伯爵と人魚

 某国の伯爵様が、一匹の人魚を拾いました。

 波打つ金の髪と、白魚のようにしなやかな肢体。見目麗しいそれは、伯爵様が所有する別荘前の海岸に打ち上げられておりました。

 どうやら意識はないらしく、ピクリとも動かないままその場に倒れ伏しているのを、見かねた伯爵様は自らの別荘へと持ち帰らせることにしました。

 空き部屋のベッドに横たえ、しばし別荘付きの使用人に面倒を見させたところ、数日後には意識が戻ったようです。知らせを受け、別荘へと足を運んだ伯爵様は、ベッドに身体を預けているそれと目が合ったとたん、一瞬で心を奪われてしまいました。

 長い金色の睫毛に彩られた瞳は、空の色のようであり、同時に海の色のようでもあり……これまでずっと閉ざされていたのがもったいないと思えてしまうほどに美しく、神秘的な色。小さな白い顔や筋の通った鼻、薔薇の花弁のように色鮮やかな唇と相まって、それは人魚の整った美貌をさらに引き立てておりました。

 倒れ伏している姿だけでもあのように麗しかったものが、瞳を開いたとたんさらに秀麗な少女となりました。事前に贈っておいた服も、そのほっそりとした肢体によく似合っております。

 伯爵様はただ純粋に驚き、同時に期待してもおりました。これで声を発すれば、手足を動かせば、どんなに魅力的であろう、と。

 しかし別荘付き――つまり人魚の身の回りの世話をしていた使用人が、困ったような顔で伯爵様に耳打ちすることには、

「あの娘は、口がきけませぬ。それに、どうやら……」

 そこで、気まずげに言葉を止めた使用人。続きを促すと、使用人は口ごもりながらもさらに声を潜め、こう言いました。

「どうやら足が不自由らしく、歩くことができないようなのです」

 どうなさいますか、との問いに、伯爵様はただ一言、

「だからといって、今更放り出すわけにもいかないだろう」

 と不愛想に答えました。

 その立場柄、普段あまり優しさをあらわにはしない伯爵様の慈悲ある言葉に、使用人は驚きを隠せず、大きく目を見開きました。が、次の伯爵様の指示に慌てて我に返り、パタパタとどこかへ駆けて行きます。その危なげな後ろ姿を、伯爵様はどこか呆れたような視線で見送りました。

 やがて、指示通り部屋へと運び込まれた車椅子に、人魚は座らせられました。伯爵様はその前に立つと、美しいそれを見下ろしました。

 鋭い視線に委縮したのか、ビクリ、と一瞬震える人魚に、伯爵様は「何もしない」と低く呟きます。それから、いまだに怯えた様子のそれに対し、淡々と尋ねました。

「お前、行くあてはあるか」

 ふるふる、と人魚は黙って首を横に振ります。その様子を見て一つうなずいた伯爵様は、「ならば」と続けました。

「これからは、この屋敷で暮らすとよい。今日からこの私が、お前の主だ」


    ◆◆◆


 伯爵様の言葉通り、人魚はその日から伯爵様の別荘で暮らすこととなりました。屋敷内は歩けないそれのために改築を施され、世話係の使用人も多く配置されたことで、人魚は何不自由ない生活を与えられました。

 最初こそ所作を知らぬ者のようにピクリとも動かず、また伯爵様に怯えるような素振りのあった人魚でしたが、時が経つにつれて徐々に生活に慣れてきたのか、足以外の身体を少しずつ動かし、またぎこちないながら笑顔を見せるようにもなりました。

 伯爵様は人魚のための衣服や生活用品などを手に、数日に一度ほど訪ねて来られます。仕事があるため、さすがに毎日は来られませんが、普段ものぐさな伯爵様がそこまでされることに、使用人たちはたいそう驚いておりました。

 一方の伯爵様は、人魚に逢うことをいつしか心待ちにするようになっておりました。相変わらず口をきくことはなく、不自由な身を動かすこともほとんどありませんでしたが、逢うたび美しさに磨きがかかる人魚は伯爵様の目を癒し、その心を和やかなものにしました。

 そのせいでしょうか、前から伯爵を知る者たちは口々に「お前は変わったな」とおっしゃいます。具体的にどう変わったのか、と自覚のない伯爵様が問えば、皆口を揃えて「穏やかになった」との返答をしました。

 ある時、事情を聞きつけた伯爵様の御友人が、伯爵様に対してこんなことをおっしゃいました。

「お前は、その人魚に恋をしているのではないか」

 伯爵様は「まさか」と笑い飛ばしました。

 その立場柄、様々な女性と浮名を流してきた伯爵様です。今更、恋愛のいろはを知らぬはずもありません。そんな自分がこの年になって、あのように年若い少女に懸想するなど……そのような馬鹿なことは決してありえぬと、伯爵様は御友人にそうお答えになりました。

 御友人はフッと笑って、伯爵様に念押しするようにこうおっしゃいました。

「お前が、数々の華と浮名を流してきたことは知っている。だが、本気の恋というものを、お前はまだしたことがないだろう。本気で妻にしたいと、伴侶として一生寄り添い合いたいと、そう思う相手がお前にはいたか?」

 伯爵様はハッとしました。

 自分はこれまで、さまざまな華――もとい女たちと一夜を共にしてきた。だけどもそれは、ただ単に一時しのぎのぬくもりを得るためだけの行動にすぎない。どれもこれも、華は確かに美しかった。が……果たして、本気の恋をしたことはあっただろうか?

 人魚は、伯爵様がこれまで出会ったどの華よりも美しいものでした。それゆえに、伯爵様は怖かったのです。自分の手で、不用意に人魚を散らしてしまうことが。

 どの華にも決して抱いてこなかった、不思議な感情。頑固者と言われてきた自分を、これほどまでに穏やかに変えたあの娘に対する、まるで慈しんでいるかのようなこの気持ち……。

 そうか、これが恋か。

 ようやく自分の気持ちに気が付いた伯爵様の、それからの行動は非常に早うございました。行きつけの宝石店で大きな石のついた指輪を見繕い注文を終えると、空き時間を見つけ早速人魚のもとへと向かいます。

 別荘に着いて早々、伯爵様は出迎えた人魚――心なしか今日は、いつもより顔色が悪いような気がいたしました――の前に跪き、張りのある白い手を取ります。人魚が僅かに身じろぎするのにも構わず、伯爵様はかつてないほど情熱的な目線を向け、人魚に言いました。

「私の、妻となってはくれまいか」

 人魚はその小さな顔に、驚きと戸惑いの表情を浮かべました。金色の長い睫毛を伏せ、しばし逡巡するかのように、吸い込まれそうな深い色の瞳を左右に動かします。その一挙一動を、伯爵様は緊張の面持ちとともに見守っておりました。

 しばしそうした後、人魚は桜貝を思わせる愛らしい唇を少し開きました。そこから言葉が出ることはないと知っていながらも、瞬間、伯爵様の心臓がドキリと高鳴ります。

 やがて人魚は再び唇を閉じ……ゆっくりと、うなずきました。

 伯爵様は、自身の心が言いようのない歓喜に打ち震えるのを感じました。両手で包み込むようにしていた人魚の白い手をそっと持ち上げ、感情のままに口づけます。真冬の海水を思わせるその温度は、伯爵様の唇にじんわりと伝わってきました。


 その後、すぐに屋敷へと戻った伯爵様は、使用人たちに言いつけ祝言の準備を執り行わせました。迎える花嫁は無論、あの人魚です。

 翌日、注文しておいた指輪――中央にはめ込まれた大きな石は、人魚の瞳のような深い青色のサファイアでした――を手に、伯爵様は再び人魚のもとへ向かいました。人魚に、婚約のあかしであるこの指輪を渡すためです。

 ですが、伯爵様の意思に反し、出迎えたのは別荘付きの使用人――花嫁となる人魚の、世話役の者でした。

 人魚はどこにいる、と問う伯爵様に、使用人は申し訳なさそうに深々と礼をします。どうしたのだ、と聞く前に、使用人は言いました。

「昨夜わたくしたち使用人の目を盗み、お一人で出て行かれたらしく……それ以来、戻られていないようなのでございます」

 それを聞いた伯爵様は、別荘付きの使用人たちを全員呼び出しました。不注意を散々叱責したあと、直ちに人魚を探すように指示します。慌てて捜索に向かう使用人たちを目に、伯爵様は気が気ではございませんでした。

 伯爵様は自身の屋敷にも連絡を入れると、総出で人魚を探させました。街中から国内全域、さらに近隣の国にまで捜索の手を入れましたが、どれほど時間をかけて探しても、一向に見つかりません。

 ようやく見つかったと思った運命の人を、いとも簡単に逃がしてしまったことにショックを受けた伯爵様は、日に日にやせ細っていきました。

 やがて、人魚が消えてから十日ほど経った、ある日のこと。

 食事もまともに摂らなくなってしまった伯爵様のもとに入ったのは、どこかの海岸に一台の車椅子が打ち上げられていたという連絡でした。

「あの娘は人魚。故郷である海が恋しくなって、帰ったのだろう」

 伯爵様を心配して訪ねてこられた御友人は、そう言って伯爵様を励ましましたが、伯爵様は「そんなはずはない」と首を横に振ります。

「だって彼女は、私の求婚に応じてくれた」

「では大方、婚礼の報告にでも行ったのだろう」

 ハハハ、と冗談交じりに笑う御友人を、伯爵様は追い出しました。

「愛するものを失った悲しみなど、どうせ誰にも分かりはせぬ」

 伯爵様は自らの使用人全員に暇を出すと、その日から一人きり、屋敷内の自室に閉じこもってしまいました。

 それからその伯爵様がどうなったのかは、想像に難くありませんが……。

 果たして人魚がどこへ行ってしまったのか、その心の内で何を想っていたのか――それを知る者は、誰一人いないということです。

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