マシン・ランニング

葉桜真琴

マシン・ランニング

 走ること。早いこと。

 それが私――トゥアンの幸福であると「フォルトゥナ」が定義した。

 だから私は走り続ける。このトラックを、迷いなく。

 それが幸福であると信じているから。


 二十二世紀、赤道直下に位置する、太平洋に浮かぶ島々があった。島外に、その島々を記す地図はない。前世紀に地球を北と南から飲み込みつつあった氷河と、それに伴って減少した資源を巡る戦火によって、観測者がほぼ死に絶えたからだ。

 だが、名前はある。『生命諸島』と名付けられた島々では今日も、機械仕掛けの神が稼働し、幸福を糧とした、人類という種の保全を試行している。

 その数ある島の中の一つに、全体がスポーツという文化を謳歌するために設計されていた島が存在した。古代オリンピアの建築を模した競技場、その観覧席には、大勢の観客のホログラムが熱気とともに陽炎を生み出し、幻影の向こう側から発せられる歓声が、洪水のごとく氾濫していた。

 狂騒に沸く彼ら観客の目的はただ一つ。楕円を描くトラックに斜線を描いて並ぶ選手七人の、走ることを存在意義として鍛え上げられ、引き締まった肉体と魂の競走を見ることである。

 選手七人はみな、少女であった。年相応のあどけない顔立ちは人々から愛されるように「デザイン」され、さなぎの時期特有の、発育の不完全さが作り出す躰はみな一様に、緋色のトラックになめらかな輪郭を浮き立たせていた。

 その七人の中に、特に観客たちから注目を浴びている二人の選手がいた。

「頼むぞ! トゥアン!」

「今日こそ勝ってくれ、ソルト・レイ!」

「いつもの通り、速さを見せつけて、トゥアン!」

「今日の飯代はお前にかかっているんだ、ソルト!」

 スポーツを観戦するのに金銭を絡めるのが、不純であり、不道徳であり、不敬であるとする価値観などこの島々には存在しない。ただ走る少女たちが存在し、それに金を賭けてまで見たい観客が存在する、ただそれだけのことである。賭けの種にされている少女たちを憐れむことも許されてはいない。なぜなら、島に住むすべての人間は幸福であり、その幸福に口を出す権利は誰にもないからだ。

 トゥアンはスタートの態勢を取りながら、観客の喧騒を聞いていた。だが、彼女は全く動じない。ただ、足が動けばいい。そのためには人の声など気にする必要も、ましてや聞く必要もないのだ。

 スタートランプが点灯を始めた。あと、三秒。

 トゥアンの集中が、スタートの切られるタイミングと進むべき方向だけに引き絞られていく。あと、二秒。

 この時、外に広がった感覚が自分の躰の中にしまわれていく、スタート前にこの感覚まで持っていくのがトゥアン流のルーティンだった。あと、一秒。

 時間は有限だが、無限に分割することはできる。無限にも等しい一秒の間に、極限まで狭められたトゥアンの集中は、脳内に一つの宇宙を形成する。躰は消失し、解き放たれた魂が宙の果て、そのまた果てまで、瞬く間もなく飛んでいくような――。

 スタートとトゥアンの足が動きだしたのは同時だった。


 世界と彼女が真に一つであるなら、百メートルの距離などものの一歩にも及ばない。


 気が付けば、トゥアンは表彰台の一番上に立ち、金のメダルと月桂冠でその身を飾っていた。その一段下には、ソルト・レイが悔しそうな、しかしどこか楽しそうな顔をして銀メダルを首にかけていた。

「トゥアン、やっぱり速い。また、負けちゃったな。次は頑張るから」

「そう」

 私がいちばん速い。速さこそが私のしあわせ。

「う、あぁ――」

 突如、トゥアンが喘ぎにも似た吐息を漏らした。彼女の脳裏に次々と浮かんでくるイメージが、背骨を伝って全身に甘い痺れを残していく。

 フラッシュバック。

 意識はせずとも、走っている間のことは脳が認識して記憶している。

 前を走る他者を追い抜く瞬間。自分の思い通りに足が軽く、自在に地を蹴る感覚。ゴールテープのホログラムと自分の躰との間に、なにも遮るもののない視界。

 それら全ての記憶が、レース後のトゥアンに蘇る。ショック状態にも似た記憶の復元は、確かな快感を伴ってトゥアンに速さへの渇望と幸福感を刻み付けていた。


 その夜、トゥアンは一人、机に並べられた食事を口に運んでいた。そのどれもがアスリートとしての彼女を形作り、メンテナンスするため、かつストレスを与えないように計算しつくされたメニューだった。

 その献立の一切を作り上げるのに、トゥアンの手は少しも関与していない。全ては調理の役目を負った機械の仕事だ。そして、その機械は調理だけでなく、トゥアンの全てをケアするべくプログラムがなされていた。機械、とは言っても特定の形を持つわけではない。彼女の身の回り、島にあてがわれた寮室に存在するあらゆる電子機器が総出でサポートを行っている。

 遍在する機械のメモリに内蔵された仮想人格が、黙々と食事を続ける少女に話しかける。

《おいしいですか、トゥアン》

 声もなく、少女はうなずく。必要最低限のモノしか置いておらず彩りも欠けた殺風景な部屋に、淡々と咀嚼音だけが響く。

《今日も大健闘でしたね、トゥアン》

「べつに。自分ができることをしただけ」

《なら、明日のあなたがさらに速く走れるようにするのが私の仕事ですね》

「それが私のしあわせだから」

《迷いがないのはよいことです》

 食事を半分平らげたところで、トゥアンが言う。

「ねえ」

《食事をしながらの試合結果の振り返りは推奨しない行為です》

「まだ何も言っていないのに」

《これまでのあなたが行ってきた要求を統計的に分析し、このタイミングで行われると予測しうる要求に対する答えを返したまでです》

 トゥアンはわずかに憮然とし、

「今日の記録を見せて」

《結局こうなるではありませんか。よいですか、『ながら食べ』という行為は本来必要である咀嚼や、食事から得られるはずの精神的満足度を欠損させるもの。推奨できません》

「食べるだけってなんだか退屈」

《走ることから頭を離す時間も必要ではないかと。確かに、『フォルトゥナ』はあなたの幸福を走ることと定義しました。ですが、そう急いでばかりでは幸福も薄れるものではありませんか?》

「走ることが、私なの」

《以前、あなたのように走り続けることを求める方がいました。片時も休むことなく走り続けたその方の、最期のアーカイブを見ることが出来ますが、見ますか》

 トゥアンは不満げにため息を漏らしながらも、

「わかった」

《トゥアンは素直でよい子ですね。ところで、明日の練習はオーバーワーク防止のため、休みにしてありますが、何か予定はありますか》

「べつに」

《ちなみに、レイ様からのアポイントメントのリクエストがありますが》

 片付きつつある食卓の中空に、ソルト・レイという名の少女の顔がホログラムで映し出された。愛嬌のある顔立ちの、表彰台では隣同士に立った少女だった。

「今日、会ったばかりじゃない」

 会った、というのは同じ場所で競い合った程度のものだが、トゥアンにとってはそれでも十分だった。十分すぎるくらいだ。それに、ソルトがアポを要求している理由もだいたい、察しがついていた。

「あの子と会うと、休みが休みにならない」

《では、アポイントは》

「消して」

《理由は適当なものを考えておきます》

 罪悪感などない。不要だから断り、排除する。ただそれだけのことだった。


 食事が終わり、仮想人格との会話もほどほどに入浴を済ませたトゥアンは、寝室のベッドに寝転がりながら、呼び出したホログラムスクリーンを眺めていた。映っているのはF1のレースだった。平べったい車たちが、走っているだけの彼女には想像もできないようなスピードで駆動し、コーナーを次々と通り過ぎていく。定点カメラがもたらす視界の遠目に映っていた車体は、瞬きをする間もなく、エンジンの駆動音を置き土産に過ぎ去ってしまっていた。

 中に人が乗っている車もあれば、中に何も乗っていない、自動操縦のものもあった。タイヤ交換のために停止した車体の窓の向こうにいる、運転手の姿を見てトゥアンは思う。

 あそこはどんなに気持ちがいいのだろう、と。

 走ることが幸福であると定義された彼女だったが、速さそのものにも興味があり、正義であるとすら思っていた。脚によるものだろうと、道具を使ったものであろうと、速いということはよいことなのだ。

 映像が切り替わり、レースの賭けに使われるオッズ表が表示された。ワイプ映像には、レースの様子を歓声と共に楽しむ観客たちの姿があった。画面に映っている人々はみな、身銭を切っているような連中だった。

 トゥアンが走っているときと同じ風景がそこにはあった。

 こうした風景を見るたび、彼女は観客に対するわずかな憐みと、優越感を覚えた。

 自分のからだが速さに溶けていく感覚。あれを味わうことが出来ずに見ているだけなんて、なんてかわいそうなの、と。

 幼いころから、トゥアンは走ることと共にあった。職業アスリートとして育てるべく、専用にチューニングされた人工知能が島から贈られた。スポンサーもついていた。島に存在する数少ない企業の一つ、「ミカエル=マルティン・コンツェルン」がそうだ。トゥアンが競争で好成績をおさめるたび、大きな宣伝効果が生まれる。MMコンツェルンは多くのアスリートたちを看板として擁する、いわゆる「何でも屋」企業だったが、その看板の中でもトゥアンは一番の稼ぎ頭だった。

 スポンサーと島のサポートによって、トゥアンは走ることだけを考えて生きていける。彼女はそうして、島に熱狂と「ドラマ」を与えてきた。人気者となるべくデザインされた少女たちの努力を続ける姿は、物語として高い価値を持つ。

 ジュニア時代から、トゥアンの隣には、妹ともライバルとも目される少女がいた。ソルト・レイはいつも一番を走るトゥアンの後ろを走り、勝てそうで勝てないレースを数年来続けていた。ソルトは同じ年頃であるトゥアンに妙なシンパシーを覚えるらしく、ことあるごとに同じ時を過ごした仲でもある。

 F1の実況が終わると共にホログラムスクリーンを消すと、トゥアンはふと、ジュニア時代のことを思い出した。


***


「トゥアン、すっごく速いのね。どうしたらそんなに速く走れるの」

「べつに。言われたことを言われたとおりにしているだけ」

「たのしい?」

「どうしてそんなことを聞くの」

「だって、トゥアン、いっつも表情が変わらないもの。私ね、この前はメダル獲ったのよ。その時はすっごく嬉しくて仕方がなかったのに、あなたは金を獲っても、ね」

「私は、はやく走れることがしあわせだから」

「そう、よかった。ムリヤリ走らされていたわけじゃないのね」

 これが、ソルトとの最初の会話をした記憶だった。正直なところ、トゥアンはソルト・レイという少女がいて、同じレースを走っていたことすら意識していなかった。ソルトは「あなたも知っているでしょう」と言わんばかりにメダルのことを口にしたが、そんなことはまるで知らなかった。彼女の名前すら後で仮想人格に尋ねて知ったほどだったから、いきなり馴れ馴れしく話しかけてきたこの子はいったいどこの子なのだろう、と思いながら、追い払うのも面倒なので世間話に付き合っていたのが真実だった。

 後に知ったことだが、いつも一番のトゥアンよりも、二番手で努力を続け、愛嬌を振りまくソルトの方が島での評価は高かった。同じように「見られる」ようにデザインされているはずのトゥアンとソルトだったが、無愛想なトゥアンはソルトと比べ、雰囲気が不器量とまで評されていた。

 だが、走ることには何の影響もない。空気の抵抗になって速度を殺す頭があるくらいなら、そんなものはなくてもいいとまで、トゥアンは思っていた。

 一方、ソルトは練習風景を録画・編集したものを流すだけで商品になる。可憐な少女が汗水たらしながら特訓を行い、レースに勝って喜び、負けて悲しむ様を、そしてライバルを見つけて競い合う様子を、一連をアーカイブ化することで画になる商品だった。「物語を生み出し、愛されること」がソルトに託された幸福の定義である。


 三年前、トゥアンとソルトの参加した競技会の直後に、「身体改造者クラス」の選手たちによる競走が行われたことがあった。

 その日、寮に帰るための船が来るまでにはまだ時間があった。それに、トゥアンには興味があった。人間の肉体をある程度捨て去った人々が、どのような走りを見せるのか。

 そんな彼女についていくようにして、ソルトも隣で観戦することを決めたようだった。

 いざ競技が始まると、ソルトは気味の悪いモノを見るような目をしながら、

「あんなの、人がやらなくてもいいじゃない」

 と言い放ち、それでも、淡々と観戦を続けるトゥアンの隣を離れることはなかったが、終始気分が悪そうにしていた。

 競技は各々に施された改造をフルに活かすことで攻略する障害物走だった。ハードルや網潜りなどといった生易しいモノではなく、下手をすれば命に関わりかねない仕掛けが矢継ぎ早に施されたレースである。

 連なる振り子の足場の下に、ただただ深淵が覗くステージを器用に跳ねる、猿のようなフォルムの半機械。そり立つ壁面を危なげなく歩行する人面蜘蛛。蝶のような羽を羽ばたかせたかと思えば、力尽きて墜落する女性。

 この競技会の光景はトゥアンの求める速さとはベクトルが違ったものの、それでも当時の彼女が抱えていたものとは別の可能性を暗示させるような、ひどく曖昧な啓示めいたものを感じさせた。

 レースを見ながら、トゥアンはぽつりと漏らす。

「ヒトの体の限界を見てみたい」

「そうよね、機械なんて邪道だわ」

「でも、限界を見てしまったら、どうしよう」

「まさか、あんな風になりたいの」

「別に」

 今のところは、という話ではあったのだが。

 実況席では、敷島という男が興奮した様子で喋っていた。肩書きを見ると、ミカエル=マルティン・コンツェルンの技術顧問をしているとあり、通称は敷島教授とのことだった。

 敷島教授は隣にいるキャスターなど眼中にも入っていない様子で言う。

「道具は一つの目的に何もかもが収束していればいるほど、それは効率的になります。生物というモノは一見するとゴチャゴチャした機能にまみれ、ことによっては醜悪に映るかもしれませんが、しかしながら生物というモノは美しい。生きるという目的のために、様々なアプローチをかけて身体の機能を発達させてきたのだから」

「では、ただいま競技で素晴らしい動きを見せてくれた選手たちは、教授にとっては美しく映るのですね」

「その通り、彼らこそ人類の完成形の一つだと、僕は思うね」

「噂によると教授はすでに全身のほとんどを機械化していらっしゃるという話ですが、それも教授の美学ですか」

 敷島教授は何の気なしに左手首を外してしまうと、元の人の手を模した義手から、十本もある各指が蛇のようにのたうつ義手へ交換をしてみせた。左手の次は右手を同じように付け替えてしまった。右の義手には指がなく、ただの白い球体で完結していた。

「教授、その指のない義手は……」

「この島が出来るより遥か前、このようなフォルムの手を持った、ロボットのコミックが流行ったのだよ。知っているかい」

 キャスターはどうにもピンと来ない困り顔で、教授の義手とレースの様子とを交互に見比べていた。教授は、そんな話し相手の姿を、心底つまらないものを見るかのような目を向け、

「口さがない連中は私のことを生命の本分を忘れた醜悪と揶揄するが。時に君は今、人間をどういう風に感じているかね」

「幸福になるべく、幸福を目指す者です」

「この私でさえもフォルトゥナの啓示を受けている。この島に、いいや。この世にフォルトゥナの言うことに従わない人間など、『皆無に等しい』だろう。幸福でない人間は形をまねた人もどきに過ぎない。つまり、だ。人間の本分は、ただ生きることから幸福になることへと変わったのだ」

「かといって肉体を捨て去るのはどうかと思う、という人も多いと思われますが」

「君も自然身体主義者か?」

「明言は控えさせていただきます」

 もはや、敷島教授は相手への興味を完全に失ったようだった。

「生物が自らの本分である生存を全うするために、それぞれのアプローチを試みるように、人間は幸福の本分を達成するため、各々のアプローチを試みる必要がある。しかしながら、人類誕生から五百万年かけて醸成された我らが肉体は所詮、生存するためだけの機能しか持っていないのだ。だから、新しい目的のために、幸福を実現するための道具としての身体を整備する必要がある。そうだろう?」

 ホログラムスクリーンに映る、独り言を延々と垂れ流し続ける敷島教授の姿を、ソルトは嫌悪感をむき出しにして眺めていた。そんな彼女を見ながら、トゥアンは、この子は「自然身体主義者」ってやつね、と思うのだった。

 不意に、ソルトの指がトゥアンの腰に手を回し、しなだれかかってきた。

 少しでも気を許すといつもこうなる。調子に乗らせると「この先」もやる。休みの日にソルトを寮室に招き入れてしまった日には、休みにならないほど体力を使わされる。トゥアンはいつもされるがまま、蟲の這うような感触に浸るだけだったが、それでも疲労は翌日の躰にのしかかるのだった。

 トゥアンは疲れるというただ一点でのみこの行為をやや嫌っていたが、島では友愛行動、という立派な名称がついている。コミュニティや個人同士の親密さをさらに深めるための行動であり、特定のパートナーを持たず不特定多数と交わることを奨励されてすらいた。

 同性だろうと異性であろうと、友愛行動に区別はない。島の人目につかないところから時折、ひきつったような息遣いがするのをトゥアンは何度も聞いている。おそらく、島で聞いたことのない人間など一人もいない。

脇腹をつつ、と指でなぞりながらソルトは言う。

「何度見ても、引き締まって、いいからだ……このライン……肌触り……いい、とっても好きよ……だから、捨てないでね」

 上目で覗くソルトの目を、トゥアンは声もうなずきもなく見返すだけだった。

トゥアンは走るために生まれてきたような体をしていた。身長が低く小柄であるため、体重が軽く、空気の抵抗も少ない。しかし、身長の低さをそのまま補うかのような脚の長さによって、結果として常人以上の速さを発揮することが出来た。

 だが、走るために作られた体が速度の限界を迎えたその時はどうするのだろう。トゥアンはそんなことを考え、自らの問いにすぐさま答えを出してしまった。きっと、捨てる。そのはずである。

 ソルトの行為はまだ続いていた。トゥアンの太ももにまたがり、きつく身体を抱きしめてくる。

 まるで蛇、とされるがままのトゥアンは思う。ソルトの行為に、なにかしらの反応をしてやったことは一度としてなかった。互いにやりたいことをやって、在りたいままに在るだけだ。自分の欲求を発散するための場所に、二人の人間が同席しているにすぎない。

吐息がくすぐるほどの耳元で、ソルトは呟いた。

「いつか、追いついてみせるからね」

「そう」

 返事が聞こえたかは分からない。それに、興味もなかった。


***


「はっ」

 トゥアンは昔のことを思い出しているうちに、一眠りしてしまっていた。窓に三日月が見えるのが、朝までは眠らなかったことの証拠だった。

 彼女は目をこすりながら起き上がり、部屋に遍在する仮想人格を呼び出した。

「ねえ」

《分かっていますよ。今日の競技会の復習ですね》

 トゥアンの走る様子が、仮想人格の声に伴ってスクリーンに現れた。少し後ろにソルトが遅れて走り、そのさらに後ろに五人の選手たちが、団栗の背比べもかくやと言わんばかりに並んでいた。

「インナーデータも呼び出して」

《こちらですね》

 島に住む人間にはすべて、精神的・肉体的な状況を監視し、常にフィードバックするためのナノマシンが血中に巡っていた。ナノマシンは逐一、人間の生体データを受信・記録し、それを編集したもの――インナーデータを様々な用途に役立てていた。

 トゥアンの場合は、走った時のフィードバックがそうだった。

 インナーデータと映像記録をもとに、次はどのように走ればいいかの詰めを仮想人格との相談で決めていく。競技会ではもう何年もトゥアンが一位だったが、それでも毎回、自己ベストを更新しているわけではなかった。

 改善策が改悪につながることは一度や二度ではない。

 トゥアンの身体データを使い、どのように筋肉を動かしていけば、その身体でのベストスピードが出るかを計算することは可能である。血中に流れるナノマシンに電気信号を発生させるようにすれば、望むように手足を動かすことも可能だった。だが、それはドーピングの扱いになるとして禁止されていた。

 選手全員が人形のように手足を操作され、それぞれがベストの走りを見せるのなら、それこそ競技会を行う意味がない。全てはシミュレーションで片が付く。

しかし、それではあまりに彩りがない。島に求められているのはあくまでも幸福を覚える人間であり、それに向かって邁進する物語なのだから。

 次回に向けた改善点を一通り洗い出すと、ホログラムスクリーンは競技会終了後の表彰式の様子を映し出した。インタビューが行われているのだが、トゥアンには全く覚えがなかった。

 おそらく、走っているときの記憶のフラッシュバックで半分、意識が飛んでいた時のことだと見当がついた。インタビュアーから投げかけられた質問を上の空になって答える自身の姿は、トゥアンにとってはもはや他人だった。

 今までのレース記録を見る。どれも極々わずかな誤差のタイムだったが、もう何回も自己ベストを更新していない。

「ねえ、私はこのままでいいのかな」

《突然、どうしたのですかトゥアン》

 仮想人格の声は、心なしか震えているようにも聞こえた。

「人間の体がはやく走れる限界って、あるでしょ」

《怖いのですか》

「はやく走ることが、しあわせだから。それが、なくなってしまったら、私は」

《まだ無くしていないもののことで怖がってはいけませんよ。疑いは全てを台無しにし、恐怖は全てに対する意欲を砕きます》

 トゥアンはうなずくだけだった。

《ところで、トゥアンは、『 』のことを知っていますか》

『 』。どのように発音されたかはトゥアンには分からなかったが、少なくとも何かしらの存在であることだけは理解できた。それも、口に出してはならない禁忌の類であることを。

《この島々には、伝説めいた噂があるのです。それが『 』。あらゆる幸福を憎み、ありとあらゆる策謀を練っては、島に住む人間の幸福を破壊する存在》

「そんなこと、いったいなんのために」

《幸福の破壊こそが、『 』にとっての幸福なのです》

「しあわせになってしまったら、その『 』はどうなるの」

《自滅します。手に入れた幸福を疑い、恐怖し、発狂し、息絶えます。ですが、必ず蘇ります。そしてまた、この島々で暗躍し、幸福を破壊し――そして自滅する》

「そう。なら、しあわせを壊された人はどうなるの」

《幸福でない人間は、もはや生きていくことが出来なくなります。だから、トゥアン》

「――はい」

 かつてないほど張り詰めた仮想人格の声に、トゥアンの身体がこわばる。

《決して、『 』に魅入られないで。疑う心に、それはやってくるのだから》

 その夜、トゥアンは夢を見た気がした。

 声も名前も知らない、何者かの声がするだけだったが、ただただ恐ろしい思いをしたことと、わずかな言葉だけは記憶に残った。

 摘み取ろう、幸福を。疑念で熟れた果実が、地に堕ちる前に。


 翌日、トゥアンは仮想人格の声に促されるまま、早朝から寮を出て旅客機に乗り込んだ。傍から見れば人目を避けるようなその移動は、明らかに、トゥアンの熱烈なファンを避けるためのものだった。

 一眠りを経てたどり着いたのは、紺碧の海と白大理石の街並みが、陽に照らされて燦然と輝く、美しい島だった。空港で適当に朝食を済ませたトゥアンは、仮想人格の指す、船にも似た形の乗り物で海岸を目指した。

 その乗り物は羽の船――プテラ・フィロと呼ばれていると仮想人格は言った。身を乗り出して見ると、浮き上がった車体ないし船体が、左右に連なって取り付けられた色とりどりの羽が、まるでボートをこぐようにして動いるのが分かった。

 多くの人間が乗ることを設計段階から想定していないのか、全長十メートルはあろうかという羽の船の座席は、一隻に六つしか存在しない。その席のどれもがゆったりと、外の景色でも見ながら座れるようになっていた。

 羽の船の進む速度はゆったりとしたもので、トゥアンには少しじれったかった。そんな彼女の血中を泳ぐナノマシンが、心理的ストレスを感知し、羽の船に指令を出す。

 もっと早く泳げ、と。

 にわかに、景色の流れる速度が上がる。尾を引いて流れる視界は奇しくも、今まで参加した競技会の中でトゥアンが出した最高速の景色と同じものだった。

《どうですか、トゥアン》

「どうって、なにが」

《これが、今までのあなたの最高速です》

「そう」

《それだけですか?》

「案外、大したことないな、って。乗り物をつかっているせいかな」

《時には、自分の姿を冷静に、客観的に見ることも大事ですから。それが落胆で終わるとしても》

「べつに、どうもしないけれど」

《左様ですか。真実、そうであることを望んでいますよ》

 もう少しで海岸に辿り着こうというところで、羽の船は速度を落とした。どうやら、新たな利用者を迎え入れるようだった。

 虫の鳴くような音をかすかに、身体のどこかから軋ませながら、その男は乗り込んできた。その音の奇妙さに、トゥアンは思わず入口の方を振り返った。

 陽が照りつける高温の中、よりにもよって黒のスーツを着ているにもかかわらず、不思議と汗ひとつかいていない。

「行ってくれたまえ。既定のコースをなぞってくれるだけでいい」

 席に腰かけた男が言うと、羽の船は再度浮き上がって移動を始めた。

 トゥアンには、どうにも引っかかる部分があった。どこかで、似たような人間を見たことがあるような、ないような。仮に会ったことのある人間だとしても、出かけた先でこうも偶然に出会うことがあるだろうか。

 男がちらり、とトゥアンの方を振り返った。

「先ほどから私のことが気になるようだが、何の用かね」

「見覚えがあるような、気がして」

「私には君に見覚えがあるがね。トゥアン選手、競技場の女王。そうそう、君には少なからず関わりがあってね、とは言っても身内の身内、くらいの関係だが。身内の身内は他人、だがね、あはは」

 相手に構わず話を続ける姿も、どこか覚えがあった。

「広告効果には助けられているよ。その金がまわりまわって私のところに流れ込んでくるのだから、君には感謝している」

「ミカ……マル……ええと」

「ミカエル=マルティン・コンツェルン」

「そう、たしか私の」

《スポンサー企業です、トゥアン。この方はコンツェルンの技術顧問――》

「敷島という。トゥアン選手、あなたの輝かしい旅路にどうか、同席を許してくれたまえ」

「トゥアンでいい。みんなそう呼ぶ」

「ではお言葉に甘えて」

 羽の船は海岸に辿り着き、島の周回コースに入ったと仮想人格は告げた。トゥアンの寮がある島から見る限りでは、果てがないかのように思われていた海だったが、白大理石の街並みが輝くこの島から見える海には果てがあった。

本来なら水平線となるべきであろうところには白銀の氷河が横たわり、海と氷河の間には薄い膜のようなものが存在した。

 敷島はトゥアンのそばに立って、彼女の視界の先に指を伸ばし、

「この島は『諸島』の中でも最果てに位置するらしい。見たまえ、あの『帳』を。アレがなければ『生命諸島』は、人類の生存は成り立たない」

「どうして」

「あの帳――パラ・テラフォーミング・ワールドハウスは、ある一定区域を覆うことで、氷河に覆われたこの星を、人類その他の生物が住むに適した気候を維持する。それがなければすべては氷の中だ。君は走ることすらままならない」

 元々は宇宙開発に使われる予定の、何百年も昔の技術だったのだと敷島は言うが、軽く調べてみてもそんな情報はどこにも見つからなかったし、なによりトゥアンには、そんな遠いところに行って何をするのだろう、としか思えなかった。それでも、自分が生きている以上、何らかの意義があることは確かだった。

「ぜんぶ、あの膜のおかげなのね」

「そうだとも。我々は生かされているのだ」

「外に出て行く日は来るの」

「来ないだろうな。少なくとも、我々が生きている内には来ない。途方もない年月だよ」

 トゥアンは両手で数を数えだしたが、その内に数字を呟く口が疲れてしまった。

「教授の手なら、かぞえられる?」

「数万を数えるための義手を作るのは非効率だ。ここは代数でいこう」

 教授はそう言うとホログラムスクリーンを展開し、そこに一つの像を投影した。蓮の花の玉座に乗った、腕を何本も持つ、黄金に輝く像だった。

「この機械菩薩には二百の腕がある。腕に手が一つ、手に指が五本。機械菩薩の指は千本」

 ホログラムスクリーンの中の機械菩薩は、神妙な面持ちで高速の指捌きを見せると、瞬く間に千を数え終わってしまった。機械菩薩の頭上には白銀の球体が存在していたが、そちらには全く変化がなかった。

「どれ、増やしてみよう」

 機械菩薩が一気に四体現れ、数を数えだす。これで計五千年を数えたわけだが、それでも白銀の球体に変化はない。見る見るうちに機械菩薩は増殖し、千本の指が蠢動を始めた。

 ある時から、白銀の球体に変化が現れた。白が徐々に薄れ、その中から青や茶色、それに緑が現れ始めた。しかしそれもつかの間、画面いっぱいに増え続けていた機械菩薩たちが、球体を覆い隠してしまった。

 分かってくれたかね、という教授の声に、トゥアンはうなずいた。

 教授は続ける。

「もっとも、帳の外へ出て行くことを目指す輩も、島にはいるのだろうな」

「それが、その人にとってのしあわせ?」

「おそらく。人体の改良が私にとって、そして走ることが君にとってそうであるように」

「走ること、そうね」

 トゥアンは目を伏せた。羽の船が見せた、あの何も感慨のない景色を思い出した。

 あんなものを求めていたのか。本当に、そうだというの。

「トゥアン? 顔色が悪いようだが」

「考え事をしていて」

「そうか。なんにせよ、やりすぎないことだ。考えは疑いに変わるものだ。疑いを持った者は生きていけない」

 生きていけない。その言葉は、トゥアンの無意識を動かし、ある問いを繰り出させた。

「教授は『 』のことを知っているの」

 敷島の目が見開かれた。

「知らない。私は、なにも。そうだ、知らないんだ。なんだ、そういうことだったのか。随分と出来過ぎた偶然だとは思っていたんだ。競技会の翌日に偶然、トゥアンがこの島に来た。同じ日に偶然、私の休暇があった。偶然、この島に来た。乗ろうと思った羽の船で偶然、出くわした。フォルトゥナ、まさに運命の神か」

「あの、何を」

「私はここで降りるよ。運がよければ、また近いうちに会えるだろう」

 引き止める間もなく、敷島は羽の船から降りてしまった。同時に、羽の船も動き出した。敷島が、窓から身を乗り出して後ろ姿を見送るトゥアンを振り向くことはなく、二人の距離は遠ざかるばかりだった。

「なんなの、いったい」

 その問いに答える者は、誰一人としていなかった。トゥアンに寄り添っていた仮想人格でさえも。


 帰りの空路で、トゥアンの問いへの答えは現れた。

 行きと同じく、座席で眠りについていたトゥアンは、騒々しさに目を覚ました。

 視界がぐらつくのは目覚めたばかりだからか。

 否。

 飛行機がバランスを失い、気流に煽られて大きく揺れているのだ。

 事態の収束に携わる乗務員も、責任を持つ機長もこの飛行機には存在しなかった。

 トゥアンの他にもちらほらと乗客はいたが、悲鳴らしい悲鳴はない。かすれそうな怯えと囁きがあるだけだ。不平と怒りをぶつけようにもその矛先が見つからない機内は、不気味な振動音に支配されていた。

 飛行機はもはや、空を滑り落ちるだけの棺桶と化していた。

「ねえ」

 仮想人格を呼び出す。

「ねえってば」

 やはり、返事はない。

 誰でもいいからこの状況を説明してほしかった。詳しく説明されてもどうにもならないことはある。それでも、一言さえあれば覚悟は出来るはずなのに。

 じわり、じわり、と腹の底からせり上がってくる感覚がする。耳鳴りがして頭が痛む上に寒気もひどい。機内の環境を保つシステムまでもが機能不全を起こし、その影響は乗客全てに及んでいた。こらえきれずに吐いた胃の中味は、美しいラインを描くトゥアンの脚を、奇妙な凹凸感と生温かさを伴って侵していった。

 突如、轟音が響き、乗客の悲壮に満ちた声があふれた。それも、左右それぞれの座席からだ。頭が痛むのも構わず外を見ると、目に飛び込んできたのは、火の粉混じりの黒煙が飛行機の両翼を覆い隠す様だった。

 この光景に、トゥアンはかえって心の鎮まるものを感じた。理解の及ばない恐怖を超越して現れたのは、絶対の終わりへの諦観であった。

 ――ああ、私のたりない頭でもようやく分かった。

 生きていけないんじゃなくて、生かしてはおかないんだ。

 それを最後に、ふっ、と、トゥアンの意識は遠のいた。


《残念です。『 』に魅入られてしまったなんて》


***


 走ること。「フォルトゥナ」に定義された幸福を疑った。

 だから、今度は間違えない。速くあること、ただ、それだけを望むの。


 島々に一つのニュースが駆け巡った。

 飛行機の墜落事故。本来ならありえない事態に憶測が憶測を呼び、単なる機械の誤作動から、島の平和を脅かそうとするテロリストの仕業ではないかというものまで、世論は大いに沸いた。

だが、島の人々の関心はすぐに別のことへと移っていった。

 墜落事故にはただ一人、生存者がいたのだ。ホログラムスクリーンを通じて映し出された紅蓮の地獄の中、息を保っていたその少女のことを、人々はこう呼んでいた。

 競技場の女王、と。

 トゥアンは生き延びた。その代償として失ったのは、走るための身体だった。

 煙で爛れ、機能不全を起こした肺は機械に換装され、瓦礫に押し潰されて原形をとどめなくなった脚は切除され、アーカイブデータから忠実に再現された義足に換装することとなった。皮膚表面の半分を火傷が覆っていたことから、全身の人工皮膚への取り換えも行われた。

 その莫大な費用は全て、スポンサーであるミカエル=マルティン・コンツェルンが負担したため、トゥアンは流されるがまま、数か月にも及ぶ手術を受け続けた。

 こうして、少なくとも表向きには、トゥアンは復活を果たしたのだった。

 だが、どれだけ機械で以前のままかそれ以上の能力を補おうと、トゥアンの心はもはや走ることからは離れていた。人の身体で動いている限り、また同じ限界が来ることは分かりきっていたからだ。

 起きて、食べ、適当に歩き、眠り、そしてまた起きる。時折、全力で走ってもみた。徒労に終わると分かってもなお、走ることをやめられなかった。トゥアンはそれしか幸福の在り方を知らなかったし、島もまたそうなるように彼女を育てたのだから。

「ねえ」

 問いに答える声はない。あの事故のあった日から、仮想人格がトゥアンに助言を与えることはなくなっていた。捨てられたのだ、ということだけは彼女にも理解が出来た。

 ソルトに訊こうか。一瞬、そうも考えた。これまで島で生きてきて、彼女以上に関わった人間はいない。きっと、呼び出しにも応じるはず。そう思いながらホログラムスクリーンの操作を行う。

 はた、と気づく。ソルトに『 』のことなどどうやって伝えるというのか。

 理解されるはずもない。

 今も昔も、他人という概念はトゥアンにとっては無意味そのものだ。かつては歯牙にもかける価値がなく、今は縋りたくとも縋れない。意味合いこそ違うものの、仮想人格がいなければ孤独であるという本質は何も変わってはいない。

 寒気がした。

 こんな世界に、どうして私は生きているのだろう、と。

 それからまた、フラフラとした生活をつづけた。陸上はもはや事実上の引退だった。いまやソルトが競技場の女王であり、かつてその座にいた少女のことは誰もが忘れているかのようだった。

 なぜ、あそこで死ななかったのだろう。

 そんな思いだけが蓄積していく。

 もし、死に損なったのではなく、生かされたのだとしたら、自分は何をするべきなのか。

「そっか。自分で見つけないとダメなんだ」


 自らの生への答えに近づく、助けになりそうな人物。

トゥアンがその人物との出会いを果たしたのは、陸上競技会場でのことだった。

 周りがホログラムの観客に埋め尽くされる中、トゥアンは一人生身――とはいえ半分が機械なのだが――で競技の様子を眺めていた。件の人物には、何人もの仲介を通してようやく、連絡を取ることが出来た。用件を伝えるだけなら、それこそ通信で済ませればいいところを、無理をおして実際に会うことを望んだ。こうして「競技会の会場で会う」という約束は取り付けたものの、いざ会場に着いてみればどうなるか分からない。

 トゥアンは死に損なったばかりか走ることも忘れた、言ってしまえばただの小娘だ。

 しかし、件の相手はそうもいかない。一言にするなら身分が違う。

 ため息をつきながら見るレースもまたつまらない。

 長距離走は彼女の専門外とするところで、ひたすらに走り続ける選手たちにはある種の敬意を覚えたものの、じれったくなって途中で見飽きてしまった。

 短距離走に至っては、トゥアンにとって退屈以上の何者でもなかった。遅い。遅すぎる。選手の誰もが、彼女の数年前の自己記録のラインで競い合っていた。だが、観客は以前にもまして熱狂しているように思えた。結果的にトゥアンの跡目を継ぐような形となった少女は、トゥアンほど圧倒的な速さは持っていなかったのだ。

 この会場には確かに、ドラマが生まれつつあった。今も昔も、トゥアンが蚊帳の外にいることには変わりなかった。

 待つことの手持ち無沙汰さよりも、見ていることのやるせなさが勝り、帰ってしまおうかと思ったその時、足音が近づいてくるのを聞いた。

 それは、男の声だった。一度見たときと、印象が寸分も違わないスーツ姿だった。

「もしかしたら、君が私に声をかけてくるのでは、と思っていたよ。その読みは当たったようだ」

「お久しぶりです、敷島教授」

「身体の調子はどうかね。実はね、君の治療を行うチームの一員だったのだよ。だから、今日は患者の予後観察ということでここに来ている」

「そう、ですか」

「見たところ問題はなさそうだ。あくまで見たところは、だが」

 トゥアンの隣に座った敷島は辺りを見渡し、

「ここなら問題ない……いや、どこでも同じか。トゥアン、君は以前、私にこう訊いたね。『 』を知っているか、と。白状しよう、知っていたよ。だからこそ、私を呼んだのだろう」

「もしかして、教授も」

「以前……もう三十年も昔の話だ。当時の私は生身の、機械工学の探求に魂を、自らの幸福を懸けていた。アイデアは絶えず湧き出て、それを形にするための先行研究、技術、材料、全てがこの島々に揃っていた。新しいモノを作れば必ず称賛され、私は間違いなく幸福だった。しかし、ふとしたきっかけから思ってしまったのだ。コレは都合がよすぎる、と。それから、私の行ってきた研究が全てレールの上をなぞっていただけに過ぎないことに気づくのに、そう時間はかからなかった」

 それからは知っての通りだ、と敷島は笑う。

「おそらく、同じようなことを思い、島に消された人間も知らないだけでかなりの数、いるのだろう。しかし、トゥアン、我々は生きている。なぜか?」

 不意に、レースに熱中していた観客が一斉にどよめいた。

どうやら、障害物競走で転倒者が出たようだった。ハードルを越えるタイミングを見誤って勢いよく転倒したらしく、選手は苦悶の表情を浮かべている。だが、ケガをしてもなお立ち上がろうとする選手の姿に、観客たちは称賛の拍手を送る。

「ねえ、教授」

 トゥアンは敷島の手を握り、言う。

「私をあなたにあげるから、私をもっと速くして」

「ミカエル=マルティン・コンツェルン、技術顧問の立場と敷島の名、そしてともに見捨てられた身において、君の復活に力を貸そう」

「約束よ」


 足を踏み入れて初めて、目に見える景色というものがある。例えばトゥアンにとっては、身体改造者クラスが実は、改造の度合いによって厳密にいくつにも分かたれているという事実がそうだった。

 身体や脳の負荷を考えて、順を追って改造を行っていこう、と提案したのは敷島だった。アイデア出しやメンテナンスは全て彼に任せ、トゥアンは全力で走りフィードバックを提供する。数か月の期間を経て、二人の関係は明確に役割の分担が進んでいた。

 初めてのクラスで出るレースの結果は、三位というまずまずの結果に終わった。かつての競技場の女王が別のステージに期待の新星として現れたことは、島の話題を大きくさらったものの、当の本人たちはまるで納得などしていなかった。

 もっと速く、もっと効率よく。

 敷島はトゥアンの身体にのめり込み、彼女もまた、彼の頭脳を頼りにした。

 ある時から、敷島はトゥアンの頭にも手を加え始めた。曰く、機械を効率よく動かすためには、自身もまたその機構に通じていなければならない。こうして、走ることしか知らなかったトゥアンは多くのことを知り、考えるようになると共に、敷島との会話を行う中で徐々に語彙が増えていくのを実感した。

 性能の向上した頭脳は、島のシステムにまで考えが及ぶようになった。

 幸福を規定するのは、人間が幸福である限り現状に不満を抱かないから。不満を抱かない人間は島にとって警戒や危険に値しない。あるいは、人間が家畜を飼育する際に、ストレスのない環境を作り出すために行う努力と本質が同じであるとも言える。

 ホログラムスクリーンを通して、トゥアンは言う。

「人間は幸福になるために生まれてきた。フォルトゥナがそう決めたのね。でも、そうでなくとも、幸福になってみせるわ。そのためになら、なんだって」

「その姿に未練はあるか」

 この敷島の問いに、トゥアンの脳裏にはソルトの顔が浮かんだ。トゥアンの身体が好きだと言った少女。腰に腕を絡ませ、耳を甘噛みし、舌が首筋をなぞる感触。身体改造者のレースを見て、あからさまに示した嫌悪感。波濤のごとく押し寄せる情念。

 その全てが、トゥアンの宇宙の中から消え去った。

「ないわ、ちっとも」

「ならば、共に速度の地平を目指そう。恐れることはない。数字は無限にあるのだから」

 それから、トゥアンは徐々に人の形を失っていった。

複雑化していく機構に合わせて、頭脳の方も強化されていく。原形をとどめない姿になるまで、そう時間はかからなかった。速さを求めるための仕組みと、速さを感じる知覚さえあればよかったのだから。

 結局のところ、敷島はトゥアンに対し、身体改造者クラスのレースにおけるレギュレーションが許す範囲を、ぎりぎり逸脱しない程度にまで改造を施した。

 規定には、こうある。

 人間の自我と生命の維持に必要な器官を納めるのに、最低限必要な生身の肉体を維持すること。

 つまり、胴体と頭さえ、残っていればよかったのだ。

 競技種目は地を走るものから、空を駆けるものへ転向した。いわゆる、エアレースをさらに危険に、速度の平均値を押し上げたものだった。

 いまやトゥアンは、培養液に満たされた匣の中で、速度の地平を夢見る姫君となった。乗り込む馬車は超々音速の航行機。島の技術を煌びやかな装飾品とし、航行によって生じる衝撃波をドレスとして身にまとう。

 それらを与えた魔法使いは他でもない、敷島である。

『 』という悪魔によって灰をかぶった少女は、魔法使いの力を借りて舞踏会に馳せ参じる。見る者すべてを圧倒し、称賛の拍手をその身に受ける。姫君は踊り続ける。彼女を見初める王子などいらない。彼女はただ踊り続けることが出来ればそれでよかったし、全ての視線は彼女のモノだったからだ。

 匣の中のトゥアンは、今までになく、安らかな寝顔を浮かべていた。


***


 トゥアンと敷島が手を取り合って二年の歳月が過ぎた。

 その頃には、島々で行われる競技では負けなしを誇り、トゥアンは再び女王の称号を勝ち取ることとなった。貪欲なまでの速さへの渇望と、幸福を追求する器官としての性能への探求心が成しえた結果だった。

 だがそれは、トゥアンにとっては元の木阿弥を意味する状況でもあった。

 陸上競技にうち込んでいた時期と何も変わらない。

 いくら数字が無限であろうと、また、原形が無くなるほどの改造を施そうと、トゥアンたちの生きる世界は物理の法則で縛られている。同じことをやり続ければ必ず限界が来る。かつてのトゥアンにも予感として持っていたビジョンが、今の改良された頭脳ではなおさら明確なものとして意識された。

 敷島もまた、同じようなことを考えていた。

 新しい技術は絶えず生まれている。それに伴ってかけられるアプローチの種類は増えていく。トゥアンへの新手法の適用は、現場レベルの技術的観点で言えば、神経を要するとともに、一朝一夕に済む話ではない。

 定期検査を行うため、トゥアンの躯体は敷島の持つ研究所に運び込まれていたときも、二人の会話は将来に横たわる不安にくすんだものとなっていた。

「ねえ、教授。私はいつまで続けていられるの」

「理論上は、島……というより私が死なない限り、だな」

「本当に? たとえば私の心が――」

「トゥアン、それ以上はいけない」

「教授はその身体になった後、アレに出くわしたこと、あるの」

 口に出すのもおぞましい、島に潜む存在のことを、二人は揃ってアレと呼んでいた。

「ない。同じ思いをするのは二度と御免だ」

「そう、ね。だから、私は次に進もうと思うの」

 ホログラムスクリーンを操作する敷島の手が、わずかに止まる。

「話だけ聞こうか」

「この世界にいれば限界が来るのよね。だから、物理法則の鎖を切るの。そうすれば自由に飛べると思う」

「トゥアン、君は身体のどこまでが残っていれば生きていて、その一線を越えれば死を意味するとか、そういうことを考えたことはあるかね」

「言いたいこと、分かる。この二年、付き合っていて思ったけど、教授ってかわいいところがあるよね」

「いいかい。君が言わんとしていることは、自殺となんら変わりないんだ。幸福な人間は自殺をしない。分かるね」

「私は、魂さえあればそれでいいと思ってる。教授、前に言ったよね。人間は幸福を追求するための身体を手に入れるべきだって。私なら、そこにたどり着ける気がする。あなたの心配していることも分かる。もし、私の言っていることが実現してしまったら、教授の研究もそれで終わり。幸福もそこで尽きる。でも、それが究極だと私は思う」

 だからお願い、と匣の中のトゥアンは微笑む。敷島は、それにうなだれるようにしてうなずくことしか出来なかった。

 数か月の後、二人の新たな探求の成果が衆目に晒される時がやってきた。

 それはミカエル=マルティン・コンツェルンの技術シンポジウムであり、空駆ける女王ことトゥアンの引退会見であり、学徒としての敷島の最終講義でもあった。

 かつて島の話題となった二人が新たな発表を行うということで諸島中の注目が集まる中、コンツェルンの所有する島の一角を使用した会場に、敷島と巨大な匣が現れた。

「ご覧ください。この匣が私の研究人生の集大成。幸福を追い求める存在としての人類の、考えうる中で究極の進化を果たした姿だと断言します。モノを掴む手も、地を踏む足も、光を得る目も、傾ける耳も、花の香りを感じる鼻孔も、食の彩りを感じる舌も、空気に触れる肌も要らなかった。感じる脳だけがあればいい。そう、結論付けました。

 さあ、ここにご覧に入れますは、速さを追い求めた少女の夢。数多のライバルを寄せ付けない走りを見せ、死の淵から復活した後に、雄々しくも美しく空を駆けた一人の少女。その名はトゥアン。競技場の女王、空駆ける女王、そして最後は眠り姫でございます」

 気でも狂ったのか、と誰かが言った。許せない、と言ったのはトゥアンを熱烈に求めたソルトだった。

「あんなもの、機械混じりの肉塊じゃない」と。


 トゥアンは夢を見ている。

 否。夢とは覚めるものなので、彼女がいるのは、正確に言えばひとつの宇宙そのものであると言えた。

 今、トゥアンは一つの自我であり、そして宇宙そのものである。

 一にして全、全にして一。

 あらゆる事象はもはや彼女のためだけにあると言えた。

 そんな無限にして無明の虚空を、彼女はあてどなく彷徨っていた。まだ、この宇宙の中で自分のとりうる行動を上手く掴み切れていなかったからだ。

 新しい世界を得たことに対する様々な感情が一度に押し寄せ、それはすぐに形をとった。そして不思議と、『 』の存在を知覚した。

 今のトゥアンなら分かる。『 』とは恐怖であり、不安であり、疑念である。そして、それらは全て幸福を乱すものだ。

『 』が、忌むべきものが、にじり寄ってくるのをトゥアンは感じた。

 逃げなければ。どうやって。どうにでもなる。

 そうだ、怖がる必要はない。

 聞き覚えのある声がした。

 もはや、恐れる必要などどこにもなかった。これなら、星だって超えていける。

 感じるのは、速さそのもの。

 あらゆるものを置き去りにして、少女は宙を駆けていく。

 この時、トゥアンは確かに聞いた。

Godspeed You!

 その言葉は、紛れもない祝福だった。

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マシン・ランニング 葉桜真琴 @haza_9ra

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