第3話 一瞬のためのライセンス

 待っていた。ただ待つと決めた。新宿中央公園のはずれのベンチに座り、五本目の煙草に火をつける。銀色のジッポーが月の光に照らされて、一瞬、妖しい光を照らし出す。風は奇妙に生暖かい。もうすぐこのあたりにも桜が咲くのだろう。高校を卒業して四年が過ぎていた。印刷工場での生活は、同じことを繰り返す毎日だった。ただ生きるために働く毎日。父親を高校二年のときに事故で亡くして、進学することをあきらめた。変わりに大人になることを選択した。周りはいろいろ言ったが、子供のころから、命令されるのが嫌いだった。ただ自分で決めたことは、必ず守る。迷ったときは苦しいほうを選択する。それが、大人になるために自分に課したルールだった。つきあった女には、生き方が下手だといわれたこともある。俺は、無表情に笑っていた。大人になることを選択してから無口になった。無口になった分、考えることが多くなった。輪転機の回る音を聞きながら、油にまみれた指先を見つめる。、時折、声をなくしたような気がして、中原中也の詩をつぶやいてみる。子供のときほど、彼の言葉は心に響かなくなった。いや、心に響かせるのを恐れているのかもしれない。

 ヒリヒリする瞬間。生きてることを確認できる瞬間。そんな瞬間を喉をかきむしるほどに欲しがっている。それを確認したのは、二人と再会したあのときかもしれない。ヒトミとカズヤの声を聞きながら、俺は生きる資格について考えていた。帰り際、ヒトミに言った言葉は、本当は自分の心の奥に潜んでいる何かに対して言った言葉だったのだろう。ヒロト、自分の空を見たことがあるかい。自分が生きていることを確かめたい。ギリギリのところでヒリヒリする瞬間を過ごせたら、もしかしたら俺にも生きる資格が与えられていることを確認できるかもしれない。


 携帯電話の電源はさっき切っておいた。今頃、カズヤは俺を探しているかもしれない。しかし、この橋は俺一人で渡るべき橋だった。それであいつも助けてやれる。同時に俺は生きる資格を手に入れる。革ジャンの内ポケットを無意識に触っている。ナイフ。月の光に心がヒリヒリと反応している。たった一度、たった一度だけでいいから目の前のラインを飛び越えて見る。


 男が、ふらふらとやってきて声をかける。あんちゃん、煙草もってるかい。男の顔が親父の顔と重なった。一本分の話しと引き換えだ。男はにやりと笑い、くさい息をはきながら、隣に座った。いいよ、あんちゃん。俺が差し出した煙草をしわくちゃの手で取り、口にくわえる。俺はジッポの火を向ける。男の顔が火に照らされる。一瞬、父親の顔と合わさる。大きく煙を吸い込み吐いた後、男は話し出した。こんな生活をしてるとな、不自由さとか自由さとか、幸せとか、不幸とか、昨日とか明日とか、愛とか、憎しみだとか何にも関係なくなるんだ。死ぬことに意味がないように、生きてることにも意味なんてないんだ。俺を特別だと思うかい。この街で、たくさんの人たちが毎日、毎日、俺たちを虫けらのような目で見て、早足で歩き去るけど、やつらだって、中身は同じだ。何も俺と変わらない。だけどな、あんちゃん、生き続けることには、意味があるんだ。生き続けている今、この瞬間には価値があるんだ。その瞬間がもしかしたら、誰かの心に残るかもしれない。その誰かから誰かに語られるかもしれない。それが永遠につながるかもしれない。人は人によって生かされてるんだ。自分一人で生き続けることは、出来ないんだよ。生きていることを忘れずに憶えていてくれる人がいないとな。俺は頭がおかしいか。いいや。俺がそういうと、男はもう一度、歯のない口でにやりと笑いふらりと立った。このスーツケースはなんだ。ただの砂が入ってる。俺が答えると、そうか、煙草ありがとなといって、現れたときと同じようにふらふらと暗闇に歩き消えていった。


 カズヤがある男から偶然、預かったスーツケースには、白い粉が入っていた。その男が殺されているのを、一週間前の新聞で見つけたとカズヤが電話をよこし、二人で会った。スーツケースは俺が隠した。それから、カズヤと俺のところに見知らぬやつらの影がつきまとうようになった。やがて、俺のところに電話がはいった。取引。六千万。それが高いのか安いのかわからなかった。金などどうでもよかった。心がヒリヒリする瞬間がきたと感じた。午前三時。場所と時間はこちらで指定した。カズヤには、安心しろ。今夜で終わるとだけ伝えた。車のクラクションが聞えた。風が少しだけ冷たくなった。約束の時間にはもう少しある。

 俺はベンチから腰をあげ、最後の煙草に火をつけた。後ろに誰かの気配がした。気のせいかもしれない。さっきの男がまだその辺にいるのかもしれない。俺は、満天の星を見上げた。素直な気分が少しずつ俺を楽にさせた。もうすぐ終わる。これで、新しくはじめられる。一度だけ生きる資格があることを確認できればいい。そして、カズヤとヒトミとまた三人で会おう。話したいことはいくらでもある。聞いてやるべきこともたくさんあるだろう。

 背中に一瞬、痛みのようなものを感じた。何かが身体の中に入ってきている。内臓が叫び声をあげた。ふいに力が抜けて、膝をつく。黒いコートを着た男がスーツケースを持ち、走り去るのが見えた。唇が地面につく。砂利が口の中に入り込む。何度か咳き込む。立ち上がろうとして、また倒れる。砂利を噛む。錆びた鉄くずの味がする。どこかで嗅いだ匂い。いつも心にしみついてた匂い。秘密基地の匂いと同じだとはっきりしたとき、目の前が闇に変わった。

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