アイラブぶーち。我愛ぶーち。イッヒリーベぶーち。ぶーち、マイラブ。

とかふな

ぶーち

 私は、彼のことを「ぶーち」と呼んでいた。


 彼の友達は、「のぶ」とか「のぶくん」とか、そういった呼び方をしていた。彼の名前はノブオだから、そうなるのも無理はない。でも私は、違ったふうに呼びたかった。私なりの呼び方で彼を呼びたいと思った。それで、ぶーちゃんとかいった呼び方を考案したけど、彼に却下された。私は2日寝込んだ後、ぶーち、を案出した。「ちゃん」がだめなら、「ち」で切ろう、という魂胆こんたんだ。「ちゃん」よりも、いくらか可愛いニュアンスが軽減されている。それでいて、「のぶ」とか言ってる輩とはちょっと違う。どうよこれ。私スタイル感が出ているじゃないか。ぶーち、ねえ、ぶーちはどう? 私は聞いた。彼は、お前がそう呼びたいならそれでいいんじゃん? と言った。私は骨のおやつを見せられた子犬のように喜びで乱舞した。わーい、ぶーちだ、ぶーち! と何度も読んだ。もしぶーちがお経だったら、私は即日極楽浄土行きだったろう。その日だけで1185回くらい言ったと思う。もうこの際、「ぶ」と「ち」以外の発音ができなくなってもいいと思った。は行の発音を忘れ、全部ば行でしか話せなくなっても、それでいい。それぐらい、私は全勢力をぶーちに傾けたかった。ぶーち、ぶーち。世の中を崩壊させる呪文がバルスだとしたら、世界を輝かせる呪文はぶーちだと思う。ぶーち、ぶーち、ぶーち。何度も連呼するうちに、私の部屋の中のものがどんどん光り出して、視界が白くなって、何も見えなくなって…


 お母さんに翌朝起こされたとき、私は前日帰って来た服のままだった。ぶーちに会って、ぶーちの許諾を得た後、ぶーちを唱え続けた結果、ぶーちアウトみたいな症状がでて、私はぶーち落ちしていたのだった。お母さんは、割と深刻めに(震度でいうと5強ぐらい)心配していたが、私はむしろ世紀の大発見をしたような気持ちで高ぶっていた。ぶーちの呼びすぎで意識が飛んでしまうなんて。今なら、エウレカ!って叫びながらシラクサの街を駆け抜けられる。全裸で。


 早速この、全新聞社号外レベルの事件を彼に伝えなければ、と思った。マラトンの戦勝をアテナイに伝えた兵士のごとく。私は彼の元へ向かった。もちろん、携帯で連絡することはできた。でも、私は自分の声で伝えることにこだわった。というか、ぶーちと口に出していいたかった。そして彼の耳にその響きを伝えたかった。彼の耳に一つでも多くのぶーちを届けることこそが、私の使命なのだと確信していた。


 ぶーち、ぶーち、甘美な響き。私は道中の電車の中、脳内で何度も反芻はんすうしていた(さすがに、公共の場所で実際に口に出して唱えていたら、ヤバい女だ。)。いっそのこと、日本語が「ぶ」と「ち」だけの2進法だったらいいのにと思った。それなら、ぶーちと言うだけで生きていける。しかし、今はただ、彼と私の間でしか通じない言葉なのだ。む? ちょっと待って。それって逆にすごくない? 私と彼の間の秘密の暗号だなんて。私と彼でこの世界に新しいものを生みした。それって私たちの子供じゃね?と思った。私と彼はイヴとアダムだ。そう思うと、さらに胸が苦しくなった。もっといとおしさといつくしみをもってぶーちと言わなきゃ。そう、心に決めた。


 彼のマンションのエレベータに乗り込み、ぶーちカウントダウンが始まりだした頃、突然に話しかけられた。


 「あの、俺のこと呼びましたか?」


 見れば、同い年くらいの男が、不思議そうな顔をして私の方を見ている。狭いエレベータ内で、私はうっかりその言葉を口に出していたようだった(そもそも、エレベータに男が同乗していたことにも、今気づいた。)。


 誰これ…

 どうすればいいのかわからない。

 えっと、でもとりあえず何か聞かなきゃ。


 「あなた、ぶーちさんですか?」

 本当は「ぶーち」に「さん」なんて、よそよそしくて相応しくない。でも、初対面の人にはつけないと失礼だろうと思った。

 そして男は答えた。


 「ああ、まあ。そう呼ばれることも」


 え…そんな…

 私は足の力が抜けそうになるのを懸命に我慢した。めちゃめちゃ頑張りながら、最後の力を振り絞るように「失礼ですが、お名前は?」と聞いた。

 目の前の男の、唇の動きに注目した。縦に走る皺がくっきりと見えた。薄い唇をしていて、少し開いた隙間から整った白い歯が見えた。そしてやがて唇が動いた。でも、当然声が見えるはずもなくて、むしろ視覚に無駄に集中しすぎた結果、声が遅れて聞こえて来た。


 …溝淵みぞぶちですが。


 私はその瞬間激しく嘔吐おうとした。胃の中だけじゃなくて、腸のビフィズス菌とか、肺の中の酸素とか、その他もろもろ全部を放出する勢いでえづいた。ふらふらになって、エレベータの壁に半身を預けつつ、世界よ崩壊せよ、と願った。私と彼のラピュタが崩れ、天に昇っていく。気の狂ったロシア人か中国人がアメリカの大統領を暗殺して、第三次世界大戦が始まってしまえばいいのに。北の独裁者が核ミサイルをはちゃめちゃに撃ち放てばいいのに。太平洋プレートとユーラシアプレートが喧嘩をおっぱじめて、ぎゃんぎゃんに日本列島をぶっ壊した後、それでも仲直りできずに、地球を半球ずつに割ってしまえばいいのに。


 気づいたら溝渕さん家にいた。彼は、自身の名を聞いて激しく嘔吐し、失神した私を介抱してくれたのだった。「救急車を呼ぼうかとも思ったんですが、脈拍と呼吸はしっかりしていましたし、大事おおごとにするのもよくないかと思いまして」と釈明する。本来色々釈明しないといけないのは私なのかも。聞けば彼は医学部の学生さんだという。なんという幸運。


 とここで、私はマンションに来た目的を思い出し、感謝の言葉もそこそこに溝渕さん家を飛び出した。彼の部屋は2階上にあるので、今度は階段を使った。1段飛ばしで駆け上がり、突き指覚悟で彼の部屋のインターホンをぐりぐり押した。

 扉の奥からぶーちが出て来た。私は、ぶーちの顔を見た瞬間嬉しくなって、その場でこれまでの経緯を話した。超早口で喋ってしまったので、どれだけ伝わったか、実は自信ない。


 私は、どんなお褒めの言葉がもらえるのだろうと、尻尾を振りながら待った。

 そしてぶーちは口を開いた。

 「えっとさ…それ言うためだけにここまで来たの?」

 あれ?

 「う、うん。どうしても直接伝えたかったの」

 「いや、ちょっと意味わかんないっていうかさ…。重いよ、そういうの。キモいし」

 オモイ?キモイ?

 「じゃ、俺レポートの続きやるから」

 そう言って、ぶーちは扉を閉めた。扉の向こうから、ドアロックとチェーンを掛ける音が聞こえた。

 え、何これ…


 やっぱり世界は終わっていたんだ。私は途方もなくやるせなく、切なくなった。いきなり北緯80度の世界に来たみたいに、全身を寒気が襲った。あのエレベータでの会話以降、私の世界はおかしくなってしまった。それまでは、心に羽が生えて、太陽まで飛んで行きそうだったのに、あの一件ですっかり海に墜落してしまった。


 溝渕みぞぶちィ…


 火力発電所を回せるぐらいに頭を沸騰させながら、私は溝渕の部屋に向かった。インターホンを押すと、溝渕はほどなくして出て来た。そして、お茶を出し、コンビニでケーキを買ってきて、驚くほど真摯に私の話を聞いてくれた。夢中で話し続けた私の方が足が痺れていた。


 晩御飯を一緒に作って食べて、その夜、私は溝渕に激しく抱かれた。


 私は、彼のことを『ぶーち』と呼んでいる。

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アイラブぶーち。我愛ぶーち。イッヒリーベぶーち。ぶーち、マイラブ。 とかふな @tokafuna

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