戯画葉異図

青い海、蒼い瞳。

 あ、またいる。

 夏休みも終わりに近づく今日、海釣りから帰る途中の僕は、砂浜の人影に目が留まった。

 もう空がオレンジ色に輝く時間。浜には、あの人の他には誰もいない。ここから見る一人だけの浜はいつもより広く感じる。犬と戯れているわけでも、僕と同じように釣りを楽しんでいるわけでもないというのだから、その孤独感は大きい。

 何をやっているんだろう?

 あの人を見るのはこれで三回目だ。前の時も、その前の時も、同じ時間に同じ場所にいたから、たぶん同じ人だ。ここからでは遠くて顔や服装まではわからない。辛うじてその人の正面……海側に置かれている何かに気づくのが限界。何かを前に置いたままじっとしている。

 何をやっているんだろう?

 気になった。特にきっかけもなく、既に二回見ている光景なのに、今日は何故か知りたい衝動に襲われた。三度目の正直ならぬ三度目の好奇心だ。

 以前見たときは……何とも思わなかったのだけれど……。

 腕時計に目をやる。通信教育でもらった子供用のちゃちいデジタル時計は、まだ帰宅には早い時間帯を告げていた。

 訊いてみよう。

 そう心の中で決め、駆け出す。トトトトと砂浜へ続く石階段を速足で降りる。砂の上では転びそうになるのでゆっくりと向かう。砂浜を歩く予定は無かったので、今朝から僕はサンダルではなくランニングシューズを履いていた。靴の中に砂が少しずつ入っていくのを足の裏で感じながら、僕はまっすぐに歩く。

 近づくにつれ、その人の様子がわかってきた。男性で、椅子に座っている。椅子の横にはいろいろと道具が並んでいる。

 正面の何かは、カンバスだった。

「……ん、どうしたんだい?」

 気配で気づいたのだろう、僕が近づききらないうちに彼の方から振り向いて、声を掛けてきた。

 大学生くらいだろうか。短めに切った黒髪が海風で揺れている。高身長で細身で……僕を捉えるその瞳は海のように蒼かった。

 自分から声を掛けるつもりだった僕は、一瞬答えに詰まる。

「あ、えっと……何、してるのかなって……」

「見ての通りさ。絵をね。ここからの景色を」

 そう言うと体をずらして僕に絵全体が見えるようにしてくれた。

 カンバスには確かにここからの景色……堂々とした海が描かれている。深い青と淡いオレンジで何回も何回も塗り重ねられた海と、それに、夕日で真っ赤に燃える空がそこには広がっていた。圧倒されるような海と空の世界……。しかし、逆に言えば、それ以外のものは何も描かれていない。視界の端にちらっと映る埠頭も、忙しく行き来する船も、ゆらゆら揺れるカモメの姿さえ、カンバスのどこを探しても見つからなかった。海に夕日の光が映っているというのに、その光どころか肝心の太陽すら無かった。純粋な、海と空の風景画だ。

「変わった絵だね」

 思ったことをそのまま口にした。

「はは、そうだね」

「どうして?」

 その質問に彼は、少し間をおいて、

「……どうしてだろうね……」

 そんな返答だった。本人にもわからない不思議さがあるのだろうか。それも不思議なことだと思うけど……。

 彼はまた絵の方に視線を移した。僕はまだ絵と、実際の景色を見比べていた。手前にあるはずの砂浜も、そういえば描かれていないなと気が付いた時、彼は視線をそのままに、僕に訊いてきた。

「君の名前は?」

「……相場……。お兄さんは?」

 フルネームを避けたのは僕の申し訳程度の警戒心だ。こんな田舎の港町に、不審者なんていないだろう、と思いつつも……。それに対して彼は、

「村田。……村田航平」

 と言った。蒼い目だから、外国人のようなカタカナの名前かと思ったら、そんなことは全然なく、ちょっとホッとした。

「釣りの帰りのようだけど……成果はどうだった?」

 僕が手に持っている釣り竿とバケツを見て、村田さんは訊いた。

「あんまり」

 いや、あんまりと言うか、全く釣れなかった。いつもなら最低でも、一匹は釣れるものなのだけれど……。

「そう。……ん、相場くん、君はもう帰りなさい。もう遅い時間だ。日が暮れるよ。家族の人が心配してしまう」

「え……」

 腕時計を見ると、確かにその通りだった。

「明日もここにいる?」

 僕は、もう少し話したいと思った。

「……うん。この景色を描くために、いつも夕日の時間に来てるから、その頃ならいるよ、明日も……」

「わかった……じゃあ、さよなら」

「うん、さよなら」

 波の音を背中に、僕はまた、来た道を戻っていった。

 その日以降、僕はまだ、あの人には会えていない。浜辺行っても、もうそこで、海の描かれたカンバスを見る事は出来なかった。

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