二人暮らし

@wakin

きっかけ

 ここは、水の中。光が届いている比較的浅いところ。水の中は常に動いている。指の間から首の裏まで体の周りを隙間無く覆う水によって、私の体は上へ下へと揺さぶられている。身動きが取れない。水面に顔を出すことが出来ない。これでは息が続かない。しかしそうしていつまで波に揉まれていても、息が苦しくなることは無い。不思議な感覚になる。もしかしたら私の肺の中はもう水で満たされているのかもしれない。言い知れぬ喜びを感じる。私は今、水とひとつになっている。いつまでもここにいられる。それなのに体が自由に動かせない。水の中の、目に見えない大きなうねりにされるがままになって、上へ下へ、右へ左へ、前へ後ろへ。やがて私は水の流れに反抗する。手を握り、私をかき回す水を捉えようとする。そうして体に力がこもる感覚を覚えた瞬間、私の振り下ろした腕は軽くなり、ドンという音と共に痛みを感じ、私は夢から覚醒する。

「うぐぅ」

 夢の中で体を動かすイメージが、現実の体を動かす回路と接続してしまったのか。夢の中で思いのままに体を動かすことに関しては、私はまだまだ赤子同然なのかもしれない。手の甲の辺りがじんじんと痛む。壁にでもぶつけてしまったのか。私はそんな壁際で寝ていたんだろうか。

 目を開ける。そこは壁際だった。しかし私はこの壁を知らない。その壁に続く天井も知らない。いや、知っている。少しずつ思い出す。昨日の晩、私は初めてこの部屋に来た。一人でではない。私は酔っていて、終電を逃してこの部屋の主に一晩宿を借りたのだ。どんな人物だっただろうか。どんな人物? 顔見知りではないのか?

 私は体を起こす。そして目に飛び込んでくる光景にぎょっとする。部屋の家具の雰囲気や掛けてある服の形状からして、ここの部屋の主は男性である。私はそれと対をなす存在。彼に無いものが私にあって、私に無いものが彼にはある。さらに今この部屋は、私以外に無人である。まさか私はここへ一人で転がり込んだというのか。そこへ来て衣服の乱れを確認する。なんということだ! しかしこれは寝相の範囲。冷静にシャツのシワを払い、手櫛で髪を撫で付ける。昨晩の私は一体何をしでかしてしまっているのだろうか。

 部屋の様子を観察する。働いている社会人らしい。本棚には小説のほかに情報系の資格試験の本が見える。ゴミ等はゴミ箱に収まってはいるが、ものの置き方、並べ方にこれという決まりがあるような几帳面さは見られない。部屋の時計はデジタルがひとつ。休日にしては朝の早い時間を示していた。

「おはようございますー」

 部屋を抜けた私は芸能人に朝ドッキリを仕掛ける人のトーンで洗面所と脱衣所が兼ねられている小部屋の様子を伺った。しかし電気は点いておらず、洗面台の鏡に私の挙動不審が映り込んだだけだ。部屋の主はただいま外出中らしい。とりあえず私は体の緊張を解く。さて、帰ってくるのを待って泊めてもらったお礼を言うか、跡を濁してこのままさよならしてしまうかであるが、顔見知りであった場合に後々気まずい事になるのが目に見えているので残ることにする。

 台所の流し台を見ると、ここは食器や冷凍ピラフの空の袋が出たままになっていた。今朝や昨晩のもので無いと考えると、昨日の昼頃からだろうか。家事に関しては必要に迫られなければ最低限で済ませてしまう性分なのだろう。

「トイレ、借りますねー」

 いない主に向けてそう言うと私は用を済ませ、そのお代として流し台に溜まっている物の片づけを始めた。水を出してそこに手を入れると、冷たさに目が覚めてきた。

 玄関のドアノブが回り、その扉がゆっくりと開かれていることに気づいたのは布巾でコップを拭いている時だった。なぜそこまで慎重になるのかという疑問だけを感じていた私は、その向こうから入ってくる誰かのことについて少しの間無頓着だった。ドアの隙間から大きな影がぬるりと入り込むと、それはそのまま溶け落ちるように倒れこんだ。驚いた私はコップを流し台に転がして大きな音を立ててしまった。

 それは若い男の人だった。シャツと下はスウェットでサンダルを履いている。背中が大きく動いていて荒い息をしている。男の危機かと思って私は呼びかけた。

「だっ大丈夫ですか!?」

 顔を覗き込むと汗がひどい。苦しそうに胸を押さえている。息をする間隔が長距離走をゴールした選手のように早い。

「息が……できなかった……」

 男は仰向けになった。胸を広げて、呼吸を落ち着けるように大きく息をしている。

 私はハッとして立ち上がり、玄関へ近づいた。男の片足がまだ外に出たままで引っかかり、扉は半開きになっている。その足を持ち上げて引っ込ませ、無意識のうちに息を止めながら玄関を閉めた。どこで何かのガスが漏れているのかもしれないと思った。

「外に出て少しして……めまいがして……風邪かもしれないと思って、上着を取りに戻った……。段々息苦しくなって、最後は……息が出来なくなった」

 男は何度も大きく息を吸って吐いた。やがてゆっくりと体を起こす。その様子を見て、私はひとまずほっとする。

「どこかでガス漏れしてるんでしょうか?」

「異臭は感じなかった。他にも何人か歩いている人を見たけど、特に変わった様子は無かった」

 男はサンダルを脱ぎ捨てると、台所の流し台の前に立った。シンクの底に転がっているコップを取って水を出すが、手にしたコップを不思議そうに見ている。

「ここ、きれいになってる?」

「あ、私です」

「そう。助かる」

 コップの半分位で水を止め、ゴクっと喉に流し込んだ。それでようやく一息ついたように、長く息を吐いた。

「あ。その、泊めていただいて、ありがとうございました。こっちも助かりました」

「あー、いいよ。でも何で敬語?」

「あっ違った?」

 昨日の晩の私は――。

「記憶、無くなる人ですか」

 人からこんな言われようをされたのはもうずいぶんと前の事のように思う。そんなに生きた覚えも無いが、無闇に人に心を乱されるのがなんだか懐かしい。

「楽しいことだけを覚えておくので精一杯だから」

「なんだそれ」

 少し、肩の力が抜けたように感じた。普段の表情に近いのであろう彼の顔を見ると、さっきの出来事がまるで夢の事のようにぼんやりしていく。

「もしかしてお互い、まだ名前知らない?」

 彼は首肯する。

「私は針江」

「僕は瀬田」

 瀬田と名乗るその男の人は、私の顔見知りではなかった。


 私は部屋の窓から外の様子を窺った。2階の窓からはこのマンションの前の通りが見える。車や人の通りがちらほらとあるが、それは日常と変わらないように見える。緊急車両が近づいてくる様子も無い。

「何か変わった様子は?」

 キャスター付の椅子に座った瀬田君が尋ねてくる。

「ここからは特に何も」

 私は窓から顔を離して瀬田君を見る。

「本当に、もう、平気なの?」

 彼は自分の体の異常を探るように背筋を伸ばしたり首を回したりしている。

「胸が少し痛むけど、これは多分、放っておけば直ると思う」

 胸に手を当てて、じっと自分の体と向き合っているように見えた。

「あの時は、息を吸っても吐いても、どんどん苦しくなっていくばかりで。頭がだんだんくらくらしてきて。息ばかりが早くなっていくんだけど、穴の空いた風船を頑張って膨らませてるような感じで」

 外出時に突然起こった呼吸困難。

「これまでに同じような事は?」

「無いよ。大きな怪我や病気は、足の骨折が二、三度とか、その程度」

「何やってたの?」

「サッカー。今でもたまに」

 私は瀬田君のスウェットから伸びる足首から先をじっと見た。全然運動をしていなかったとかそういう事でもない。となるともう、突発的に起こった呼吸器系の異状としか考えられない。

「何にしても、早く医者に診てもらったほうがいいよ。何か病気の前兆かもしれない」

 瀬田君は「うーん」と唸りながら手にあごを乗せている。

「どうしたの? ……あ、医者嫌い?」

「違う。……不思議なんだ。僕は自分の周りに酸素が無くなったんじゃないかと思う位、苦しくてもがいた。なのにこの部屋の玄関を開けた時、この部屋の中に入った時、水面から顔が出たような気分だったんだ。急に体の中に、頭の中に酸素が行き渡っていくのを感じた。それくらい明らかな事だった」

 瀬田君は部屋の中の窓――私の見ていた窓と、もう一つのベランダへと続く大きな窓に目をやった。それらは今、隙間無く閉じられている。

「それは……自分のテリトリーの中に帰ってきたっていう、本能的な安心感が精神面に働いて……」

「精神的なものかよ! あれが!」

 急に怒鳴られて私はシュンとなった。瀬田君は椅子から立ち上がるとベランダのある方へ歩いた。ガラスの前に立って、外を見つめている。

「外に出るの?」

 ついさっき苦しんでいた彼の姿が目に浮かぶ。

「じっとしていたって、何も証明できないと思わないか?」

 止めようかと思ったが、部屋から外に出るだけで呼吸が出来なくなるなんてことは私も信じられなかった。自分の居場所とかテリトリーの違いとか、そんな漠然とした事が体に異状を出す程、精神的に脆弱な部分が彼にあるようにも思えない――今の彼の言葉がそれを証明していると、私は思った。

 瀬田君は二、三度大きく呼吸をした。肺に取り入れた酸素が体に巡っているのを確かめているようだった。そうして意を決したように窓の鍵を開け、ガラス戸を開いた。車の走る音が大きくなる。瀬田君はベランダに投げっ放してあった突っかけに足を入れて外に出ると、退路を断つように後ろ手にガラス戸を閉めた。私も窓に近づき、彼に変化が起きないかを見つめる。雲ひとつ無い、秋の晴れた空だった。こんな日は外に出たくなる。

 私は窓をコンコンと叩いた。瀬田君が振り返る。「だいじょうぶ?」と口パクすると、彼は内なる自分へ問いかけるような顔をした後、親指を立てた。

「あ、そう」

 急に私は馬鹿らしくなった。この透明なガラスを隔てた部屋の中と外との間に何かがあるようには思えない。さっきのあれも、急にお腹が痛くなったとか、男の人にありがちなそういうものの一種かもしれないと、私は思った。

 瀬田君はベランダの手すりに身を乗り出して気持ちのいい朝の空気に浸っている。気の済むまでいればいいと思った。私は座卓の上のリモコンに手を伸ばし、朝のニュースを見ることにした。これで何事も無く彼がベランダから戻れば、念のためにも医者に診てもらう事を勧めてからさよならするつもりだった。私のカバンは寝ていた壁際の枕元に上着と一緒に置いてあった。そう言えばスマホの充電が出来ていない。

 ガン、という窓ガラスに大きなものが当たる音がして顔を上げた。ベランダの手すりにもたれていた瀬田君の体が、窓ガラスと接して影になっていた。それはバランスを崩したやじろべえの様に、その場に倒れこんだ。

「うそ」

 私は弾かれる様に立ち上がって窓を開けた。素足のままベランダに飛び出すと、コンクリートに倒れて荒い息をしている瀬田君に駆け寄る。

「瀬田君! 瀬田君!?」

 顔の近くで声を掛けると彼の目がうっすらとこちらを見た。口が何度か金魚のように動いた。

「肩貸すから、ほら、戻るよ」

 右腕を取って私の背中に回す。私が立ち上がると、彼も力なく立ち上がった。

「針江さん、針江さん……待って」

 振り絞るような声で彼が言った。急に体を動かすのがまずかったのかもと思い、私は彼を支える腕に力を込めた。

「いま少し……息が楽になった」

 下を向きつつも彼の目はじっと確かなものを見つめるようだった。

「そうなの?」

 それでも相変わらず呼吸は早い。私はベランダに入るために自分が開けたガラス窓を見た。部屋の中の空気が、このベランダの方にに漏れ出ているのかもしれない。

「とにかく一旦、部屋に」

 そう言って私は足を踏み出す。しかし彼の足はその場から動かなかった。私の左肩に触れている彼の胸が大きく動いて、一つ深く息を吸ったのだと分かった。

「息が出来る……酸素が入ってくる」

 普段その感覚を私たちが意識的に掴むことは難しいが、今の彼にはそれが分かるのだろう。目に見えないものが今の彼には見えるような、そんな感覚なのかもしれない。

「外に出るのが難しいんだったら、病院に電話して、向こうからこっちに来てくれないか相談してみよう」

 彼の息遣いが耳に触れる。見ると、彼の顔が私の近いところにある。必要以上に近い気がする。

「どこだ……これはどこから」

 彼は目を閉じて、息を吸う感覚だけに集中していた。しかしこのままいくとお互いの顔がぶつかってしまう。彼の荒い息が私の前髪に触れる。

「瀬田君?」

 彼が目を開ける。その瞬間、お互い視線がまだ熱の冷め切らないうちにぶつかって、パチパチと火花を散らした。

「ごめん」

 どちらともなく顔を背ける。顔に張り付いた熱を逃がすように、私も一つ長く息を吐いた。

「それだ!」

 弾かれるように瀬田君がまた顔を近づけてきた。私から離れようと思ったが、彼は私を見たままより近づいてくる。

「僕は……君の吐息、その吐く息で呼吸ができる」

「わ、私?」

 何を言われているのか分からない。

「僕がこうして呼吸が出来るようになったのは、君が僕の傍に来たから」

 私は窓を指差した。

「私が窓を開けたからかもしれないよ。部屋の空気がここまで流れて来てるだけかも」

 瀬田君はじっと部屋の中を見た。

「この部屋には昨日の晩からずっと、君がいた。眠った君が呼吸をしていた!」

 私の吐息で満たされていたと言うのか。そうは言っても、他の可能性だっていくらでも挙げられる。

「じゃあ、確かめようか」

 そう言うと私は瀬田君の顔に向かってふーっと息を吹いた。彼はそれを吸い込む。

「足りないよ。もっと欲しい」

「もっとって」

 私は少しずつ顔を近寄せる。彼の口に触れそうなぎりぎりのところで、彼に向けて息を送る。肩を貸して密着しているところから、その鼓動が徐々に緩やかになっていくのが、確かに分かる。

「針江さん……直接いい?」

「直接?」

「確かめたいんだ。確証がほしい」

 さすがに私はたじろいだが、彼は真剣に私を見つめている。

「人工呼吸、だよね?」

「その通りだよ」

「それともう一つ。昨日の晩、私たちは似たような事をした?」

 瀬田君はすぐに答えなかった。薄く笑みを浮かべて、

「これが二回目だよ。覚えてないのか」

「楽しくなかったのかも」

 私は意地悪そうに言った。瀬田君の顔から笑みが消える。

「じゃあ、息吸って」

 私は胸の半分位まで息を吸った。瀬田君の秋の空気に乾いた口が、私の口を塞ぐ。私は慎重に息を吐いたが、やがて自分の意思とは無関係にに肺から空気が奪われていくのを感じた。私が吐く以上に彼が吸っているのだ。あっという間に私の肺は空になった。それでも瀬田君は吸うのを止めない。もう無い! もう無理! 涙目になって私は彼の腕をタップした。

「ぶはああああ」

 ひどく馬鹿らしいことをしている気がする。人工呼吸にしてもこれは下手すぎる。

「お、おぉ……」

 瀬田君の荒い呼吸は口を離した瞬間から収まっていた。問題なく息が出来るようになった事に感動してるのか、体の酸素の巡りを確かめるように手を動かしたりしている。

「治った……」

 彼がキラキラした目をこちらに向けてくる。

「君の、吐息だ!」

 その指摘に、私は自分の首元に手を触れる。

「一体どういう訳だ。僕の体は今、君の吐息が無いと、息をする事が出来ない」

 そう自分で言った後、彼はすぐに暗たんとした顔になった。

 私は混乱して、何も言葉にする事が出来なかった。

 もう最初から最後まで全部、嘘だと言って欲しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る