第8話 ユメザクラ

出逢ウ度、サクラハ人間ニ問イマシタ

 アナタノ望ミハ何デスカ?

 照リツケル酷暑ヲ柔ラゲル涼シサヲ

 肌ヲサス極寒カラ守ッテクレル暖カサヲ

 人々ニ多大ナ恵ミヲ

 日々ニ等シイ実リヲ

 サクラハ呆レテ、全テノ願イヲ叶エマシタ

 草木ノ芽吹く春ガ訪レ、同時ニ実リノ秋モヤッテ来マシタ

 ソシテ世界カラ夏ガ消エマシタ、冬ガ消エマシタ

 豊カニナッタ世界ハ、代償トシテ四季ヲ失イマシタ

 ヤガテ、季節ノ変ワリメガ分カラナクナッタサクラハ、春ニ咲クトイウコトヲ辞メマシタ

 ソウシテ今ニモ開キソウナ蕾ヲ持ッテ、待ッテイルノデス            

 年二一度、欲ノ無イ願イヲ持ッタ人ノタメニ咲ク日ヲ――             


 赤レンガの下町、ラテル街。その一角に私の店はある。

 ここに住み着くようになってもう二年。だが、厨房の奥の部屋にこんな本が眠っていただなんて知る由もしなかった。

「何これ……?」

 幾つものシミが目立つ赤い表紙は、なめした革のように味のある照り方をする。ページも随分黄ばんでいて歴史を感じるが、並ぶ文字は詩のように少ない。内容も極々簡単なものだった。

「ああ、それかい?一昔前の初等院の教科書だよ」

「あ、ラシュ伯父さん。来てくれたんだ」

 上からひょいと私を覗く、優しい顔。ラシュ伯父さんだ。

「片付け、手伝うよ」

「ありがとう」

 伯父さんは、私がこの店を開くまで面倒を見てくれた保護者だ。今でもこうして時々遊びに来てくれる。

「本棚は動かすかい?」

「ううん、大丈夫。そのまま収納棚にするから」

「そうか。じゃあ本を退かさなきゃな。その教科書も一緒に、まとめてしまいなさい」

 スラッと細長い体型のラシュ伯父さんは、周りの荷物の間をスルスルと通り抜けながら物を運ぶ。

 新メニューの開発に当たり、仕入れる材料が増えた。しかし今の小さな倉庫では収まりきらないため、こうして使っていない書斎を整理して何とかスペースを作ろうとしているのだ。

「ねえ、ここに書いてあるサクラってあの湖のサクラのこと?」

 積み上げた本を束ねながら、それでも気になってしまい私は聞いた。

「ああ、そうだよ」

「あのサクラ、枯れてるのかと思ったけど…」

「あれ?リィナは伝説を聞くのは初めてか?」

 一瞬手の動きが止まる。だが、

「伝説?」

 私はあくまでも無邪気に首を傾げた。

「その文のことだよ。子供の頃から叩き込まれる一番オーソドックスな教育話だが、そもそもがこの国に昔からある伝説でね。桜は欲のない人にしか咲かない。だから欲張りな人にならないようにしましょうっていうのがここでの教訓なんだけど、それが本当にある話だっていうんだから驚きだよな」

「へえ」

 年に一度、願いを叶えるために咲くサクラ――。

「見てみたいな…」

「はは、それじゃあいい子にしてなきゃな」

「うるさいなー」

 伯父さんはすぐ私を子ども扱いする。

「それはそうと、増築は考えなかったのかい?もうこの店も大分客が入るようになってきたんだし」

「私はお客さん 一人一人を見れるこの大きさがいいの」

「なるほど。リィナらしいな」

 微笑むラシュ伯父さんに、私も笑い返す。でも頬が引きつりそうだ。

 その時だった。

 ドンッ、という重たい音が遠くから聞こえた。

「何?!」

 と同時に、店員が部屋に飛び込んできた。

「リィナさん!」

「今の音は何?どうしたの?」

「大変です、お客さんが荒れだして…!」

 慌てて店の方に出てみる。

「あの人です……」

 店員が恐る恐る指差す先に男が一人、椅子にだらしなく腰掛けていた。

 さっきの音は、彼が手にしているスキットルをテーブルに殴りつけた音のようだ。

「…お客様、申し訳ございませんが店内では――」

「よう、嬢ちゃんー。あんたもこの店の人かい?」

 この距離で話していても、ぷんと酒臭さが鼻につく。思わず半歩身を引いた。

「俺ぁ暇なんだよ、何か遊ぼうぜ」

「ですから…」

「なぁー」

 酔っ払い相手に話が通用するはずもなく、そのまま私は相手のペースに呑み込まれていく。

「俺ってば凄いんだぜ!話聞きたい?聞いちゃう?」

「……」

「おっと、でもタダじゃあ教えらんねぇや。ここは一つ賭けといこうかい?んー?」

「いえ、それは…」

 男の大きな声が、店の中にガンガンと響く。

 周りの客も動揺を隠し切れないのか、ざわめきが収まらない。

 そろそろ近所迷惑になりそうだ。早く追い出さないと……。

 だが、色々と策を練っているうちにも男の話はどんどん進んでいく。

「嬢ちゃんが勝ったら、いいこと教えてやんよ。大金持ちになれる方法、気になるあの人を射止めるテクニック!…ああ、そうだ。知る人ぞ知る伝説のサクラの真実なんかどうだい?」

「サクラ……」

 こうもすぐに話がリンクするとは、偶然と思うには余りにもテンポが良すぎた。不覚にも、好奇心が顔を覗かせてしまう。

「だが負けた暁には、俺の言うこと一つ聞いてもらおうかなー」

「……」

 やはりロクなことにならなさそうだ。信用できない。

 持っている手立てが、明らかに少なかった。案を搾り出そうにも基がない。唇を噛んで悔やむ暇もなく、私はイエスかノーかの二択以外の道を必死で探していた。

 ――思いがけないところから助け舟が出されたのは、その時だった。

「その話、俺が乗ろう」

 澄んだ低い声が、一筋の光のように飛び込んできた。

「ん?お前誰ー?」

 私はハッとして声の主を見やる。

 厳しい目つきの奥で優しく光る青い瞳、真面目さを象徴するように整えられた短髪、逞しい肩に担がれた小さなケース――。

 その姿に、私は見覚えがあった。

「先輩……?」

 しかし彼はそれに答えることなく、男の隣に腰掛けた。

「聞いてやろう、お前の話」

 店内のざわめきは更に大きくなる。だが、その中には場を楽しみ始めているような興奮も混じっていた。

「あの、」

 開きかけた口は、彼の冷たい眼差しによって閉ざされた。

「俺がどうにかする。任せてもらっていいか?」

 数秒の間、無力さを思い知らされながら私は静かに頷いた。

 その様子に、男もニヤリと口角を吊り上げる。

「ほう、 面白い。だが兄ちゃん、賭けに勝ったらって条件は変わらないよー?」

「構わん」

「ふふん、じゃあ始めよっかー。ルールは至って簡単!今から述べることが嘘か本当かを当てるだけ!」

 男はテーブルから紙ナプキンを二枚取ると、彼にボールペンと共に差し出す。

「答えはそこに書いて嬢ちゃんに託そう。正解した数に差がついた時点で勝負ありだ」

 私が二人から紙を受け取ると、唐突にゲームは始まった。

「表と裏、どっち?」

「裏だ」

「了解ー」

 コインがくるくると宙を舞う。

 そして男の手の甲で、

「表だね」

 オリーブの葉が姿を現した。

「じゃあ俺が先攻なー。第一回戦!世界には、空から氷が降ってくる国がある!イエスかノーか?」

「イエス」

「ほう…」

 氷が空から降ってきたら、料理人としてはどれだけ有難い話だろうと思いながら紙を開いてみせる。

 そこには「True」と殴り書きされていた。

「確かにここの人たちは雪なんざ、見たことも聞いたこともないだろうな」

「へえー。でも君は例外なのかい?」

「想像に任せる」

 二人の会話が別世界のもののように思える。

 何を言っているのか、私にはさっぱり分からなかった。

「次は俺だ。…ラテル街では鮮魚を仕入れる店がある」

「ふふん、嘘だねー」

 彼は大きく舌打ちした。

 ここは内陸国だ。故に魚自体食卓に並ぶことは珍しい。貿易の盛んなラテル街はその中でも魚介類を扱う有数の町である。しかし市場に並ぶまで時間がかかるため、どれも保存加工がされている。

 紙には丁寧な筆跡で「 ×」と記されていた。

「じゃあ第二回戦!」

 そう言ってまた紙を取り出す。エコロジーの欠片も無い。

「これ、もう随分使い込んでるものなんだけどさー、」

 そう言ってスキットルをテーブルの上にガツンと置く。

「さて、これはたったヒヨコ一匹で買った安物である。――どうかな?」

「触ってみてもいいか?」

「どうぞー」

 彼はスキットルをヒョイと持ち上げる。模様も光沢も何もない、アルミで出来ているような簡素なものだった。

「ノーかな」

「ほう、兄ちゃん目が利くね」

「えっ……」

 自分の目には安物にしか見えない。しかし、紙には確かにそう示してあった。

「チタン製だな。やけに軽い」

「正解ー」

 素っ気ない彼の答にも、男は愉快そうにゲラゲラ笑った 。

「じゃあ目には目を、だ」

 彼はケースに手をかけた。

 パカリと開かれた黒い箱の中から、つやつやと上品に光るバイオリンが現れた。

「これは牛一頭では到底買えなかった高級品である。さあどっちだ?」

「ふーん。ちょいと見させてもらおうか」

 男はバイオリンを手にすると、縦にしたり横にしたりしばらくじっと眺めていた。

「ふむ、確かに材質はそんなに高いものではない。だがな」

 ニヤリと笑うと、ヘッドの渦巻きを指さす。

「なかなか見ない形だ。しかも、よく見ると他のところも全て人の手で作られている。作者の才能に賭けよう。答えはイエスだ!」

 ビシッと彼を指さし言い切った。

 店内に束の間の静寂が流れる。

 糸を張ったような緊張を崩したのは、彼の小さな 微笑みだった。

「――俺の勝ちだ」

「あちゃー」

 ワッと客から拍手が起こる。

「自分で作ったんだ。材料費だけで済むなら、牛どころかその餌代で十分買える」

 紙の中には「×」の文字。しかし男は嬉しそうだった。

「良い、実に良い!君こそ俺の情報を分け与えるべき人にふさわしい!」

「……」

 男の荒ぶり様にも、彼は冷静さを欠かなかった。

「教えてもらおうか。そのサクラの噂とやらを」

「噂じゃない。本当の話だ」

 突然、男は真面目腐った顔をして言う。そして彼の耳元に顔を寄せると、

「――サクラは、いずれ君のために咲く」

「……?」

「その真実は、もう既に君の心の中で芽生えている。……なんてな!」

 ギャハハと男は煩く笑う。

 次の瞬間、

 ドアが 盛大に開く音と共に、大勢の人が雪崩れ込んできた。

 さっと身体中の体温がなくなっていくようだった。目の前に広がるものは、私にとっては恐怖の象徴だった。

 皆同じ群青色の軍服に身を包み、そして無遠慮に拳銃をこちらに向けている。

 ――憲兵だ。

 実際に接触のあるものは限られているが、目に入った瞬間反射的に身体が強張ってしまう。

 その姿を認めるや否や、客の中からも悲鳴が上がった。

「その者に告ぐ!手を挙げて今すぐこちらへ来なさい!」

 やれやれと言った様子で、男は大人しく憲兵に従う。

 軍の中の一人が、つかつかとこちらへやって来た。

「君たち、こいつに何か吹き込まれなかったか?」

 目が合った瞬間、全身の血の巡りが止まってしまったような気がした。

 彼の瞳に宿されている光は、全く人間味を帯びていなかった。

「……いいえ」

 やっとの思いで出た返事は、自分でも驚くほど震えていた。

「ええ、全く」

 対して彼は取り乱すことなく答えた。

「そうか」

 冷たい応答を投げつけられ、そこで憲兵の視線は別のところに逸れてくれた。

 緊張の解けた身体が、一瞬力を失ってガクリと膝を折りそうになる。カウンターに手をついて、何とか持ちこたえた。

「歩け」

 憲兵がこめかみに拳銃を突きつけ命令すると、男は渋々と立ち上がる。が、

「でも俺、まだ捕まる気ないんだよねー」

「っ、余計な真似を――!」

 次の瞬間、男が何かを床に投げつけた。

 それは勢いよく火花を散らし、シュルシュルという耳障りな音をたてて床の上をクル クルと回る。

「なっ…!」

 一瞬、憲兵が怯んで拘束を緩めた。

 その隙に、男はスルリと憲兵から逃れる。

「あっ!お前!」

「楽しかったぜ。強面の兄ちゃんに可愛い嬢ちゃん!アディオス!」

 そうしてそのままそそくさと、店から姿を消した。

「待て!」

 それにつられて、憲兵たちもぞろぞろと来た道を律儀に辿るように外に出て行く。派手な火花もけたたましい音も、最後の憲兵が店を出ると同時にピタリと止んだ。

 突然の終焉に、誰もがポカンと呆けた顔をしていた。だが次第に一人、また一人と元ある時間に戻って行き、取り残されたのはそのまま動かない私と目の前の彼との二人だけとなった。

「…ネズミ花火一つでビビってるようじゃ、お国のためになんざ働けないだろう な」

 一呼吸置き、彼はそう悪態を付くとようやくこちらを向いてくれた。

「久しぶりだな、リィナ。三年ぶりか?」

 私はホッとして彼に笑いかけた。

「相変わらずですね、ヴァルノ先輩」

 私たちもまた、元ある時間へと戻っていった。



「すっかり私の事なんか、忘れてしまってるのかと思いましたよ。ずっと無視を決め込むんですから」

「すまん。グルだと思われると、賭けの条件が不平等になるからな。終わるまでは黙っていたかったんだ」

 ケーキとコーヒーを出すと、先輩はありがとう、と小さく笑った。

 こんな大きな図体で繊細なバイオリンを弾く姿も最初は驚いたものだが、何より甘いものが大好きなことには人は見かけで判断してはいけないと学ばされた。

 ヴァルノ先輩とは、学生時代に知り合った仲だ。先輩が留学してしていたために今まで顔を見ることはなかったが、まさかこんなところで再会するとは、思いもしなかった。

「そんなに勝ちたかったんですか?サクラの話のために」

「いや、酔っ払いを手っ取り早く追い払いたかっただけだ。困ってたみたいだから」

「ありがとうございます。実際途方に暮れてました」

「おいおい、あんなやつはこの街じゃ吐いて捨てるほどいるだろ。大丈夫なのか?おまけに憲兵まで来るし」

「とんでもない人でしたね…。でも、憲兵に追われるほど酷い人には見えなかったですけど」

「……あいつらは理不尽な理由でも人を殺せる。主君のためならな」

 先輩の表情が曇る。あまりにも酷い顔だったため、その危険な発言を咎めることすら憚られた。

「それよりも、先輩はいつ留学からお戻りに?」

 とにかく話題を変えようと、私はわざとらしく明るく振舞った。

「ああ、今日からだ」

「海外に三年も居たんですよね。私から考えてみたら有り得ない…」

「言葉や文化の違いが、もともとこの国が特殊なだけあって著しく違うからな。と言っても、ガミヤは隣国だが…」

「たまに香辛料なんかを買う時に外国人と交渉する機会がありますけど、私はその一瞬だけでもてんで駄目ですよ」

「おいおい、そんなんでいつもどうしてるんだよ」

「大抵のことは伯父がどうにかしてくれるので…」

「ったく、相変わらず独り身か」

「悪かったですね」

 見やれば、先輩の左手にはちゃんと指輪が光っていた。

 それが目に入った瞬間、私は思わずドキリとした。

「…先輩は、ご結婚なさったんですね」

「ん?ああ、これか」

 照れくさそうに、先輩は自分の薬指を眺める。

「二年前に結婚した。そいつの故郷もここでな。里帰りがてら、ちょっと散歩してたんだ」

 見ないうちに、先輩は自分の知らない世界を広げていた。そしてそこでしっかり生きている。遠い存在になってしまった先輩は、何処か誇らしげだった。哀愁すら感じる微笑みが眩しい。

「そうなんですか…」

 おめでとうございます、と素直に言えない自分が情けない。先輩の幸せは確かに嬉しいはずなのに、それが全く自分の知らないところにあると思うと、こうも他人事に考えてしまうものなのか。

 まだ新しい感覚に、戸惑うことしかできなかった。

「楽しんでくださいね」

「ああ、そうするよ。ごちそうさま」

 皿はあっという間に綺麗になった。

「新作なんです。どうでした?」

「クルミは大体ブラウニーとかに入れるものだと思っていたが、ガトーショコラでも案外アリなんだな。コーヒーがエスプレッソじゃないなら、クリームを添えてもいいと思う」

「参考にしておきます」

 といっても、甘党の先輩の意見はあまりアテにならないが。

 私は思わずクスリと笑う。

「どうした?」

「何か、色々昔のこと思い出しました」

「そうか。…懐かしいもんだな」

「先輩は、変わってませんよね?」

「ん?どうだろうな」

 そうだ。先輩自身は何も変わらずにここにいるのだ。

「そしたら、リィナだって変わらないと思うけどな」

「っ……」

 先輩の何気ない不意打ちに、一瞬身体が固まった。

「じゃあ俺はこれで。ケーキありがとう」

「…ええ、また何処かで」

 辛うじて繋いだ言葉は、先輩の背中に届いたか分からない程か細かった。

 決めつけに、涼しく鳴ったドアベルが自分の声の余韻を掻き消す。

 賑やかな店の中で一人、何も耳に入らない静かな空間でそっと俯いた。



「また何処かで」と言った日は、思った以上に早く訪れた。

 数日後、得意先の仕入れ場で偶然にも先輩に出くわした。

「奇遇だな」

 小さなオレンジを片手に微笑む先輩。いささかその図は滑稽だが、それよりも今日も一人でいることの方が気になった。

「奥さんとは 、一緒じゃないんですか?」

「ああ、これから会いに行くところだよ」

「……?」

「リィナの方は?」

「明日の分の材料を確保しに。今日は休業日なので」

「へえ」

「……」

「……」

 妙な沈黙。しかし、気まずさは感じなかった。

 メモを片手にナスやトウガンに手を伸ばしながらも、頭の中では先輩の言葉が引っ掛かった。

「あの」

 気が付けば、先輩と目が合っていた。

「これ買ったら、私もついて行っていいですか?」

 口にしてから後悔した。夫婦二人の特別な時間に、安易に入り込んでいいものではない。

「いえ、何でもないです。ごめんなさい、その……」

「…構わない」

 しかし優しい先輩は、残酷にも私から取り繕う言葉を奪った。

「俺は外で待って る。終わったらおいで」

「…はい」

 ためらったまま声を絞り出すと、先輩は軽く私の頭に手を置いた。

「気にするな」

「……」

 どうして皆こうも私を子ども扱いするのだろう。

「先輩、私もそろそろいい大人なのですが……」

「何の話だ?」

「何でもないです!」

 今までの申し訳なさを吹き飛ばすように、私はそう言い放つと頬を膨らませた。

 勿論笑われた。



 キャベツやカボチャやスイカなどゴロゴロしたものを持ってくれた先輩のあとを、私はビワやイチゴを抱えてついていく。

 他にまとめて買った食材は、後でラシュ伯父さんがトラックで運んでくれる。だが、それでも今の手荷物は多かった。

「こんなに多くの野菜を見るのも久しぶりだな。今 の時期、外ではこの中じゃカボチャしか売ってないぞ」

「すいません、持たせちゃって」

「お前はこれを一人で持って帰るつもりだったのかよ…」

「そうだったのかもしれません」

「無茶とかの範囲じゃない。無謀だよ」

 色とりどりの食材を抱えて行進する私たちの姿は、苦々しい表情とは裏腹に華やかだった。

「伯父さんは今日出掛けてて荷物を運べる時間が遅いので、どうしてもこれだけ今持って帰りたかったんです」

「仕込みは一人でするのか?」

「それくらいの仕事なら、アルバイトの子にも任せられますよ」

「じゃあ荷物持ちの段階からバイトの奴使えよ…」

 悪態をつきながらも、何だかんだで世話を焼いてくれるのが先輩だ。その歩調は、普段先輩が一人で歩いている時より もずっと遅かった。

 首筋に滲む汗を、柔らかい風が冷やしてくれる。踏みしめる道は都を外れて大分険しくなってきていた。

「こんな山奥、何があるんですか?」

 ついて来ておいて聞くのも変な話だが、あまりにも道中に人気がないため、不安になってくる。

「もう着く。――ほら」

 伸び伸びと茂る草木が目立ち始め、鬱陶しくも感じてきた時、急に視界が開けた。

 その光景に、私は息を呑んだ。

 いくつもの墓が、視界いっぱいに広がっていた。

「……先輩?」

「言ったろ、妻に会いに来たんだ」

「……」

 それ以上は、何も聞けなかった。

 静々と、私たちはたくさんの石の前を通り過ぎていく。

「ここだ」

 どれも変わりない石の列の中、先輩は迷うことなく一つの墓の前で止 まった。

「セレンって言うんだ、名前。半年前に亡くなった」

 墓の前で微笑む先輩は、先日指輪を眺める時の表情と全く同じだった。

 気付けなかった先輩の姿が、私の足を罪悪感で止める。その淋しそうな背中を、ただ少し遠くから眺めることしか出来なかった。

「憲兵に、殺されたんだ」

「っ……」

 先日の、冷え切った瞳が脳裏を過る。

「法の裁きを受け国の犠牲となった者は、最後まで国が処分する。葬儀もされないまま、土に埋められて終わり。墓くらい立派なのに入れてやりたかったんだけどな。それすらも叶わなかった」

 ああ、そうか。ここは国が設けた墓地なんだ。だからどの墓も皆無機質なのだ。

「どうして……」

 小さな呟きは、ゆるゆると首を横に振る先輩によって遮ら れた。

「すまんな、口止めされているんだ」

 命を奪った敵に従うしかない屈辱。目を伏せ俯く先輩からは、その悔しさが全身から滲み出ているようだった。

 先輩はそっと墓の前にしゃがみ込んだ。

「……手持ち無沙汰になることを嫌うような人だったよ。家でも外でもパタパタ動き回って何かしてた。掃除に洗濯、買い物に料理…でも、それが楽しくって仕方がないといった様子でさ。セレンが傍にいるだけで、何だか賑やかだった」

 ぽつぽつと、大切な思い出を拾い直していくように語る先輩。

「仕事上、ずっと静かな部屋で研ぎ澄ました神経を使い込んでいた。そんな俺にとって、あいつがどれ程の支えになっていたのか……失ってみないと気付かないだなんて、馬鹿だよな…」

 深いため息をつく先輩に、私はかける言葉が見つからない。

「何も、守ってやれなかった」

 パックリと開いてしまった先輩の大きな傷が、見えたような気がした。サッと体を駆ける悪寒が一体何を暗示しているのか、私には分からなかった。

「やっとここに来る決心がついたんだ。これからは、せめてもの償いに毎月立ち寄るつもりだ」

 国境にかかるほど国の端にあるここなら、ガミヤからでも通えるだろう。

 先輩は、手にしていたオレンジを無造作に置いた。

「…それは?」

「マーマレードはセレンの得意料理だった。…あっちでも暇そうにしてるより、何か作ってる方が落ち着くだろうと思ってさ」

 先輩らしい不器用な心遣い。しかしそれは、一番近くで彼女を見ていたからこそしてやれる、愛のこもった思いやりだった。

「……きっと届いてますよ。先輩の気持ち」

 哀しい光景なはずなのに、その姿を微笑ましく思った。

「変な話につき合わせて悪いな」

 私は、照れくさそうに頬をかく先輩の隣に並んだ。

「いいえ。不謹慎かもですが…話してくれて嬉しいです。あと先輩、」

 私は意を決して口を開いた。

「すごく言いにくいんですけど…このオレンジではマーマレードは出来ませんよ」

「え?」

 こういう間の抜けたところも、先輩らしい。

 墓の前にコロリと置かれたオレンジは、皮の薄いネーブル種だった。

「マーマレードに向いているのは夏みかんとかの皮の分厚い品種です。多分それを煮ても、いつまでも液体のままでジャムにならないですよ」

「そうか…。危ないところだった、毎月これを供えるつもりでいた」

 真剣な顔で頷く先輩。きっとセレンさんもネーブルを手に呆れるしかないだろう。

「やっぱり俺は、あいつが居ないと駄目みたいだ」

 しかし先輩は笑っていた。

「そうみたいですね」

 私もつられて微笑む。

 風に吹かれて揺れるオレンジも、何だか笑っているように見えた。



「お、張り切ってるね」

「伯父さんおかえり。そこのゴボウ剥いといて」

「はいはい。…って、帰って来た瞬間働かせるのかい」

「問答無用。とにかく人手が足りないの」

 先程までののんびりとした時間と打って変わって、厨房は竜巻が発生しそうな勢いで人が動き回っていた。

「記念日とやらも大変だね」

「うん。しかも今年はいつもより更に盛大なの」

 国王誕生記念日。この日ほどラテル街が賑わう日はない。ただでさえ祝日で客が倍増する上、近くの大通りはパレードの通過点のために余計栄えるのだ。

 しかも、今年は現国王の即位十周年だとか。国外からやって来る人も普段より多く見込まれる。

 故にこの店も、普段の倍の人数分を仕込まなければならない。

「皆いつもそんなに余裕持って働いてる訳じゃないんだから、そこに仕事更に積まれても回しきれなくないか?」

「それは言っちゃ駄目」

 徹夜は覚悟の上だ。

「人は?これ以上増やさない気か?」

「どこも自分のところで精一杯よ」

「それは確かにな……」

 唸るラシュ伯父さんには目もくれず、私は調味料の棚に手を伸ばす。しかし、掴んだのは酢のはずがコショウだった。

「あれ?」

 振り向いてガサゴソと棚を漁る。こんな時なのに、なかなか見つからない。

「伯父さん、お酢使った?」

「ん?そこじゃなくて油入れてある引き出しだろ?」

「……え?」

 グルリと後ろを向く。厨房を対角線上に横切った先、そこが油の引き出しだ。予想していた所とてんで違う。

 慌てて駆け寄って引き出しを勢いよく開けてみた。確かに酢はそこにあった。

「……」

 ミスやタイムロス防ぐため、調味料の位置は絶対に変えてはならない。それは従業員たちにも口酸っぱく言ってある。

 伯父さんが言い当てた時点でここは任意の場所なはず。

 だとすれば、管理人である自分が間違えた…?

「……はー…」

 私は引き出しをそっと閉めると視界をまた仕事に戻す。

 今は考えている時 間も勿体ない。

「伯父さん、やっぱりあったー」

 いつものように明るく笑う。

 だが、その裏で動悸は速いままだった。



 ウトウトとしていた意識を、鋭い馬の嘶きのような音が劈いた。

「ひゃむっ!」

 飛び起きると、伯父さんが腹を抱えて笑った。

「もう、先輩!楽器で遊ばないで下さい!」

 その隣でしてやったりとニヤリとする先輩を、私は思いっきり睨み付けた。

「そんな顔で睨むなよ、邪気が見えそうだ。厄払いしてやろうか?」

 そう言ってまたバイオリンを構え、私は思わず耳を塞いだ。

「あっ、やめ……」

「…なんてな」

 パッと構えを解き、そして先輩も伯父さんと一緒に笑った。

「二人とも意地悪……」

 不貞腐れる私を見て、二人は 更に笑った。

 準備は何とか間に合った。だが、その頃にはもう日付が変わっていた。皆を一旦帰してからも私は店のセッティングをしていたのだが、終わる頃には空が白みかけていた。

 終わった瞬間反射的にカウンターに突っ伏してしまい、そのままウトウトしていたらこの仕打ちだ。

「話を聞いてくれた御礼に」と、先輩は記念日の店の手伝いを申し出てくれた。

 気持ちは嬉しかったが、しかし相手が先輩となると事情が違ってくる。

 先輩は、背後の気配を探るということがとことん出来ない人なのだ。人とすれ違う回数の多い飲食店では、これは命取りになると言ってもいい。機転の利かない人は始めから居ないよりも邪魔になる。

 だから、

「動かなくていいんで、そこで演奏してて貰えますか?」

 恐る恐るバックミュージックを頼んでみたら、先輩も安堵を滲ませた表情で頷いてくれた。

 そして張り切って朝早くから顔を出してくれた。

「顔洗ってきなさい。皆が来るまでの間は俺らがやっておくから」

 先輩が保護者のように気遣ってくれる。

「うん。でも私も手伝います」

「いや、一旦ちゃんと横になって寝て来なさい」

「いいです、もう大丈夫」

 こんな時に、甘えてられない。だが、

「駄目だ。そんなクマのある顔じゃ、お客さんの前には出せないだろ」

 先輩は珍しく譲らなかった。

「……」

 銀色のトレイに映る自分の顔は、確かに人に見せられるようなものではなかった。先輩の言う通り、これでは背後に黒い靄でも見えそうだ。

「…分かりました」

 私はのろのろと 立ち上がった。頭が重い。全身の動きも鈍かった。

「とは言ったものの、俺は何をしましょうか?」

「ああ、取り敢えず……」

 初対面なはずなのに、二人はやけに親しくやっていた。そんな楽しそうな二人の声を背後に、私はずこずこと奥の部屋に引き上げた。



 ヒラヒラと、辺り一面を舞う花びら。

 妖艶なその色に魅せられ、私はふと足を止めた。

 ドクリと心臓が、異物を無理矢理押し出すように不規則に動いた。

 その震える肩にも、花びらは何かを諭すようにフワリと振ってくる。

 私は、ただ全てを知りたくて、

 何もない手にも舞い降りた花びらを、

 ――スッと吸い込むようにして、口に含んだ



 バッと毛布を剥ぎ、無理にでも身体を起こした。

 全身に気味の悪い汗をびっしりかいている。

 最近妙な夢を見る。別に怖いものは出てこないし、おぞましいものを見せられる訳でもない。何かの花びらがただ舞うだけ。

 だが、見てはいけない自分を見つめているようで、その正体が分からないからこそ恐ろしかった。

「はあー……」

 大きなため息をつき、水を飲もうと立ち上がる。

「ああ、起きたのか」

 そこで伯父さんと出くわした。

「あれ?」

 私は首をかしげる。

「お店は?先輩一人なの?」

 いつも伯父さんは店でピアノを弾いてくれる。今日は先輩と二人でずっと曲を流していく予定なはずだ。なのに伯父さんは今ここにいる。

「厨房に回った方が良さそうな気がしてね。それに、強力な助っ人が捕まったんだ」

「助っ人?」

 伯父さんはいつものように優しく微笑んだ。

「見ておいで。今日はリィナには店番の方をしてほしいし」

 伯父さんに背中をトンと押され、私は仕度部屋に向かった。

 いつもの作業を淡々とこなし、仕事用の笑顔で店に出る。

 だが、それが一瞬素顔に戻りかけた。

 いきいきとした表情でバイオリンを奏でる先輩の傍ら、ピアノに指を走らせているのは、

 ――先日の男だった。



「先週はすまなかった。お詫びと言っちゃなんだが、手伝えることがあったらなと思ってな」

 無事閉店し、昼の賑やかさも去った閑散とした店の中、私たち三人は静かな夜を過ごしていた。

「随分と多才なんだな」

「ふふん、教養人とでも言ってくれ」

 先輩の皮肉にも、男は素直に喜んだ。

「今更だが、バロンとでも呼んでくれ」

「あの、バロンさん…どうしてまたこの店に?」

「色々と気になることがあってな。それと、酔っていた時の記憶を取り戻しに」

 バロンさんは申し訳なさそうに笑った。

「実際何処まで口にしていたか覚えてなくてな。無闇に追っ手が増える一方で対策も出来ん」

「何故憲兵に追われているのですか?」

 もういっその事と、率直に聞いてみた。

 すると、バロンさんは難しそうな顔をしてキロキロと椅子を回した。

「まあ、野望ゆえさ」

 だが、結局はぐらかされてしまった。

「それにしても良い時間だった。相方の腕が良いとこっちもやり甲斐がある。兄ちゃん、何処で修行してんだい?」

「隣国のガミヤの都で」

「なるほどな 。ガミヤは寒いだろう」

「ええ、ここに住み慣れていると余計に」

「どのくらい寒いんですか?」

 バロンさんは一瞬きょとんとすると、途端に吹き出した。

「ははっ、そう来たか。そういや、嬢ちゃんは生粋のこの国の住人だったな。いいか?冬というのは寒いものなんだよ。冷凍庫の中じゃなくても氷ができるくらい」

「えっ」

「むしろ冷蔵庫が保温室代わりだ。朝起きたら、置きっぱなしにしてたシチューの残りがカチカチに凍っていたことがある」

「池も凍るぞ。その上を刃の付いた靴を履いて滑ろうだなんて、よく考え付いたもんだよな」

「へえ……」

 想像も付かない。

 その後も在るような無いようなことを好き勝手に吹き込まれ、気がつけば時計の針は真上でぴったり重なっていた。

「そろそろ良い時間だな。悪いが俺はお暇させて貰うよ」

 最初に席を立ったのは、先輩だった。

「ええ、今日はありがとうございました」

「いや、俺こそ楽しかった。…去り際に、一曲いいか?」

「本当ですか?嬉しい!」

 素直にはしゃぐ私に笑い返すと、先輩はおもむろにケースを開けた。

 軽くチューニングをし、改めて構え、調子を合わせて息を吸い込む。

 刹那、空気がガラッと変わった。

 私はこの瞬間が大好きで。そうだ、いつだって先輩の隣に居たのだ。

 切り出された音は、あの頃と変わらず丁寧な響きを持っている。

 音楽に疎い私でも知っている旋律だった。何故って、先輩が昔よく弾いていた曲だから。

 カチカチに凍っていた思い出を、先輩の伸びやかな音が溶かしていく。

 大胆なビブラートは部屋を揺るがすように響き、繊細な連符は空間をうねらせ、柔らかなスタッカートは人々の心を引き付ける。

 成長の中に持つ変わらぬ味が、胸を懐かしさで満たしていった。

 だから音が止んだ時、私はギュルリと現実に戻される空気を感じた。

 確かに私は、今まで夕暮れの中にいた。先輩と過ごした、あの柔らかなオレンジに染まった教室に。

 おしまいを合図するように、バロンさんの拍手が白々しく鳴った。

「ありがとう。それじゃあ、俺はこれで」

 弾くだけ弾いて、感想も何も求めずに去っていく。

 立ち上がり、ケースを手にし、背を向けて――。

 昔と何一つ変わらない先輩の動作に、私は思わず寂しさを覚えた。

「明日の夕方、ガミヤに戻る」

「そうですか……」

「だから……その前にもう一度、来てもいいか?」

「!」

 去り際に振り向く先輩を、私は初めて見た。なのに、どうしてか新鮮なものには思えなかった。むしろ温かい懐かしさすら感じた。

「…ええ、お待ちしてます!」

 営業用でない笑顔で私は答えた。

 先輩は満足そうに頷くと、今度こそ背を向けた。しかし、

「早まるなよ、若造」

 バロンさんの言葉にまた足を止めた。

「…と俺が言っても無駄なんだろうがな」

「あなたには、一体何が見えるんですか?」

「お前が今持っている全てだ。だからこそ言っている。これだけは覚えておけ。望みが叶うことと報いを受けることは別にあるものだ」

「……その話は、」

 先輩は俯き気味に小さく笑った。

「信じてもいいんですね?」

「……好きにしろ」

 ため息混じりに言い捨てるバロンさんに、先輩は片手を挙げて挨拶すると店を出て行った。

 ドアが静かに閉まると、外から入ってくる音がピタリと止んだ。

 バロンさんはこちらに向き直すと、大きくため息をついた。

「あの…どういうことですか?」

「あの兄ちゃん、目が死んでいた」

「っ……」

 触れないできたことに、バロンさんは真っ直ぐ刃を差し込んだ。

「サクラの話、それが引き金になっちまったんじゃないかと思ってな」

「サクラ…?」

「ほら、俺が初めてここに来た時言ってただろ。サクラの真実がどうとか」

「!」

 どうしてか、身体が強張った。

 頭の中で再生された憲兵の姿からではない。もっと奥深くに眠る何か、その息吹が一瞬掠めたような気がしたのだ。

「俺は一体何処まで喋っちまったんだ?」

「先輩のために咲くとか何とか…それがどうかしたんですか?」

 バロンさんは軽く頭を抱えた。

「マズいな。となるとやはり今夜か……」

「今夜?」

「嬢ちゃん、君はサクラについてどれだけ知ってる?」

「えっと…」

 先日見つけた本を辿るようにして、私はサクラの伝説を思い出す。

 年に一度、願いを叶えるべき人を見つけると咲くサクラ。湖の上にぽっかりと浮かび、しかしその姿はいつも枝が寒々しく広がるばかりで貧相だ。かなり奥地にあるため、人が滅多に来ることは無い。ここまでだ。

「なるほど……じゃあこういうのは聞いたことあるかい?あのサクラの花びらには人間を殺せるほどの強力な毒があること、そしてそのサクラの恩恵に与ることは国で禁じられていること」

「え……?」

 ポツンと一滴、心の中の洞窟に冷たい雫がしたたるように、バロンさんの言葉が響いた。

「欲の無い願いって、何だと思うかい? おかしな話だが、ここでは自分を犠牲にしてでも叶えたい他人への願いを指すんだ。例え自分がサクラの毒を注がれても、な」

 唐突に頭が痛み出す。嫌な予感が身体中を駆け回る。

 それでもバロンさんは話すのをやめなかった。

「あのサクラは国宝として保管されている。そうすると他国から援助が貰えるからな。だから、国はそんなサクラが人に有害であるということを知られたくない。故にサクラに願いを叶えて貰うことは、今は法律違反なんだ。人が死ねばそれが証拠になってしまうからな」

「それは、いつから?」

「今の国王が即位してから。つまり、彼此10年前からの話さ。それでも違反者が絶えなくてな。サクラの犠牲となったものはそこの山のふもとにある国の設けた墓に 埋められるんだが、随分数が多いだろ?」

「もしかして、あの市場の奥の……」

 バロンさんはコクリと首を縦に振った。

 オレンジの背後に広がる、幾数もの墓が脳裏を過った。

「あれは違反者とその家族の墓だ。サクラの力を借りた者は一家揃って根絶やしにする。そこまで脅しをかけなきゃ、伝統的に国に伝わる住民の夢を壊すことができなかったのさ」

「!」

「実際に死刑が執行されているという事実さえ秘密事項だ。葬儀もさせず、一家はそうして静かに墓に眠らされる。でも最近は流石に墓の数が多くなってきたからな、他の刑も現在研究中らしい」

 視界がグラグラ揺れるようだった。

「バロンさんは、どうしてそんなことまで知ってるんですか?」

「俺かい?」

 バロンさんは小さく苦笑した。

「それは俺が、サクラに選ばれた犠牲者の弟だからだよ」

「っ……」

 話がどんどん繋がっていく。

 何故だろう、それが只々怖かった。

「飲んだくれの俺と違って、兄は優秀な人だった。絵に描いたようなエリートさ。両親の期待も、俺への何倍も強かった。だから、サクラに選ばれた」

「……」

「兄は喜んでサクラに手を伸ばした。意外だよ。輝かしい未来のあるあいつが、自ら死を選ぶだなんてね。しかもその願いの先に俺がいるとは、夢にも思わなかった」

 カラカラとグラスの中の氷を転がし、バロンさんは懐かしむような目をして言う。

「俺は力を手に入れた。何もかもを知る力。そいつを見ると見えるんだ、歩んで来たであろう背景やこれからの未来がさ。 サクラのことなんてよく知らなかった俺は、素直に嬉しかった。丸見えな世界がとても愉快で仕方がなかった。強くなれたような気がした。…だがそんな幸せ、長くは続かなかった」

 弄んでいたグラスを、グイと一気に煽った。琥珀色のウイスキーを氷ごと飲み干すと、ガリガリと残ったものを噛み砕く。

「兄は、サクラの毒が回って死んだ。あろうことかその年、初めてサクラに関する法が施行された。そんでもって母親も、父親も…。家族の中で助かったのは、サクラの力で憲兵の動きが読めた俺だけさ」

「それで、今も憲兵に…」

「そうだ。だが俺は捕まるわけにはいかない。何でも分かるようになった俺でも、分からないことが一つあるんだ」

「?」

「兄が自分を犠牲にしてまで、俺に力を託したわけだ。それを知らない限り、俺は死ねない」

 顔を上げ、バロンさんはニヤリと笑った。いつもの不敵なバロンさんだった。

 だが、またすぐに表情を引き締めた。

「話はここからだ。そんな俺が兄ちゃんを見た時、分かっちまったんだよ。こいつもまた、その犠牲者の一人だと」

 もしバロンさんの話が真実なら、先輩は、サクラにセレンさんを奪われたことになる。

 私はバロンさんの予想に頷いて返した。

「ええ。先輩の奥さんは半年前からあのお墓の中にいます」

「そうか…。おそらくそれで、身寄りと言えるものを全て失ったのだろう。今の彼が消えたとして、その先被害に遭う者は誰一人としていない」

「……?」

 バロンさんの話はまだ全貌は見えていない。だが 、そのままであってほしいと思う自分がいた。

 全てのパーツが引き合わせられる時は、もうそこまで来ている。

「だから酔った勢いで、もう一つ見えたことを口走ってしまった。まあ言わなかったところで、未来は変わらなかっただろうが……」

「それは……」

 聞きたくない、でも聞きたい。

 躊躇からか、手元が微かに震える。それでも、勇気を振り絞って話を前に進めた。

 先ほどまでここにいたはずの先輩が、もう夢のことのように思えてしまって。何でもいい、縋りつきたかった。例えそれが、

「今年のサクラは兄ちゃんのために咲く。そういう運命をさ」

 ――小さな期待を容赦なく打ち砕くものだとしても。

「っ!…そんな……どうして!」

 優しく笑う先輩、バイオリンを手にしたときの真剣な先輩、困り顔でそれでもついて来てくれる先輩、大きな背中を見せて前を歩く先輩――。

 全てが一瞬にして掻っ攫われてしまったようで、目の前が真っ暗になった。

「そう言われてもなあ、見えちゃったんだから仕方ないだろ。問題はそれからだ」

 対してバロンさんは落ち着いていた。今まで何度も見てきたのだろう、変えられない宿命を。ただ傍観するしかない未来を。

「嬢ちゃん、お前はどうしたい?」

「っ!」

 勢いよく立ち上がると、ガタンと後ろに椅子が倒れた。

「…私は……」

『失ってみないと気付かないだなんて、馬鹿だよな…』

 失くした幸せ。もう自分の力ではどうしようもできない現実。叶えば、俯く先輩の顔を上げさせられる。先輩の本当の笑顔が見れる。でも、

「私は…!先輩にいなくなってほしくない!」

 単なる我が儘でもいい、余計なお世話でもいい。

 かき集めたとしてもそんなにない、少なくても温かい思い出を、ずっと生かしておきたかった。

 私は咄嗟に店を出た。

 静かな店内とは裏腹に、夜が深まってもこの街は賑やかだ。

「おい、嬢ちゃん!」

 そんな行き交う声を突き破るようにして、バロンさんの声を背中に受ける。

「使える奴はとことん使えよ!」

 そしてそのまま隣についてくれた。

「バロンさん!」

「ったく、そのまま突っ込んでったら憲兵に捕まって終わりだろ?」

 そう歯を見せて目配せする。

「案内してやる。兄の死に様、無駄にはさせない」

 いつもより大きく見える満月が、他 になにもない澄んだ夜空にぽっかりと浮かんでいる。その光に照らされる弟の姿は、とても頼もしいものだった。



 満月を追いかけるようにして、走って、走って、とにかく走った。

 ふと憲兵が目に入れば、すぐさまバロンさんは私の手を取り、柱の陰に身を隠す。その繰り返しだ。

 息を整えながら、そろりと建物の隙間に身体を滑り込ませる。周りの音が遮断され、服の擦れる音が大きく聞こえる。

 バクバクと無遠慮に鳴る心臓や額に滲む汗は、疲労よりも焦りを象徴していた。狭いところを縫うように進んでいるため、速度は明らかに遅い。浮かんでは消える先輩の姿が、今はとても目障りだった。冷静になんかなれない。

「きゃっ!」

 突然配水管に足を取られ私は、盛大に転んだ。

 膝が痛むからではない。もどかしさが積もりに積もって、思わず目頭が熱くなる。

「泣くなよ」

「でも……こんな私に出来ることなんてないような気がして、悔しくて…!」

 バロンさんの足が止まる。

「決まった運命に抗うことはできない。だがな、その更に先に広がる未来に、望みを託すことはできる」

 借りものの言葉のようにスラスラと出てきた台詞。もう何度も自分自身に言い聞かせているものなのだろう。

「兄ちゃんが満開のサクラの前に立つという事実は変えられない。その先が勝負だ。俺にはもう一つの運命が見えるからだ」

「え……?」

 バロンさんはスッと私を指差した。強い眼差しが、私に真っ直ぐに注がれる。

「嬢ちゃん、君が全てを握っている。この状況を救えるのはどうやら嬢ちゃんだけらしい。それも宿命さ。ほら」

 前を譲られ、路地裏を抜けた。

「行って来い!」

 訳の分からないまま背中をドンと押され、私は弾かれたように駆け出した。

 開けた視界いっぱいに、花びらが舞っていた。

 淡い薄紅色が、湖に反射された月明かりに照らされ、表裏を翻す。

 その景色が夢で見るものと重なり、そしてその一枚に手を伸ばす先輩が目に入った時、私は思わず悲鳴を上げそうになった。

「先輩!」

 代わりに飛び出た声は、必死になるあまり半分裏返っていた。

 それでも先輩は止まらない。

 何も聞こえていないのか、躊躇なく花びらを手にする。

 何かに憑かれたかのように、おぼつかない足取りで湖の中にザブザブと入っていく。

 水面に写っていた月が、グニャリと歪んだ。

「先輩!ヴァルノ先輩!」

 もつれる足を無理に前に進め、私も水に踵から飛び込む。

『花びらを食み、サクラの幹に手を当てて念じると願いは聞き届けられてしまう。その前に引き留めないと――』

 教わったばかりのバロンさんの言葉が、頭の中で反芻される。

 中央に聳え立つサクラは、もう目の前まで迫って来ている。

「先輩!」

 水底に張り巡らされた根に躓きながらも、やっとのことで 先輩の背中に飛びついた。

 ハッと先輩が我に返る感触があった。

 だが、途端に強い力に振り回される。

「放せ!」

「嫌です!」

 表情の見えない大きな背中に、私は必死にしがみ付いた。

「行っちゃ駄目です!そんなことしたら、死んじゃうんですよ?!」

「止めないでくれ!俺は……目の前にチャンスがあるんならセイラを取り戻したいんだ!そんな大切な人を守れなかった奴よりずっと、アイツが生きてくれた方が良いに決まってる!」

「違います!セイラさんはそんなこと望みません!それに、死んでいい人なんていない!」

「そんなの綺麗事だ!俺にはもう死んで泣いてくれる人なんていないんだ」

「ここにいます!」

 ピタリと先輩の動きが止まった。

「ここにいますから……もう誰も失いたくないんです。だから先輩も……」

「リィナ……?」

 湿っぽくなってしまった声に反応した先輩が、やっと振り返ってくれた。

「行かないで下さい……。もう嫌なんです」

「どうした。リィナ」

 不安げにこちらを見つめる先輩が、不覚にもぼやける。

 馬鹿だ、私。本当に泣きたいのは、先輩の方なはずなのに。

「私、病気なんです…。どんどんものを忘れてしまう病気」

 溢れ出る雫は、止め処なく頬を伝う。

「子供の時のことも、両親のことも、もう覚えていないんです。辛うじて残っているのは大学生時代からの記憶くらいで…。でも最近はそれすらもどんどん蝕まれていっているような気がして、怖いんです……」

 サクラの伝説が書いてあった教科書には、確かに自分の名前が拙い字で記されていた。だが、自分がその本を手にした記憶も、その頃過ごしていたであろう日常も、何一つ思い出せなかった。

 ラシュ伯父さんの元に転がり込んだのは、自分の進路を両親に反対されて家を飛び出したから。だが、その家が一体何処にあって、そこに住む人たちが何人居たのかももう覚えていない。

 最近は身近なものでも、その症状は目立つようになってきた。

 調味料お配合や位置を間違える。店を構える外人と交渉する時の、基本的な会話文でさえ忘れる。買い物も、メモなしではこなせなくなって来ていた。あんな小さな店の経営自体、店内把握をするのもいっぱいいっぱいだ。

「嫌なんです、もうこれ以上の思い出がなくなるのは…。だから先輩も、忘れないですむ所に居てほしい。生きていてほしいんです!身寄りがないなら、私の店で働いてもいいですから。お願いですから、どうか……」

 ポンと、先輩の大きな手が置かれた。

「……分かったよ」

 ワシャワシャと髪を撫でられる。

 少し困った顔で微笑む、いつもの先輩がそこにいた。

 只々泣きじゃくる私は、確かに子供のようだった。



 もう聞き慣れてしまったドアベルの音。その先で、

「いらっしゃい」

 とラシュが笑顔で迎えてくれた。

「どうも」

 ヴァルノはそのままカウンター席についた。頼む間もなく、スッとコーヒーが出される。

「ありがとうございます」

「結局、ガミヤに戻るのかい?」

「ええ。でもその前に、リィナと約束してたので。もう一度だけ、ここに顔見せるって」

「サクラの毒が回るまで、二日くらいは余裕があるからね」

 カップを口元に運んでいたヴァルノの手が、ピタリと止まる。

「知っていたんですか?」

「勿論。訪れる最期を前に、リィナの姿を見納めておきたかったんだろ?」

 ヴァルノは分が悪そうに苦笑した。

「流石はラシュさんだ」

「ははっ。君が相手だろうと、容赦はしないさ」

 同じような笑い方をするラシュは、しかし心底楽しそうだった。

「だがラシュさん。今回は俺の勝ちです」

「ん?」

「俺はサクラの力は借りなかった。だからこれからも、生き続けます。アイツとの思い出を背負って――」

「……そうか」

 ラシュはそれ以上何も言わなかった。だがその目に宿る優しい光が、全てを物語っていた。

「リィナは…いや、――セレンは大丈夫なんですか?」

 それにはラシュはゆるゆると首を横に振った。

「駄目だ。後遺症が止まらなくてな」

 若年アルツハイマー。表向きはそんな立派な病名が付けられているが、実際は人工的に記憶を強制消去した末に引きずっているものだ。

 故に彼女は幼少時代の記憶も、ヴァルノとの本当の思い出も、――サクラの力を借りて亡くなった両親のことも、思い出せなくて当然だった。

 彼女は生まれつき身体が弱かった。だから、結婚したヴァルノと共に赴いたガミヤの気候は、彼女には応えるものがあった。

 夫が高熱を出し、付きっきりで看病をしていた翌朝のことだった。彼女は疲労と極寒から、命の危険に晒された 。

 頼れるものが周りに居なかった彼は、すぐさま彼女の両親に連絡した。だが、手を施そうにも両親たちは助けに行くことはできない。その日は、いつもにも増して雪が酷かった。

 医者も呼べない、対処法も分からない。あたふたしている内に、彼女は弱っていく一方だった。

 親というのは、時に子に対して盲目だ。

 何を思ったのだろう、彼らが咄嗟に頼ったのは保健機関でもなく公務員でもなく、

 ――あのサクラだった。

 しかもあろうことか、彼らの前でサクラは咲いた。

 彼らは親として、子の無事を必死に祈った。

 花びらを食んで。

 そして願いは届いた。

 両親は死んだ。その罪は、彼女にまで及んだ。

 だが、サクラの力がそれを阻止した。両親が願った娘の無事。それは、憲兵による死刑執行の阻止も含まれていたのだ。おかげで、国の手によって彼女の命が散ることはなかった。

 しかし、

「脳に圧をかけて記憶をごっそり抜こうだなんて…。そんな装置、臨床実験段階で国民に使うべきじゃなかったんだよ」

 ラシュは軽く頭を抱えた。

 死刑者が連ねる墓が目立つようになって来た頃、国は新たな処刑法として未完成なその装置を導入した。

 サクラを食んだ者の記憶を、存在自体から根こそぎ失くしてしまう。

 受刑者の対象となった彼女は、そうして思い出の大半を失った。

 セイラとしての自己は死亡届が出されてしまっているため、もう使えない。そうしてリィナという名前が新しく与えられ、 彼女は遠い親戚に引き取られた。

 書き換えられた記憶は脆く、彼女はすぐに自身の異変に気がついた。

 症状が進み始めたのは、それからだった。

「本人も気にしているんだ。だが全てを知っている僕らからしてみれば、その時の必死の取り繕い様が居た堪れない。なあ、ヴァルノ。出来れば君にはここに残っていてほしい。僕なんかより、やっぱり君の方がリィナを支えてあげられる」

「そんなこと……」

 雪の叩きつける、あの日のことがヴァルノの脳裏を過る。

「……俺は、どちらにしろ国を出なくてはならない身なので。リィナを連れて行く訳にはいきません」

 サクラの法の裏を知ったヴァルノは、無条件で国外追放を命じられた。

 こんな盛大な祝典に肖らなければ、この国に入ることは一生叶わなかっただろう。

「それに俺、アイツを見ていてやっと区切りがついたんです。アイツはちゃんと此処で生きています。その隣に俺が居る必要はないですよ。俺のセイラは……もう死んだんです」

「……」

 指輪に目をやるヴァルノに、ラシュはまだまだ青さを感じた。

「……久しぶりに見たよ、リィナのあんな生き生きとした顔は」

「っ……」

「覚えていなくても、身体に染み付いた愛情がそうさせるのかもな。僕はもう一度、あのリィナの姿を見たいけどね」

「…ご期待に添えず、申し訳ありません」

「いやいや」

 ラシュは小さく笑った。

「待っているよ。君がまた戻ってくる日を」

「ええ」

 ヴァルノは見透かされていたものを受け入れるように、落ち着いた返事をした。

「今の所、その予定はありませんが」

 ラシュは眼差し一つでそれに応えると、ヴァルノに背を向けた。

「彼女を呼んでくるよ。どうぞごゆっくり」

 彼なりの優しさに、ヴァルノは小さく頭を下げた。



 伯父さんに呼ばれ、私は直ぐさま表に飛び出した。

「先輩!」

「ああ」

 暖かい日に照らされ、落ち着いた表情をしている。私は影でホッとした。

「昨日は悪かったな。大丈夫だったか?水に浸かったから、身体が冷えただろう」

「もう、先輩は過保護ですよ。私そんなにヤワじゃないです」

「そうだな」

 カチャカチャと支度する私の手元を、先輩がじっと見つめている。

 ずっと昔からこうして過ごしていたような、とても落ち着ける雰囲気だった。

「俺はやっぱり、ガミヤに戻るよ」

「……そうですね」

 何処かで分かっていた。先輩は結局行ってしまうこと。だからその返事は、案外すんなりと受け入れられた。

「また新しく始めてみる。そう思ったら、まだ夢しかなかった昔を思い出したよ。あの頃は本当に無我夢中だった…。だから、もう一度ガミヤで夢見てきた世界、追いかけてみようと思ってな」

 手元の動きが、ふと止まった。

「あの、」

 きょとんとした先輩は、ちゃんと次の言葉を待ってくれる。

 どぎまぎしながら、私はそれを差し出した。

「試作品、食べてみてくれませんか?」

 結局俯いてしまい、それでも何とか声を絞り出した。

 返事代わりに、カチャカチャと食器が触れ合う音がする。

「パイか。仕込みが大変だっただろうに」

「いえ、そんな……」

「――懐かしい味だな」

 ハッとして顔を上げると、黙々とパイを口に運ぶ先輩がいた。

「アイツの作るマーマレードによく似てる」

「!」

 セイラさんのマーマレードがどんなものなのか、私には分からなかった。知っているのは、昔から自分が作っているマーマレードだけ。それでもいいと、思い切って作ってみた甲斐があった。

「いい旅立ちになりそうだ。ありがとう」

「……はい!」

 ほろ苦い甘ったるさが、胸いっぱいに広がる。

 昔の淡い初恋が、少し報われたような気がした。

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小噺玉手箱 香罹伽 梢 @karatogi

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