イノセンスの行方

赤黒96

第1話 秘密基地の記憶

 廃車置場のがらくたの山の向こう側が僕らの秘密の基地だった。そこは腐った油の匂いと錆びた鉄の匂いでいっぱいだったけど、僕らにはそんなことよりも、そこがまるで危険への入り口のようであり、ワクワクさせる何かを感じさせる場所だった。みんなには内緒だよ。はじめにその場所を探し出したヒロトがいった。僕ら二人は、もちろんといった感じで、黙って大きくうなずいた。僕らは放課後のチャイムがなると一目散に学校を飛び出した。まるでゲームのように誰にも後をつけられないように時々、後ろをふりかえりながら、三日に一回はわざわざ遠回りをしながら、この三人だけの秘密基地に集まった。

 秘密基地では、それぞれがそれぞれの遊びに夢中になった。僕のお気に入りは、ブルースハープだった。となり家の黄色い頭のお兄さんがくれたものだった。そのお兄さんは、パンクバンドをやっていたそうだ。パンクって意味がわからずに首をかしげてキョトンとした僕にお兄さんはパンクっていうのは、システムをビートすることなんだっていった。もっとよくわからなかったけど、十二歳の僕はふ~んとうなずいた。でもね。そういいながら、長身のそのお兄さんは、僕の目の高さまで、その身体を曲げながら、僕の頭に手をやって、こういった。明日でおしまいなんだ。負け犬になるんだ。もちろん僕にはなんの意味か全然わからなかったし、お兄さんも本当は僕にいったんじゃなかったと思う。僕はただそのときのお兄さんの目と大きな手が忘れられないだけだった。それから何日かしたある日に、坊主、これ、やるよ。といって手垢で汚れたブルースハープを僕にくれた。学校にあるものより一回りぐらいちいさなハーモニカ。ブルースハープっていうんだ。そう教えてくれたときのお兄さんは、少し大きめのスーツにネクタイをして、髪の色は黒に変わっていた。僕はありがとうというかわりに、それをプープーと鳴らした。


 もう動くことのないくたびれた車のボンネットに座って、サイドミラーに夕日がキラキラしてる中、僕はそのブルースハープを吹く。でたらめなメロディーが時々とてつもなく切なく美しい旋律に変わるときがあって、僕はそれをそっと大切な宝石箱にしまう。叫んだり、泣いたりすることがとても難しいとき、こうやってずっとずっと、まるで月が太陽を探してぐるぐる回るように、僕はせつなくも美しいメロディーを探しつづける。


 ヒロトはいつも何かの本を読んでいる。たまにはマンガを読んだり、どこで拾ってきたのか女の人の裸ばっかりの雑誌をみて、一人ワーワー言ってる。僕は、なんだか恥ずかしい気持ちとヒトミのことが気になって一生懸命、知らない顔をしている。そして、そうっと、ヒトミのほうを見ると、彼女は、いつものようにずっと空を見上げている。立ったまま見上げるのに疲れたら、今度は車のボンネットに飛び乗って、寝そべって見ている。彼女にとって、空は、とても特別で、不思議なものらしい。一瞬、一瞬いろんな表情があり、同じ空はけしてないそうだ。空や雲がいろんな形に変化する様子を夏休みの自由研究で発表したら、担任のヤマザキはそれで? とだけいった。そんな話をするときのヒトミはとても幸せな顔をし、その後、どうしようもないほど寂しそうな顔をする。ヒトミの家は、夜遅くにならないとお父さんもお母さんも帰ってこない。家のローンのために毎晩、仕事をがんばらないといけないそうだ。きっとそんな単純なことだけではないと気づいていても、ヒトミは何にもいわない。大人が考える以上に、子供は直感的にその複雑さを知っている。ただ、それを言葉にしないだけだ。

 みんな自分がいいと思ったことをいつもぎりぎりで信じて、選択してくりかえしていくしかないんだよ。続けられることをただ続けていくしかないんだよ。そんなふうなことをいつかヒトミがいったのを覚えている。ヒトミは小さな哲学者だとそのときから僕は思った。


 ヒロトが何かつぶやいてる。手に本を持って。やがて車の屋根にのぼって叫びだした。何度も聞かされた中原中也の詩を叫んでいる。ヒトミが哲学者ならヒロトは叫ぶ詩人だ。学校ではこんなヒロトを見ることはない。彼は人気者だ。生徒会長にもなったことがある。でもあんまりにも、でたらめなことばかりやるので、生徒会長をクビになった。どんなでたらめなことをしたのか、僕はほとんど知らない。僕は、教室でいつもうつむいてるだけだったから。教室の友達ともろくにしゃべることをしなかった。クビになっても、あいかわらずヒロトの周りには、たくさんの奴がやってくる。学校でのヒロトは来る者は拒まずの精神らしい。みんなと平等におかしく楽しくやっている。とても楽しい学校生活だろうとそのときは思っていた。

 

 遠足の帰りのバスでヒロトが隣の席に座った。僕は、何を話していいかわからなくてドキドキしながら、窓側の席で、外の景色ばかりを追いかけてた。ちょっとでも、気を抜こうものなら、容赦なくバス酔いしてしまいそうだった。ヒロトといえば、後ろのほうに座った奴と冗談をいいあってた。僕は何気なさをよそって、聞いてみた。友達がたくさんいていいねって。今から思えば、どうしてそんなことを聞いたのだろう。バスのゆれが、僕の何かを麻痺させていたのかもしれない。そしたら、ヒロトは急にまじめな顔になって僕のほうを向いて話し始めた。友達っていうのは、たくさんいればいいというものじゃないよ。それに友達っていうのは、近くにいるだけの人のことをいうんじゃないよ。そういって僕の目を覗き込だ。そうだねって僕はいった。友達っていうのは、自分がギリギリのところにいるときに、いつのまにかそばにいてくれる人や、どうしようもなくなったときに、勇気や希望を与え合える人のことだと思うんだ。僕はいくつもの眠れない夜に一生懸命考えたことをはじめて他人にそのときしゃべった。ヒロトは隣の席でひざをかかえて座りながら、口笛を吹いて、しばらく考えたような目で遠くを見ていた。僕が、そんなことを言った自分に少しだけ後悔をはじめたとき、ヒロトは口笛を吹くのを止めた。それから僕のほうをまっすぐ向いて右手を出して、カズヤ、友達になろうって微笑んだ。


 学校の屋上で、僕はハモニカを吹いた。まだ、秘密基地を見つけていない頃。時々、飛行機の音が邪魔をしたけれど、僕のメロディに程遠い音を、風がどこかへ運んでくれていた。へたくそ。はじめて会ったときのヒトミの言葉だ。でも、夕暮れの空には溶けるかもしれない。ヒトミはそのときも、空を見ていた。遠く、遠く、ずっと遠くの空をヒトミは見ていた。


 廃車置場の僕らの秘密基地を三日月が照らしていた。僕らはヒトミが持ってきた懐中電灯の明かりの中、コンビニの弁当を食べた。ヒトミの両親はいつも帰りが遅いので、こうやって時々、ヒロトと僕も、ヒトミの夕食につきあう。三人でいるときは、僕らはあまりたくさんの言葉を使わない。出来るだけ短く的確な言葉だけを選んで会話する。誰が決めたわけでもないけど、それがこの秘密基地でのたったひとつのルールだ。

 子供が大人になれないように、大人は子供に戻れないんだよ。

 哲学者のヒトミが話す。

 いつか子供は、大人になることを選択する勇気をもたないといけないんだ。

 詩人のヒロトが叫ぶ。

 子供のような大人にだけはなりたくないんだ。

 僕はそうつぶやく。


 三日月に照らされた野良猫が肯定とも否定ともとれる声でニャーと泣いた。

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