“きっかけ”その後

 私たち二人は部屋へ戻った。窓を閉じて鍵を掛ける。よく晴れた秋の空がガラス越しに目に入る。

 瀬田君はキャスター付きの椅子に腰掛け、私は壁際に座り込んだ。彼の目は上の空で、どこを見ているか定まっていない。それは私も同じで、どこかふわふわと浮いているような感覚が抜けなかった。さっきの事が頭の中をぐるぐると巡った。彼の言った言葉が耳から離れず残った。

「んん~」

 瀬田君は唸りながらノートPCのあるデスクへ突っ伏した。髪の毛を乱暴にかいている。

「瀬田君、大丈夫?」

 私がそう声を掛けると、瀬田君は手を止めてこちらを振り向いた。まるで初めて私の存在に気づいたような顔をしていた。

「大丈夫、じゃないんだろうな。今日の僕は」

 悲しげに手を見つめている。

「なんでだろうな。今日、朝起きたら同じ部屋に君が寝ていて、それを見ていたら、今日はなんだかいつもと違う一日になるような気がしたんだ」

 その頃私はまだ夢の中にいた。

「駄目だな。ちょっといつもと違うからって」

 私は自分がこの部屋の中で異物なのだと自覚した。普段自分しかいないはずのこの空間に誰かがいる。私も一人暮らしをしているから、そのいつもと調子を狂わされるような感覚は分かる。部屋に上げた相手に「楽にしてて」と言いつつも、その実、普段通りに出来なくて楽になれないのはこちら側だったりするのだ。

「部屋の掃除するよ」

 彼は立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあったシートで埃等を取るクリーナーを手に取った。普段の調子を取り戻そうとしているのだろうと、私は思った。

「その、体の方は……」

 言いかて私はその場に立ち上がった。今朝枕にしていた座布団と掛け布団を取り上げると、瀬田君から粘着シートのついたローラーを借りて数回掛けた。それをロッカーの奥にしまい込み、粘着シートは丸めてゴミ箱に捨てた。瀬田君は部屋を抜けて洗面所兼脱衣所の辺りをシート掛けしている。私はそっと覗き込み、普段らしい彼の掃除する姿を見ていた。

 このままお互いが日常の中へ帰れば、それで何事も無く収まるように思えた。

「私、そろそろ帰るよ」

 だから私がそう切り出しだのは自然だった。

「そう、帰るんだ」

 掃除の手を止めて瀬田君が顔を上げた。

「うん、もうこれ以上邪魔出来ないし」

 私は自分のカバンと上着を取ると、玄関へ向かった。

「泊めてくれてありがとう」

 自分の靴を履くと、玄関を開いた。

「針江さん」

 瀬田君が呼び止めてくる。私は玄関の外に半分体を出したとことで振り返る。

「なに?」

「あ、その……お酒はほどほどに」

 昨晩の私は、そんなにひどかったのだろうか。


 マンションを出て少し歩き、大きな通りへ出る。そこで一度振り返りってマンションを見ると、さっき私が外の様子を覗いた二階の部屋の窓が見えた。それから駅はどっちだろうと見回す。道路標識の地名から、ここが昨晩飲み会のあった場所から一駅も違わない所である事が分かる。しかし辺りの街並みに見覚えは無く、私の記憶の中の地図に今いる場所を落とし込む事が出来なかった。仕方ないのでスマホの地図アプリを開き、最寄の駅の位置を大体掴んでから、スマホを閉じて私は歩き出した。

 歩きながら、ふとここが瀬田君の生活圏なのかと思う。最寄り駅に向かって歩いているはずだから、ここを瀬田君も通勤で歩いているかもしれない。コンビニがすぐ近くにあった。向こうにラーメン屋が見えてくる。他に食べるところが無さそうだから、よく行ってそうだなと通り過ぎながら思った。駅のすぐ傍にはよく目にするスーパーがあった。彼の台所に立ててあったまな板を思い出すと、ここで食材を買って自分で料理するんだろうかと想像する。

 私はふらりとそのスーパーに入り。食料品売り場をチェックした。生鮮食品の鮮度は悪くない。地元産の野菜を積極的に並べている気がする。魚介は相変わらずここも値段が高めだが、切り身なんかは手頃にしてある。肉売り場では専門の業者が入って質の良さそうな肉を揃えていた。惣菜は家族向けよりは一人暮らしをターゲットにした量のものが多い。総じて見て、私が普段利用している所より買いやすそうな印象を受けた。

 朝食のパンだけ買ってスーパーから出る。そのまま隣の駅に入り、私は改札を通った。次の電車が車での間、私はホームの椅子に座って風吹かれていた。ほう、と一つ息を吐いた。

「君の吐息が無いと、息をする事が出来ないい」

 急に彼の声が蘇ってきた。朝のベランダで、肩を貸しながら私は彼に口移しで吐息を送った。一体あれは何だったのか。遠まわしな彼なりの告白だったのだろうか。昨晩の記憶があやふやなのが恨めしい。まさか私は、彼の重大な決意を気づかぬうちに吹き飛ばしてしまっていたのではないか。「一緒に暮らそう」とか、そういう意味だったのだとしたら。

 電車がホームへ近づいてくる。私は立ち上がって車両の扉が開くのを待った。

 車内は休日ということもあって空いてはいなかった。私はパンの入ったカバンを手に持ち、反対のドア付近に立った。ドアの窓からは特に変わり映えのしない住宅地の様子が見えるが、どこかにうっすらと瀬田君の空気が漂っているように感じた。

「どうしたんだろ、私」

 やけに彼の事が気になっている。好きとかそういった事とは似ているようで違う。心配になっているのだ。もしかして私は瀬田君にひどい事をしていて、去り際こそ平然としていたが、今頃ひどく落ち込んでいるんじゃないだろうか。今この瞬間、彼はちゃんとこの街で暮らしているんだろうか。

 そう言えば慌しく出てしまったから、連絡先を交換する機会が無かった。このまま私が彼の街を離れれば、もうお互い会うことも無く、それぞれの日常を送る事になるのだろう。そうだ、私はそのために彼の部屋を出たのだ。もう、帰らなくちゃ。日常へ、帰らなくちゃ。


「取り消しお願いします」

 窓口の駅員に言ってICカードの入場を取り消してもらい、私は改札を出た。戻ってきてしまっていた、彼の住む街に。

 駅を出てから、私は彼のマンションまでの道を思い出そうとした。スマホの地図アプリを見る。マンションの傍を通っていた大きな通りが見つかったので、まずはこれを目指すことにする。そう決めたところでスマホの充電が残り少ないことを告げる警告表示が出た。仕方なくスマホをしまい、さっき見た地図を頭に描きながら進む事にする。あの大きな通りに出て、方向を間違わず歩けばなんとかなると思っていた。

 そう簡単では無かった。土地勘が全く無い私は、駅前のスーパーが見えなくなると自分がどこを歩いているのか分からなくなった。なんとかついさっきの、彼のマンションから駅へ向かうまでに見ていた光景や、歩いた距離の感覚を思い出そうとした。ずっとまっすぐではなかった。何度か道を曲がって、あの看板を見た、ような気がする。違う、坂なんか上らなかった。こんなに急なカーブの道は無かった。こんな開けた田んぼ道には出なかった!

 ちらちらとスマホを見て現在の位置を確認していたが、とうとう充電がきれた。自分の帰る道ならば誰かに聞いて最寄り駅を教えてもらえればいい。しかし彼の、瀬田君の住むマンションの場所は、誰にどう聞けばいいのだろう。そこで私ははっとして目指すべきマンションの外観を思い描こうとしたが、思い出せたのは大きな通りに出て振り返った時に見た二階の窓だった。壁の色が明るい色だったのを覚えている。とにかく大きな通りの傍だから、その通りに出るのが何よりの手がかりだった。

 歩いてもうどれくらい経っているだろうか。日はすっかり高い。そんな頃ようやく私は交通量の多い大きな通りへ出た。見覚えは無いが、車線数から見てあのマンションの前を通る道である可能性が高い。その道の歩道に出て、私は左右を見た。どっちへ行くべきだろうか。最初に駅前で確かめた自分と目的地との位置関係は狂ってしまっていた。どちらか一方へ進めば目的地へ近づき、もう一方へ進めば遠ざかる。遠くの景色を見る。左手は近くに小山が迫っていた。あんな山は、駅に向かう途中で目に入っただろうか。私はただその点だけを頼りに、右手へ進むことを決めた。見覚えの無い道を、私は歩いた。

 やがて私の不安は、それが視界の中で徐々に大きくなるにつれて、暖かいスープの中の脂身のように優しく溶けていった。

「ラーメン屋……」

 前を通るとスープのいい匂いがした。またそのうち、私がこの街に来るような機会があったとしたら、その時は一度入ってみようと思う。私は踏み出す足に力と確信を込めて、目的の地へと距離を縮める歩みを進めた。

 そこからは早かった。コンビニを通り過ぎると明るい茶色の可愛らしい10階ほどの高さのマンションが目に入った。もう私は迷わなかった。部屋の番号を覚えていないが、窓の位置が分かるのでそこは確信があった。階段を上り、瀬田君の部屋のドアの前に立つ。息を整えて、跳ねた髪を抑えてから、呼び鈴を鳴らた。

 しかしそれに彼は応えなかった。何度か鳴らしてみようかと思ったが、その前に部屋の中から大きな物音がして私は思わず玄関の扉を開けた。呼びかけるが、やはり返事は無い。一気に不安が胸を駆け巡った。夢中で靴を脱ぎ、台所を抜ける。そうして私はリビングの中で、ベッドから転げ落ちている彼の姿を見つけた。突然びくりと彼の体が動く。しかしそれは彼が意識的に行ったものでは無いと気づく。痙攣だった。すぐに私は彼の体を抱き起こした。彼の目はもう、焦点が定まっていなかった。私は人工呼吸を開始した。何度も何度も、彼の肺の中に息を送った。

 私は自分を馬鹿だと罵った。どうして彼の言葉を信じなかったのか。こう言う事になるのは容易に想像出来たはずだ。私は彼の傍を離れるべきではなかった。そう、そしてこれからも、私は彼の傍を離れるべきではないのだ。

 瀬田君が大きく息をした。そうして苦しそうに何度も呼吸する。私は定期的に彼の肺へ直接息を送り、彼の呼吸を手伝った。

 やがて彼は自分の呼吸を取り戻した。この部屋の中に、私の吐息が満ちてきているのだと思った。

「あのまま帰って、今日の事全部忘れてくれたら、無事に丸く収まると思うんだけどなあ」

 床に横たわったまま、平常を取り戻した瀬田君が言った。

「何それ、私が今日の事を忘れるって?」

 それに全然無事でもない。

「楽しい事なんて一つもなかったでしょ」

 瀬田君はにやにやしている。

「もういいよそれ」

「針江さんにベランダで聞かれた時さ、『二回目だ』って言ったけど。あれ嘘だよ」

 何のことかと記憶を辿って思い出し、私はぎっと睨んだ。

「その方が、抵抗無くなると思って」

 私ははあ、と一つ息をついた。

「今更」

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二人暮らし @wakin

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