第2話 空の青さに泣く

 空は青かった。スクランブル交差点の途中でふと足が止まった。ずっとうつむいて歩いている自分に気づき、昨夜の雨で出来た路上の水たまりがまぶしくて上を見上げた。空は青かった。高層ビルの隙間から見える空が、こんなにも青いことが信じられないでいた。雲ひとつなく、まだ朝の太陽は、やさしい光をくれていた。ようやくコートが脱げる季節が来る。だけど何も変われない、何も私の心は脱ぐことは出来ない。街は相変わらず人であふれている。後ろから誰かが背中を押した。何かを思い出しそうになった。それが何か気づいてはいたけれど、近頃はもう考えないようにしてきた。いつまでも足を止めてはいられなかった。歩きだした。社会へ出て一年が経とうとしている。あれから、忙しい毎日が続いていた。時計を見た。八時四十五分。少しだけ足を速めた。生きていくためには、時間は、もう自分だけのものではなくなっている。ビル風に乱されないように髪を押さえる。二つ目の信号。青色が点滅している。渡ろうとした。ここで足を止めてしまうと、もう動けなくなってしまう。今朝はなぜかそんなことを思ってしまう。赤。私は立ち止まってしまった。小さなため息ひとつ。そして一度だけ、深く深く深呼吸をしたあと、もう動けないかもしれないと漠然と考えた。もう一度、空を見上げる。風が一瞬、強く吹く。乾いた唇が震える。少しだけ何もかもがにじんで見えた。空は青かった。


 車のボンネットに寝転がって、毎日のように空を見つづけていたころがあった。いろんな形の雲やまぶしいだけの太陽や、飛行機やその後に残る飛行機雲や名もない鳥たち。そして夕方のヘリコプター。その轟音が私の何かと共鳴し不安にさせたけど、月の光がすこしづつ街を照らし出す頃、とても安心することが出来た。時々、ヒロトの詩が聞えた。カズヤのハモニカの音が聞えた。私たちは友達だった。そう、友達だった。今でもそのはずだ。どんなに時がすぎた今でも。あの頃のまま。ヒトミは小さな哲学者だと、カズヤがいつかいったことを思い出す。私は空を見ているときは、いつもすべての意味において一人だった。空は一人で見るものだ。そして考える。考えたことを話せるのは、ヒロトとカズヤの二人だけだった。秘密基地。私たちはそこでいろんな話をした。私たちは、子供だった。私たちの時間は私たちだけのものだった。私が見つづけた空は、私の中にだけあった。あの時間や空間が永遠に続くような気がしていた。それと同時にたしかに大人になることを私たちは覚悟もしていた。そのはずだった。


 両親が離婚したのは、私の小学校の卒業式の翌日だった。理由は聞かなかった。なぜと何度聞いても、わからないことはたくさんある。わかったような気になっても、そこからは何も生まれてこない。父親は無口な人だった。笑った顔をどうしても思い出せない。いつも疲れた背中を私に見せていた気がする。離婚を聞かされたとき、私は少しだけ涙を流した。その涙の理由は、カズヤとヒロトしか知らない。私は父親と母親が別れることが悲しかったわけじゃない。うまくいえないけれど、そのとき、たしかに何かが壊れる音。夕方のヘリコプターの轟音のように響き渡る破壊の音を聞いた。それが怖くて涙を流した。そんなふうなことを彼らにいった。彼らは黙っていた。その後、ヒロトは短い詩を歌い、カズヤはハモニカを吹いた。私はそれを夕方のオレンジの空と一緒に聴いていた。


 父親に別の女の人がいたことを知ったのは、高校生になってからだった。ショックはなかった。ただ、それで私が母親と暮らすことになったのだとあらためて思った。大人って面倒くさいよね。そういった私に母親は寂しそうな微笑を返した。あのとき、母親は私になんていってほしかったのだろう。その時々で誰かが期待した言葉を、私はいつも見つけられないでいた。私にしか伝えられない、私だからこそかけてあげられる言葉なんてあるのだろうか。そう思うと私の口は、錆びた扉のように開かなくなった。時々、私の心をノックする人が現れた。そのたびに、私はその人をどうすることもできないでいた。私は無力だった。


 母親が私を連れて実家に戻ることになり、引越しすることで、ヒロトとカズヤと秘密基地とそこから見る空とさよならをした。彼らには何もいわなかった。それが私らしいと思った。本当の友達ならきっとまた会える。いつかどこかで。あの頃の私はそれを信じていた。信じようとしていただけだったのかもしれない。そんな気持ちにしがみつかないと、立っていられない気がしていた。母親とふたりで乗った電車の窓から、住み慣れた街が遠ざかっていく。私には思い出が出来た。それで充分と思った。


 あれから私は、化粧を覚え、恋人と呼ぶ人をつくり、歌を覚え、車のスピードを覚え、そんなふうに何かを覚えるたびに、心の奥の奥にある言葉をひとつひとつなくしていった。三人が再会したのは、そんな頃。私が、曲がりなりにも大学にはいったころだった。あのときのことを今ではスローモーションのようにしか思い出せない。ヒトロの陽気なそれでいてなぜか寂しげな笑顔。カズヤの純粋に響く声と細く長い手の指。小さな詩人と作曲家と哲学者は何を話しただろう。私は何を伝えることができただろう。なぜか秘密基地のことは誰も口にしなかった。口にすることで、壊れてしまう何かをそれぞれがかかえ、恐れたのかもしれない。ただ別れ際、ヒロトがまるで詩でもくちずさむように私に言った言葉だけは、はっきり覚えている。

 ヒトミ、今でも自分の空をみているかい。


 昨夜、カズヤから電話があった。その前に電話をくれたのは、ヒロトの死を知らせてくれたときだった。去年の今頃、もうすぐ春だとカレンダーをめくった頃。あのときも私は言葉をもたなかった。ただ、その事実だけを受け止めた。なぜ、どうしてという思いを押さえ込んだ。カズヤにもそしてヒロトにも何も言葉を見つけられなかった。私は無力だった。会えないかな。話したいことがあるんだ、ヒロトのことで。昨夜のカズヤの声。頭によみがえる。待って。と私はいった。待っている。しばらく沈黙が続いた後、カズヤは言った。僕もヒロトも自分で選択したんだよ。仕方なくでもなく、なんとなくでもなく自分の意思で。ヒトミには何があったかを伝えておきたい。信号が赤から青に変わった。私は少し躊躇したあと、一歩踏み出した。カズヤに会おう。そう決めた。今までの私は無力だった。これからもそうかもしれない。でも、私は私の空を見上げる勇気をもちたい。それが、土砂降りの雨の日の空だとしても。


 ヒロトはあれからどんな空をみていたのか。私は少しだけくちびるを噛み締めた。強い風に目を閉じた。瞼の裏になぜか空の青さだけが広がった。

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