そして彼女の一日
スッと頭の奥に響くような電子音が部屋に鳴り響く。
それは目覚まし時計の音で、それは与えられた仕事を十全に全うした。
「ん……」
しかし微睡みを漂う私の意識は中々完全には浮上しない。
更には寝ぼけながら目覚ましに手を落とすように、力なくアラームを切ってしまった。
というか今日は休みなのに何故に目覚ましをセットしたのか。平日の癖が出てしまったのだろうか。
ともあれ大学の授業もないので、二度寝を決め込もうと布団を被ろうとすると、
「お姉ちゃーん! 私もう行くからねー。応援宜しくー!」
そうだった。今日は妹のテニスの練習試合があったのだった。
「…………」
妹が玄関の扉を閉める音が聞こえてからきっかり十秒後、私はゆっくりと身体を起こした。
若干寝ぼけつつリビングに出ると、テーブルの上には既に朝食が用意されていた。
食パンと牛乳、サラダにベーコン、スクランブルエッグと、ある意味理想的な食卓だった。
妹は普段こんなに気合を入れて食事を作ったりしないが、それだけ今日の試合には思うところがあるのだろう。
確か、公式試合では決着をつけられなかった選手が今日の相手校にいるとか。
「まぁ、健全な青春を送っているのならそれに越したことはないか」
それに比べて自分の高校時代は波乱に満ち溢れていたなと思いつつ、なんとはなしに庭に面しているしきり戸の辺りに目を向ける。
そこには我が家の愛猫が毛布に包まって幸せそうに眠っていた。
柔らかな日差しが当たって暖かい空気の中、今日もお猫様は良い夢を見ているらしい。
春眠、暁を覚えずとは言うが、それは猫にも適用されるらしい。
等々、色々と考えつつ朝食を頂く。食事を咀嚼していると徐々に目も覚めてくる。
すると漸く壁にかかっている時計の針が示す時刻が頭に入ってきた。
「しまったッ……」
待ち合わせに間に合わせるには、結構ギリギリな時間になっていた。
「おねーさん先生おはようー!」
「おはようございます」
見慣れたマンションの入り口前に行くと、既知である小学生の姉妹が既に此方を待っていた。
「ああ二人共、おはよう」
手を振って迎えるのはいつも元気な妹の方。
それとは対照的にしっかりと落ち着いて挨拶したのが姉の方だ。
二人は私が高校生の時から個人的な家庭教師をしている生徒達だった。
ある切っ掛けで知り合うようになり、それが親御さんにも知られるようになってそのまま頼まれて勉強を教えたのが始まりだ。
「すまない、待たせたか?」
「ううん、全然大丈夫だよ」
「なら良かった」
寝坊で約束の時間に遅れそうになったとは流石に言えない。個人の家庭教師とはいえ、教える側としての威厳とかそういうもの的に。
この二人は何度か私の家でも勉強を教えていたこともあり、妹とも顔を合わせておりそれなりに仲が良かった。
そういうこともあり、前からの約束通り私達は妹の試合を観戦しに行くことになったのだ。
「お姉ちゃん先生、行こう?」
姉の方が言った事に同意し、私達は歩き始めた。
暫くスポーツクラブへの道を進み、とある横断歩道を渡る。
すると、
「お? よう、久しぶりじゃん」
「……ん? ああ、お前か。久しぶりだな」
車道に止まっていた原付バイクから声をかけられた。
見てみると原付に乗っていたのは高校時代の同級生の男だった。
そいつは着崩した作業着姿で、如何にも今から仕事に出掛けますという格好をしていた。
確かコイツの家は電気屋を営んでいたはずなので、その手伝いか何かなのだろう。
その後軽く会話をしその場を離れたが、去り際に(偽装)交際をしていたのを小学生姉妹に暴露され、追及を躱し宥めるのに苦労してしまった。
内心げっそりしつつも、会場であるスポーツクラブに到着。テニスコートに向かう。
やってきたテニスコートでは既に交流試合は始まっており、中々見応えのある攻防のようだった。
辺りを見渡すと、母校側のベンチ近くの観客席に部員達と共にいる妹の姿を見つけた。
「おーい、来たぞ」
声をかけるとすぐに妹はこちらに気付き手を振ってくる。
「あ、やっとだよ。君達も来てくれたんだね。今日は楽しんでいってね」
「はい!」
「うん!」
小学生姉妹は元気良く応えた。
姉妹は妹に良くなついており、何時か妹がテニスをしているところが見たいと言っていたのが、叶った形である。
妹に話を聞くとライバルとの試合は昼食後からとなっており、それまで姉妹は母校のテニス部員達に可愛がられていた。
そうして昼食を挟み、もうすぐ妹の試合になろうという時、誰とはなしに喉が渇いたという話が出るも、飲み物を切らしていたので外に買いに出掛けた。
するとスポーツクラブの敷地内にある遊歩道の先で、なにやら喧騒の音が耳に届いた。どうにもただ事ではない雰囲気を感じる。
気になったので近寄ると、男達による争いが起きているようだった。
どうやら一対多数での争いらしく、しかもたった一人の方は妹と同じクラスの後輩だった。
「……またか」
思わず頭を抱えたくなった。
この一見何の変哲もない後輩男子、実は少年漫画に出てくるような魔法使い(ちゃんとした名称はどうでもいい)で、時々そっち方面の悪人と戦っているらしい。
今回もそういう事なんだろうと更によく見ると、白い子犬が集団に囲まれているのが分かった。
彼らの動きを見るにその子犬を捕まえようとしてこんな騒ぎになっているらしい。
若干この状況に呆れつつも集団に駆け寄り、乱暴に子犬を捉えようとする輩の頭に近づいた勢いのまま蹴りを入れる。
「騒ぎがすると思って来てみれば、動物虐待の現場に出くわすとはな」
動物好きな自分としては、一も二もなく後輩の援護に回る。後輩がこういう事に関わっている時は命のやり取りも含む為、遠慮は一切いらない。
「なあ、後輩?」
「……ホント、タイミング良すぎですよ先輩」
後輩に言ってやると、彼は心底安堵したように息を吐きつつ答えた。
いくつか後輩とやり取りを交わし、野蛮な集団の相手をする。此方は徒手空拳ではあるが、後輩がかけてくれた身体能力が上がる魔法のおかげで、彼らとやりあっても問題はなかった。
そんな中で、敵の攻撃の巻き添えを食いそうになった子犬を庇うと、それ以降子犬は私の後ろに位置するように立ち回っていた。どうやらかなり頭は良いらしい。
後輩と協力し、ものの数分で相手達を無力化すると、今度は何やら子犬もとい子狼に話しかけていた。
彼は人の言葉が分かるこの子狼を安全に保護したいらしかったのだが、子狼はなぜか私と一緒でなければ嫌だとごねた。
後輩も色々説明するがそれでも困っているようなので、助け舟を出してやった。
「だがそうだな。私の後輩が面倒見てくれるなら、時々様子を見に行けるんだが……」
「ガウ!?」
真っ白な毛並みの子狼はこの話に食いつき、後輩の方も検討してみるという方向で話がまとまった。
そして私は軽く後輩に挨拶し、その場を離れた。
テニスコートに戻る途中、忘れずに近くの自販機で飲み物を買う。
戻ると、妹の試合が丁度始まるところだった。
「遅いよー、どこまで行ってたの?」
「悪い悪い。ちょっと知り合いと出くわして話し込んでいた」
嘘はついていない。
ともあれ、妹の試合を観戦。
試合開始から高レベルの打ち合いで、すぐに引き込まれた。
妹は全国トップクラスの実力者であり、相手方も相当のプレイヤーだと察せられる。
それまでのゲームはどちらかと言えば和気あいあいとしたものだったが、これは本気の勝負だった。
白熱した試合展開、激化するラリーの応酬、過激とも言えるスマッシュの勢い。どこをとっても素晴らしいと言えるゲーム内容だ。
観客全てを魅了した試合の結果は、僅差で妹が勝利した。
その健闘を皆と称え、暫くして解散の流れになったので、私も姉妹を連れて帰路につく事にした。
途中、妹の試合などについて感想を述べ合ったりして楽しく会話しつつ、二人を送り届け、その後は軽く買い物をして帰宅した。
そして夜。
家で飼い猫とまったり戯れていると、親友とも呼べる存在からSNS経由で連絡が来た。
“バスジャックなう☆”
「…………」
自分でも渋面を浮かべていることが分かった。
今度こそ親友やめようかと思った。が、そういう訳にもいかない。
メッセージを送ってきた人間は普段から言動が不規則めいておりハッキリ言って馬鹿なのだが、こういう事では嘘も冗談も言わない奴なのですぐさま行動に移った。
方々に探りや連絡を入れてバスジャックについて調べるが、どうにも警察が動いていないようだった。
バスの運営会社等から通報を受けている筈なのに、出動している様子が見られない。
それどころか聞き込みをしていると、話が通じていないかのような違和感を感じる。何か普通ではない作為的なものを感じた。
少し考え、後輩に連絡する。
「あの馬鹿が、バスジャックに巻き込まれたようだ」
電話の先から息を呑む気配がする。
「何か知っているのか? 早速で悪いが昼間の借りを返してもらう」
どうやら後輩側も、別ルートでバスジャックの事を知っているらしい。
色々と調べ物や準備などをし、後輩がバイトをしている魔女の喫茶店へとバイクで向かう。
喫茶店へ着くと既に軒先には後輩と店主である魔女が待っており、バイクに跨ったまま現状確認に入る。
ヘルメットを脱ぎながら言う。
「バスは今、高速道路でこちら方向に走っているところだ。人質はツアー客二十数名」
「こちらからも。犯人は取り合あえず判明しているのが一人。拳銃を所持していて特殊な弾丸を使用しているわ」
「特殊な弾丸?」
「そうです先輩。弾丸には強力な呪術が施されています。無機物に当たった場合には普通の銃弾ですが、生物に当たった場合は……」
「呪い殺される、か?」
「ええ、魔術的に抵抗力を持たない人なら確実に死に至らしめるわ。掠っただけでアウト」
「なんだってそんなものが。それにバスジャックの理由は?」
「どちらも不明よ。けどそれは今はどうでもいいでしょ? 犯人の素性も、動機も、手段も」
「……そうだな。ああそうだ」
そう、大事なのは犯人側の事情ではなく、人質、ひいては私の親友であるあの馬鹿を救う事。
いつものようにやるべきことをやる。それだけだ。
「行くぞ、後輩」
「はい!」
勢い良く返事をして後輩がタンデムシートに座る。
後輩が予備のヘルメットを装着したのを確認して、私はバイクを発進させた。
数時間後。既に深夜と呼べる時間帯。
私達は先回りして、件のバスが通るであろう高速道路の一角で待ち伏せをしていた。
場所としては都会から離れたド田舎と言える土地であり、十キロ程平野部が続いている。
夜空を見上げれば、地上からの光が殆どなく空気も澄んでいる為、ハッキリと満天の星空を見ることが出来た。
予想ではバスがここに来るまでまだいくらか時間がある。そんな中で、ふと後輩が口を開いた。
「先輩。先輩は何故こんな事を続けているんですか?」
「ん?」
「いや、前から聞いてみたかったんですよね。どうしてこんな事をしているのかって。辛い事や悲しい事だって沢山あるのに」
後輩は顔をこちらに向けて問いかけてくる。ただの興味本位ではない事がその真っ直ぐな瞳から感じ取れた。
……どうして、か。
後輩の真摯な眼差しから視線を外し、夜空を眺めながら考えを口にする。
「……どう言えばいいんだろうな。そうだな……。私には、線がよく見えるんだ」
「線?」
「ああ。良く言うだろ。最後の一線、とか、超えてはならない一線、とか」
一息吐いて、続ける。
「三年、いやもう四年前か。お前も知っているだろ、あの事件の事」
「はい。先輩はその時……」
「言わなくていいさ。……兎も角、その時から“一線”というのが良く見えるようになったんだ。物の見方が変わったんじゃない。立ち位置が変わったんだと思う。よりその一線に近い位置にな」
後輩は黙って聞いていた。
「だからその一線の近くをフラフラする奴が普通の人間より目に付くんだ。手の届く場所で一線を超えそうな奴がいる、放っておいたら目覚めが悪いだろ?」
言うと、後輩が笑顔を浮かべていた。
「なんだその顔は?」
「先輩って、実はお人好しですよね?」
その言葉に小さく吹き出した。
「そんなんじゃないさ」
呟いて、自然と視線が下がった。
そんなものではない。私のような人間を増やしたくないだけなのだ。
一線とは、越えてはならないから最後の一線と言われるのだ。私は“あの時”に一線を越えてしまった。
超えてしまった先に心の平穏はない。自分ではどうすることもできない悔恨と悲哀が胸の内を埋め尽くすのだ。
だから私は目の前でそんな人間が生まれるのを止めたいのだ。
だから私はそんな人間を支えてくれる誰かを助けたいのだ。
ただ、それだけの話だった。
その時だ。遠くからこちらに向かってくるヘッドライトの光が見えた。
徐々に近づいていき、そして猛スピードですれ違うのは親友が乗っている筈の大型バスだった。
「先輩!」
「ああ、乗れ!」
すぐさまバイクに跨り、急発進する。
こうして、私は今日という日々を過ごしていく。
目に付く誰かに一線を越えさせない為に。どんな手段を用いても一線から引き離す。
それが、一線を越えてしまった私の進むべき道と信じて。
とある一日の出来事 風呂 @furo
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