某国のとある村に、小作人の若い男がいました。とても働き者で心優しく、他の小作人たちからはもちろんのこと、その家族や周りの人間たちからもたいそう好かれる男でした。

 男の住む村は人口が少なかったものの、村民皆の仲が良く、困った時には村総出で助け合うことも欠かしはしません。村はある名高い伯爵の領地であったため、村民たちは協力し合って割り振られた田畑を耕し、年貢を納めながら各々の生計を立てておりました。

 彼らは貧しかったものの、非常に幸福な生活を送っておりました。


 しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。領主である伯爵様から、ある日突然『年貢を上げる』との通知が来たのです。

 当然、村民たちは反対しました。ただでさえ収入が少なく貧しいものを、さらに搾り取られてしまったら自分たちの生活は一体どうなるのだ、と。

 しかし、伯爵様はそのようなことを意に介しません。何度請願書を送ろうとも、同じでした。

 彼ら農民たちは、領主に隷属こそすれ、反発することなど本来あってはならない立場にあります。ですから、多少理不尽ではあってもその要求を呑むしかないのです。現に伯爵領である他の村は、その要求を泣く泣く呑むことにしました。

 が、この村だけは違いました。村中を上げて、領主様にどうにか要求を撤回してもらおうとしたのです。いわゆる、宣戦布告――主に対する謀反ともいうべき行為でした。

 そうして、とうとうクーデター決行の日。

 村長の掛け声とともに、村に残った女子供を除く全村民――もとい男たちは、領主である伯爵様の屋敷へと踏み込みました。各々が武器を持ち、勇ましい掛け声を上げながら伯爵様のもとへと急ぎます。

 が、この伯爵様は非常に慎重な方で、このようなことがあることをすでに見越しておいででした。合図とともに現れた屈強な騎士たちに、村民たちは次々と取り押さえられていきます。

 彼らは反逆の罪で、即日一人残らず処刑されました。無論その中には、先述した小作人の若い男もいます。

 それを知った女子供は嘆き悲しみましたが、非力な自分たちが反逆したところで意味がないと諦めます。その多くは家族である男たちの後を追って自ら命を断ち、残った者たちは隣の村へと逃亡しました。

 こうして一つの小さな村が、実質壊滅することとなったのでした。


 ――ところで、先述の若い男には、同じ村に婚約者の娘がおりました。村一番の美しい娘と評判で、踊りが得意でした。

 二人は近いうちに領主から結婚の許しをもらい、祝言を上げる予定だったのですが……。

 男がクーデターにより処刑されたと知った娘は、ひどく嘆き悲しみました。そして同時に、彼を含む村の男たちを一人残らず殺し、生まれ故郷である村を壊滅させた非情な領主のことを、心の底から憎みました。

 どうして自分も、彼と一緒に行くことができなかったのだろう。いっそ自分も男なら、一緒に死地へ赴くことができたのに……。

 どうしようもない口惜しさを感じながら、娘もまた、自らの命を断つため海へと赴きました。

 視界に広がるは大海原。かつて婚約者が『君の瞳のようだ』と言ってくれた、深い青色の水面は、太陽の光を受けてキラキラと光っています。

 海と同じ色をした瞳を潤ませながら、娘はそっと目を閉じます。そうして感情を押し殺したまま、一歩、また一歩と、海の中へ足を踏み入れました。


    ◆◆◆


 気が付いた時、娘は知らない場所のベッドに横になっておりました。

 起き上がって辺りを見渡せば、かつて一度も見たことがないほどに絢爛豪華なお屋敷の様子。傍に着いていた使用人と思しき人に声を掛けようと口を開くのですが、何故か声を出すことができませんでした。

 当惑している娘に気が付いたのか、使用人は詳しく状況の説明をくれました。ここはる伯爵様の別宅で、自分はその前の海岸で倒れていたのだと。

 その瞬間、娘は自分が死に損ねたことを悟りました。

 言葉を発することはできないので、行動だけでも『世話になった』と伝えねばと思い、慌ててベッドを下りようとします。しかし、立とうとした途端に力が抜け、たちまち膝から崩れ落ちてしまいました。支えてくれた使用人が、困ったように声を掛けてくれます。

「もしや、歩くことができないのでございますか」

 そのようです、と言う代わりに、娘は一つうなずきました。使用人の手を借りてとりあえずベッドへ戻ると、どうしたものかと考えます。

 もう一度入水しに行こうとも、この身体では自由に出歩くことも叶いません。まさか人の手を借りて、この命を断つわけにもいかないし……。

 声が出ず、足も動かない。これではまるで人魚姫のようだと、娘はこれからのことを考えながら、一瞬だけ思いました。

 その時、不意にガチャリ、とドアが開きました。どうやら、『然る伯爵様』という方のようです。

 使用人から事情を聞いたらしいその方は、娘に一台の車椅子を与えてくれました。そこに座らせてもらい、一息ついたところに、その方が目の前へとやってきます。

 いくらこちらが座っている状態とはいえ、それでも結構大柄らしい身体、そしてこちらを見下ろしてくる鋭い目つきに、娘は知らぬうちに委縮していました。それを感づかれたのか、「何もしない」との低い声が降ってきます。

「お前、行くあてはあるか」

 突然尋ねられ、娘は反射的に首を横に振りました。すると、何かを納得したように一つうなずいたその人は、さらにこう続けました。

「ならばこれからは、この屋敷で暮らすとよい。今日からこの私が、お前の主だ」

 ――こうして、娘の新しい生活が幕を開いたのでした。


 歩けない自分のために改築された屋敷、自分用に派遣されてきたと思しき使用人たち。そして、時折主である伯爵様が持ってきてくれる、衣服をはじめとした調度品の数々。

 農民時代には一度も経験のなかった、何不自由ない贅沢な暮らしに、初めのうちは娘もたいそう委縮しました。

 が、人間慣れてしまえば早いもので……時が経つにつれ、徐々に肩の力も抜け、自然と振る舞えるようになっていました。

 動かない足以外を活発に動かしてみたり、車椅子を使ってどこかへ行ってみたり。また、言葉を発せない代わりとして、ぎこちないながらも笑みを浮かべようともしてみました。

 また、最初はびくびくしながら接していた伯爵様に対しても、徐々に自然体で接することができるようになりました。顔や身体つきがごつく、怖い印象のある伯爵様ですが、本当はお優しい方なのだと分かってからは、怖くもなんともありません。

 そういった伯爵様や使用人の人たちなどと共に、穏やかな毎日を過ごしていくうちに、娘は遠い昔に負った心の傷が少しずつ癒えてくるのを感じていました。


 そんなある日のこと。

 すっかり自室となった部屋――最初に娘が目を覚ました時、横になっていたベッドがある部屋――の整頓をしようと、鏡台の引き出しを何気なく開けた娘は、そこに一枚の紙切れが入っていることに気が付きました。

 好奇心のまま手に取り、開いてみて……娘は、自分の目を疑いました。

 それは、娘の育った村が幾度も領主に送り付けていた、年貢引き上げを取りやめてほしいという内容の嘆願書だったのです。

 一瞬見間違いだろうかとも、見間違いであってほしいとも思いましたが、いくら目をこすって見てみても現実は変わりません。そこには自らの主であるはずの伯爵様の名前と、自らが育った村の名前、そして見覚えのある名前――村長の名前が記載されておりました。

 娘は、自身の村を管理する領主様の顔も、その名すらも知りませんでした。ですから、気が付かなかったのです。自身の主となったあの伯爵様こそが、かつて故郷であった村を壊滅させ、婚約者を殺した張本人であると。

 ちょうどその時、コンコン、と自室のドアを叩く音が聞こえ、娘は心臓が飛び出そうなほどにびっくりしました。慌てて嘆願書をもとあった場所に戻し、入ってきた客――伯爵様を笑顔で迎えます。

 鏡に映った自分の顔は滑稽なほどにひきつった笑みを浮かべていましたが、いつもと様子の違う伯爵様は気が付かないようでした。

 伯爵様はおもむろに娘の前に跪くと、張りのある白い手を取ります。思わず身じろぎしてしまった娘に構わず、いつもと違う熱っぽい声で、囁くようにこう言いました。

「私の、妻となってはくれまいか」

 娘は一瞬、息を呑みました。情熱的な視線から逃れようと、睫毛を伏せきょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせます。

 ――どうしよう。どうしたら。

 目の前の伯爵に、冗談を言っている様子はありません。そもそも冗談を言うような人ではないということくらい、長く一緒に過ごしていればわかることです。

 それ故、娘には十分すぎるほどわかっていました。この人は、本気で自分を愛してくれているのだと。

 実は娘もまた、少しずつ伯爵様に惹かれ始めていました。

 けれどそれは、真実を知る前のこと。かつて自身の大事なものを全て奪った、憎き相手だと知ってしまった今となっては、もうそれだけですまされるはずなどありません。

 素直に首を縦に振れば、自分は幸せな生活ができるでしょう。だけどそれでは、志半ばで逝ってしまった村の人たちに――かつて愛した婚約者に、申し訳が立ちません。

 そこでふと、娘はある考えに至りました。

 わざともったいぶったように桜貝の唇を開けば、伯爵様は緊張の面持ちでゴクリ、と喉を鳴らします。やがて再び唇を閉じ……娘は、ゆっくりとうなずきました。

 歓喜の表情を浮かべた伯爵様に、包み込まれていた手へと口づけを落とされながら、娘はどこかほの暗い瞳を目の前の人に向けていました。


 その日の夜。

 婚礼の準備に追われる使用人たちの目を盗み、車椅子を進めながら別荘の外に出た娘は、かつて自身が倒れていたという海へ来ていました。夜の海は暗く静かで、水面は月明かりに照らされキラキラと光っています。

 あの人の髪のようだ、と娘は思いました。

 サラサラとした金髪を靡かせながら、いつだって満面の笑みを浮かべていた、かつての婚約者であるあの人。優しかったあの人は、いつだって村のことを一番に考えていて……最後まで、村のために死ぬことを厭いはしなかった。

 そう。その優しさを、勇気を、娘は愛していたのです。

 そして同時に、あの村の心地よい空気を、いつだって協力し合える村の人たち全員を、愛していたのです。

 それなのに自分は、どうしてそんな大事なことを、今までずっと忘れていたのだろう?

 もしかしたら、これは神様が娘にくれた最後のチャンスなのかもしれません。

 憎むべき領主様に復讐し、もう一度あの人のところへ行くための、最後のチャンス。

 胸の前で軽く両手を組み、娘はそっと目を閉じます。

 しばし祈るようにそうしていたあと、娘は目を開け、組んでいた両手をほどきます。それから車椅子のタイヤに手を掛け、ぐっと力を込めました。

 キィッ、という甲高い音とともに、車椅子は進んでいきます。死を覚悟したあの日、一歩ずつ海へ向けて進んでいったように。

 娘は最後にもう一度、別荘を振り返りました。そのまま淡く、凄絶に美しい笑みを浮かべ、艶めいた桜色の唇をそっと動かします。

 ――これが、私の復讐よ。

 やがて再び海へと顔を向けた娘は、そのままためらう素振りもなく、車椅子ごと海へ入っていきました。


 愛するものを失った、娘の復讐。

 それは、相手から愛するものを奪うことで、見事達せられたのでした。

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伯爵と人魚 @shion1327

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