痛風剣 猿飛 後編


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 「どうですかな、お身体の具合は」

 岡野道場師範の今村文七は新兵衛に茶を差し出した。かつて自分を鍛えた先輩が、弟子の居ない深夜の道場を借りたいと言ってきたのが二週間前。自分の教える高弟である平助に稽古をつけてもらっているのは知っていた。そして今日、新兵衛が二人きりで話したいと言ってきた理由には大方見当がついていた。

 「足は良くならんがな、達者でやっているさ。夜に道場を貸してもらって悪いな」

 「構いませんよ、新兵衛殿の頼みですから。しかし・・・・・」

 文七はずず、と茶を啜った。

 「どういった訳でまた稽古を?」

 新兵衛は押し黙って湯呑に手を伸ばしながら、俯いて声を低くした。

 「仇討ち仕合を申し込まれ、受けた」

 「なんと」

 文七は言葉を失った。齢五十を過ぎた隠居に果たし合いを申し出る輩が居ることにも驚いたが、それを受けた新兵衛にも心底驚いた。

 「相手は何者ですか」

 「金子作之丈と言って、六尺ばかりある三十男。水戸で修行し卜伝流を皆伝されたそうだ。一度だけ会った。おれが三十年も前に征伐した男の倅だ。」

 「勝てるのですか、新兵衛殿」

 新兵衛は首を横に振り、分からん と言った。

 「猿飛を───」

 「遣うさ、その為に稽古をつけてもらっているのだ。今日話したいのはその事だ。文七、おぬしは先代の牧村殿から猿飛の極意は伝えられているか?」

 新兵衛は本題に入った。息子の放った剣が紛れもない秘伝猿飛の剣捌きであったこと、そしてそれは決して稽古などで人に遣って良いものではない筈であることを伝えた。

 「極意が存在していることも、どういったものなのかも某は存じ上げております。しかし、牧村殿はその全てを伝えては下さらなかった。猿飛は邪剣であると。自分の代でその邪を封じるとおっしゃっていた。今、この世で猿飛を遣えるのは新兵衛殿だけです。」

 ───なるほど・・・・・。

 そういう訳か。新兵衛は、牧村大吾に生前言われた言葉を思い出していた。

 「この時代に、邪剣など無用の長物なのだ。」

 猿飛を伝授する為の稽古の度に牧村はこう言った。太平の世に、殺しの為の剣は不要で、人を護る為の剣こそが求められるというのが牧村の主張であった。しかし、新兵衛にはまだこれを遣う機会があると察し、猿飛を伝授したのだった。事実、新兵衛は金子喜平太との戦いの後、二度これを遣っている。

 「平助に聞いたのです。人を斬った事があるかと。平助は、未だ無いと答えました。」

 「・・・・・。」

 「某も、片手で数えられる程しかありませぬ。某は極意を伝授されるには弱輩過ぎた。逆に───」

 文七はふふっと微笑んだ。

 「平助には秘伝すら不要でしょうな。新兵衛殿は平助の剣を受けられましたか」

 「ああ。凄まじい遣い手になった。文七、お前の稽古のおかげだろう」

 「平助では敵いませんかな。その金子の・・・・・。」

 新兵衛は首を横に振った。勝てるかどうか分からん勝負に倅を行かせる訳にはいくまい、死ぬのならこの老いぼれよ。と言って茶を啜った。文七は滅相も無いというような表情だったが、新兵衛の並々ならぬ殺気・闘気を感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。


 帰路に着きながら、新兵衛は平助の剣を思い返していた。膂力も凄まじい事ながら、平助の剣には気迫があった。何年も向き合っていなかった我が子の力量に新兵衛は改めて驚嘆していた。

───しかし・・・・・。

 平助では恐らく金子作之丈には勝てないだろうと、新兵衛は思った。作之丈の気配からは、殺しの匂いが強く漂っていた。作之丈が水戸で一体どれほどの死線を潜り抜けてきたのか、新兵衛には計り知れなかった。ただ実力があるだけでは人を斬る事はできない。真剣での勝負では、相手の息の根を止める気概がなければならない。その点に於いて、平助は圧倒的に金子作之丈に劣っていると新兵衛は感じ取った。

 その日の夜から二週間、新兵衛はさとの出す食事を食べなくなった。痛風の痛みがあるとすれば、それは外的に摂取したものが原因であり、それらを完全に空っぽにするのが目的だと、新兵衛はさとに伝えた。新兵衛は、ほとんど水だけを飲んで過ごした。頬は痩せこけ、眼の周りには隈ができていたが、新兵衛は気にしなかった。 さとも平助も、新兵衛の事情を知っていた為、あれこれと口出しすることはできなかった。「戦いの最中に痛みが出ないようにする為だ」と言う新兵衛に、部外者が掛けられる言葉は無かった。その行動とは裏腹に、足の痛みは回復しなかったのだが、新兵衛はこれを口外しなかった。

 平助との道場での稽古も止め、庭に降りて竹刀を握るようになった。目を閉じて闇の中に金子作之丈の姿を描く。そしてその姿に、記憶の奥底に眠っていたあの鬼神の影を重ねる。

 ───若造め・・・・・。

 青眼に構えたまま半刻が経った。全身からじわりと汗が滲み出る。全身の神経を研ぎ澄ますと、風の揺れ、草葉の擦れ、砂粒の軋む音、すべてを感じられた。新兵衛は低く陽に構えを変えた。そのまま地を這うように砂の真上を斬り、流れるように反転して虚空を両断する。新兵衛の中で何かがむくりと首をもたげた。


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 金子作之丈は水野直次の屋敷に向けて歩いていた。時刻は暮れ六ツほどで、師走の日はとっぷりと暮れ月明かりが煌々と夜道を照らしていた。作之丈は三週間前のことを思い返していた。

 ───あれが・・・・・。

 山本新兵衛。ただの老いぼれにも見えたが・・・・・。

 作之丈は油断をしていなかった。過去には無外流の道場で高弟に数えられ、秘伝を伝えられたとされている剣士であることを水野から聞いていた作之丈は、果たし状を手渡す時にも、新兵衛の老いた姿の皮一枚下に流れる剣士の血を見ていた。

 父 喜平太が殺されたのは作之丈が七つの時で、見た目には若く見えるが作之丈は既に三十五になっていた。この齢が自分の全盛を保っていられる最後の時だと直感していた。

 水戸で卜伝流を教える矢内道場は藩内でも特に人気があり、作之丈はそこで皆伝を受けた。今は師範代として弟子を教えているが、現在の師範である真部芳勝が退役の話を持ちかけてきており、いずれは作之丈が師範となり道場を継ぐことが望まれていた。作之丈自身、城勤めに向いていない事を自覚しており、その事には何の不服も無かったが、そうなってしまえば水戸を離れる事も、人を斬る事も難しくなってしまう。

 作之丈は、幾多もの人間を斬ってきた。作之丈には並々ならぬ殺人の衝動があった。最後に斬るのは誰でも良かったが、相手に新兵衛を選んだのは、単にそれなりの理由付けが出来るからだった。父の遺恨など作之丈には微塵も無かった。ただ咎めを受けず人を斬る機会があればそれで良かった。

 ───仇討ちなど・・・・・。

 真の武士とやらでやっていればいい事なのだ。作之丈には武士の一分がなかった。作之丈は自分の述べた口上を思い返して くっく、と笑った。

 水野の屋敷に着くと客間に通されたが、そこには先客がいた。高山彦十郎は驚いた様子で、丸い目を更にぎょろりと剥いて作之丈の方を見た。

 「では、拙者はこれにて失礼仕る」

 そう言うと彦十郎は客間から出て行った。

 水野は作之丈に まあ座れ、と言うと女中に酒を持って来させ、作之丈の猪口に注ぎ、自分は手酌で開けた。茶屋で出る酒のような、甘美な香りが鼻を通り抜ける良い酒であった。作之丈は一口にそれを飲み干した。

 「誰ですかな、今のは───」

 「高山と言って、まあ儂の部下だな。おぬしと山本の仕合をやめさせてくれと嘆願しに来よったわ。これでもう三度目になる。山本は痛風を患っているらしい」

 「痛風を?」

 「ああ。外にも出られぬ程だと、しかもこれが山本の言い付けで嘆願に来たというのだから笑い物だ」

 水野は くくく、と低い声で笑うと、酒を口に運んだ。

 ───あのじじい・・・・・。

 何が老人と思って見縊るな、だ。とんだ虚仮威こけおどしを口に出来たものだ。吹けば消えるような、ごく小さな命の灯火でこの俺に立ち向かうのか。作之丈は一笑に付した。

 ───消してやろうじゃあないか。

 作之丈の中の殺人の衝動は早くも動き出していた。

 

 作之丈が水野の屋敷を出たのは夜五ツ半頃で、些か酔っていたが気分は上々といった具合だった。周囲に人影は無く、作之丈は月明かりが照らす道を宿場街に向けて歩き出したが、四半里ほど行った所で異変に気付いた。

 「誰だ」

 作之丈は鯉口を切り、低く凄んだ。何者かに尾けられている気配を感じ取ったのだ。

 「姿を現せ、俺は逃げも隠れもせんぞ」

 今度は声を大きくして言い放ち、それが闇に響くと、作之丈の知らない若い男が現れた。

 「金子作之丈か」

 山本平助は静かに言った。作之丈からはその表情が読み取れなかったが、声色には明らかな怒気が含まれていた。五尺六寸ばかりの男が放つ気配を、作之丈は十分に警戒した。

 「いかにも。貴様は誰だ、名を名乗れよ」

 「某は山本平助。山本新兵衛の倅だ。」

 作之丈は狼狽し、更に身構えた。闇に乗じて、平助が自分を殺しにきたのだと直感した。多少の酔いが残っている今、この男に襲われるのはまずい。その事を悟られるのはもっとまずい。作之丈はつとめて強気に口を開いた。

 「どういったつもりかな?」

 「父との仕合いをやめてもらう訳にはいかないかな」

 作之丈は口がニヤリと曲がるを堪えた。

 ───此奴こやつら・・・・・。

 恥も外聞も無いのか、親子揃って恥ずかしい奴らだ。作之丈の脳裏に、痛風の痛みに踠き苦しみ、命乞いをする新兵衛の姿が浮かび、また笑いを堪えた。父の仇敵は、どうやら余程死ぬ事を恐れているらしい。倅まで嘆願しに来たのだ。揃いも揃って腑抜けという訳だ。

 「断ると言ったらどうするね?貴様が俺を斬るか?」

 「・・・・・。」

 平助は答えなかった。全身が心臓になったかのように鼓動するのを感じていた。返答次第ではこの場でこの男と斬り合わなければならない。稽古ではない、命の奪い合い。未だ嘗て感じたことのない緊張が全身を強張らせた。

 「今は斬らん。」

 低い声で短く答えると、それでは父にはそのように伝える、と言い残して平助は去って行った。作之丈は全身に汗を掻いていたが、くくく と笑って再び宿場街へと向けて夜の闇の中を歩き出した。


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時刻は明け六ツ、魚屋河岸の空気は一層冷えたが、新兵衛が強く握っている拳はかじかんではいなかった。新兵衛は額に白い襷を巻いた姿で、作之丈の前に現れた。

 「臆せずに来たか」

 作之丈は新兵衛の姿を見とめて驚いた。一ヶ月前に見た時より、かなり痩せている。眼孔も窪み、隈ができている。

 「殺されるのが恐ろしくて食事もできなかったか」

 作之丈の口ぶりには明らかに侮蔑が含まれていたが、新兵衛は意に介さなかった。窪んだ眼孔からただじっと作之丈の眼を睨んでいた。

 「高山と言ったか、あの男の嘆願も虚しかったな。お前の倅も、俺の所へ命乞いをしに来たぞ。俺を斬るのかと問うたら斬らんと。腑抜けた親子だな。とんだお笑い種だ」

 それを聞くと新兵衛は じり、とほんの少しだけ足の踏み場を固めた。作之丈はそれを見逃さず、新兵衛の怒気を感じてすぐさま一足長ほど後ずさった。

 「平助に四半里も尾けられたそうだな。何度殺せただろうかと言っておったよ」

 「青二才が笑わせる」 

 平助が作之丈を尾けたのは新兵衛の指示だった。斬り合う事は絶対するなと言い付けた上で尾行させたのだ。その事に、この時になって作之丈は気付いた。

 ───あの倅は・・・・・。

 俺を斬りに来たのではない。この爺がわざわざ寄越したのだ。どの程度俺に気配を感じられずに居られるか、それを確かめる為に尾行させたのだ。今度は堪えず、口元がニヤリと曲がった。

 ───狸爺め!

 今は隠れているが、恐らく新兵衛は平助を助太刀として呼んでいると作之丈は踏んだ。機を見て倅に俺を斬らせるつもりだろう。そうでなければ、この老いぼれに勝機など万に一つもありはしない。三度も水野の所へ嘆願をさせた男だ、よほど死ぬ事が怖いと見たが、そんな男がむざむざ殺されに現れる訳がない。

 「抜け。」

 作之丈はそう言うと、青眼に構えた。新兵衛も同じく青眼に構えたが、眼前の男がもう一回りも大きく見えたようだった。作之丈の殺気は濃く、確実に新兵衛の息の根を止めようとしていた。切っ先は寸分もずれること無く新兵衛の左眼を狙っている。

 先に動いたのは作之丈だった。正面から打ち込んできたのを新兵衛は上に弾いたが、自分も上体ごと弾き飛ばされ大きく一歩後ずさった。凄まじい剣圧。新兵衛はかつて戦った狂乱の鬼神の姿を作之丈に重ねた。今度は袈裟から斬り込んできたが、これを間一髪で躱した。全身が汗ばみ、神経は全て作之丈に集中していた。

 激しく打ち込んでくる作之丈に対して、新兵衛は防戦一方だったが、作之丈は油断していなかった。このまま追い詰めていけば対岸を繋ぐ橋の根元に追いやることができる。そして平助が助太刀に来るのなら、恐らくその場所である。橋の上か、柱の陰か。どこかに隠れているに違いないと作之丈は確信していた。自分の剣を防ぐのに必死なこの老人からは、殺気を感じない。そしてとうとう新兵衛は橋の根元にまで追い詰められた。

 作之丈は八双に持ち替え、少し距離を取った。新兵衛は腰を落とし、低く陽に構える。その瞬間、新兵衛の殺気が濃くなったのを作之丈は感じた。

 ───これが秘伝か・・・・・?

 水野から新兵衛がかつて岡野道場の秘伝を受けた事は聞いていた。濃くなった殺気を見て、作之丈はこれが秘伝を遣う構えなのだと直感し、また青眼に持ち替えた。

 ───来るなら来い!

 作之丈は微動だにせず新兵衛を凝視し、身じろいだ瞬間を見逃さなかった。来る。新兵衛の発する気配を読み取り、剣を受けようとした瞬間だった。

 「あぐうっ!」

 新兵衛は呻き声を上げ、地に膝を付いた。

 ───好機!

 痛風の痛みが来たのであろう。この機を逃す筈もなく、作之丈は大きく振り上げた。しかし、その一撃を振り下ろす瞬間、新兵衛の視線が己の背後に配られているのに気付き、その直後、そこに巨大な殺気が現れた。

 ───来たか、若造め!

 「平助、今だ!」

 新兵衛が絶叫すると同時に、作之丈は身体を捻りながら反転し、背後に現れたその殺気の胴体を両断するべく全身全霊の力を込めて刀を振った。しかし、その一閃は虚空を斬った。そこに平助の姿は無い。そして同時に視界が がくりと下がり、作之丈はそのまま前のめりに倒れ込んだ。作之丈が背後の殺気に気を取られている隙に新兵衛が放った地を這うような一閃は、脛部を見事に切断していた。

 「擬態か・・・・・。」

 激しい痛みの中で作之丈は呟いた。

 高山に三度も嘆願に行かせたのも、平助に尾行をさせたのも、形相が変わる程に痩せこけたのも、そして呻き声を上げ地に膝をついたのも、平助の名を叫んだのも、全てこの一撃の為。猿飛は騙し討ちの剣。どんな手段を遣ってでも相手に隙を作ることが猿飛の極意であり、ゆえに邪剣とされていた。作之丈はまんまと新兵衛を侮り、実力を見誤り、邪推によって、本来は己の背後に存在しない、新兵衛の創り出した殺気に刃を向けた。秘伝の剣はその隙を逃さなかった。

 「お主は父より強かったぞ」

 新兵衛はそう声をかけると、作法通りにとどめを刺した。ゆっくり立ち上がると、作之丈の亡骸を一瞥して歩き出した。

 

激しい戦いに、全身が軋むように強張っている。鼓動の高鳴りはまだおさまらないが、心中は安堵していた。時刻は七ツになろう頃か、陽射しは徐々に魚屋河岸を照らしていたが、北風がぴゅうと吹くと、新兵衛の足は痛んだ。

 

新兵衛が呻いていると、平助が走ってやってきた。父上、無事ですかと声をかけてくるのと同時に、新兵衛は情けない声で言った。

 「平助、肩を貸してくれ」



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痛風剣 猿飛 @distommy

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