第3話雪男と春
身体が引き戻されるように夢から覚めた。
携帯のアラームがうるさく頭に響いて、あの心地よい夢の世界の音が恋しい。
寝ぼけた頭をなんとか起こして、ベットを出てリビングへ向かった。
身体が重い。
完全に目覚めてしまうのを拒んでいるみたいだ。
「あら、おはよう」
リビングのすぐ横のキッチンからおいしそうな匂いがして、あきらが顔だけをひょっこり出した。
「朝ごはん、ちょうどできたの」
朝からきっちりとまとめられたポニーテールが、小さな顔の後ろで揺れる。
美少女は朝から美少女なんだな。
あきらはどこかの昭和な少女漫画から飛び出してきたような子だ。
「今、コーヒーを入れるわ」
わたしがあきらを引き取るって言ったのに、一日すぎただけでまるで立場が大逆転。
「なに気を使ってるの、いいのよ子供はまだ寝ていれば」
時計に目をやるとまだ5時35分。
わたしが保護者なんだから、無理をさせるのは悪い。
わたしは寝癖がついている短い茶髪の髪を手で押さえながら話しかけた。
「無理はしてないわ、身支度をしてから軽くピアノの練習をすると気持ちが引き締まるから、早起きがくせになってしまって」
あきらがさらりと早起きの理由を説明しながらコーヒーを運ぶ。
「朝からピアノなんて、ご家族やご近所さんに迷惑じゃなかったの」
ちょっと説教くさいのは、寝起きのだるさのせいである。
「わたしの部屋のピアノじゃなくて、ピアノ室のピアノで弾くの、ピアノ室は完全防音よ」
そんなこと当たり前でしょって感じの言い方だ。
自分とかけ離れた生活環境だけれど、あきらには似合いすぎていてまったく嫌味には聞こえない。
「そう」
コーヒーを飲んでいると、今度は皿の上にお店ででてくるみたいに飾り付けられたエッグベネディクトが運ばれてきた。
「あきらの手料理って感じする」
「そう ?」
ナイフとフォークのセットなんてしばらく使ってなくて、シンク下の引き出しの奥にしまってあったのによく見つけ出したものだ。
2人分の朝食が向かい合わせに並んだ。
「いただきます」
初めて家でエッグベネディクトを食べたけれど見た目通りにお店のような味がするのは、つくったのがあきらだからなのだろうか。
あきらが、そういえばと口を開く。
「真弓さんが夢に出てきたの」
思わず食べる手を止めて、あきらをじっと見た。
そして、昨日の夢で真弓が寄る場所があると言っていたのを思い出した。
真弓はあきらの夢に寄り道したに違いない。
「真弓さん、星子をよろしくねってわたしにいったの」
ああ、そういうんなら確かに浮気じゃなかったね、真弓。
でも、逆じゃないの
「よろしくって、こう言うのもなんだけど、お世話になるのはあきらのほうじゃないの」
あきらも同じことを思ったようだ。
「ええ、でもお伝えしようにもどうにもできなくてね」
そして、夢の中のあのもどかしい感覚はあきらも同じだったみたい。
「また会えるかしら、きちんとご挨拶したかった」
ため息を吐いたあきらにわたしも同意した。
「そうね、また夢に出てきてほしいわ」
本当、一生覚めたくないような素敵な夢だった。
朝食の片付けをすませてから出勤まではいつも通り。
あきらの顔を散々見たあとでメイクをすると最近ちょっと老けてきたな、なんて落ち込む。
自分の学校にいる生徒たちのキラキラした目とピチピチの肌にも敵わないというのに、あきらみたいな美少女と自分を比べるなんて馬鹿馬鹿しいとは思う。
ただ、30代に片足を突っ込んだら誰しも落ち着いた大人で、悪あがきなんてしないと思っていたけど、なってみるとそうでもないものだと最近よく思うようになった。
他人と自分は比べてしまうし、コンプレックスはコンプレックスのまま消えないどころか存在感を増す一方。
卑屈な考え事をしながら鏡を見ると、幸が薄そうな顔だとよく言われる原因であろう薄い一重まぶたの目が朝のだるさとむくみも合わせてブサイクにわたしを睨む。
その視線から逃げるように、さっさとメイクを済ませた後、髪を軽くととのえて、鏡に行ってきますを言った。
玄関でパンプスをつま先でたたいて履いていると自分の着ている服の裾を握りしめたあきらが見送りに来た。
あきらの服は部屋着のくせして妙に高そうだから、シワにならないか心配だ。
1人にするのはかわいそうだけど、春休みは学年もクラスも変わるから、名簿の整理もあるし、春休み明けは健康診断があるからその準備もしなきゃならない。
他にも仕事はたくさんあるし、先生には春休みなんてまるでない。
「ごめんね、今日はお昼には帰るよ」
あきらは、それならという感じで渋々行かせてくれた。
あまりに名残惜しそうにするものだから、脱力して服の裾から離れた手を軽くにぎってあげると、落ち着きを取り戻したようで、おだやかに
「いってらっしゃい」
と、見送ってくれた。
大人っぽいとは思ってたけど案外寂しがりやなんだろうか。
母親と別れる前に夜通し話したというのも、そういうことかもしれない。
学校へは車で向かう。
田舎だから車は必須だ。
春休みだというのに部活動に励む生徒たちに続々と挨拶されながら保健室に着いた。
カーテンを開けて、窓から入り込んでくる日差しはまぶしかった。
確実に春は、近付いている。
真弓がちょうど居なくなった、あの寒くて暗い日からも確実に時は経っているのだと実感する。
真弓は晴れ男でも、雨男でもなく、雪男だった。
もちろん、雪山に住む毛むくじゃらの怪獣というわけではなく、真弓と出かけると冬は必ず雪が降るという意味だ。
元々この地域は雨や雪の日が多いけれど、正直異常といえるほど、真弓との冬のデートの日はほとんどが雪で、困ることも多々あった。
ちらちら降る粉雪ならそれは綺麗でロマンティックで済む話なのだろうけど、この地域で降る雪といえばドサドサ落ちる牡丹雪や横殴りに降る吹雪で、たちまち地面を真っ白にするようなものだ。
真弓が死んだ日もそういう雪だった。
真弓は近所のコンビニにでも行こうとしてたのだろう、ダウンジャケットにジャージ姿で見つかった。
冷たい地面に投げ出されていて、ケータイと財布が脇道の雪山に沈んでいたらしい。
うっすら雪が被さった真弓が救急車に乗った頃にはもう、心肺停止の状態だった。
真弓の父親から、連絡を受けたときに全部聞いた。
病院へ駆けつけて目の当たりにした真弓の遺体は存外に綺麗で、あざや擦り傷がある程度。
眠っているようにしか見えなかったけれど、真弓の冷たい身体はすでに呼吸に胸を沈ませることは無かった。
脳と内蔵の損傷が酷くて助からなかったらしい。
ぶつかった車のブレーキの音、クラクションの音。
真弓は直前に何を思ったのだろう。
想像したくなかった。
耐えられる自信がなかったからだ。
正直、今でもない。
突然だったから、当たり前だけど遺言とかは一切なくて。
最後の会話も甘い話なんかじゃなくて、この生徒がどうだとか入試がどうだとか仕事の話だったと思う。
病院を出て、ふと見上げると空は明るさと暗さの間で、機嫌の悪い雲がこんなにも広い空を窮屈そうに埋め尽くしていて、真っ白な牡丹雪はまだ降り続いていた。
真弓の教えていた現代文でそんな感じの小説あったな。
死ぬ直前の願いすらわたしは聞くことができなかったと無力さに空や雪すら責めた。
部屋着のまま飛び出して来たから、駐車場までの真っ白な雪道は本当に寒かった。
真弓はこんなに寒い中死んでいったんだ。
真弓が死んだ場所にも雪がかぶって、その雪が溶けて地面を洗い流していって本当に何も無くなってしまう気がした。
寒い中、冷たい地面に突然投げ出されたのに雪は真弓の死なんて構わずに彼の体を冷やしていったのだと思うと、堪えきれない言葉にできない感情が溢れ出て、すでにぐちゃぐちゃに泣いていたのに大の大人が声を上げながら泣いていた。
だれもいない病院の駐車場で、雑に止めた愛車はすっかり雪をかぶっていた。
あれから確実に時は経ったんだ。
夢の中の真弓は春の服を着て桜吹雪の中に居たけれど、天国には春がやってきたのだろうか。
真弓は雪男だったけれど、
「俺は雪に好かれてるだけで、雪は嫌いなんだよ」
ってよく不機嫌になっていたから、春が来ているとうれしい。
換気をしようと窓を開けるとやっぱりまだ寒いし、桜はまだこの世では咲きそうにない。
春が来るのは待ち遠しいけど、真弓が居なくなった季節から時間が経つのは嫌だ。
朝に見る鏡の中で、私はどんどん年を取っていくだろう。
元々真弓より年上ではあるけどそういうのはすごく嫌だ。
悲しいのか、怖いのか、寂しいのかは自分でもわからない。
コンプレックスがわたしを押しつぶす前に、何かを見つけださなければならない気がする。
そういうなんとも言えない矛盾した感覚が寒いのに日差しの強い、3月後半の風景となんとなく重なった。
植原星子の保健室 桜井琥珀 @sakuraikohaku
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