頭でも構わなかったんだ、……こいつらがいるからな」
ヒュイッ!
と、カマリが喉を鳴らす。
するとあたりのざわめきと不協和音をなすようにいくつもの音の気配が、ぼくらを中心に寄り集ってくるのを感じた。
なにが、と立ち上がろうとするぼくを、彼女が制する。
やがてまわりにあらわれたのは、
ハグゥワドだけではない。四つ足の這竜類、長大なアシナシトカゲ、獰猛なキタホロケウの群れ、角の分かれたアンテロープ、夜明けの空でさんざめくウィップアーウィル、多面多翼のヘルワィムまでいる。さらには名も知れず、みたことさえない異郷のものども……。
それら無数のけものどもがぼくらをとりかこんでいる。
そしてすべてに共通しているのが、炎に照らされてかがやかしくなびく、あの赤に金毛まじりのたてがみだった。
「カマリ、これはみんなきみの
「そうだ。みんなあたしの
彼女はじぶんの下腹をぴたぴたとさすって、誇らしげに笑む。〈狩猟手〉の誉れという顔だ。
カマリの氏族は産まれてから三年で成熟する――そして体力と生殖の長いピークを迎え、孕んでから三旬で出産する。それにしたっておどろくべき多産ぶりだった。
「きみが豊穣の女神だとはおもわなかった」
「もちろん、マシムーンとの
カマリが呼ぶと、けものの群れをかきわけて、ひとりの少女があゆみでた。
彼女の母とおなじ赤に金毛まじりのたてがみ。背丈はカマリとさほど変わりないがいくらか幼いからだつきで、燃えるひとみをやや伏し目がちにしてぼくに近づく。その手が所在なげにもじもじと揺れている。
どう触れていいかとまどっているのだろうか、かつて見たことのない『父』というものに?
ぼくはシムナの鼻先にじぶんのをあわせ、腋に顔をおしつけた。おたがいにそうさせる。――それでむすめはおとなしくなった。おたがいのからだの深いところに、母と彼女とがそうであるのと等しく、おなじ匂いがかよっていることを確認させたのだ。そしてぼくもまたシムナの奥に、
「栄えあれ、シムナ。そしてはじめまして、ぼくのむすめ」
「……ぅあ」
とシムナは口ごもり、うつむいてしまう。
「シムナ、マシムーンにとうさんと言ってやりなよ」
母にうながされたむすめは、ちいさく『栄えあれ』と呟いた。
やれやれ、たてがみも顔つきもカマリそっくりだが、性情はだいぶ違っているらしい。それはそれでよろこぶべきことだ。受け継ぐことだけでなく異なっていることがおおきいのは、変化と多様さにつながる。タギリではそれこそが尊ばれる。
「しかしそうすると、ほんとうにもっと獲物があればよかったな、シムナらに分けるぶんまで?」
ぼくがなにげなくそういうと、急にシムナは眉根をきっとよせて、ぼくにおぶさってきた。
――痛ッ!
とっさに首をおさえる。
ぼくからするりと跳びおりたむすめは、かわいい舌をみせてリリリ――と威嚇すると、背中をむけて暗がりの中へすがたを隠してしまった。皮膚をさすると、そこにはちいさな歯形がのこされていた。
彼女の母は、そんなあぜんとするぼくを見ておかしそうに喉を鳴らしている。
「ぼくはきらわれたのか?」
カマリは目を細めて、
「いや、あれは対抗意識さ――狩人としてのな。マシムーンが獲物をめぐんでやると、そう言ったとあれには聞こえたんだ。獲物はみなじぶんだけで仕留めるものだと、まだ未熟なシムナはそういうプライドだけが先に育ってる。半人前の狩人だから、マシムーンのような中途半端な狩人には対抗心がめばえたんだろう。……それに、夏至参りにもついてきたいと、最後まで駄々をこねてたからな」
「ぼくは父だぜ」
「ぽっと出のな。理解しても接しかたが分からないんだよ。〈狩猟手〉の
なるほど、とぼくは肩をすくめる。
むすめの気持ちはわかるが、あせることもあるまい。あの母ゆずりの骨格と肉づきがあと一年もして成熟し、しかるべき《呪言》のすべを会得したなら、すぐにぼくなど及びもつかない狩人になることだろう。
――ぶわん、とひときわ強い、そして粘りつくような風が通りぬけた。
すこしづつ大気が粘度をまし、運ばれてくる匂いもますます複雑で濃密になってきている。朝が近いのだ。大ンガイの稜線もほんのわずか白みはじめていた。
「シムナや
「ふもとへさ。座に行くのはあたしとマシムーンだけだ。獲物は心配ない、みんなそれぞれで調達できるからな。――それ、焼けたぞ。食べる前に、お別れをすませてしまおう」
カロロロロロ――
ヒュゥリリリリ――
たがいの氏族の喉笛をならし、ぼくらはカマリの
くだってゆく一群の背中をみながら、ぼくはふとおもいついて、ポシェットから取り出したものを振りかぶって群れのまんなかあたりめがけて投擲すると、もう一度おおきく喉笛を響かせた。
――カマリの
それは、ぼくの氏族につたわる
「それで、感想は?」
カマリがよく焼けた肉を犬歯でかじりとりながら、ぼくにきいた。
「いいむすめを産んだ。そしてカマリ、きみはいい女だ」
「そいつは素敵だ。でも逆だよ」カマリは口のまわりをぺろりと舐めて、「おまえがいい男で、それでシムナが産まれた。だからあたしはおまえを選んだんだよ、あたしのマシムーン」
ぼくは顔を紅潮させて、それを隠すように急いで肉にとりかかった。
夜明けまでもう間がない。ぐずぐずして大ンガイの座で迎える朝、そして《大渦巻》をのがしてしまったら、シムナにあわせる顔がないだろう。
「きみは《大渦巻》がはじめてだったな、カマリ」
「ああ、たのしみだ。じきにからだでそれを知る。そしてはじめて『天鯨』を狩れる――」
カマリはおおきく伸びをして、夜闇のほどけはじめた風の空をふりあおいだ。
――タギリの夏至がはじまる。
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