6-3

 クリストファー・ドールズ

 本名:クリストファー・ブランフォード

 享年六十六。


 世界の歴史にその名を刻む、最高の人形師。

 ドールマスターと呼ばれたその男は、志半ばにして人生と言う名の舞台に幕を下ろした。

 彼の死後、人形屋敷は博物館にしようとする計画が持ち上がったが、屋敷に近付く者に様々な不幸が降りかかったため、その計画はやがて廃止となる。それ以降、屋敷へ近付く者はおろか、南の森へ入ろうとする者すらいなくなった。

 そして主人がいなくなってから、十三年もの月日が流れた冬――。

 悲愴、恐怖、憎悪、絶望。そんな負の感情が渦巻くこの屋敷に、やがて変化が訪れる。

 屋敷のとある一室。そこはかつて、様々な本やスケッチ、また人形たちで溢れ、人形の製作所として使用されていた書斎であった。

 部屋中埃にまみれ、本棚や部屋の壁にクモの巣が張り巡らされている。その書斎の隅に置かれた大きな机の上には、若い男と花屋の女に挟まれた一体の人形が忘却を見据えたような寂しい眼差しを向け、お行儀よく座らされていた。

 その昔、小さな劇場で猫の人形と競演し、観客の涙を誘ったあの少女の人形だ。その後も様々な演目に出演した、彼の傑作ナンバーにも数えられるドール。

 長年の埃汚れからか、白百合のように真っ白だったドレスは煤けて茶色に変色してしまっている。


「――カクッ……」


 すると突如、静寂に包まれた部屋に響く奇怪な音。物音などするはずのない主無き屋敷。その書斎で変化は起こった。

 リリーと呼ばれていたその少女の人形の右腕が、微かに動いたのだ。操者がいなければ動くはずのないマリオネット。だがそれは確かに動いた。

 やがて瞳に青い光が灯り、今度は左腕、右脚、左脚と可動していき、遂には自らの足で立ち上がった。そして少女の人形は、ゆっくりと顔を上げると辺りを見渡す。周りの仲間……いや、家族を一人一人確認するように。視線を正面へと戻した時、少女は机の上に突っ伏している白い影を発見した。目を凝らすと、それが自分と同じ人型をしていることに気づいた。

 それは昔、自分たちを創造し、優しく温かく接してくれ、愛してくれた主人の亡骸だった。長く伸びた白い髪。眼窩は大きく窪み、冷えた一室のただ一点を、何の感情も訴えることなく見つめ続ける。

 操演時によく着ていた人形師の黒い装束に身を包んではいるものの、体の組織の大半が抜け落ち、すでに白骨化していた。

 その無残な姿から、主人に触れてもらえなくなってから、どれだけの時が経ったのかを思わせる。


「マ、ス……ター……」


 少女は言い知れぬ悲しみに襲われ涙した。人形からは流れ出るはずのない涙。それは温かなものだった。


「これが、涙……私が、泣いてるの……」


 無表情で啜り泣く少女の声に呼応するように一体、また一体と人形たちは顔を上げ、手を、足を動かして起動する。やがてその現象は、屋敷全体へと伝播していった。


『リリーが泣いている』

『りりーがないている』


 人形たちは泣き声に呼び寄せられるように、徐々に書斎へと集まっていく。

 あるモノは腕がとれ、脚がとれ、頭を小脇に抱えたりし、駆動音を響かせながらぞろぞろとやってくる。数が数だけに、入りきらない者はドアの外から部屋を眺めた。

 しばらくしてリリーは泣き止むと、部屋の様子が先程とは違うことに気付いた。


「みんな、来てたのね」

『キミが泣いていたからね』


 集まる人形たちを見渡すリリー。その途中、部屋の角に、明らかに自分たちとはサイズの違う大型のマネキンのようなものを見つける。

 設けられた椅子に座らせられた女性の人形は、見慣れた顔形をしていた。

 美しいシルクのような金の髪。鼻筋はすっと通り顎のラインは細く、柳眉は綺麗に整い意思が強そうでいて、しかし温和な印象を受ける顔立ち。その人物は少し頭を垂れて力なく背もたれに体重を預けていた。


「これは……セリーヌ?」


 全身に赤い線の走るその体の状態を見て、リリーは直感した。マスターは、愛しい人を組み上げることが出来なかったのだと。完成を見ることなく、動くところを見ることなくこの世を去ったのだと。

 得心したように小さく頷くと、少女のドールは声を上げた。


「みんな、セリーヌを組み立てよう」


 その威勢のいい言葉を否定するものはいなかった。けれど、


『彼女の人形はあんなに大きいんだよ、僕らの五倍はある。僕らだけで組み立てられるかな』


 一人の少年の人形の言葉を皮切りに、各々不安を口にする人形たち。

 そんな弱気な彼らに、リリーは強い意志を込めた言葉を投げかけた。


「私たちで完成させるのよ。私たちを創ってくれた、マスターの夢なんだから。みんなで恩返しをしようよ」


 微かに震える涙声が、静かな書斎に響き渡る。

 しばらくの沈黙の後、一人の若い執事人形が言った。


「やりましょう。皆で力を合わせれば、出来ないことなどないはず。私たちを創造されたマスターの夢は、私たち自らの手で叶えましょう。それが親孝行と言うものです」


 その声に同調するように、各々ドールたちは声を上げはじめた。


『そうね、わたしたちでやろう』

『手分けをして組み立てよう』

『セリーヌを誕生させよう』


 そうして彼らは役割を互いに決め合い、椅子に座るセリーヌの体の組み立て作業へと移った。

 組み込まれていないパーツは左半身。各部位は左腕と左手、そして左脚と左足だ。

 リリーは現場の総指揮を執り、まず腕と手、脚と足の組み立てを皆に指示する。自分たちが人形であるためか、その作業は当たり前のように自然な流れで、滞ることなく連結された。

 次はセリーヌの体へとそれらを取り付ける作業だが、屋敷の中の一番大きな人形でも五十センチに及ばない。故にその作業は難航の様相を呈していた。

 十数体ずつがひとグループになり、さらに役割を分担する。書斎に置かれていた脚立を支えるグループ、脚立に上りセリーヌの体へパーツを組み込むグループ。


「みんな、慎重にね」


 リリーの指揮の下、それぞれが役割を果たしながらの作業は続いていく。数体で支えながら左腕を持ち上げて、椅子に腰掛けるセリーヌに左腕を取り付ける。

 すると腕は元からくっ付いていたかのように、双方の断面の歯車が噛み合わさり違和感なく組み合わさった。


『これは相当重たいですね』


 下から腕を支えていた老執事が言った。


『でもこれで脚を取り付ければ……』


 脚立を支えているお嬢様の人形が呟く。

 そう、あとのパーツは左脚だけ。

 大きさは違えど、皆一様にセリーヌが動き出すのを心待ちにしているようだ。グレムリンの呻くような奇怪な音の響く静かな屋敷が、負の想念を打ち払うような期待に膨らんでいる。

 この屋敷がパンドラの箱だとするならば、自動人形のセリーヌは唯一の希望なのだ。それは夢という名でもあるかもしれない。

 ドールたちは逸る気持ちを抑えながらも、最後のパーツ、左脚を組み付けた。

 ――――ガチッ――――。

 歯車が噛み合わさる音が響く。


『やった!』


 誰しもが組み立て終えられたことを喜んだ、ただ一人、リリーを除いては。


『あれ、でもどうして動かない?』

『完成したんじゃないのかしら……』


 体は人のそれと見間違うほど美しく、皆が皆これで完成させられたのだと思い込んだ。けれどリリーは違うと、確かな確信を持って首を左右に振った。


「彼女は私たちとは違う。単なるマリオネットやビスク・ドールじゃないわ。マスターが完全なる空の器として用意した体、それがこのセリーヌよ」

『リリー、それはどういうことです』


 机上で仁王立つリリーを見上げながら、若い執事人形が訊ねた。

 その真意を聴こうと、皆がリリーを一斉に注目する。


「忘れたの、セリーヌは自動人形。つまり動力が必要なのよ」

『でも僕らは動力なんてないのに動けてるじゃないか』

「それはマスターの負の想念が私たちに宿っているからよ。私には解るの、ずっと目の前で感じていたから。マスターの悲しみを、苦しみを。理不尽を呪った心を。私たちにあるのは希望じゃない。それは彼女のために残された最後のプレゼントなのよ」


 言いながらリリーは一つの書架を指差した。皆の視線が揃ってそちらへ向く。


「私は知ってる。あの一番下に、マスターが大切にしているものが入っていることを。開けて」


 仲間に指示を出すと、数体の人形が書架の一番下の扉を開いた。舞い上がる埃で視界が霞む。やがて晴れた視線の先、扉の中には美しい彫刻の施された木箱が置かれていた。


『これは……』

「その箱には、マスターの思い出が詰まってるの」


 脚立を机につけるよう指示すると、リリーは悠然とそれを下った。

 地に降り立つと同時にふわりとフレアスカートが閃き、裾をなびかせながら箱へと近づいていく。そしておもむろに箱の蓋へ手を添えると、球体間接の手で器用に蓋を持ち上げた。中にはセリーヌとクリストファーがやり取りしていた数多くの手紙と、セピア色に色褪せた二人の写真。そしてそれらに紛れるようにして入っていた銀色の塊。


「それとマスターの夢、希望の結晶である彼女の心臓……」


 リリーは感情なく、くすりと微笑んだ。クリストファーが苦労をして完成させた心臓。魂を納めることに成功して、歓喜のあまり涙していたのを見ていた。

 幾筋も彫られた溝を何度も指でなぞりながら、ただ一時だけ、主人と触れ合えていた日々を回想する。優しく語りかけてくれた、触れてくれた、愛してくれたマイマスター。その夢が今、自分の目の前にあるのだと。

 嬉しくて涙がこぼれた、また、泣いてしまった。


「あら……?」


 涙で濡れた顔を上げたリリーはもう一つ、収納スペースに箱が置かれていることに気づく。


「なにかしらこれ」


 涙を拭いて、誇りに塗れるのも厭わずに少女は四つん這いとなる。這って最奥までいくと平たい化粧箱のようなものを引っ張り出した。それはドール用の鞄ほどの大きさで、けれど色が違うことからも別のものであることが窺える。目の覚めるような真っ青に塗られたシンプルな箱には、特にこれといった表記がなされていない。


『なにが入ってるのかな』


 ドールたちは興味深げな視線を青い箱へと注いでいる。

 見ているだけでは判断がつかない。そう意を決したリリーは箱を開いてみた。仄かに香る花の匂い。


「これは」


 そこには、別れの日にクリストファーがセリーヌの遺骸に着せた物と同じ、純白のウエディングドレスが畳まれ納められていた。その一番上には、枯れたラベンダーの花が散り散りに飛散している。


「彼女の衣装ね。着せましょう、皆手を貸して」


 自分も似たような衣装を着ているからか、リリーの指示は無駄がなく、手際よく作業は進行した。

 人形に着せやすいように加工されたドレスを、セリーヌの胸元までいったん着せ終えると、少女は銀の心臓を持ち脚立へと上る。


『いよいよですね、リリー』

『楽しみね』

『彼女、動くといいけど』


 それぞれの想いはただ一つ。自分たちの愛した主人の夢、その実現だけだ。


「嵌めるわよ」


 再び屋敷に静寂が訪れる。それは重苦しいものではなく、期待を心待ちしているような明るさを湛えていた。

 そして――――ガコッ――――心臓に彫られた数多の溝に幾多もの体内の歯車が噛み合わさり、ついに全身の駆動系が機能し始めた。

 セリーヌの胸を閉じ、ドレスを肩まで上げて背中のファスナーを上げると、リリーは脚立から飛び降りる。事の成り行きを見守ろうと、首を上げて動き出すのを待った。

 場に居合わせる人形たちが息を呑むように静まり返る書斎で、唯一小さな機械音を発する人形。その音は油を点された馬車輪のように滑らかだ。

 作者クリストファー・ドールズの恋人にして最初で最後の作品。究極の人形とも言える自動人形セリーヌ・ラスベールその人だ。その体内に廻っているのは血ではない。大小さまざまな数々の歯車が肉となり、血となって彼女の体を構成している。

 この複雑な機工技術は彼の師であるジャックが得意としていたものだ。

 師の初期の作品である「自動人形ゼペット」はその代表作である。自動人形が操り人形を操るという複雑な業をやってのけ、クリストファーが師事していた頃にその完成された技術を独学で盗んでいた。それをここまで昇華させられたのは、ひとえに彼のセリーヌへの愛があってこそなせる業だろう。

 そしてそれを動かすのに必要な最後のパーツ。魂を宿した「銀の心臓」を、同じくクリストファーの作りし人形たちの手によって、左胸部に嵌め込まれた彼女はついに動き出した。

 椅子にもたれていた背を起こし、腕を、足を、手を動かしていく。

 その動作は人だと言われても信じてしまうほど繊細で、造形は本人と相違ないほどに精微を極めていた。ゆっくりと上げられた顔は元気な頃の、出会った時のままの美しい彼女そのものだ。ほんのりと赤みが差す頬は、無機質な人形でありながら温かな印象を受ける。

 人が眠りから目覚めた時のように、至って自然な流れで開かれた双眸から覗く瞳。それはいつの日かクリストファーが、師であるジャックから譲り受けた最高傑作のドールアイだった。

 目が覚めるほど鮮明な海のように深く、澄み渡る青空のように美しい青の瞳。

 本人は全て自作したかった。けれど瞳だけは人そのものの美しさが出せなかったのだ。どう足掻いても、人形の瞳だけは師を超えられなかった。


「なんて、綺麗なの」


 思わずリリーも感嘆の言葉をこぼすほど、その美しさは完璧だった。

 主人と同じように愛情を注いでくれた過去の人。いつからか会えなくなって、大好きなマスターが悲しみに溺れることになった原因。けれど同時に、生きる意味にもなったセリーヌが、今こうして目の前に存在している。

 自分と彼女が初めて出会ったあの日のように、純粋で真っ直ぐな眼差しで自分を、屋敷にいる仲間を見渡していた。無表情ながら不思議そうにして見えるのは、彼女がセリーヌの魂を宿しているからに他ならないだろう。ここがどこかを確かめるような仕草をしていたセリーヌだったが、思い立ったようにその場ですっくと立ち上がる。それと同時に、動きやすさを考慮して仕立てられたミニスカートのドレスが揺れた。

 再び書斎を見渡して、一点に向けられた視線とともに、ふと彼女の動作が停止する。


『マスターに気づいたのでしょうか』


 隣に立つリリーの耳元へ口を寄せると、若い執事人形が小声で訊ねた。


「……そうみたいね」


 憂いを帯びた不安げにも聞こえる声で、問いに対してリリーは端的に答える。

 体を捻り進行方向である机へと向き直ると、ゆっくりとした足取りでセリーヌは歩き出した。彼の座る椅子に一歩ずつ近づいていくと、その背もたれにそっと手を添える。感情ない顔をしたまま、動かない彼を青い瞳でじっと見つめている。


「ッ!?」


 ――すると不意に、目の前で光が弾けたような感覚がセリーヌを襲った。

 彼女にとって、生まれて初めて見る風景であるにもかかわらず、その瞳に焼き付いて離れないのは生きていた時の幸せな日々。数々の思い出が、映写機に映し出された古いフィルムのように再生されては消えていく。


「ク、リ……ス……」


 骨となった遺体を見つめ、思い出すのは、若かった頃の彼の顔。

 笑った顔、怒った顔、悲しんだ顔、泣いた顔。

 楽しい時も、苦しい時も、彼と共に時間を共有したこと。


「ク、リ、ス」


 生まれたばかりのセリーヌが、自然と彼の名を口にした。


「……泣いているわ、彼女」

『誕生したばかりなのに喋ったよ』

「彼女のマスターへの想いが……心を、体を、動かしているのよ」

『二人は本当に愛し合っていたのね』


 書斎にいる全てのドールが、温かな眼差しで二人を見守っている。

 するとセリーヌは突然、自分に結び付けられていた真紅の操り糸をほどき始めた。


『なにをするつもりなんだ』

『あれをほどいて大丈夫なのでしょうか』


 ざわめく書斎で、ドールたちが互いに疑問を投げかけあっている。


「たぶん大丈夫よ。彼女には私たちと違って心臓があるから。マスターが作った美しい銀の心臓がね。それに、そもそもセリーヌは自動人形。その彼女に、なぜ操り糸がついているのか不明だわ」


 リリーが説明を終える頃、すべての糸を体からはずし終えたセリーヌは、クリストファーの体にそれを結び始めた。まるでその糸の真理を分かっているかのように。

 それはクリストファーが人形となったセリーヌへと送ったプレゼントだった。

 彼女が寂しくないようにと、彼はセリーヌを作りながらも死ぬまで人形制作をやめなかった。セリーヌを含めて六百六十六体作り上げたが、それだけでは足りないかもしれない。そう思ったクリストファーは、自身の死をも玩具にしようと考えたのだ。いつまでも自分と触れ合っていてほしい、その思いから赤い操り糸をセリーヌに結わえた。その意味に気づいてくれると思って。

 そして今、彼女はその思いを汲んだかのように、白骨のクリストファーへと糸を結びつけ終える。彼が人形を操っているところを傍で見ていた。時々触らせてもらったりもしていた。その記憶が幽かに呼び起こされ、自身とクリストファーを結びつける数ある赤い糸を結びつけた、球体間接の指が僅かに動き始める。

 カクカクと音を発しながら、白骨遺体の顔が持ち上がり腕が動く。しかしその動作は長くは続かない。遺体が下敷きにしている日記を、セリーヌは見つけたからだ。

 ゆらりとした幽霊じみた流れで頭を垂れ、そっと日記を覗き込む彼女。見開かれた最後らしきページには、くすんだ赤色が大きく滲んで染みになっていた。黒いインク文字はそれによって掠れ、まともに読めるような文ではなかった。

 それでもセリーヌはその日記に目を通す。ところどころ辛うじて読める部分には、こう書かれていた。


「たくさんの人々を笑顔にする、その約束を守れなくてごめん。

 君との約束だったのに、大切なことだったのに。けど僕は、君にもう一度逢いたかったんだ。君のいない世界なんて、僕には耐えられそうになかったから。

『あなたを待っています』あの時の君の言葉が、いまなら分かる気がするよ。

 君は、「偽らない本当の僕」を待っていてくれたんだね。そのことに気づいた時は、もうすでに遅かった。君はこの世を去ってしまったから。

 人形師をやめた頃に、そのことにようやく気づけたんだ。奇しくも、人形師という職業が、僕に偽りの仮面をかぶせ続けていたんだよ。

 永遠の愛を誓って、もう一度君に、最後の贈り物を残すよ……」


 そして最後を締めくくる言葉。


「さようなら、セリーヌ。ずっと、愛してる」


 彼がどんな想いでこの日記を認めたのか。今のセリーヌになら理解できた。目の前にいる彼はここにはいない。姿があるだけまだマシなのかもしれない。けど――。

 あなたがいない世界なんて。

 声にならない声で、言葉に出来ない想いを胸の奥で押し殺して、セリーヌは泣いた。流れ出る温い水。悲しみも憐れみも、同情すら内包するその涙はもはや人そのものだった。

 突然指から赤い糸を外すと、彼女は静かに書斎を出て行く。


「どこへ行くのかしら」


 リリーは心配になり、小さな歩幅でその後をつけた。少女に先導されるように、皆もぞろぞろとついていく。廊下を冷気が走っていく。思いのほか寒々と感じられるのは、屋敷全体の気質の問題だろうか。

 辺りには、手入れもされずに放置された結果、経年劣化してしまった人形のパーツが落ちていた。腕や足、手などが散乱している。天井から吊るされている人形たちもセリーヌの行方が気になるようで、俯瞰から彼女の背中を目で追った。

 やがて行き着いたところでセリーヌは立ち止まる。リリーは辺りを見渡した。セリーヌの向こうには黒い鉄扉があり、シューズボックスが脇に備え付けられている。どうやら玄関のようで、彼女は外へ出て行くらしい。


『引き止めなくて大丈夫なのですか』


 若い執事人形がリリーに訊ねる。


「私たちと違って、彼女は負の想念に囚われていないわ。だからたぶん外へ出ても大丈夫だと思うけど……」


 セリーヌの背中を見上げながら、少し不安げにリリーは呟いた。

 屋敷の人形たちはそのほとんどがマリオネットとして製作されたもの。クリストファーの無念などの負の感情が彼らに宿ったため、見えぬ操り糸によって屋敷に囚われることになってしまった。しかしセリーヌは自動人形として製作された。その心臓には魂が宿り、クリストファーの希望が宿っている。ゆえに縛り付ける負の概念に影響されることがなく、外へ出ることが可能なのだ。

 ――――ギギッ。

 錆び付いた玄関の扉を押し開けるセリーヌ。なにか目的があってのことだろう。なにかに突き動かされるように、不安げな屋敷の人形たちに背を向けたまま、彼女はドレスの裾を翻して外へと出て行った。

 外の風は真冬の寒さで木を枯らす。セリーヌの視界には懐かしい風景が広がっていた。

 森に囲まれた屋敷周辺の景色。広い庭には落ち葉が積もり、茶色の色彩がパッチワークとなって広がっていた。若葉から紅葉まで、春夏秋冬を通して一緒に見た人がいる。そしてその人がお気に入りだと教えてくれた、きっと君も気に入るだろうと案内してくれた、彼女にとっても大切な場所。そこを目指してセリーヌは歩き出す。踏みしめる度、枯葉がカサカサと微笑んだ。

 やがて裏庭に設けられた、木々の幹が複雑に絡まり合うアーチトンネルまでやってくると、光の洩れ出る闇の先を見据える。そしてセリーヌは躊躇うことなくその中へと足を踏み入れた。薄暗いトンネルを潜り抜け、眩い閃光に包まれる。やがて開けた視界いっぱいに広がっていたのは――――。


「あ……この、香り」


 円形の小広場を埋め尽くすのは紫色をした絨毯。

 寒空の下、木々を枯れさせる木枯らしにも負けず、互いに寄り添うようにしてそよぐ香る小さな花々。

 彼女が生身の人間だった頃に大好きだった花、ラベンダーだった。


「ク、リス……」


 香りに誘われるように、愛しい彼の名を呟きながら、セリーヌは中央に設けられたテーブルへと歩いていく。テーブルを一撫ですると、それらを見守るように設置されていた石に目を配る。


「お墓……?」


 その内の一つ、西の墓標に視線を向けた時、彼女は少し前のめりになり目を凝らすような仕草をした。見れば十字架には何かが掛けられている。真昼の日光を浴びてキラキラと反射する、チェーンに通された物体。それを確認するため、セリーヌは十字架へと近づいた。そして掛けられていたものをそっと十字架から外して手に取る。


「これ、は、指輪――――ッ!?」


 その時、彼女の眼裏に再び何かの映像が再生された。弾けるようにして蘇った、古めかしい写真のように色褪せた記憶。

 目にいっぱいの涙を浮かべた悲痛な面持ちの彼。結婚しようと言って手を握ってくれた。そっと左手の薬指に通された指輪の感覚。無機質な人形でありながらも、その時の温もりを、感情を、想いを、セリーヌは瞬時に思い出した。


「結婚指輪……クリスも、はめてた」


 思い返してみればクリストファーの亡骸にも、銀の部分がくすんだ同じデザインの指輪がはめられていた。自分への愛を死ぬまで貫き通してくれたのだと、セリーヌは胸に手を当て瞳を閉じて感じ入る。

 恋をしていた時の甘くも切ない、痛みにも似た懐かしい想いが蘇ってきた。そして改めて彼女は自覚する。彼は死んでしまい、自分だけが後に残されたのだと。

 いま、彼女の胸の内にあるのは不安と孤独だけだった。

 もう自分は人ではない。人として一度死に、人の形をしたモノとして生まれ変わった。創り主であるクリストファーはもういない。これから自分はどうすれば良いのか。壊れはすれど死ぬことのない体。彼のいない世界を、自分は生きていかなければならない。それはとても冷たい道で、寂しい景色だろう。

 物思いに耽けようとセリーヌは切り株へ腰を下ろした。スカートがふわりと広がる。足元を囲むのはたくさんのラベンダー。夢だったラベンダー畑がこうして目の前にある。それもクリストファーからのプレゼントだ。

 嬉しい気持ちで一杯なのに、けれど心に霧がかるわだかまり。抱えきれないほどのものを彼は残してくれた。でも、一番は――――。


「クリス……あなたが、いてくれなければ、わたしは……」


 寂しげな呟きは寒空へと消えていく。

 見上げれば、空から真っ白な雪の花が舞い落ちてきていた。きらきらと輝くダイアモンドダスト。それはまるでセリーヌの悲しみのようで。静かに降る涙粒はラベンダーの穂に積もり、ウエディングドレスをも濡らしていく。


「――あなたを、待っています」


 いつか彼に教えた花言葉を、そっとセリーヌは囁いた。けれど互いの願いはすれ違う。噛み合うことのなかった歯車。

 主無き屋敷の人形たち。彼女もまた同じ。

 これからもセリーヌは人形として生きていかなくてはならない。けれど、独りではない。

 屋敷には大好きな人形たちと、愛したヒトが、いるのだから。


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