6-2

 押し寄せては引いていく。そんな波音にも似たるは人々のざわめき。

 そして――――波打つワインレッドの緞帳がゆっくりと攫われた。

 明暗の分かたれた空間。暗がりに浮かぶのは小波のような人の群れ。

 一方、壇上を円形に切り取る人口の明かりは、ゆっくりと絞られ人型をした小さな主役二人を照らし出す。

 若い男と、花屋の女。そう、私とセリーヌをモデルにした、出会いと別れの物語。

 人形師クリストファー・ドールズの最後を飾る舞台には、もってこいだと思うんだ。

 場所はもちろん、初めてセリーヌと出会ったフォルクスのハンメル劇場だ。

 あれだけ人々がざわついていたにもかかわらず、演技が始まれば皆一様にこちらへ集中してくれる。微かな息を呑む音は、静謐な空間に溶けていく。

 そのあまりにも滑らかで、あまりにも自然な人形の動きは、自分で動かし見ていても、生きているのだと錯覚してしまうほどだ。そしてその造形は、まるでいつか見たホムンクルスと見紛うほどに精巧さを極めている。

 人々の感嘆のため息は、息が詰まるほどの静寂をひときわ際立たせた。

 いつも以上に空気が張り詰めているのを肌で感じている。これで最後だというのが信じられない人、その最後を目に焼き付けようと見入る人。様々な思いがこの劇場内を交錯している。

 演技途中、私はセリーヌが座っていた席を見た。そこには一人の少女が座っていた。あどけない顔立ちをし、無垢で純粋な瞳で私の演技を見てくれている。

 ――不意に視界が潤んでいくの気づいた。知らず、私は涙した。

 演技の最中に私情を持ち込むのはいけないと解っていながらも、少女の純粋な眼差しがあの日のセリーヌを思い出させ、この小さなドールたちが、幸せだった時間を、日々を、鮮明に回想させるのだ。

 つられてしまったのか、目が合った女の子も顔をくしゃりと歪めて涙を目に浮かべた。少し申し訳なく思いながらも、けれど演技を終えるまで私の涙は止まらなかった。

 少女も一緒に、泣いてくれていた。

 ――――やがて沈黙を破るように、嵐のような喝采の拍手が沸き起こる。

 それは全て、壇上の私たちへと向けられたものだ。

 鼓膜に響く大衆の声。木霊する音の残響は夢見のように心地いい……。

 夢を見るのはドールだけでいいと、ずっと願っていたのに。

 人形師くらい現実的であろうと、ずっと想っていたのに。

 まさかその私が、『夢』を見ることになろうとはな。

 だが今は、その夢を追うこと。それが私の生き甲斐となり意味となった。

 あの時死ななくてよかったと、死ねなくてよかったと、今なら本気でそう思える。

 充実した達成感と高揚感の中、私は静かに瞼を下ろす。

 これが喜びに満ち溢れた大団円なら、どれだけよかっただろう。

 人形師としての最後を飾り終えて感じているのは、やはり深い悲しみだけだ。

 あの頃と同じ……私は、また一人になってしまった。心の傷が癒えることはないだろう。

 でも、あの頃と違うことが一つだけある。それは、セリーヌが私の心の中にいるということ。目を閉じればいつでも会える。笑った顔のセリーヌに。

 けれど、寂しさと切なさだけが後を引く、そんな哀しい幕引きだった。


   ◇


 春――。

 いっせいに芽吹く新緑の香りに包まれて、期待に胸躍らせる黄色い季節。

 ……穏やかな日向のような、彼女の笑顔がない侘しい季節。

 夏――。

 樹葉を縫う木洩れ日に目を細め、爽やかな風と戯れる緑の季節。

 ……瑞々しい花の香りを振りまく、彼女がいない寂しい季節。

 秋――。

 色鮮やかな落ち葉舞う並木道で、動物たちと豊穣を祝う赤い季節。

 ……目に楽しい並木道を、彼女と並んで歩くことのない哀しい季節。

 冬――。

 寒さに身を震わせながらも、来る芽吹きへの想いを馳せる青い季節。

 ……彼女の温もりを、肌で感じることの出来なくなった切ない季節。


 そうして幾度となく繰り返した春夏秋冬。

 セリーヌの人形を作り始めて、早四十三年が過ぎようとしていた。

 生命の息吹を感じ、それが栄え、廃れ、やがて朽ちていく様を見てきた、見続けてきた。

 蕾が開き、花弁が散り、萎れ枯れゆくその姿は何かに似ていた。力強くも儚く生涯を終えるそれは、人の人生そのものだった。

 寄る辺ない心は孤独の海にたゆたい、けれど一つの灯火を信じて僕は真っ直ぐに突き進んだ。

 セリーヌの墓がある屋敷裏の森の小広場には、毎年のように植えてきたラベンダーが綺麗に咲き誇っている。彼女との別れ際に、季節はずれに咲いたラベンダーを棺に添えた。その冬に咲いたラベンダーを、私は今までずっと大切に育ててきた。

 セリーヌに喜んでほしくて、広場をラベンダーの香りで満たしたかったから。彼女の夢だったラベンダーの畑が、長い時間をかけてようやく完成したのだ。

 そして彼女の墓標の対面にはもう一つ。長年傍にいてくれた僕の親友である愛馬、クラウスの墓が佇んでいる。

 クラウスが死んだのはここ最近だった。馬の寿命は二十五年ほどだから、馬にしてはとても長生きだ。僕を心配し、ずっと傍に付いていてくれたんだと思う。愛情を注いでいたと思ったら、こちらが抱えきれないほどの愛を与えられていたことに、今さらながら気づいた。本当に感謝している。

 ずっとこのまま、二人の墓守をしていきたい、そう思っていた。

 しかし年月は僕を老いさせ、病は徐々に体を蝕んでいった。

 セリーヌの人形は、器自体は完成したと呼べるだろう。各パーツはこれ以上ないほどの出来栄えだ。人と寸分違わぬほどに美しい。

 しかし病魔に蝕まれ老いた体では、身体を完全に組み立ててやることまでは出来なかった。

 そしていま僕は書斎で、限られた最後の、一握りしか残っていない力と時を振り絞り、最後の手記を認めている最中だ。もう残された時間はあとわずか。ペンを握っている手が震える。走馬灯のように蘇るのは楽しかった日々の思い出。

 笑顔のセリーヌ、怒ったセリーヌ、拗ねているセリーヌ、泣き顔のセリーヌ。いろんな表情をした彼女を見られた、ずっと見ていたかった。でもそれは叶わなかった夢。

 けれど、同時に生まれた夢の結晶が、僕の視線の先で座っている。

 もう枯れたと思っていた涙が、不意に頬を伝っていく。徐々に遠のいていく自分の意識。

 ふわりと身体が持ち上がるような、そんな感覚を覚えた。


「さ、よう、な、ら……」


 自然とこぼれた言葉、誰に対して言ったんだろう。

 セリーヌ、グレン、ジャック、アルフレッド、エドガー、コゼット、クラウス。お世話になったその全てと屋敷の人形たちに。そして、組み立ててやることの出来なかった、自動人形のセリーヌに。

 心からの感謝を込めた、最初で最期のさよならを――――。

 そうして僕の人生の時は、静かに幕を下ろした。

 最期に流した涙は、とても優しくて、とても、温かかった……。


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