アイラブぶーち。我愛ぶーち。イッヒリーベぶーち。ぶーち、マイラブ。
とかふな
ぶーち
私は、彼のことを「ぶーち」と呼んでいた。
彼の友達は、「のぶ」とか「のぶくん」とか、そういった呼び方をしていた。彼の名前はノブオだから、そうなるのも無理はない。でも私は、違ったふうに呼びたかった。私なりの呼び方で彼を呼びたいと思った。それで、ぶーちゃんとかいった呼び方を考案したけど、彼に却下された。私は2日寝込んだ後、ぶーち、を案出した。「ちゃん」がだめなら、「ち」で切ろう、という
お母さんに翌朝起こされたとき、私は前日帰って来た服のままだった。ぶーちに会って、ぶーちの許諾を得た後、ぶーちを唱え続けた結果、ぶーちアウトみたいな症状がでて、私はぶーち落ちしていたのだった。お母さんは、割と深刻めに(震度でいうと5強ぐらい)心配していたが、私はむしろ世紀の大発見をしたような気持ちで高ぶっていた。ぶーちの呼びすぎで意識が飛んでしまうなんて。今なら、エウレカ!って叫びながらシラクサの街を駆け抜けられる。全裸で。
早速この、全新聞社号外レベルの事件を彼に伝えなければ、と思った。マラトンの戦勝をアテナイに伝えた兵士のごとく。私は彼の元へ向かった。もちろん、携帯で連絡することはできた。でも、私は自分の声で伝えることにこだわった。というか、ぶーちと口に出していいたかった。そして彼の耳にその響きを伝えたかった。彼の耳に一つでも多くのぶーちを届けることこそが、私の使命なのだと確信していた。
ぶーち、ぶーち、甘美な響き。私は道中の電車の中、脳内で何度も
彼のマンションのエレベータに乗り込み、ぶーちカウントダウンが始まりだした頃、突然に話しかけられた。
「あの、俺のこと呼びましたか?」
見れば、同い年くらいの男が、不思議そうな顔をして私の方を見ている。狭いエレベータ内で、私はうっかりその言葉を口に出していたようだった(そもそも、エレベータに男が同乗していたことにも、今気づいた。)。
誰これ…
どうすればいいのかわからない。
えっと、でもとりあえず何か聞かなきゃ。
「あなた、ぶーちさんですか?」
本当は「ぶーち」に「さん」なんて、よそよそしくて相応しくない。でも、初対面の人にはつけないと失礼だろうと思った。
そして男は答えた。
「ああ、まあ。そう呼ばれることも」
え…そんな…
私は足の力が抜けそうになるのを懸命に我慢した。めちゃめちゃ頑張りながら、最後の力を振り絞るように「失礼ですが、お名前は?」と聞いた。
目の前の男の、唇の動きに注目した。縦に走る皺がくっきりと見えた。薄い唇をしていて、少し開いた隙間から整った白い歯が見えた。そしてやがて唇が動いた。でも、当然声が見えるはずもなくて、むしろ視覚に無駄に集中しすぎた結果、声が遅れて聞こえて来た。
…
私はその瞬間激しく
気づいたら溝渕さん家にいた。彼は、自身の名を聞いて激しく嘔吐し、失神した私を介抱してくれたのだった。「救急車を呼ぼうかとも思ったんですが、脈拍と呼吸はしっかりしていましたし、
とここで、私はマンションに来た目的を思い出し、感謝の言葉もそこそこに溝渕さん家を飛び出した。彼の部屋は2階上にあるので、今度は階段を使った。1段飛ばしで駆け上がり、突き指覚悟で彼の部屋のインターホンをぐりぐり押した。
扉の奥からぶーちが出て来た。私は、ぶーちの顔を見た瞬間嬉しくなって、その場でこれまでの経緯を話した。超早口で喋ってしまったので、どれだけ伝わったか、実は自信ない。
私は、どんなお褒めの言葉がもらえるのだろうと、尻尾を振りながら待った。
そしてぶーちは口を開いた。
「えっとさ…それ言うためだけにここまで来たの?」
あれ?
「う、うん。どうしても直接伝えたかったの」
「いや、ちょっと意味わかんないっていうかさ…。重いよ、そういうの。キモいし」
オモイ?キモイ?
「じゃ、俺レポートの続きやるから」
そう言って、ぶーちは扉を閉めた。扉の向こうから、ドアロックとチェーンを掛ける音が聞こえた。
え、何これ…
やっぱり世界は終わっていたんだ。私は途方もなくやるせなく、切なくなった。いきなり北緯80度の世界に来たみたいに、全身を寒気が襲った。あのエレベータでの会話以降、私の世界はおかしくなってしまった。それまでは、心に羽が生えて、太陽まで飛んで行きそうだったのに、あの一件ですっかり海に墜落してしまった。
火力発電所を回せるぐらいに頭を沸騰させながら、私は溝渕の部屋に向かった。インターホンを押すと、溝渕はほどなくして出て来た。そして、お茶を出し、コンビニでケーキを買ってきて、驚くほど真摯に私の話を聞いてくれた。夢中で話し続けた私の方が足が痺れていた。
晩御飯を一緒に作って食べて、その夜、私は溝渕に激しく抱かれた。
私は、彼のことを『ぶーち』と呼んでいる。
アイラブぶーち。我愛ぶーち。イッヒリーベぶーち。ぶーち、マイラブ。 とかふな @tokafuna
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