痛風剣 猿飛

@distommy

痛風剣 猿飛 前編

 あぐうっ と 新兵衛は低く呻いた。

 師走の北風は一層街を冷やし、年の暮れに向けて人をせわしない気持ちにした。 山本新兵衛は縁側に腰掛けて、婆さん女中のはつが淹れた茶を啜っていた。街の慌ただしさと対照的にゆるりと流れる自分だけの時間を堪能していたが、せわしない街を通り抜ける北風に足の指をぴし と打たれ、上体を丸めて悶絶した。時折やってくる激しい痛みの根源は、右足の親指の付け根を根城にしているようで、師走の風はその石垣を崩壊させるに十分な威力を持っていた。

 大丈夫ですか とはつが居間から声を掛けてきたのを聞き取ったが、新兵衛はいつもの様に右手を上げて横にひらひらと振り、大丈夫だ と合図した。

 ───近頃・・・・・。

 益々悪くなっているんじゃあないか。 新兵衛は痛みの凝り固まる右足の親指の付け根を撫でながら、目には薄い涙を浮かべていた。 五年前、息子の平助に家督を譲ってから、新兵衛は何不自由なく隠居生活を送っていた。妻のさとは新兵衛が二十七の頃に娶った十つ年下の嫁で、気立てが良く、新兵衛が隠居した後もよく世話を焼いてくれる。新兵衛は四十七の頃に人より少し早く隠居したが、若年寄りの体に気を遣ってか、さとはいつも体に良いものを甲斐甲斐しく作っては、新兵衛に食べさせた。

 ───神や仏など・・・・・。

 この世には居ないのだ。おれが一体何をしたのだ。 この頃は痛みを摩りながら、恨みや呪いを口にすることが多くなっていた。痛風を患って半年になる。

 酒も程々にしか飲まず、贅沢もせず、病気をするような生活はしてこなかった筈だったし、若い頃には道場の高弟にも数えられていた。隠居してから道場に顔を出すことは少なくなったが、天気の良い日には庭に降りて竹刀を握っていた。体力には自信があったのだ。何でおれが・・・・・ 足を摩っていると、またはつが声をかけてきた。

 「旦那さま、高山さまがお見えですよ」

 いかがなさいますか、とはつは聞いてきた。高山彦十郎は新兵衛より齢は三つ下だがもう間もなく五十を迎える男にしては艶のある黒い顔しており、ぎょろっと剥いた丸い目をした昔の同僚である。よく喋る男で、時々新兵衛の家を訪ねてきては茶をしばき、城中のあれこれをひとしきり喋り、喋り疲れると帰っていく。はつはその度に茶菓子を用意して出すのに嫌気が差してきたようで、いかがなさいますかと聞いてきたのだった。

 「通せ、高い茶は出さなくていいぞ」

 新兵衛は腰をゆっくりあげると客間に向かった。


─────────────


「達者そうだな」

 高山彦十郎はいつもの軽口でそう言いながら座布団にどかっと座り込んだ。

「十日も前にも訪ねてきたばかりだろう、そうすぐに達者でなくなるものか」

「それもそうだな。で、どうだね足の方は」

 新兵衛はちらと自分の足に目を配った。今は痛みは引いているが、いつまた痛みに襲われるか分からないという気持ちが、足に違和感を持たせる。

「芳しくはないが、問題はない」

 そうか、と大して興味もないような乾いた返事をすると、彦十郎はいつものようにお喋りを始めた。城中の事、街でのこと、家内の事、なんでもよく喋るが、新兵衛はここ最近、このお喋りを鬱陶しいと思わなくなった。足の具合が悪くなるにつれ出不精になった新兵衛にとっては、このお喋り男の話を聞く以外には、外の話を聞く機会は多くない。息子の平助は二十三になるが、幼い頃から専ら剣の修行に明け暮れており、口下手であった。道場でもあまり人と話さず、一心不乱に竹刀を振っているのを新兵衛は知っていたし、そういった性格の息子と無理に話す事もなかろうと思い、食事の時なども会話は少なかった。そういった心情を察してか、さとは色々と話題を見つけてはお喋りをしているのだが、女の言うことは新兵衛にはあまり興味がなく、いつも生返事をするばかりだった。だからこそ、毎度茶菓子を食らい飽きては帰っていくこの高山という男と話している時間というのは、あまり無碍にもできないのだ。

 「それでな、山本」

 彦十郎は少し声を低くして丸い目でぎょろりと辺りを見渡した。

 「今日はもっと大事な話がある。」

 「大事な話?」

 「金子喜平太を覚えているな?」

 「もちろんだ、忘れるわけがなかろう。」

 新兵衛が二十四の頃、城中でとある事件が起こった。半狂乱の男が忍び込み、勤務中の馬廻組の人間を斬った。城中での抜刀は御法度とされており、禁を破った者はその場で斬り捨てて良いとされていた為、その当時周りに居た何人かの藩士が応戦したが、男は襲い来る幾刃もの追撃を跳ね除け、城中を脱し、藩を出奔した。その男が金子喜平太である。

 すぐに討手が出される事となり、当時無外流を教える岡野道場で高弟に数えられ、秘伝を伝えられたと噂されていた新兵衛も、その一人に選ばれた。

 金子は七十里も離れた山村に二ヶ月近く身を隠しており、見つけた時には既に正気を失っていた。その理由は斬り伏せられた馬廻組の大野何某という男と金子が女を取り合っただとか捨てられたのだとか、悲哀の物語が背景にあったようだが、当時の新兵衛にとってそれはどうでもいい事であった。目の前に居るこの尋常ならざる者に勝てるのかどうか、そればかりを考え、新兵衛は金子と相対した。

 四半刻あまり斬り結び、新兵衛は金子を討ち取った。全盛と言っても過言ではなかったであろう当時の新兵衛をして、金子は鬼神の如き強さを見せた。新兵衛は襲い来る猛撃を一刃、一刃と跳ね除け否し、最後に一瞬の虚を付いて秘伝を遣ったのだった。

 百二十石の家禄が加増され、百五十石となった。これは特別の大加増という訳ではなかったが、新兵衛にとっては武士としての功績を認められた誇らしい時代だった。もう三十年近くも昔の事である。


 「金子には倅が居た。」

 あっ と声にならない声が咽頭を突き、噎せながらも全身の毛が逆立つのを感じた。思いもよらぬ報せに、鼓動が早まった。

 「待て、待て」

 落ち着かせてくれ。新兵衛は彦十郎の話を遮って、茶を啜った。

 「・・・・・仇討ちか」

 「そのようだ。」

 「馬鹿な、倅が居たとして、おれが金子を討ち取った当時じゃあまだ赤ん坊だろう。恨み節を言われる筋合いなどない。そもそもあれはお上直々の尋常な討伐だ。文句を言うのならおれでなく、お上に言うべきだろう」

 「それがどうも、そういう事にもならなさそうなのだ。彼奴は水野殿と繋がっている」

 「水野殿と?」

 水野直次は藩内で今もっとも大きな派閥を持つ一代家老で、新兵衛達の上司の更にその上の上司にあたる。直接話す機会はあまり無かったが、城中で姿を見かける事はあった。歳の頃は新兵衛と同じぐらいだが、蓬髪で、浅黒い肌の大男だ。しかし何故、時の大家老と俺が征伐した狂人の倅が繋がっているのだろうか?新兵衛には心底疑問であった。

 「盗み聞きして尾けたのさ。いいか、よく聞け。お前の討った金子喜平太は、水野殿とは昵懇の仲だったそうだ。幼い頃より兄弟同然に育ってきたらしい。これは水野殿が金子の倅に言っていた事だから間違いないだろう。そして喜平太の倅、作之丈というそうだが、おそらくとしは三十くらいだろう。こやつは母方に育てられ、今まで水戸で暮らしていたそうだ。しかし卜伝流ぼくでんりゅうを皆伝され、今ぞ好機と思い立ち、わざわざ仇討ちに来たそうだ。」

 そこから先は彦十郎の喋る事が頭に入ってこなかった。言葉を失うしかなかった。普通ならば、尋常の討手に遺恨を持っての仇討ち仕合いなど認められる事ではない。しかし水野の息が掛かっているとなると、話は別だった。お上に事情を通すには、どうしても水野の手の者を介さなければならない。

 遥か昔に討ち取った強敵、その息子が今自分の命を脅かそうとしているのだ。身体の不調はありながらも、平穏の日々を過ごしていた新兵衛にとっては、まさしく青天の霹靂だった。

 「それを知って慌てて報せに来たという訳だ。どうする?この俺にできることなら───」

 何でも言いつけてくれ、と言うと同時に襖越しにはつが、金子さまという方がお見えです、いかがなさいますか と言ってきたのを聞き取った。彦十郎は顔を真っ青にして新兵衛の顔を見ていた。新兵衛は温くなった茶をぐっ、と飲み干した。

 「わしが出る」


─────────────


金子作之丈は六尺程もある背の高い男で、色白で面長、女のような顔をしていたが、高い鼻、そして茶色い瞳を見て、新兵衛はかつて自分が討ち倒した金子喜平太によく似ていると思った。

 ───なるほど・・・・・。

 確かによく似ている。顔の造形もそうだが、作之丈の放つ闘気、威圧感のようなものは、かつて新兵衛が相対した鬼神の如き男とよく似通っていた。異なっているのは、金子喜平太が孕んでいた狂気がこの男には無いということ。新兵衛に果たし状を手渡すと、作之丈は威圧的な言葉を使わずに遺恨の果たし合いを申し出た。

 「一ヶ月、猶予を設ける。山本新兵衛殿、受けて立ってくだされ。」

 色々な思考が脳を駆け巡った。他の家老に相談は出来ないか?否、最大派閥である水野の手の者である以上、救いは見込めない。平助に代わってもらう事はできないだろうか?否、仮にそれを金子が了承した所で、平助がこやつに勝てる確証は無い。敗れ、殺されるのならば、老い先短い自分であるべきだ。新兵衛は受けて立つより他ならなかった。

 「相分かった。受けて立とう。しかしこの山本新兵衛を年寄りと思って見縊みくびる事の無いよう───」

 作之丈が では、と言って去って行ったのを見届けると、全身からどっと脂汗が噴き出た。人間の殺気に中てられる事など、人生で一体何度あることだろうか。

 足の痛みを堪えながら作之丈が遺恨を述べるのを聞いていたが、新兵衛には何の実感も湧かなかった。三十年前に命ぜられた使命を、命ぜられたままに果たしただけの当時の新兵衛は、その背景にある人間のいさかい、遺された者の怨嗟、そういったものを思慮する程に成熟はしていなかったし、人生でもっとも人間がその本来の力を発揮する灼熱の時、その最中さなかの戦いに、自分が勝って生き延びること以外を考える余裕などは無かった。

 ただ突然、三十年振りに全く思いもよらぬ、自分の命を脅かす敵が眼前に現れた。新兵衛は大きく身震いした後で、くっく と笑った。三十年前に討ち倒した者の亡霊が、今また全盛の肉体を得て自分を殺しに来たのだ。

 「高山、すまんが水野殿にこの果たし合いを無いようにできんかと相談してきてくれないか。山本新兵衛は痛風を患っており、外に出られぬ程だと───」

 既に金子と繋がっている水野に嘆願する意図が彦十郎には分からなかったが、相分かったと応えて新兵衛の家を出て行った。

 ───高山には・・・・・。

 この件がひと段落したら、茶屋の酒でも飲ませてやらねばなるまいな。

 城中で、家老とその客の会話を盗み聞き、あまつさえその客を尾行するなど、普通の者なら絶対に真似できないだろう。相当に肝が据わっている、いや、奴の場合は厚かましいというのか。

 ───俺も・・・・・。

 はらを決めなければなるまいな。 新兵衛は額の汗を袖で ぐぐっ と拭うと、はつを呼び、平助とさとを居間に呼ぶように言い付けた。


─────────────


 「父上は猿飛さるとびの秘伝をご存知ですか?」

 人の居ない深夜の道場で新兵衛と相対しながら、平助は聞いた。岡野道場に伝わる猿飛は、三代目の師範であった猿飛新五左衞門が工夫した剣で、師範からまた次の師範、そしてそれぞれの代の特に優秀な高弟のうちのたった一人に伝えられる秘伝であった。新兵衛は平助の口から猿飛の名が出た事に驚いた。

 「知っておる。お前、猿飛を伝えられたのか」

 「はい。噂では父上にも伝えられたと聞きました」

 「いいや、確かにおれは若い頃は腕の立つ剣士であったが、秘伝は伝えられなかった」

 「左様ですか。」

 新兵衛は嘘を吐いた。岡野道場の先代師範である故・牧村大吾によって猿飛が新兵衛に伝えられたのは、二十二の頃だった。猿飛には二つの剣がある。一つはまやかしの剣。無外流を教え、特に人気のある岡野道場には弟子が多く、秘伝の存在は口々に広まってしまう為、もし試合の場などで猿飛を使ってみろと言われた場合の、見せかけの剣が存在した。構えを解き、脱力して相手の打ち込みを待つ。そして相手の殺意の全てが一点に集中するその瞬間を見極め躱し、上体を半身捻って脇腹を薙ぐ。

 もう一つは必殺の剣。これが真の猿飛だが、これは邪剣とされていた為、人前で遣う事は禁じられていた。つまり、一対一の殺し合いでしか遣われる事のない剣である。低く陽に構え、相手の剣を弾き地を滑る様に相手の脛を薙ぎ払い、背後に回って頸部を両断する。これ自体は単なる剣捌きであるが、猿飛が邪剣とされたのには他に理由があった。

 「おれに猿飛を遣ってみろ。本気で打ち込んできて構わん」

 平助は狼狽した。 二週間前、新兵衛から果たし合いを受けて立ったと聞き、頼まれてから今日まで平助は新兵衛に剣の稽古をつけてやっていた。一ヶ月の猶予があるならその間に少しでも鍛えておきたいという父の頼みを平助は受け入れるしかなかった。自分が代わりに戦う事を新兵衛に進言したが、それは聞き入れられず、もはや平助にできることは、父が死なぬよう、少しでも全盛の頃の剣の勘を取り戻すその手伝いをする事だけであった。しかし、猿飛の名を聞いて父の様子が変わったのを平助は感じ取った。

───あるいは・・・・・。

 父は昔からこの秘伝を渇望していたのではなかろうか。この剣さえ遣えればと、そう思いながらもそれを伝えられる事なく年老いていったのだろうか。そして今この剣を受けてそれを手に入れようと・・・・・。

 「父上、猿飛を遣いたいのならばそれがしが伝授します」

 「いいから、打ってこい」

 父の放つ気迫に圧し負け、平助はすぅ、と一呼吸すると低く陽に構えた。

───猿飛は・・・・・。

 伝えられなかったのか。新兵衛は平助の剣を受けながらそう思った。平助が遣ったのは、猿飛に伝わる瞞しの剣ではなく、一対一の殺し合いでしか遣う事を禁じられた必殺の剣であった。そして、それもあくまで剣捌きのみの動き。膂力りょりょくで大きく新兵衛を上回る剣は凄まじい気迫であったが、猿飛が邪剣とされるその極意は込められていなかった。

 「見事だ。」

 平助の剣を全て受けきると 今日はこれで終いにしようと言った。防具を脱ぎ、汗を拭いながら新兵衛は息子の成長ぶりに感嘆した。最後に道場で息子と竹刀を合わせたのは何年前だっただろうか。平助は見違える程に強くなっていた。全盛の頃の自分をしても勝てるかどうか・・・・・。新兵衛はふうっと大きく息をついた。

 しかしなぜ、平助は瞞しではない、真の猿飛の剣捌きを遣ったのだろうか?平助の口ぶりから、猿飛の極意が伝えられた様子はないように思えた。新兵衛には疑問であったが、一息つくと足の痛みがやってきた。

 「平助、肩を貸してくれ」


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