鏡の中の少女
風海音弥
第1話 喪失
木魚の乾いた音と和尚の無機質な読経が、葬儀会場に響いている。
会場には故人の人望の厚さを象徴するかのように、大勢の弔問客が等間隔に並べられたイスに座り、死を惜しみながら、すすり泣いている。
黒縁の額に入れられた両親の写真は、母は穏やかに笑い、父は快活な笑顔を浮かべていて、それぞれに生きている強さのようなものを感じる。だからこそ、もうこの世には存在していないことが遥希には信じられなかった。
ついこの間まで元気だったのに。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
僕が父さんや母さんを悲しませたから? 僕がもっとしっかりして、いじめなんて受けなかったら、こんなことにはならなかった?
額の中で微笑む両親の顔を見ると、そんな途方もない考えが延々と頭の中を駆けめぐる。
遥希の両親は、温かい人間だった。人一倍、優しい人間だった。二人とも息子を心の底から愛し、遥希が嬉しい時は一緒に喜び、楽しい時は一緒に楽しみ、また、遥希が間違ったことをした時は、しっかりと向き合い、叱ってくれた。
そして、遥希がいじめられていることを知った時は、声をあげて一緒に泣いてくれた。なんとか遥希をいじめから救おうと学校に足を運び、そのいじめの「理由」を知ると、今度は何も言わずに彼を抱きしめて、「遥希は悪くない」と言ってくれた。
遥希にとって、両親は暗闇に差し込む一筋の光そのものだった。それを信じていれば、いつかこの暗闇が、光に満ち溢れる日が来ると信じて疑わなかった。その光が何の前触れもなく、途絶えてしまった。遥希に残されたのは、一寸先も見えない、どこまでも続く漆黒の空間だけ。
暗闇に光が差し込んだのではなかった。光の中に、何かの間違いで暗闇が生まれて、その暗闇が元々光り輝いていたその場所を、徐々に黒に染めてしまったのだ。
遥希は、唇を強く噛んだ。
-僕が生まれてこなければ、父さんと母さんは生きていられた?
鉄のような苦味が、遥希の口内にじんわりと広がった。
葬儀が済んだ後、両親の遺体は火葬場へと移された。
両親が入った棺が火葬炉に入れられていく姿を見て、遥希は再び唇を噛んだ。両親の最期に、泣いている姿なんて見せられない。そう思うと、唇を噛む力はますます強くなった。
「遥希」
火葬炉に棺がすべて入った直後、不意に名を呼ぶ声がした。
振り返ると、祖母の薫が神妙な面もちで遥希を見つめていた。薫の落ち着いた穏やかな雰囲気は、いつも明るくて、元気の良い父とは似ても似つかなかった。会ったことがない遥希の祖父に、父は似たのだろうか。
「ばあちゃん…」
「久しぶりだねぇ、遥希」
遥希が薫と顔を合わせるのは、5年ぶりだった。遥希が中学にあがる頃までは毎年、薫の元へ帰省していたが、父親の仕事が忙しくなったこともあり、なかなか帰省することができなくなっていた。
「久々に会うのが、こんな形なんて…」
「うん…」
「トラックがわき見運転なんてしなかったら、二人は今頃、今まで通りに生きていたはずなのにねぇ…」
薫は火葬炉を見つめて、つぶやいた。
「うん…」
今の遥希はただ、頷くことしかできなかった。
火葬の後の骨上げは、薫と行った。
つい1、2時間前まで、髪があって、目があって、筋肉があって、人間らしい体つきをしていた両親が、今は無機質な骨と化してしまったことが、遥希には現実のこととは思えなかった。だからこそ、却って、滞りなく済ませることができた。
その後の精進落としは、満足に食物が喉を通らなかった。こんなものより、母さんの得意だった肉じゃがが食べたい。父さんが休日に作ってくれてた、味が薄くて、米がベチャベチャのチャーハンが食べたい。
ほとんど手をつけないままでいると、隣の席の薫が小さな声で「もう帰ろうか」と声をかけてきた。
「うん…」
会場を出てからしばらく歩くと、西日に照らされた坂道に差し掛かった。そこを下っていると、黙って数歩後ろを歩いていた薫が静かに口を開いた。
「遥希、こんな時に言う話じゃないかもしれないけど、おばあちゃんと一緒に暮らさないかい?」
「…うん」
「ありがとう…ただ、そうなると、おばあちゃんのところに来てもらわないといけなくなる。それでも大丈夫かい?」
「…うん」
遥希は振り返らずに、小さな声で答える。
ちょうど坂を下りきったところで、遥希は薫に向き直った。
「…どうせ、ここにはもう、何もないから」
日は更に深く沈み、街の風景は夜へと表情を変え始めていた。
ばあちゃんの家って、こんなに小さかったっけ。
遥希は薫の家をまじまじと見て、思った。
辺りは緑の山々に囲まれた、田園風景が広がっている。
その中にぽつりぽつりと、古ぼけた木造の家が何軒か並んでいるが、その中枢にあるのが薫の家である。玄関先には「朝比奈時計店」と書かれた看板が置かれている。薫はここで小さな時計屋を営んでいるのだ。
5年ぶりの祖母の家である。小学生の頃に見た光景とは何もかもが違ってみえる。古くさいはずなのに、遥希の目には、それらは新鮮味を帯びて見える。家でさえ、17歳になった今となっては、人形の家のように現実とは別の次元のもののように見えてくる。
今日から遥希はこの家で、薫と一緒に暮らすことになる。しかし、遥希には久々の訪問を懐かしむつもりなどなかった。
遥希はため息をつくと、玄関の引き戸を開いた。
「ばあちゃん、来たよ」
すると、立て付けの悪い居間の引き戸が開いて、割烹着姿の薫が顔を出した。
「遥希、よく来たね」
元々の糸目が、さらに目尻が下がって、余計に細くなっている。
「お茶でも飲むかい?」
「いや、いいよ。ありがとう」
遥希は言葉少なに断ると、薫の横を通り過ぎて、階段をあがった。
薫が後を着いて、「少し居間でゆっくりしていかないかい?」と声をかけるが、遥希は背を向けたまま、「ごめんね…少し一人になりたいんだ」とだけ答え、階段脇の部屋に逃げるように入る。
部屋の中は、実に雑然としていた。何年も使っていないであろうガラクタが鬱蒼としており、足場を見つけるのも一苦労しそうである。ところどころに蜘蛛の巣は張られ、長い間、掃除がされていないことを感じさせる。また、換気もされていないせいで、じめじめと肌にまとわりつくような気持ち悪さと、むせかえるような埃っぽさが充満していて、のどの奥がいがいがとしてくる。
そういえば、前に来た時に、父さんが「ここは物置だ」と言っていた気がする。どうして、この部屋に入ってしまったんだろう。遥希は再びため息をついた。
「遥希」
ドアの外から、薫の声が聞こえた。声から察するに、きっと今にも泣きそうな顔をしているに違いない。
「そこは汚いから出ておいで。ちゃんと遥希の部屋は用意してあるよ」
「いいよ」
良くなかった。
「ここでいいよ。もう出たくない」
僕は何を言ってるんだろう。
すると、
「…そうかい。でも、夕飯までには下りてくるんだよ」
薫の声はいっそう小さく、か細くなった。きっと、少し泣いてしまっているのかもしれない。
「ごめん…後で下に下りるから」
ドア越しに答える。
本当はこのドアを開けて、薫に謝りたかった。でも、今は誰の顔も見たくないし、極力、話したくなかった。僕はなんてわがままなんだろう、と遥希は思った。
しばらくすると、ドアの階段をゆっくりと下りていく足音が聞こえてきた。
「ばあちゃん、ごめん…」
遥希はドアにもたれ掛かるようにして、床に腰を下ろした。
僕はこうやって、いつも周りの人を傷つけてしまう。
「あの時」もそうだ。僕がちゃんと話を聞いてあげていたら、彼は死なずに済んだ。いじめられることもなかった。父さんと母さんが死んだのも、僕のせいだ。僕みたいなどうしようもない人間が生まれたせいだ。
…鼻の奥がツンとして、目から涙があふれ出てくる。「あの時」のことや両親のことを想うと、遥希は涙を堪えきれなかった。
唯一の心の支えだった両親の居ない今、生きていくことが怖くて仕方ない。これから、どうやって生きていけばいいのか。どこへ行っても、誰かを傷つけ、また傷つけられてしまう。だったら、生きていたくなんかない。誰とも関わりたくない。一人でいたい。怖い。生きることも、他人と顔を合わせることも。
とりとめもない考えが、頭を駆けめぐり、どれだけ拭っても涙はとめどなくこぼれ落ちてくる。
遥希はもう一度涙を拭うと、もたれかかってるドアの鍵に手を伸ばし、そのつまみをひねった。
ガシャリと冷たく無機質な音が、遥希の耳に強く響く。
ひとしきり感情を発散させると、ふっと気持ちが落ち着いてきた。しかし、胸に残ったあらゆる想いは、ずっとくすぶったままだ。
遥希は立ち上がると、窓を開けた。
同時に秋らしい涼やかな風が吹き込んで、埃が充満し、蒸し暑さすら感じていた部屋の空気が、徐々に浄化されていくのを感じる。
窓から外の風景を眺めると、日はすっかり傾き、辺りの田園や山々など、この家を取り巻く自然の風景が、夕日のオレンジ色一色に染められていて、美しかった。
これから、僕はここで生きていくんだ。東京でのことは忘れて、ここで新しく生きていかなきゃいけないんだ。何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。
吹き込んだ風のせいか、いつの間にか、目尻に残っていた涙の粒は乾いていた。
鏡の中の少女 風海音弥 @nuttyo0823
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