協定

「ただいまー」

 時刻はお昼時の頃、売れ残って廃棄となる予定だった弁当の類を引っ提げて、私はコンビニのアルバイトから帰宅する。

「お帰りー」

 奥のリビングから声が返ってくる。それは最近知り合ったにも関わらずある『のっぴきならない理由』からこの部屋で同居している瀬田君のものだ。こうして玄関を開けてただいまを言う習慣も、それが当たり前になりつつあった。

 私は、それまでやっていた工場の事務職を辞めた。代わりに今は午前中だけの隙間を埋めるパートタイムで生活費を稼いでいる。瀬田君との共同生活を優先するための、仕方の無い選択だった。一方で彼はそれまでの仕事を辞めるには至らず、会社へは出社しないテレワークという形で働いている。

「お弁当もらってきたから、お昼食べるよ」

 そう言ってリビングに入り、手に提げたコンビニ袋を見せる。賞味期限切れで陳列棚から撤去された商品達はそのまま廃棄するというのが規則であるが、店長のはからいで「欲しい人は持ってって」となっている。本当にありがたいし、助かっている。

 私と瀬田君はそうして昼食を摂る。彼は仕事スペースとしているパソコンデスクでから揚げ弁当を食べ、私は座卓でサラダパスタを食べる。

「そうだ、針江さん」

 から揚げをもぐもぐしながら瀬田君が言う。

「なあに?」

「さっき、また一つ問題を見つけてしまったんだ」

 私と瀬田君の二人暮らしは、それまでお互い一人暮らしだったという事もあって色々と問題があった。部屋着のスタイルに始まり、洗濯の事、就寝の事……。それまで必死になって立ち向かっていた瀬田君の『呼吸』に関する問題がなんとか落ち着きを見せていた頃で、私達は緊張感が解けていくのにあわせて生活についての問題点を浮かび上がらせては、妥協点を見つけたりルールを決めたりで問題解決を図っていた。

 瀬田君はリモコンを取るとレコーダーを起動させ、テレビを番組表に切り替えた。

「番組の録画予約が被ってる」

 私はそっと箸を置き、腕組みをした。

「何と何が被ってるの?」

 瀬田君はリモコンを操作してある深夜番組を録画しようとする。しかしその操作はエラーとなって、同時刻に既に予約済みの番組名の表示が返ってくる。それは私が毎週予約を入れている深夜番組だった。

「どうしてくれよう」

 瀬田君は妙に芝居がかった言い回しで問うてくる。

「どうって、どっちかが折れるしかないでしょう」

「それを、どう決める?」

 私と瀬田君は見つめあった。欲を言えば先に録画を済ませておいたこちらに優先権があって欲しいが、それを通すのは子供じみた論理のような気がする。

「……いいよ、こっちから条件を出すから」

 そう言って私は指を一つ立てる。

「この3ヶ月間、家事を一つ率先してやる事」

 彼が身を乗り出す。

「その家事は?」

「洗濯、取り込むまで」

 瀬田君は一つ鼻で息をする。

「厳しい条件だ。風呂掃除の方がまだ良い」

「風呂掃除なんてやって週一じゃない」

 せっかくこちらが降りる条件を出したというのに、彼はそれを飲まない。大体この交渉の場に私がついているという時点で既にこちらの譲歩があるという点を、彼は分かっているのだろうか。

 私は瀬田君からリモコンを奪うと、番組表を操作した。

「ほら、その番組BSでもやるじゃない。こっちで予約すれば?」

「それはそっちも同じじゃないのか?」

 そう言って再びリモコンを取ると、私の録画番組名で検索を掛ける。

「見てよ。こっちは二日遅れで済むじゃないか。僕の方は地上波から五日遅れだ」

「だからって――」

 だから私の方が折れろと言うのか。ただでさえ仕事を終えたばかりで若干イライラしているのに勘弁してほしい。頭の中を何かトゲの生えた小さいものが飛び回るような不快さを感じる。しかしここでそれを力任せに踏ん付けるような言葉を口にしてしまうと、この場の収集先がどこへ行くか分からなくなるような気がして、私は長く息をついた。たかが深夜番組の録画だ。

「……もういいよ。私がBSで」

 私はリモコンを操作して、地上波の録画予約の取り消す操作を進める。

「え、本当に? いいの?」

 もう操作を進めてしまっているのに、改まって聞かなくてもと、私はその煮え切らなにまた少し不快さを感じる。無言で私は最後の決定ボタンを押した。

「針江さん」

 名前を呼ばれて、私は不要になったリモコンを座卓に置く。

「何?」

「僕は君と一緒に生活が出来るかどうかが、生きるか死ぬかなんだ」

 突然何を持ち出してくるかと思えば。たかが深夜番組の録画の話で。

「君が我慢して溜め込んでいくのは、非常に不安を感じる」

 瀬田君が呼吸をする上で必要になるのは、目下のところ私の吐息のみだ。それ以外に有効な物が未だ見つかっていない。

「だから、遠慮しないでぶつけて欲しいんだ。君が思うようにして欲しい」

 例えば私がこの部屋の二つある窓を開け放ってしまったり、ベランダに彼を締め出したりしてしまえば土下座してでも許しを請うだろう。あるいは私がこの部屋を出て行ってしまうだけで、瀬田君は生きる術を失って絶望の淵に立たされるのだ。

 この二人暮らしにおいてどちらが優位かはもとより明白なのだ。

「全部君が思う通りにして、僕がそれに従ったっていいと、僕は思ってる」

 そんなことを口にする瀬田君の姿がとても惨めに写る。この人は一生、成り行きで生活を共にするだけの私に逆らう事が出来ないのか。

「やめて。言わないでよそんな事」

 彼はそうやって、誰かの思いの元に動かされ続ける人生しか歩めないのか。自分の意思でこの世界を渡り歩いていくことは出来ないのか。そうやってこの小さな部屋の中で何かに怯えながら、毎日無事に過ぎる事を祈るしか無いのか。

「瀬田君がそうやっているのを見ると、私、おかしくなりそう」

 私は溢れてくる涙を止めることが出来なかった。目の前の瀬田君の人生、運命、その脆さ危うさを思うに涙が止まらないのだ。

「何で君が……泣いて」

 瀬田君は涙をぐっと堪えている。その姿に私はもう無遠慮にえんえん泣いて、彼の事を胸に抱いた。彼は痛がったが、気にしなかった。

「私、仕事辞めたんだよ。君の為に辞めたんだよ」

「うん、ごめん。ありがとう」

「上司の人とか優しくてさ、色々気に掛けてくれて、気に入ってたのに。最後に嘘までついて辞めたんだよ!」

「ごめん……ごめん」

「なんで謝るの。君が悪いわけじゃないでしょう。お願いだから私に怯えないで。もっとちゃんとして」

 私は彼の頭を胸から剥がすと、そのぐちゃぐちゃになった顔をがっしと両手で掴んだ。胸いっぱいに息を吸う。

「しっかりしろ!」


 いつの間にか、時間だけが過ぎていた。

「私、遠慮しないから」

 目の赤い私は瀬田君に宣言する。

「瀬田君も、遠慮しないで」

 目の赤い瀬田君は首肯する。

「これからはもっと、ぶつけ合っていこう」

 そう言って私は拳を突き出す。彼も手を握って前に出すので、私はそれに思いっきりぶつけた。当然、びっくりするくらい痛かった。

「拳をぶつけ合うばかりが解決策じゃないと思うよ」

 瀬田君はそう言うと握った手を広げて手のひらを見せる。

「見せ合って、ちょっとした事でもお互い何を思っているのか、気になったら確かめ合っていこう」

 私はそれに賛成、と言うように手のひらを見せる。私たちの二人暮らしに、一つ協定が生まれた。

「じゃあ、さっきの録画予約の件なんだけどさ」

 瀬田君がリモコンを手に取る。

「うん」

「お互い、それぞれ録画したい番組の事を相手に紹介しあうっていうの、やらない?」

「何それ?」

「ちゃんと知らないと思うんだよ。相手が録画したいと思っていた番組がどういうものかを」

「うん」

「お互いに紹介し合ったら、もしかしたら相手の方にも興味を持つようになるかも知れない。その上でどちらを優先すべきかを決めるほうが、きっと衝突が少ない」

「かまわないけど、難しいと思うよ」

「なんで?」

「私の、完全に逆ハーレムものだから」

「ふふん」

 その夜、言いに言い合って、結局私がBSにまわることになった。

 そして若干ではあるが、彼が洗濯を担当する機会が増えた気がする。

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