第4話 破れた地図、そのかなたへ

 いつもと同じ朝だった。ベッドから起き、カーテンを明ける。昨夜からの雨がまだ降り続いている。煙草に火をつける。吐き出された煙が、淀んだ空の色と同化する。TVはつけない。音楽も聴かなくなった。全てが雑音にしか聞こえなくなって、どれくらいたつだろう。煙草をもみ消し、シャワーで顔を乱暴に洗う。水が重い。しばらく、流れ出す水の音を聞いていた。それに何の特別な意味はない。特別な意味をもつ行動は、あの日からしないようにしてきた。ワイシャツに着替え、ネクタイを選ぶ。電話の音。時計を見る。七時を過ぎたところ。ちょうど四回の呼び出し音の後、受話器をもつ。雨、降ってるね。二年ぶり。声は変わっていない。ああ。しばらくの沈黙のあと、ヒトミが訊ねた。時間大丈夫? ネクタイを選んでたところさ。そう。仕事続けてるんだ。続けられることをただ続けていくしかないんだ。そんなことをずっと昔、ヒトミがいっていたのを思い出す。忙しい毎日さ。ただの会話。それを続けるつもりはない。大丈夫? まだ時間はある。そうじゃなくて今夜会えるよね。夜ならいい。受話器の向こうでヒトミが笑うのがわかった。どうした? 昔はそんな言い方しなかった。昔は昔さ。もう一度、ヒトミが寂しげに笑った。じゃあ、待ってる。あの場所で。わかった。受話器を置く。


 ネクタイを選び、首に締め付ける。犬みたいだ。鏡の中の俺が笑う。一瞬、ヒロトに嘲笑われたような気がした。部屋のキーを持ち、靴をはく。靴先が昨夜の雨で汚れている。気にせず、ドアを開ける。汚れてしまったのは、靴だけじゃない。汚れていることさえわからなくなってしまったものをひとつかかえてしまっている。


 ヒリヒリしたいんだ。ヒロトの最後の声。今でも忘れない。俺が連れてきてしまった危険な話。どうしていいかわからなくたった俺はヒロトに相談した。本当はそんなことをするべきではなかった。わかってしまった時にはもう遅かった。一晩中、探し回って、やっと見つけたヒロトは血まみれになって公園で倒れていた。とっさに触った右手のどうしようもない冷たさが今でも心を離れようとしない。死。それを受け入れることは出来ても、そこから踏み出せない。あれから四年が過ぎようとしていた。雨の道がくすんで見える。今度の土曜日がヒトミの誕生日だったことをふと思い出す。お互いに二十九歳になろうとしていた。何者でもない時間が、ただただゆっくりと過ぎようとしている。ヒロトの死を伝えたとき、ヒトミは何も言葉にせず、ただ涙だけを頬に伝わせていた。俺は自分を恥じ、そして一人で逝っちまったヒロトに伝えようのない怒りを感じていた。一年後、ヒトミに会い、全てを話した。話すことで俺自身が癒されようと感じていたのかもしれない。ヒトミの言葉。私たちは生きている。そしてヒロトっていうどうしようもない奴がいたことを忘れなければいい。それだけを絞りだすような声で話した。


 あれからずっと夜が続いている。陽のあたる場所のまぶしさを恐れている。それでも俺たちは生きることを選択した。ヒロトに生き続けることを勝手に選択させられてしまった。忘れないでい続けることが、ひどく残酷なことのように思うことも時折あった。駅が見えてきた。いつもの時間。いつもの電車。そしていつもの仕事が待っている。いったいおまえは何者になりたいんだ。地下鉄のプラットフォームに吹く風が問い詰めるようにささやいた。


 雨、止んでよかった。まだ雨で濡れている廃車のボンネットに飛び乗り、空を見上げ、ヒトミがいった。危険の入り口のようで、ドキドキできた、そして三人がいつも集まった場所。鉄くずと油のまじりあった匂い。秘密基地。みんなには内緒だ。そういったのはヒロトだった。あの頃はよかったなんて言葉を吐かない大人になろう。三人がここで最後にあった卒業式の前日。そんな話をした。俺たちは本当は何も知らなかった。知らないことが強さになり勇気にもなった。


 カズヤ、私たちは破れた半分の地図を持って、今日まで生きてきたように思うの。煙草に火をつけ、ヒトミのほうを見た。月の光。ヒトミの顔を照らす。その地図をもって、いろんな道を歩いてきた。一緒の道を歩いたこともあるよね。それから右にいったり、左にいったり、時には迷ったり。でも、けっして同じ道を引き返そうとはしなかった。でも、その半分の地図にはゴールはないの。もう半分の地図に書かれているかもしれない。そう思って、あれからずっとその破れたもう半分の地図を探したわ。でも見つからない。苦しんで苦しんで考えた。もう半分ははじめからなかったんだって。これからは地図のない道を、自分で歩いて、地図を書き上げていくしかないってことに気づいたの。ねえ、カズヤならわかるでしょう。地図のない道を歩いていく勇気とその意味について。今、私たちが別々に持っている、その破れた半分の地図を捨てて、新しい地図を二人で書こう。

 ヒトミの気持ちが痛かった。心の奥の錆びた鎖がぎしぎしときしみながら、ほどけていく感触。手のひらによみがえる熱。頬を伝っているのが涙だと気づく。真っ白な何も描かれていない地図に一粒零れ落ち、まるで道のように、その地図に広がり滲んでいく。何かが月の光に照らされて輝いている。差し出されたヒトミの手とそこに握られたハモニカ。俺はハモニカをそっと口に近づけた。メロディー。喪失の中で手に入れた想い、忘れてはいけない想い、新しいはじまりの想い、宝石箱に大事にしまっていた想い。月とヒトミとヒロトだけには伝えるべきだった想い。

 曲名をつけて。吹き終わった後、ヒトミが抱きついてきて、耳元でささやく。ナイーブな果実たち。そういった俺を、ヒトミは強く抱きしめ、唇にふれた。

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イノセンスの行方 赤黒96 @akakuro96

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