あの純白なロサのように

50まい

あの純白なロサのように

「兄ちゃん!」

「どうした?」

「へへー」

「なんだ、なにかいいことあったのか?」

「ヒミツ」

 十五も下の弟が駆け寄ってきて俺に飛びついた。

 もう七歳になると言うのに幼さが抜けないのは、俺が男手ひとつで、この誰も来ないような森の奥、両親が居ない負い目もあり比較的甘やかして育てたからかもしれない。

 俺はここで木樵(きこり)として一生を終えるつもりだが、弟はもう少し大きくなったら町に連れて行くつもりだった。その時にこの甘ったれが少しは治っていると良いのだが。

 俺は弟の両腕をむんずと掴むと、そのままぐるぐると回り出した。弟の足が遠心力で地から離れ、まるで宙を飛んでいるようになる。弟はきゃっきゃっととても楽しそうに笑った。

「兄ちゃんにヒミツなんて十年早いぞ!言う気になったか?」

「なった!なった!」

 弟は至極嬉しそうに言った。こういうじゃれあいが楽しいだけで、本当に俺に秘密にする気など無かったに違いない。素直な子だから、隠し事など出来た例しがない。

 俺は弟を地面に降ろすと、早く屈めと催促する弟に腕を引っ張られながら、喋りたくてうずうずしている口に耳を寄せた。

「とっても綺麗なお姉さんと友達になったの」

 弟はとっておきの宝物を、掌の囲いを解いて見せるように、勿体ぶりながら囁いた。

「お姉さん?」

 俺は驚いた。こんな人里離れた森の奥で人、しかも若い女に会うなど俄(にわか)には信じ難い。

「足はあったのか?」

 訝(いぶか)しがりながら問うと、弟は自慢げに胸を張ってこたえた。

「あったよ!僕が妖精さんですか、って聞いたら違うって言ってたもん。声も綺麗でね…」

 幽霊も馬鹿正直に自分が幽霊だと言うとは限らないではないか。

「どこで会ったんだ?」

「ロサの泉の近く」

「ロサの泉?」

 ロサと言う、真っ白い花弁をつける大輪の花がある。この家より更に森の奥、滾々(こんこん)と水が湧き出て泉になっているところ、そのまわりにロサが群生しているのだ。

 しかしそれなら尚更解せない。あそこは人道からはほど遠く、間違っても普通の少女が迷い込めるようなところではないのだが…。

「あっ!でも兄ちゃんはだめだよ!もっと僕が仲良くなってからね!お姉さん怖がっちゃう」

「怖い顔で悪かったな」

 俺はじろりと弟を見た。確かに俺は上背も高く、木樵なんてやってるおかげで筋肉もそれなりについている。父譲りの三白眼は、女性にしたら少し…いやかなり…圧迫感があるかもしれない。

 自分の外見のことはわかっていても、裏のない弟に言われると俺は怖いのかと改めて思う。

 ちなみに目の前の弟は母親に似て、垂れ目で柔和だ。婦女子に可愛がられるタイプだ。外見は似て居ないが、俺たちは確かにこの世界で二人きりの兄弟だった。

 弟にダメときつく言われていたが、そう言われれば気になってしまうのが人の常だ。

 三日後、弟はうきうきしながら家を出て行った。これは例のお姉さんに会いに行く気だなと俺はこっそり後をつけた。弟は一丁前にきょろきょろと尾行を警戒しながら、足は一直線にロサの泉へと向かっている。愚直でかわいい弟だ。気配を消して歩くなど俺にはお手の物だと言うのに。それでなくても弟の癖を知り尽くした俺に弟が勝つことは一生無いだろう。

 それに、こんな森の中に女一人というのが気になる。幽霊というセンも捨てきれないが、万が一、悪い人間だったらと思うと人となりを確認しておいて損はないはずだ。

 そう自分に言い訳しながら暫(しばら)く歩くと、緑と茶ばかりの森に色が加わった。目指す先に白いものが見える。あれがロサだ。弟はぴょんぴょんと飛び跳ねながらその花の中に駆け込んだ。

「お姉さん!」

 果たして、その人物はそこに居た。

 腰からたっぷりの布が広がるドロワという服の深い青はよくロサの花に映えた。こちらには背中を向けている。結っても居ない髪が、背の半ばまでを覆っていた。色は…金だ。殆(ほとん)ど白に近い金。驚いた。なかなか見ない色だ。

 その女性は、弟の声を聞き、ぱっと弾かれたように振り返った。その顔を見て、俺はまた驚いた。

 抜けるほど白い肌に、大きな瞳。その色は、着ているドロワと同じ深い青。博物館に飾られる人形のように整った顔立ちだった。間違ってもこんな森の奥に偶然現れるような人間じゃない。というかドロワは森に入るのに全く向いていない。裾が岩や木の枝にあちこち引っかかって大変だったはずだ。なのに、見たところドロワは大きな破れなどはない。女の身体能力がとても優れているのか、それとも本当に幽霊なのか…?ばかな。

 女は駆け寄る弟を零れんばかりの笑顔で迎えた。その手にはロサの花。弟を待っている間、淑女らしく花を摘んでいたらしい。

 何歳ぐらいだ?十四…五歳ぐらいか。まだこどもじゃないか。

 弟とその女は、かけっこしてじゃれあったり、互いに花冠を作ったり、泉の水を飲んだりして時間を過ごしていた。

 二人はとても楽しそうだった。

 女が優しくばいばいと手を振ったところで、俺ははっと我に返った。弟がこっちに向かってくる。まずい。俺はいそいで踵を返し…唐突に立ち止まって振り返った。

 視線を感じた気がした。しかもぼんやりしたものではない、背がぴり、と強張る戦場を思い起こすほどの視線。

 木や草で覆われた先、そうだ、その先は女が居たはずだ。その場から動いていなければ。しかしこちらからもあちらからもお互いの姿は目認できない位置だ。

 俺は見えない視線を手繰り寄せるように、厳しく目を細めた。

 しかし、弟ががさがさと草を掻き分けながら近づいてくるのが見えて、急いで背を向ける。

 …いや、気のせいだ。そうに決まっている。

 後ろ髪を引かれる思いをしながらも、俺は家に戻った。

 その夜、「お姉さん」とのことを繰り返し話したがる弟を適当にあしらいながら、寝台に入っても考えるのはやはり昼間の女のことだ。

 幽霊…ではない。あれが幽霊なら狐や狸に化かされたと考える方がまだしっくりくる。…どちらも似たようなものか?

 しかし、あれは間違いなく生きている人間だった。

 ただ普通の少女とするには違和感がある。

 茨を抜けても解(ほつ)れのないドロワ、普通の少女が持ち得ない背を射貫くような視線。

 深い海の底を覗いているような瞳、光を透かす金の髪、空を舞う粉雪よりまだ白い肌…。

「…」

 何度も何度も寝返りを打ち、結局その夜は寝付けなかった。

 女と弟は結構頻繁に会っているようだった。俺はその度に弟のあとをつけ、気配を消してじっと様子を伺っていた。怪しい女と弟を一緒にしていて、何かあってはたまらない。しかし弟が会いたがっている以上、会わせない訳にもいくまい。本業の木樵は遅々として進まないが仕方ない。

 どうやら女は俺に気づいているようだった。しかし、あのひりつくような視線はあれ以降一度もこちらに向けられたことはない。俺に害意がないと判断して、その辺の花や草と同じように、もしくはその髪を揺らす風のように、あってなきが如く扱われた。無視をしているんじゃない。それならまだいい。女が会いたいのはあくまで弟であって、俺にはそもそも全く興味が無いということなのだ。それには馬鹿にされているようで少し腹が立った。

 女はいつも笑顔だった。ころころと楽しそうに笑い、くるくるとよく表情を変えた。そんなに笑って疲れないのかと思うほどに。

 ある日、女と弟はいつものように楽しそうに喋っていた。弟がなにか言った後、珍しく女の表情が曇った。それは本当に微々たる変化だったので、幼い弟は全くそれに気がつかないようで、女に向かって重ねて何事かを言っていた。

 家に戻ってきた弟に、一足先に帰っていた俺はおかえりと声をかけてから、何食わぬ顔で今日も「お姉さん」と会っていたのかと聞いた。弟は待ってましたとばかりに頷く。弟が「お姉さん」と会ってからと言うもの、この家の話題はそれ一色だ。

「今日は何を話したんだ?」

「今日はね、都のパレードの話をしたんだ。この世のものとは思えないぐらいとってもとっても綺麗だって!ねぇ、兄ちゃん、僕、パレード見てみたい!」

「パレード…」

 五年に一度、王族が権威を見せつけるためにこれでもかと豪華なパレードをしているのは知っていた。なにせこの国の王自身もパレードの行列に加わるのだからその盛大さは計り知れない。おかげでパレードが近づくと貴賤無く皆浮き足立ち、都はこれ以上無いぐらい活気づく。都と言っても、一応この森も都の一部だ。ただ少しばかり離れている。

 俺は考えた。いつかはこの弟に森を出て都を見せるつもりだった。それならこの機会はうってつけかもしれない。幸いにもその稀なるパレードは一月後に行われる予定だった。

「…わかった。良い子にしてたら連れてってやる」

 俺は甘ったれの弟が調子づくと困るので、わざと顰めっ面で頷いた。保護者役も楽ではない。しかしそんなことお構いなしの弟は飛び上がって喜んだ。

「本当!?いやったあ!兄ちゃん、後で嘘って言うのはなしだからね!」

「おい。良い子にしてたら、だぞ。わかってるか?」

「わかってるわかってる!やったぁ!お姉さんにはヒミツにしておいて、後で教えてあげよう!森から出てない僕が都のパレード見たって言ったら、ビックリするんだろうな~」

 全く聞いて居なさそうな弟にやれやれと肩を竦めて、俺はふと今日の女の表情に陰りがあったことを思い出した。

 パレードで何かイヤなことでもあったのだろうか。いつも打てば響くような会話をしている女には珍しく口ごもりつつ答えていたのも印象的だった。

 …いや、俺が気にすることじゃないか。

 その後も弟と女はロサの泉で会っては楽しく遊んでいた。パレードの日が近づいても、弟は見に行くと言うことをしっかり女に隠しているようだった。

 そして、その日は来た。俺は南国風の服に身を包み、瞳以外頭の先までぐるぐると布で覆った。弟はそんな俺を不思議そうに見ていた。

「僕も布巻くの?」

「いや、おまえはいい」

「ふーん?」

 目をぱちくりさせていたのは一瞬の間だけで、すぐに弟の興味は他に移った。

 何しろ今日は、厳つい老兵でさえ心躍る、夢のパレードの日だ。

「ねぇねぇ、あれは、あの人は何をしてるの!?」

「あれは大道芸人だ。踊ったり手品をしたり火を噴いたりして金を稼いでいるんだ」

「すごいすごい!兄ちゃん!あれは、あれは!?」

「あれは牛だ。森には居ないな」

「えー!じゃあ、あれは!?」

 弟の興味は尽きない。俺は然(さ)もありなんと、聞かれたいちいちに答えてやっていた。

 すると、そんな喧騒を割るようにラッパが鳴った。その音は高く長く続き、俺たちと同様興味が千々に散っていた人々の動きが一度に止まった。

「なに、なに?」

 弟は不思議そうにきょろきょろと辺りを見回す。皆が同じ方向を見ているのも気になっているようだった。

「パレードが始まる合図だ」

「うわぁ!」

 そう教えてやると、弟は興奮のあまり走り出した。迷子になるぞと俺の声も聞こえない様子で、人混みをちょこまかと縫って駆けていく。俺の巨体では、見失わないようにするので精一杯だ。

 パレードの沿道には息詰まるぐらいの人垣が出来ていた。誰も彼もパレードをより良いところで見たいと押し合いへし合いしている。弟は、そんな人たちの足の間をすり抜けて、なんと一番前まで行ってしまった。

 兄ちゃんはやくー、と喧騒に紛れた遠くから弟の声が聞こえるが、何が早くだ。一番前に居る人は何時間も前からそこでパレードのためだけに待っているんだ。そこに割り込むなんて礼儀知らずも良いところ。知らぬ事とは言え、甘やかしすぎたか。早く連れ戻さなければ。

 俺は内心頭を抱えながら、「すみません」「すみません」と謝りつつ人並みを掻き分けて弟のもとまで辿り着こうとした。

 やっと弟の姿が見えてきた…というところで、人々が一斉に沸き立った。折悪くパレードが到着したらしい。馬や象といった動物ですら、全身重そうな黄金で飾りたてられて、絢爛豪華を体現した目にも鮮やかなパレードが近づいてくる。俺は興奮してどやどやと動く人波で押し流された。弟に手は届かない。人々の頭上に花が舞う。パレードの先頭は王だ。若き王ながら、臣下に良く心を配り善政を敷いていると聞く。みなその王が見たいのだ。

「お姉さん!」

 その声は喧騒を押しのけて、とても鮮明に聞こえた。俺の幻聴かと疑うほどに。

 悲鳴が上がる。

 いきなり何かがパレードの前に飛び出したのだ。嘘だろう!?それは見間違えることない俺の弟だった。そして、まっすぐ王に向かって駆けだしていく。とても嬉しそうに。いや、王に向かってではない。正確には王の後ろ―…頭の先まで白銀の甲冑に身を包んだ、一際小柄な人間が乗る白馬へと。

 俺は戦慄した。パレードの妨害は命と引き替えになる重罪だ!

 俺は周りの人間を突き飛ばしてがむしゃらに走った。弟に向かう衛兵よりもはやく!間に合えー…わかってる、間に合う距離じゃない、でも間に合ってくれ、お願いだ!

 王は弟を見てはっ、としたように綱を引いた。いきなり歩みを止められた王の馬が苦しそうに前足を高く上げて踏鞴(たたら)を踏む。

 その王の横を素早く白馬が躍り出た。躊躇無く磨き上げられた腰の剣を抜きながら。

「氷の魔女!」

 誰かが叫んだ。

 必死で伸ばした五本の指の向こうで、高く掲げられた白刃が眩しく陽の光を反射した。

 弟は何が起こったのか理解していないと言った風で、その場に似つかわしくないほどきょとんとした顔をしていた。

時が止まったかのようだった。

 群衆は呼吸さえ飲み込み微動だにしない。

 弟はゆっくりと自分の胸から生えた剣を見、その刃を辿って柄を握る手を目で追い、腕を登り白銀に輝く兜の向こうにその視線は辿り着いた。固く覆われた甲冑の下にあるものを、その時確かに弟は見ていた。

 ずるりと音を立てて、深々と刺さった剣が弟の胸から引き抜かれた。高々と鮮血があがり、剣を持つ白銀の騎士の鎧に弾かれて伝い落ちる。

 弟はにこりとひとつ笑って、崩れ落ちた。

 それを俺は抱き留めて、そのまま走る。再びあがった悲鳴と喧騒を、どこか遠くで聞いていた。

 走りながら弟の胸の穴を押さえたが全く意味が無く、俺は見る間に噴き上げる血で真っ赤に染まった。

 それはそうだ。この傷は心臓を一突きしている。駆ける馬上から小さい子供を狙ったと思えば見事な腕だ。弟はもう死んでいる。掻き抱くこれは亡骸だ。じゃあなんで俺は走っているんだ。なぜ。うおおと俺は吼えた。人は血だらけの俺を見て逃げ惑った。誰かが口々に何かを叫び、背に馬の迫る音がしていた気がしたが、都を抜けた頃には誰も追ってこなくなった。

 気がつけば俺は森の家に居た。

 何年も弟と二人で暮らし、馴染んだ我が家に。

 食器や椅子やテーブルなんてものが、見飽きるほど見慣れた配置で並んでいる。

 一瞬俺は、全てが夢だったように感じた。

 ああ、夕方だ。弟はどこで遊んでいるんだ、呼びにいかなくてはー…。

 しかし探すまでもなく弟は腕の中にいた。ぴくりとも動かない俺の弟。顔や服にこびり付いた血さえなければ、眠っているようだった。

 眠っている?いや、違う。死んでいるんだ。

 心が残酷な事実と、楽しかった過去を行ったり来たりする。夢を見ては、現実に絶望する。その軋轢で俺は涙を流す。

 俺は震える手で冷たくなった弟を寝台に降ろした。

 なぜ、なんで、こんなことになった。

 弟にはきつく言ってあった。パレードが来ても決してその道を塞ぐような真似をしてはいけない。特に王には近寄っただけで捕らえられ、苛烈な拷問の上四肢を砕かれ、馬に括り付けられて、都中を生きたまま肉が擦り切れるまで引きずり回される刑罰が下ると。それは例え女子供であっても容赦なく執行されるのだと。

 なぜだ!

 こんなことになるのだったら…昨日の夜興奮して寝付けない弟が俺の布団に潜り込もうとするのを、叱りつけるんじゃなかった。

 昔はずっと一緒に寝ていた。別々に寝るようになって、弟が寂しがっていたのも知っていた。だが、甘やかしてばかりは弟のためにならないと思って、あれもだめ、これもだめ、こうしろ、ああしろ、と、俺は、俺はー…。

 俺はいい兄ではなかった。そうだ、全くいい兄ではなかった。

 両親の顔すら覚えていないような弟が、寂しく思わなかったわけがあるだろうか。一緒に寝てやれば良かった。仕方の無い奴だと笑って、布団の端をめくるだけで良かった。たったそれだけで、弟の笑顔を見ることが出来た。どうして俺は、そんな簡単なことをしてやらなかったんだ。もう、どんなに願ってもその笑顔は二度と見れない。母親のぬくもりも知らない弟。その弟が言う我が儘など、全てがささやかで、叶えてやれぬものなどただのひとつもなかったのにー…。

 今となっては全てが遅い。両親を失った時に痛感したはずのその思いは、今また俺を嘖(さいな)むのか。俺は愚(うこ)だ。この上もなく。

 俺は弟の横で泣き咽せいだ。

 どれくらい泣いただろうか、陽も悲しみに顔を伏せ、死を司(つかさど)る夜が来て、俺はやっと顔を上げた。

 その頃には荒くれる感情も少しは整理できていた。

 まずは、弟を埋めてやらなればならない。父と母眠る場所へ。

 ずっとずっと、父に、母に、会いたがっていた弟。今は三人で仲良く、笑っているんだろうか…。

 それには花も居る。花…ロサの花がいい。寂しくないように、沢山…。弟は「お姉さん」がとても好きだったから…。

 俺の足は自然とロサの泉に向けられた。

 「お姉さん」、か…。

 不意に満面の笑みで弟を迎える女の笑顔が浮かんだ。

 悲しいことを、俺はあの女にも伝えなければならない。弟が死んだと。…死んだ?俺ですらまだ実感できていないというのに。ましてあの女は、唐突すぎる話にきっと嘆き涙するだろう…。悲しませてしまうのは忍びないが、隠していても仕方が無い。俺では弟の代わりは務まらないのだから。

 そういえばパレードに走り出した弟は何を勘違いしたのだか「お姉さん」と言って居た。弟がお姉さんと呼ぶのは唯(ただ)一人だけだ。王族しか連なれないあのパレードに、「お姉さん」が居たとでも言うのか?そんな馬鹿な…。

 それにしても、弟を躊躇なく斬り殺した白銀の甲冑を着た騎士…。改めて考えると沸々と沸き立つ怒りで体が震えた。奴にしたら、王を守るという当然の役割を果たしただけだとわかっている。でも、分別のつかない子供にまで剣を向けることが果たして正義なのか?何が騎士だ!王が何様だ!

 …殺してやろうか。

 物騒な考えが頭を過ぎる。

 白銀の騎士は相当な腕だったが、俺の方が上な自信があった。

 俺の父は生涯無敗で通したほどの強い人間だった。その父に鍛えられていた俺が、牙を抜かれた王宮の騎士などに負ける訳がない。

 考えれば考えるほど仄暗い泥沼に嵌まっていくようで、弟の居ない今、俺は一体どうすればいいのか、この先のことが全く見えなかった。

 じりりと靴の下で白い花を磨り潰して、やっと俺はロサの泉に辿り着いたと気がついた。

 考え事をしながら歩いていたから全くわからなかったが、確かに耳は清純な泉の音も拾っていた。気持ちを切り替えようと、鬱蒼とした思いを振り切り顔を上げた俺は、衝撃で息が止まった。

 目の前には、女が居た。

 そう、月明かりにプラチナブロンドの髪を染めて、いつかのように真っ青なドロワを着て、光溢れるロサの中に座り込んでいた。

 違うのは、女がはじめからこちらを向いていたことと、いつになく至近距離に居る俺にも気がつかないぐらい激しく泣いていたことだった。

 涙は頬を伝う間すら惜しいというように、光となって散っていた。

「ごめんなさい…!」

 女はひたすら何かに向かって謝っていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

 噛みしめて真っ赤になったくちびるを震わせ、地を叩き、髪を振り乱して女は泣いていた。

 女の鬼気迫る様子に、俺はひとつも声を掛けることが出来なかった。

 ただ呆然と、泣き狂う女を見ていた。

 気づけば花一本摘まず、俺の足はロサの泉から遠ざかっていた。しかし我に返る。こんな夜中に女一人…危険だ。送っていった方が良い。そう思ってもう一度戻ったが、既に女はそこに居なかった。幻かと思うほど綺麗に消えていた。俺は、女がいたところまで歩みを進めた。

 白い白い大輪のロサが、競い合うように咲いている。その中に、きらりと光るものがあった。ロサの花弁の上にそっと乗っている雫…女の涙だ、と思った。

 俺はその雫の乗っているロサを摘み取った。弟のための涙だ。この花は、弟にあげるべきだ。

 そう、俺が教えるまでもなかった。女はどうしてか知っているのだ。弟が死んだことを。

 それであんなにも嘆き悲しんでいた…。

 何を女が謝っていたのかはわからないが、その姿には胸打たれた。もしかして自分がパレードのことを話してしまったから、弟が死んだと思っているのかもしれない。

 それは違うと、慰めてやれば良かった。謝らなくて良いと言いたかった。

 そんなに、心を砕くように泣かなくていい。弟は、あなたに会えて、あんなにも幸せそうに笑っていたのだから…。

 しかしそれを伝えるべき手段は何もなかった。女は、もうここにはこないと直感があった。 

 果たして、それから何度ロサの泉に行っても、俺が女に会うことは二度となかった。


「酷い女さ、あれは。パレードの事件を見た?動揺もしないで小さい子供を容赦なく一突き、だよ。いくら王様のためとは言え…きっと流れる血も冷たく凍っていることだろうよ」

「近づきたくもないね。死神とも呼ばれているそうじゃないか。そりゃあ敵を殺してくれるんなら良いけど、ねぇ、不幸を持ってきそうで…」

「誰が何を言ってもにこりともしないんだって。いつも不気味な甲冑を着込んでいて、それでいて恐ろしく強いから軍も強く言えないんだとか…」

 今日も酒場は賑やかだ。

 俺は酒を飲みながら、色々な噂話を聞くとはなしに聞いていた。

 この国には、氷の魔女と呼ばれる女がいる。

 その女は、途轍もない嫌われ者らしい。

「そういえば、今年も武闘大会があるんだろ、お兄さんもそれに出るのかい?」

「まぁな」

「最後まで残るのはやっぱり氷の魔女だろうな。今年は骨のあるのがいると良いが」

「そうだな」

 いきなり隣の男に話しかけられて、俺は適当にあしらった。

 しかし話しかけた男は、おっと言うように俺の顔を見て黙り込んだ。

「お兄さん、黒の騎士によく似てるな…」

「髪も目も黒いからな」

「いや、それだけじゃなくて…」

「ごちそうさま」

 俺は酒場を出た。

 室内との気温差に首を竦め、正面に伸びる自分の影を見るとはなしに見ながら歩く。

 黒の騎士、か。顔を隠さず都に来ればそう言われるだろう事はわかっていた。まさか自分がこうして、都の武闘大会に出る日が来ようとは思っても見なかったと皮肉な笑みが浮かぶ。

 武闘大会は王室が開いているだけあって、甲冑を着込みフェアプレーに則って行う御前試合みたいなものだ。しかし貴賤問わず参加できるし、真剣で戦うとは言え命を奪うのは御法度(ごはっと)なので、不慮の事故さえなければ、失うものが少ない。その上優勝すれば最高位の騎士にもなれるので参加者も見物人も大層多い。当然、王も見に来る。娯楽の多い都でも、パレードの次に盛り上がるのがこの武闘大会だった。

 弟のいなくなった俺の四季はあっという間に過ぎた。俺はいつも酒場に入り浸っては考え事をしていた。夜は斧の代わりに剣を振った。

 パレードの時のように、その日が近づくにつれ、都は武術大会一色に染まっていった。

 さて、皆が期待するその武闘大会だが、呆気ないものだった。俺にとって。

 年季の入った黒ずんだ甲冑を笑われたのは最初だけ。俺の前に続々と膝をつく猛者達。観客は色めき立った。無名の俺が圧倒的な強さでもって勝ち進んでいるのだ、それはいい英雄物語だろう。俺も他人事だったら凄いなと目を輝かせていたかもしれない。

 そして誰からともなく気づく。あの甲冑、見覚えはないかと。

 この国の行く末が心配になるほどに、手応えのあるやつはいなかった。

 そう、たった一人を除いては。

 決勝戦、俺の目の前にはしなやかな白銀の甲冑を着た騎士がいた。

 氷の魔女。

 パレードの日、弟の命を一刺しで奪い去った女だ。

 女を前にして、俺は一種の感動で鼓動が高まるのを強く感じた。

 弟が死んで、あの夜女の涙を見てから、俺はこの日をずっと望んでいた。

 顔も隠さず、決して出ないと決めた森の家を捨ててきた。父の形見の甲冑を着込み、身を隠すことなく堂々と日の下に立つ。

 始め、の合図が降りても、俺たちは微動だにしなかった。

 強い日差しに景色が揺らぐ。

 先にしびれを切らしたのは観客席だった。訝しげにざわざわと響(どよ)めき出すが、そんなことも気にならないぐらいに俺は女だけを見ていた。女も動揺することなく、俺だけを見ている。 互いに互いの強さを、睨み合うだけで感じていた。

 右…いや、左…できれば足を狙いたいところだが…。

 相手の出方を探り、息詰まるような空白の時間が流れる。

 古びた鎧の内側を、汗が伝う。

 ここまで、俺が睨み合ったまま動くことが出来ない相手がいるとはー…。

 噂も強ち、馬鹿にしたものではないと言うことか。

 このまま睨み合っていれば、体力の面から言っても俺が勝つのは明白だが、それでは皆が納得するまい。

 俺はそう覚悟し、ふっと軸足に体重をかけた。

「!」

 勝負は一瞬だった。

 果たして皆は一体何が起きたかわからなかったに違いない。

 ひとつ瞬きをして目を開ければ、観客には腰を床につけている女と微動だにしていない俺が映っただろう。誰が見てもわかる。女の負けだ。呆気ないほどの終わりだった。俺は勝ったのだ。勝敗ついた相手を更に傷つけ、まして命まで奪うのはルールに反する。そこで試合は終了の筈だった。しかし俺は、尚も一歩踏み出した。王が焦ったように立ち上がるのが目の端でわかった。止めようと走り出した衛兵は間に合わない。

 俺の剣が甲冑の隙間、首元に食い込んだ時も女は微動だにしなかった。

 無骨な甲冑の下の表情は見えない。

 命乞いも何もすることなく、女は、ただ、俺を見上げていた。

 観客は水を打ったように静まりかえった。俺の次の行動を、息を呑んで見守っている。

 俺は心が震える心地だった。この女は、覚悟を決めている。戦いについての、覚悟を。

 見事だ!

 俺は一息に剣を跳ね上げた。ぽーんと高く高く兜は飛んだ。兜だけが。

 さらりと日に透ける白金の髪が揺れる。

 自らが地に腰を着ける屈辱に頬が紅潮している女―…見間違いもしない、あの、ロサの泉にいた女だった。

 弟は見抜いていたのだ。顔まで隠れた甲冑の上からでも、この女のことを。

 弟を殺した騎士が、この女だったのだ!

 俺は自らの兜にも手を掛けると毟り取って放り投げた。

 日の光が眩しく瞳を射す。

 地に二つの兜が落ちたと同時に、うぅわ、と観客席から地響きのような歓声があがった。

「黒の騎士だ!」

「黒の騎士が氷の魔女を倒しやがった!」

「黒の騎士の再来だ!」

 女は観客の様子に心揺らすことなく、ただ苛烈な瞳で俺を見ていた。

 俺も沸き立つ心を抑え、極めて静かにそれを正面から受け止めていた。

 二人でただ見つめ合う。

 多分初めてだと思う、女が俺をちゃんと見るのは。

 女はきっと、俺の顔すら覚えてないだろう。森の奥ではいつ何時でも、女の心は常に、弟に向けられていた。

 女は俺を、あの弟の実の兄だとも知らずに、悔しさが滲んだ瞳で見ている。

 弟を殺した氷の魔女に、憎しみがなかったとは言わない。俺もずっと迷ってきた。大事な弟だった。たった一人の弟。誰かを憎むとしたらあの白銀の鎧を着た騎士しかなかった。しかし守り切れなかった我が身に絶望し、憎しみに身を焼かれた時も、不思議とロサの泉で見た女の涙が目の裏に浮かび、そのぎらぎらと光る抜き身の刃のような感情にすっと鞘をするように収めることが出来た。そんなことを繰り返す内に、憎しみは薄れていき、そして女の覚悟を目の当たりにした今、清々しいほど綺麗に消えてなくなったのだ。

 俺はずっと考えていた。

 ロサの泉にいた女が、もしも、氷の魔女であるなら。

 何故、弟を殺したのか。

 女の心から楽しそうな笑顔が何度も何度も脳裏を過ぎり、答えは出なかった。あの笑顔の中に、弟を殺したい理由など、ひとつも無いはずだったからだ。

 それならばと逆のことを考えてみた。

 もしも、女が、弟を殺さなかったら。

 普通、王家に刃向かったものは絶対に殺さず捕らえられる。死なせてくれと自ら懇願するほどの悲惨な拷問を加えられ、そして苦痛という苦痛を味わわせた後に見せしめのために殺されるのだ。女も、子供も、老人でさえ容赦なく。王の権威を守るため、ただそのためだけに。

 だから弟も同じ道を辿っていたのは想像に難くない。

 どれほど拷問が残酷なものか、それを誰よりもよくわかっているのは王を取り巻く騎士だろう。弟の心臓を一突きする手際は見事だった。きっと弟は、痛みを感じる間もなく黄泉路に転がり込んだに違いないのだ。

 王に向かって走って行った時点で、どうやっても弟の死は免れなかった。ならば、せめて自らの手で優しい眠りを…と考えたのだろう、あの一瞬で。

 誰が心を凍らせた氷の魔女だというのか。これほど優しい女を俺は知らない。一体誰が、仲の良い友を進んで殺そうとなどと思うだろう。

 生かして捕らえるべき罪人を殺すのもまた罪だ。あの後、彼女は何らかの罰を与えられている筈なのだ。騎士が規則を破っては示しがつかないのだから。全ての罪を自らが被り、一切言い訳せずに黙している彼女こそ真の騎士と言えよう。

 それとまた、この国は氷の魔女に寄りかかりすぎているとも感じた。

 氷の魔女を恐れ嫌いながらも、その並ぶものない強さ故に厄介扱いしながら祭り上げている、王や国民達。

 今、氷の魔女がいなくなればこの国は危うい。それほどの存在だった。

 国の運命が一人の少女の肩にあって良いはずがない。

 俺の父は昔、黒の騎士と呼ばれた剣の使い手だった。この世界で並み居るものがないと言われたほど。同じように国の運命は父に左右される程だった。

 しかし六年前に流行病にかかり、父母ともあっさり死んでしまった。

 それからの一年はこの国の地獄だった。その間他国に侵略されなかったのは、ひとえに現王の手腕だ。

 混乱していた国はひとりの少女に目をつけた。その時彼女は弱冠十歳。でも形振り構っていられなかった国はすぐに飛びつき少女を祭り上げた。

 俺は黒の騎士の息子と言われることが嫌で、都の森の奥深く、家を建てて弟と二人住み着いた。運良く引きずり出されることなく、今までも、そしてこれからも、ひっそりと生きるつもりだった。

 しかし、もう、この女に頼り切っている国には我慢がならない。

 戦神と呼ばれた父の血を引き、直接指導して貰った俺には力がある。

 武術大会で優勝した俺を、国は放って置かないはずだ。

 俺が一人でこの国を背負うのはいい。覚悟は決めた。でも女は開放して遣って欲しい。

 ひとりの女に戻してやりたい。

 氷の魔女の噂は酷いものだった。極悪非道、敵を一刀のもとに殺す。笑ったところは誰も見たことがない。人の心を持ってない。厄介者。

 いいや、それは違う。彼女は、笑っていた。あの誰も来ないような森の奥で、白い花に囲まれてあんなに楽しそうに笑っていたのだ。

 およそ人が通りかかるような道から遠く離れたロサの泉に彼女が現れたことをずっと不思議に思っていたが、やっとわかった。それは必然だったのだ。彼女は、誰かの前で泣くことも、素直に笑うことも出来ないのだ。氷の魔女というただそれだけが故に。感情を見せられない彼女が苦しみながら森に分け入り、人の目を避け彷徨いながら辿り着いたのがあのロサの泉だったのだと思うと胸が詰まる。そして弟と出会った。

 氷の魔女なんかじゃない、彼女は犠牲者だ。

 友の死に心痛めて涙する、優しい優しい女なんだ…。

 俺は目の前の女に手を差し伸べた。

 女はそれを見てすっと表情を消すと、音もなく自分で立ち上がり、俺には目もくれず歩き去って行った。

 それは間違いなく長年彼女が被っていた、氷の魔女の仮面だった。

 俺はとられることなかった手を握りしめ、その背を複雑な思いで見ていた。

 本当は。

 苦しまなくて良いと、言いたかった。

 誰も…俺も、弟も、恨んでなんかいないのだと…。

 後日俺は城に呼ばれ、改めて王からお褒めの言葉を賜り、正式に騎士になった。最高位の騎士には星を冠した呼び名がつく。氷の魔女は正式には「月の騎士」と言う。俺には…「太陽の騎士」の呼称を賜った。

 王は甚(いた)く上機嫌だった。それもそうか。氷の魔女以上の強さを持つ人間が見つかったのだから。

 その夜の歓迎会では、俺はあらゆる人にもみくちゃにされた。

 できすぎじゃないかと思うぐらい、俺は皆に好感を持って迎えられた。

 一人の男爵が俺の肩を馴れ馴れしく叩きながら言う。

「そうだ!今度視察にも行こう!来たる戦争に備えて、行くのは最高位の騎士じゃないといけないから氷の魔女に頼む予定だったが、あんな女より貴殿の方が良いな!」

 それに反応したのは、氷の魔女本人だった。

 無表情で、つかつかと俺のところに来た。隣の男爵に冷たい目を向ける。

「男爵殿、それは既にわたしに頂いたお話のはずでは?わたしもそれに向けて準備を進めておりますが」

「ははは、御前試合で黒の騎士殿にあっさり負けておいてそんな口がきけるとは片腹痛い!偉そうなことを言う前にその腕を磨いたらどうだ?そのうち最高位の騎士の名誉も剥奪されるぞ!」

 女は男爵の嫌味にその長い睫をただ瞬きさせて、くるりと踵を返した。

 俺は咄嗟に後を追った。

 ずんずんと進む女の腕を掴んで、その細さに驚き、考えていた言葉が全て飛んでいってしまった。

 女は俺を振り返った。

 今日の女は、王から送られたという正装の銀のドレス姿で、とても美しく着飾っていた。耳元につけた白い結晶を模した耳飾りが揺れる。

 女は腕を掴んでいるのが俺だとわかると嫌そうに顔を顰めた。そして乱暴に振り解く。そのまま一切振り返らずに歩き去ってしまった。

「まっ…」

 引き留めて何をしたい訳じゃない。そう我に返って、掛けようとした言葉は呑み込んだ。

 …俺の望んでいるとおりに事が進んでいるはずだ。

 女を、戦争の道具じゃなくて、ただの女に戻してやる。

 そのためには、女の肩の荷を降ろしてやらなければならない。

 肩の荷を降ろすと言うことは、こういうことだ。女が負っていた戦いに関しての何もかもを、俺が肩代わりするのだ。

 このままで、いい、筈なのに…。

 俺はどこか釈然としないものを抱えながら、自分の席に戻った。男爵は偶然当たったと装って多少強めにどついておいた。

 俺の周りには人が溢れた。

 城の一室に部屋を貰い、そこには引っ切りなしに人が訪れた。女も、男も、下仕えのものから、王族まで、あらゆる人が黒の騎士を見たがった。しかし、一人だけ、そんな俺を訪(おとな)うことのない人がいた。

 氷の魔女、その人だった。

 俺が頼りにされるようになると、今まで氷の魔女に嫌々関わっていた人間はすっと潮が引くように誰もいなくなった。俺の仕事が見る間に山積みになるにつれ、氷の魔女はどんどん孤立していった。

 俺が、彼女の居場所を奪っているー…いや、これでいいのだ、と俺は言い聞かせながら、毎日忙しく走り回っていた。氷の魔女を気に掛けながらも、俺は彼女に意図的に避けられているようで、擦れ違うことなど一切無かった。

 大臣の話を聞き、書類の判をつき、王に面会をし、兵の指導をしているその少しの合間も、俺は彼女の姿を探した。

 彼女が、誰も知らぬところでひとり泣いてはいないかと、そのことだけが気がかりだった。

 そんなある日、俺は人払いした王に呼ばれた。

 密命でもあるのかと、俺は幾分緊張して行った。

「太陽の騎士、そう畏まってくれるな。床ばかり見詰めさせているのは忍びない」

「勿体ない御言葉でございます…」

 これは顔を上げろと言うことだと理解して、俺は気安く声を掛ける王を見た。王はそれでいいと満足そうに頷く。

 この国の王は、豊かな金の髪に青い瞳の青年だった。まだ十八歳だと言うが、忙しさのあまり妻を迎える暇もなく来ていると聞く。氷の魔女とはまた違った意味で、その若い肩にこの国の全てがのしかかっていると思えば、威風堂々とした姿さえ哀れみを覚えるほどだった。

 王はその日も上機嫌だった。

「巷でそなたは黒の騎士と呼ばれていると聞く。まさか、かの『黒の騎士』と、他人のそら似ではあるまいな?」

「畏れながら。父が、かつてそう呼ばれておりました」

「やはり、そうか…」

 王は感慨深げに頷いた。俺が黒の騎士の息子だというのは公然の事実だとして広まっていると思ったが、下々の噂は王の耳にまでは届いていなかったらしい。

「黒の騎士にはわたしも世話になった。よく見れば顔も瓜二つではないか。こうして息子であるそなたと相まみえて嬉しく思う」

「光栄な御言葉、父も喜ぶでしょう」

「うむ。ところで、今日そなたにわざわざ時間を空けさせたのは他でもない。…ちゃんと褒美を取らせていなかったと思ってな」

 俺は一瞬耳を疑った。褒美?人払いまでして、それだけのために?

 一気に肩の力が抜けた俺を他所に、王はにこにこと言う。

「何が欲しい?金か、それとも品がいいか、何でも言え」

「そんな…褒美を頂く理由などございません。わたしは何もしていないのですから」

「謙遜するでない。わたしは、本当にそなたには感謝しているのだ。快く受け取って欲しい」

 そう言ってくれる王には悪いが、俺は金も、物も、地位でさえ、本当は何もいらない。

 弟がいなくなって…突然の嵐に呑み込まれたように、俺は空っぽになった。

 黒く荒くれた嵐の中で、ひとり大海原に投げ出されたように、自分で自分の未来がわからなかった。これからどうなるのか。どこへ辿り着くのかさえも、全く見えなくて。

 ただ自堕落に繰り返される俺の朝も、昼も、常に光の射さない暗闇だった。

 俺は多分…生きる意味を欲しがっているのだ。そう思う。

 目印がなければ流れに任せて漂うままだ。それは嫌だ。生きていくのなら理由が欲しい。嵐の渦中へまっすぐ飛び込んでいけるほどの、熱く命を燃やす理由が欲しい…。

 きっとそれが、今の俺には、あの女の眩い笑顔なのだ。

「では、申し上げます」

 俺は、心を決めて王を見上げた。

「わたしの望みは…月の騎士を、その地位から追うこと…です」

 王の笑顔がすっと消えた。

 それを見た時、しまった…と思ったが、最早一度口から出た言葉は取り消せはしない。

 早まった…もしくは言い方が悪かったか?どちらにしても、あとはもう王の出方を見るしかない…。

 王は長い間、表情を消して俺を見ていた。顎のあたりを撫でながら、じっと何かを深く考えるように俺を眺めていた。

 俺はこの王が賢帝と呼ばれていることを、ふいに思い出した。

「…太陽の騎士よ」

 それは、喉の奥が粘つくほど長い時間だった、と思う。少なくとも体感的には途方もなく長く感じた。

「は」

 俺の絞り出す返事ですら、王には聞こえたか聞こえていないかの大きさだったに違いない。

 しかし王はそれには頓着せず、言葉を続けた。

「本音で話をしよう」

「は、い?」

 俺は王の言っている意図がつかめず、聞き返してしまった。

「わたしとそなたはまだ出会ったばかりの王と騎士であるが、わたしはそなたを信頼しているし、そなたもわたしに忠誠を誓ってくれていると思っている。信頼なくしてわたしたちの関係は成り立たない。違うか?」

「いいえ。おっしゃるとおりです」

 王はひとつ頷き、俺の目を見ながら言った。

「言葉とは難しいものだ。わたしは、そなたをわたしの想像だけで疑いたくはない。何故、そのようなことを望むのか、申してみよ。嘘偽りなく」

 俺は、このとき本当の意味で、王への見方が変わった。

 この王は、素晴らしい王だ。王という名が持つ意味を、権力の残酷さを、よくわかっておられる。

 自らの何気ない言葉ひとつで、ひとの命を簡単に握りつぶしてしまえることをよくよく理解して、臣下を大切に思い、民の気持ちに心を添わせ、この国をよき道に導こうとしておられる方だ…。

 この王は間違いなく、俺と本気で話してくださっている。ならば、俺もそれに上辺で答えるべきではない。

「王は、氷の魔女をご存じでしょうか」

 俺は、覚悟を決めて口を開いた。

「ご存じとは…どういう意味でだ?月の騎士は、わたしの騎士だ。知らぬ訳があるまい」

「言い方を変えましょう。王は、この国の運命を、ひとりのか弱い少女一人に負わせることを良しと思われますか」

 王は、俺が言わんとする意味を理解されたようだった。

 ううむ、と唸って椅子に深く座り直された。

「これも運命か…」

 王は小さい声で言った。独り言のようだった。

「太陽の騎士よ。そなたのような者が太陽の騎士となり、この城に来てくれたことを、わたしは神に感謝せねばなるまい」

「それは…」

「そなたの誠意に、わたしも真心でもって答えよう。わたしが今日、そなたを呼んだのは本当はそのためでもあったのだ。まさかそなたに先に言われるとは思っても見なかったが…。くだらぬ昔話を、聞いてほしい。が、その前に決して他言せぬと誓ってくれ」

「他言しません。わたしの名を冠する太陽に誓って」

「ありがとう。友よ」

 王は笑った。この国を統べる者から友と呼ばれたことに、俺は驚きで声も出せなかった。

 王は俺の様子に構わず、ゆっくりと話し始めた。

「わたしがまだ王子と呼ばれていた、昔―…結婚の約束をした少女がいた。その少女は辛うじて王族の端くれという身だったが故に気に留める物など誰もいない存在だった。ゆくゆくは王となるわたしがこっそり遊ぶには丁度良い相手だった。彼女は良く笑い、良く喋った。そう、あの、六年前の流行病までは。覚えているかー…などと聞くまでもないな。そなたの父も倒れたのだ。当時国王だったわたしの父も亡くなり、わたしは十二歳で王になった。そこからは息つく暇も無く、国のことしか考えていなかった。彼女に会う暇など、一切なかった。そなたの父の代わりが見つかったと聞いたのは、それから一年の後のことだった。会って心底驚いた。…もう、わかるだろう?わたしが会ったのは、笑わなくなった彼女だった」

 王は自分を嘲るように笑っていた。

「太陽の騎士」

「はい」

「そなたの望みを叶えよう」

 俺はその言葉をじっと聞いていた。

「わたしは、本当にそなたに感謝している。こんな日が来るとは、思ってもみなかった。今日の夜、月の騎士にその任を解くと伝えよう。その際は、そなたも傍にいてくれ。悪いようにはしない」

 それを俺が断れるはずもなかった。

 氷の魔女を女に戻せる。願いが叶うのに、それをもちろん嬉しいとは思うけれど、なにか…釈然としないものを抱えたまま、俺は夜を迎えた。

 氷の魔女は部屋に入ってきて、俺がいることに大層驚いたようだった。

 その顔を見て、俺も驚いた。

 痩せた…窶れたと言うべきか?

 もともと細いからだが、動けば軋みそうなほど細く折れそうになっている。

 痛々しさに思わず眉根が寄った。それをどう解釈したものか、氷の魔女は俺を睨み付けながら膝を折ろうとした。

 しかしその前に王が驚くべき行動に出た。颯爽と椅子から立ち上がり、赤い絨毯の上を、彼女に向かって迷い無く歩いて行くのだった。その顔は、何かを決意したかのように真っ直ぐ彼女を捉えていた。

 自らに向かってくる王を見て、彼女の目に確かに怯えが走った。

 その時、俺は、わかってしまった。

 決して、何者にも怯まない氷の魔女。その彼女が、唯一人背を向ける相手。かつて将来を誓い合ったというその王のことを、今でも、きっと、愛しているのだと…。

 それは想像もしなかった事実で、雷のように俺の全身を撃ち貫いた。

 部屋の鍵は閉まっている。王は、扉の前で逃げる彼女に追いついた。

「もう…こんな鎧は着なくていい」

 王は痛々しげにそう言った。兜を手に持ち、一分の隙もなく白銀の鎧を纏(まと)った彼女は、王の言葉を聞いて、それとわかるほどに血の気を引かせた。

「それは…どういう意味でしょう」

「もう、戦わなくて良いんだ。月の騎士。今日を以て、その、任を解く…」

「お戯れを!」

 抱きしめようとした王に、彼女は細い腕を振り回して抵抗した。

「わたしがいなくなればこの国はどうなります?じきに戦も起こります!わたし以外に誰が、っ」

 その時、彼女は部屋の隅にいる俺に目を留めた。即座に言葉は飲み込まれ、瞳が俺を映したまま、信じられないものを見てしまったかのように大きく見開かれていく。

 俺はそれを静かな目で見詰め返した。

 彼女は気づいた。気づいてしまった。

 そう、今までとは違うのだ。

 彼女がいなくても、俺がいる。黒の騎士の息子であり、彼女よりも強い、俺が…。

 彼女の瞳が絶望の色に染まるのを、確かに俺は見た。

「もう、いい。もう、頑張らなくていい。本当に、良くやってくれた。この国のために、自分を殺してまでも…でももう、いいんだ。ありがとう、月の騎士…」

 王はそう重ねて言って、彼女を優しく抱きしめた。彼女はされるがままで、まるで断頭台に立たされた囚人のように唇を呆然と戦慄(わなな)かせていた。

「騎士ではなく、今度はわたしの妻として、共に歩いてくれないか」

 唐突なプロポーズに、彼女は我に返って弾かれたように王から離れた。

「おやめ下さい!それこそ、お戯れでなくて何になりましょう!」

「いいや。わたしはもう心を決めている。そなたが何と言おうと、もう決めたのだ。だけど、無理強いはしたくない。そなたの意思で、どうか、はいと…言ってくれないだろうか」

「わたしは氷の魔女です!」

「違う。わたしの姫だ」

 王の言葉は揺らぎ無かった。もう心を決めたと言ったのは、決して偽りではないのだろう。

 それは彼女にも伝わったようだった。その真意を探るように王を見詰めていたが、暫くすると肩を落とし、ちいさく呟く。

「…頑固なあなたのことですから…わたしがはいと言うまで、しつこくこうして呼び出されるのでしょうね…」

「しつこくとは心外だな。しかしそなた以外を娶る気など、わたしにはない」

「わかり…ました。あなたの妻になります…」

 顔を背けて頷いた彼女を、王は強く強く抱きしめた。

「本当か、本当だな!太陽の騎士、しかと聞いただろう!そなたは証人だ!よしすぐに婚礼の日を決めよう!いつがいいか、ああ、忙しくなるな」

「落ち着かれて下さい!ひとつだけお願いが御座います。婚礼はあくまでひっそりと執り行いたいのです。そしてそれまで、わたしを娶ることは秘密にして下さいませんか」

「なぜだ?」

「聞き返さないで下さい。周りに知られると、わたしが、恥ずかしいからです!」

 そう言う彼女がやっと年相応に見えたようで、王は相好(そうごう)を崩した。

「よし。今日はもう遅いから、明日またこの話をしよう。太陽の騎士、未来の王妃を送っていってくれ」

「畏まりました」

「必要ありません!」

「そう言うな。いくら強いとは言えそなたは女の身。用心しておくに越したことはない」

「ですが」

 尚も反論しようとした彼女は、上機嫌な王に手を取られて言葉を切った。

「本当はわたしが送っていきたいところだが、そうすると婚礼を待たずして国民みなに祝われることになってしまうな?」

「…っお立場をお考え下さい!」

「わかっている。秘密裏に進めたいというそなたの意見も尊重したい。だから今日のところは太陽の騎士に頼んでいる。わかってくれるな?」

「…かしこ、まりました…」

「…怒らないでくれ。わたしは本当にそなたが大事なのだ…」

 王は彼女の額に優しく口づけを落とした。

「わたしは、本当に、本当に…この日を嬉しく思う。それも全て、太陽の騎士のおかげだ。そなたからも、よく礼を言ってくれ」

 部屋から出ても、彼女は一言も発さなかった。

 ただ、何かにもの凄く怒っていると言うことは感じ取れた。

 俺の先をずんずんと歩む彼女の背は怒りに燃えていた。とてもじゃないけれど、たった今、愛する王から夢のような告白をされた身とは思えない。王が俺を無理に伴わせたから、にしては大きすぎる怒りだ。

 守れと言われた淑女の背をいつまでも追っているわけにもいかず、俺は彼女の横に並んだ。本音を言えば前を歩きたかったが、そうすると彼女をもっと怒らせてしまいそうだったから妥協した。

 彼女は、俺が横に並んだことを察すると、目線さえ動かさず低い低い声で言った。

「…まどろっこしいことをするな」

 俺は、最初彼女の言って居る意味がわからなかった。

「わたしが憎いのなら、こんなことをせず、一思いに殺すがいい」

 憎い?殺す?彼女は何を言っているのだ。確かに状況だけ見れば、俺が氷の魔女を追い詰めたように見えるだろう。しかし、俺が、何故彼女が憎いだなどとー…。

 はっ、とした。

「…気づいていたのか?」

「もちろん」

 淀みなく返されたその言葉は俺には衝撃だった。

 俺を、あの弟の兄だと、気づいていた?そうして、俺が弟を殺したこの女の命を狙っていると、勘違いしているのか?

「憎まれるのは慣れている。月の騎士としてー…。…いや。もう全てが遅いか。明日の陽が昇ればわたしは騎士ではなくなるのだ。おまえはこの呼吸を止めずして、わたしの全てを奪った。見事だよ、太陽の騎士。他のどの人間ですら、わたしをここまで追い詰めたものはいなかった」

 違う!

 しかし俺の声は言葉にならなかった。

 女はそのまま、振り向きもせずに自らの部屋に滑り込んでいった。

「違う、違うんだ、俺は、俺は、ただ…」

 ようやっと情けない声を絞り出した頃には、時既に遅く扉は彼女の拒絶を示すようにぴたりと閉まり、岩のように沈黙していた。

 ついに俺が彼女を憎んでいるという勘違いを訂正することなくドアを閉じられたと言うことに気づいたが、もう遅い。

 開かぬ扉をただ見詰めていたその時、ふと思った。

 俺は、何か間違えたんじゃないだろうか、と…。

 彼女を自由にしてやろうとずっと思ってきたが、俺は一度も当の本人の言葉を聞いたことはなかった。彼女は、どう思ってるんだ?彼女の本当の望みは何だ?俺は城に来てから、一度だって彼女の笑顔を見たことがあったか?俺は、何か取り返しのつかないことを、したんじゃないか…。

 そして、誤解を解く切っ掛けもなく、それ以降彼女にまみえることもないまま、その予感は当たってしまうのだった。

 それは、一月の後のことだった。

「月の騎士が、いない!?」

 王は色を失って椅子から立ち上がった。

「それはどういうことだ!?」

 しかし王の様子とは反対に、大臣達はのんびりしたものだった。

「さあ?三日ほど前から姿が見えないと侍女が話しておりましたが」

「そなた達、それを知りながら何もしなかったというのか!」

「これは…御言葉ですが、月の騎士を解任されたひとりの女性の行動を、わたくしどもがどうしていちいち把握できましょうか」

「それに、こう申しては何ですが、我が国には太陽の騎士殿がいるではないですか。王ももう不要だと思ったからこそ、月の騎士を解任されたのではないですか?」

「痴れ者っ!」

 王は一喝した。いつもと違う王の様子に、さしもの大臣達も一様に口を噤んだ。

 王の焦りはわかる。なにせ、水面下で進められていた婚姻の日は、もう一週間後に迫っていたのだから…。

 俺は呆然と立ちすくむだけだった。

 やっとすわ誘拐か、と騒ぎだす面々だが、こんなことを言うやつもいた。

「これは、このタイミングで姿を消すとなりますと…もしや敵国に寝返ったと言うことも考えなくてはなりますまい」

「何、それは聞き捨てならないのではないですかな?」

「我が国は、つい三日前に隣国と戦争をすることになりましたな。その当日に失踪とは…あまりにもできすぎてはおりませぬか?」

「そういわれれば…とと」

 王の無言の剣幕に、皆慌てて口を閉じたが、そういう疑問が一度芽生えれば例え王であっても消すのは容易ではない。

「彼女はわたしの王妃になる女性だ!」

 王のその声にも、まさかという失笑が漏れただけだった。

「彼女は氷の魔女ですぞ?お戯れも程ほどに為さいませ」

「案外、それが嫌で逃げ出したのかもしれませんしな」

 …俺は、きっとその言葉が真実なのだと思う。

 雨上がりの独特な匂いが、都を包む昼下がり。俺は城の喧騒を逃れて、ひとりで塔の天辺に来ていた。白い城壁は、雨に濡れてつやつやと光っている。空は果てなく続き、山は王都を囲う。山頂は一足早く白く染まっていた。あれはじきに野裾を下り、王都に辿り着く。冬が来る。命凍える冬が。

 彼女は、優しく、そして頭の回転も良かった。たった一瞬で、仲良くしていた弟の命を秤に掛け、そして自らの手で奪うと覚悟できるほど、決断力もあった。

 あの夜…王妃にと恋われた夜、彼女は果たして何を考えていたのだろうか。

 俺はわかる気がする。

 一旦は承知し、秘密にしてと願い、それが現実となる前に跡形もなく姿を消すー…一度は驚いたものの、じっくり考えてみれば彼女のやりそうなことじゃないか?優しい、彼女の。

 事実はどうであれ、彼女が残虐非道な氷の魔女、と呼ばれていたことは、物乞いの子供ですら知っていた。噂とは無責任なものだ。その彼女が人望厚い王の后、まして正妃になるとなったら、周りはどう思うだろう?

 恋しい王が自分のせいで貶められるぐらいならと、彼女は躊躇無く身を引くことを選んだに違いない。

 それにー…俺は、これでいいとも思っていた。

 幼い恋を成就させてやれなかったのは残念だが、美しく優しい彼女には権力や身分なんてものとは無縁のところで、静かに幸せに暮らして欲しい。

 それに戦争が始まってしまった。

 敵の隣国は一年中雪に塗れた国だ。雪中行軍なんてお手の物の筈だ。通常、冬は雪が行く手を阻むので、自然と戦争も休止状態になるのだが、今年はそうは行くまい…。厳しい戦いになりそうだった。

 この国がこの戦争に勝てるかは、この冬をどれだけ被害無く持ち堪えられるか、にかかっている。

 俺はむしろ、彼女が隣国へ寝返っていてくれていれば良いとすら思っていた。

 なぜなら、隣国はその領土の大半を雪と氷ばかりに覆われているとは言え我が国の二倍の面積を持つ…今回の戦、こちらには正直分の悪い戦いだからだ。

 しかしいくら勝機薄くとも、太陽の騎士と呼ばれる身である俺は、先頭に立って戦わなければならない。それはやはり覚悟したとは言え…重いものだった。氷の魔女と呼ばれ、忌み嫌われながらも、彼女はこの国を守るために、こんな思いを何度も何度もしたに違いない。か弱い女の身で。なにがそこまで彼女を強くするのか。

 俺は想いを振り切るように曇り空を見詰めた。

 いや…いい。もう、彼女は全てから解放されたのだ。どこかで、なにも隠すことなくただ笑っていられればいい。それ以上は何も望むまい…。

 もう二度と会えないと思うと、あのロサの泉で笑っていた彼女が懐かしかった。

 都が雪に覆われた頃、敵は想像以上に激しい強さで以てこの国を襲った。

 隣国の兵は、やはり冬に強かった。流石雪に慣れた暮らしを送っているだけはある。進軍の早さも考えられないスピードだった。

 敵の手は国内を徐々に染めていった。俺一人が強くても、どうしようもなかった。当然だ。この国は、ひとりの少女に寄りかかっていたツケを今払っているのだ。当然の報いだ。

 そう思えば国は憎いが、俺は俺を友と呼んでくれた聡明な王が好きだった。王がこの国と共に滅ぶのは許せない。ならば、戦うしかない。

 国民の精神も疲弊していた。あれだけ英雄視されていた俺だが、少しでも勝てば最期の希望とばかりに持て囃され、敵につけいられる隙があれば、容赦なく非難され石を投げられた。

 それは…仕方が無いことだ。国難に勝てぬ英雄など意味が無いのだ。悲しいが理解は出来た。

 それに、この国の都を落とすのはいくら強力な兵でも容易くは行かない。何せ、都はぐるりと四方を山に囲まれた天然の要塞だったからだ。特に北側は傾斜の厳しい岩山だから、敵は確実に南から攻めてくるはず。どこから攻められるかわかっていれば打つ手もある。せめて…春まで、春まで持てば良い。そうすれば五分五分の戦いが出来る。

 氷の魔女を探すという声もあがったがそれは最早後の祭りだった。それにあれだけ毛嫌いしておいて、自分が助けて欲しい時だけ頼るなんて虫が良すぎる。俺は探査の手を片っ端から潰してまわった。この国がどうなろうと、彼女だけは、そっとしておいてほしかった。

 じりじりとこの国は隣国に呑み込まれていった。指揮を執っている向こうの王は、どうやら神がかった軍師らしい。こちらの意表をつくやり方で、俺たちはひとつ、またひとつと砦を手放さなければならなかった。

 遂にその手が王都にも及ぼうとしていた。

 忘れもしない、空が血のように赤らんだ夕方だった。

 俺は首都下南山の最前線にある砦で、まんじりともせず地図と睨み合っていた。

 やはり少ないー…。

 目の前の敵は、こちらに本当に仕掛ける気があるのか無いのか、我が軍の半数程度の数しかいないように見えた。

 ここ数日はずっと睨み合いだ。

 こちらが動かないのには訳がある。地の利がこちらにあるのは当然なのだが、別の似たような状況で、それに慢心した兵達が討って出たところを待ち構えていた三倍の兵力であっという間に全滅させられたことがあったからだ。

 しかし唯睨み合っているというのも、不気味なものだ。敵の兵は、何かを待っているように感じる…。

 とすれば攻めるが吉が、待つが吉か…。

 判断をつけかねた俺は砦の上にあがり、敵兵の様子を見極めようとした。

 すると、今までのんびりしていた敵地に違和感があった。

 敵兵が、動揺、している…?

 どよどよと小さく人波がさざめいている。

 相手の様子がおかしいと察知したのか、ばらばらと寝ていたはずの兵も起き出して、同じように砦の上に登ってくる。

 そしてするすると上った旗の色を見て、俺たちは全員息を呑んだ。

 黄色!黄色だ。

 黄色の旗は、休戦の意味だ…こんなに敵国に有利な状況で?完全勝利も目前の今?向こうから休戦の申し込みがあるなんて、そんなこと、あるか?

 しかし有り難い申し出には変わりない。皆の反対を押し切り、敵陣地に太陽の騎士である俺自ら赴く事に決めた。これが罠である可能性は低い。なぜなら、これだけ有利に戦闘を進めている敵は今更ここで罠を張らずとも、時を経ずしてこの南の砦も突破できるだろうからだ。悔しいが。故に敵の真意をここでしっかり掴んでおきたい。

「ほぉ…総大将自ら赴くなど、肝が据わっているのか、それともただのアホか…」

 俺は案内されたテントをめくって再び驚いた。そこには、敵国の王がいた。こんな戦いの最前線に!

「…その言葉、そのままお返し致します…」

「俺が誰かわかるのか。阿呆ではなさそうだ」

 王が顎をしゃくると、きびきびした動作の兵士が椅子を持ってきた。

「休戦を受け入れよう」

 王は、どっしりと構えたまま、単刀直入に言った。

 散々聞かぬ存是ぬを通してきた休戦を受け入れてくれるという。

 驚くことだらけで、最早何を信じて良いかわからない。

「それは…正直有り難いお申し出ですが、何故…?」

「五十人、倒すまで息絶えなければ講和に応じると、そう賭けをして、負けた。それだけだ」

 無駄話は不要とばかりに、羊の皮を鞣(なめ)した紙を兵が持ってくる。

「正式な講和条件はそちらの王と改めて考える。とりあえずの休戦を結ぶには、こんな紙切れ一枚でも対外的には十分だ。そうと決まった以上、これ以上の犠牲は無意味だ。そうだろう?」

「はい…」

 状況がわからないながらも、俺は頷いた。この国も、隣の国も、賢帝に恵まれたらしい。

 互いに署名捺印したあと、王は俺の顔をしばらくじっと見ていた。何事かを思案しているようだった。

 それから、ぽつりと言った。

「北山に、行け」

 その言葉に、俺は咄嗟に閃くものがあった。

 目まぐるしく考えが、感情が、駆け巡るー…!

「右の馬を使え!」

 退室の礼もとらずに駆けだす俺の背を、王の声が押した。

「感謝致します!この礼は、いずれ!」

「いらん!…一刻も早く、迎えに行ってやれ」

 王の声が、哀れみを帯びたのを確かに俺は聞き取った。

 着いてきた副官に血判の押された羊皮紙を押しつけ、言われた馬に飛び乗り、俺は駆けた。

 北山、北山と言ったか。

 南から攻めてくると思っていたとは言え、北山にも一応見張りを置いておいた。ただ、その連絡を受け取るのは、五日に一度だけとしていた。今日は四日目。くそ!敵国の王はなんと言っていた?

 五十人倒すまで息絶えなければ和平に応じると賭けをした、そう言っていなかったか?誰と!一体誰とそんな賭けをしたというのだ!

 そして、王が負けたー…。と言うことは、五十人倒したと言うことだ、この国を守ろうとした誰かは。ひとりで…いや、王はそうは言って居ない。複数人かもしれない。でもきっと、あの隙の無い王はそんな甘い賭けはしない!

 誰が、どうやって、倒せるというのだ、たったひとりで、鍛えられた五十もの兵を!

 視界が徐々に曇っていく。流石、雪国を知り尽くした国の王が乗れと言うだけあって、馬は雪原を滑るように駆けて行った。視界はあっという間に潤み、熱い雫が頬を伝った。

 俺は、何を泣いているんだ…。

 今になって、全てわかったような気になるのは何故だ。その考えが纏まるより先に、俺は泣いている。嗚咽を漏らさないよう、歯を食いしばり、唇を噛みしめ、ただ馬の背に鞭を当てている。

 そうだ、俺は知っているんだ。忘れられる訳がない。この国で俺以外にもう一人だけ、たったひとりでも五十人を倒せるだろう人間を…。

 北山の砦に辿り着いた時には、とうに夜も過ぎ、朝にかかろうかという頃になっていた。

 俺は馬を繋ぎ、砦を抜け敵国側に歩いていた。

 予想していたとおり、砦に待機させていたはずの兵は、ひとりもいなくなっていた。

 敵国の王は本当に見事だった。俺が見張りを置くというのもいらないと反対意見が出たほど、北山は冗談でなく断崖絶壁だらけだった。都を攻めるにしても普通の人間ならまず一番に除外するところだ。そこを、守りの穴としてあえて狙ったのだ。もし北山が落ちたと聞いていたなら、都はパニックに陥って、あっという間に敵国の手に渡っていただろう。

 しかし砦は戦闘の跡こそあれ無人だったが、北山から敵兵が雪崩れ込んできたという話は聞かないし、来る途中擦れ違うこともなかった。と、いうことは…。

 考え事をしていたら、丸太に足を取られて俺はひっ転んだ。

 ばふりと粉雪が舞い上がる。

 こんな道の真ん中に丸太が…誰かどかしておけば良いもの、を!?

 俺は嫌な予感にはっと立ち上がると、慌てて砦にとって返し、煌々(こうこう)と火をつけた松明を持って出てきた。

 震える手で、丸太の上の雪を払った。それは丸太ではなく足だった。凍り付いた人間の、足。更に払っていけば胴もあり、腕もあった。

 待て、待ってくれ…。

 そうだ、ここは道の筈なんだ。なのに何だ、ぼこぼこと盛り上がっているこの雪の山は?

 まさか…。

 当たって欲しくない予想ほど良く当たるものだ。それらは、全て、死体だった。

 何体あるだろう。十や二十はくだらない数の人が、折り重なるように死んでいた。

 俺は呆然と立ち竦(すく)んだ。

 死体の上を歩かなければ先に進めないほどに、狭い道には死が満ちていた。

 ここで戦闘が行われていたのは明らかだった。

 松明を高く掲げても、ささやかな明かりでは、遠くまで見渡すに至らない。

 全貌を知るには夜明けを待つしか無い。幸いにも、遠くに見える地平線はもう薄っすらと白んでいる。砦で待とう。そう思って、踵を返した俺は、息を止めた。

 砦の前に、人がいた。

 人だ。

 何故気がつかなかったのか、立ったまま、ぴくりとも動かない人がいる。

 爪先から頭の先まで、白銀の鎧を全身に纏ったー…。

 全身からすっと血の気が引いた。

 俺は、どのくらい経ったのか、時間の感覚を忘れるほど、その場に棒と突っ立っていた。

 太陽がゆっくりと夜を払い地を照らしてゆく。

 それに誘われるように、俺は震える足を踏み出した。

 一歩、二歩…臆病な俺は、夢を見ようとする。この鎧は、鎧だけで中に人は入っていないんだ、きっとそうだ。

 三歩、四歩…もしくは、この見慣れた白銀の鎧も、この剥き出しの剣も、この国が嫌になって逃げた持ち主が、道道の逃走資金にと売り払った物かもしれない。

 五歩、六歩…王から下賜された物だから、それはいい素材で出来ている。みんな奪い合うように買い求めただろう。運良く手に入れられたその内のひとりが、こうしてここに立っているだけ、それだけなんだ…。

 六歩、七歩…他に、他に何か無いか?何でも良いんだ、何でも。あの中に俺の想像する人がいないとわかれば、それでいいんだ。

 八歩、九歩…なぁ、だって、これが俺の想像通りの人だとしたら…そしたらあまりにも悲しすぎるじゃないか。それならなぜ王の元から逃げ出したんだ?愛する人の求婚を受け入れ、王妃として輝く未来は、そんなにも受け入れがたかったのか?ここで、こうして舞い戻ってくるぐらいなら…誰にも知らせず、国のために、息跡絶えるまでたった一人戦い続けるぐらいなら…ずっと育ってきた城で、仮面を落として王と共に生きていく未来を選ぶことが…どうして、できなかったんだ!

 俺は、王に何と言えば良い…。

 俺は歯を食いしばって足を進めた。そうしなければ嗚咽が漏れそうだったからだ。

 馬鹿だ。ばかだばかだばかだ。みんな馬鹿だ。国民も、王も、彼女も、俺も!

 どうして心の望むままに生きられない?

 こうなってから後悔するなんて遅すぎる!

 俺は、やっと甲冑を纏う人の前に辿り着いた。

 それは大分小柄な人間だった。

 細く折れそうな鎧の拉(ひしゃ)げたあちこちに、固く冷たい矢が突き刺さっている。どれだけ激しい戦いをしたのか。もうこれは、抜けはしないだろう…。

 目の前の人は、今にも斬りかかりそうに剣を構え、足を踏ん張ったまま、凍り付いている。

 手を伸ばし、そっと兜に触れる。いつだったか、俺は武術大会でこの兜を弾き飛ばしたことがあった。その下にある、白金に靡く髪も、青い大きな瞳も、俺はもう二度と、見ることは叶わないだろうー…。

 俺は、ふと目に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。

 そうだ、兜をとるまでもない。これは彼女だ。

 白銀の鎧を纏い、国のために無謀な賭けをし、立ったまま息絶えるまで戦うなんて、彼女以外の誰であるものか。

 俺はその時、初めて彼女の愛の大きさを、深さを、真実の意味で知った。

 彼女は、本当に、本当に心の底から王を愛していたのだろう。

 そして、その王が愛するこの国を、どうしても守りたかったのだ。例えその命にかえても。

 …対して俺は何をしていた?

 彼女を重圧から解放し、ひとりの女に戻す?

 笑顔を取り戻す?

 とんだお笑い種だ!

 彼女のため、彼女のため、と言い訳しながらも、それは全て、自分のためだった。

 ああ、今更言い訳はするまい。

 俺は彼女に惹かれていたのだ。

 ロサの泉で笑顔を一目見たその瞬間から、きっと。

 弟のため、彼女のため、王のため、国のため。いくら取り繕おうと、彼女をここまで追い詰めたのは、俺だ。

 国中から氷の魔女と後ろ指をさされながら、しかし愛する王の傍にいられるだけで、彼女は幸せだったのかもしれない。

 それを、勝手な思い込みで、俺は根こそぎ奪ってしまった。

 彼女と話をすれば良かった。もっと。そうすればこんなことにはならなかっただろう。

 俺は怯えていた。彼女の笑顔を向けられる日を想像しながらその拒絶こそを怖れた。そして、俺の考える身勝手な「彼女の幸せ」を押しつけた。

 その結果が、これだ。彼女は王も俺も知らぬところでひとり息を止め、静かな世界に逝ってしまった。

 こんなことを、決して望んでいた訳じゃない。

 俺を見て欲しかった。

 弟を見るように、王を見るように、俺を見て欲しかった。

 ただ、ただ…本当に、ただ…それだけなんだ。

 今更全てに気がつくなんて、遅すぎる…。

 俺は震える手で彼女の兜の上の雪を払い、そっとその頬のあたりを撫ぜた。

 彼女にこうして触れられるのは、これが最初で最期になるとわかっていた。

 俺には、もうこの兜は外せない。それをきっと彼女も望まないだろう。多分、王にさえ…いや愛する王だからこそ、この兜を外さないで欲しいと望むに違いない。思い出として残るのなら、美しいままの自分でありたいと、女なら誰だってそう願うことだろう。

 せめて剣を置いてやりたいが、拳は硬く握りしめられ、それすらしてやれない。

 最期まで、強く烈(はげ)しく…運命に立ち向かった女だ。

 願わくば。

 もう二度と…誰かを殺して生きていかなければいけないような世界に彼女が産まれないよう。

 今度は、俺が盾となるから。彼女がこの国の盾となったように。

 そしたら…今度は俺の傍で、笑ってくれるか。

 弟に向けたように、王に向けたように、笑ってくれるか。

 俺もあなたを愛していたと、言ってもいいか…。

 たまらず膝を折った俺の上に日が昇る。

 きらきらと、彼女の足下から広がる雪が一面旭(あさひ)に輝き出す。

 そう、あの純白なロサのように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの純白なロサのように 50まい @gojyumai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ