再び、瑠璃子の語る
殿が初めて忍んで参られた夜、私は随分と緊張して殿をお迎えした。このような場合どうすればいいのか、全くわからなかったものだから、袿を重ねた上に小袿を羽織ってお待ちした。
本当の所を言えば、私は確信を持って殿を選んだわけではなかった。ただ、幾分不器用で、でも誠実なお手紙の書きぶりと、真面目そうに整った文字に好感を抱いたことと、源氏の君とは違う種類の殿方らしいところに望みを抱いたに過ぎない。
「私で良いのでしょうか。」
几帳の内に入られた殿は私にそうお尋ねになった。
「こうして近くでお会いして、自分では釣り合わぬと思うのです。あなたは本当に美しい。」
口説く、と言うよりはとても大切な事を述べるときのような真摯な口ぶりだった。薄暗い灯火の火影に、浅黒い肌とその通り名の由来である黒黒とした髭が浮かび上がる。顔立ちは繊細な感じではなく、荒く木を彫ったようなゴツゴツとして彫りの深いくっきりした印象で、造作そのものは結構整っていた。
「何が釣り合わぬなどと思われるのですか。貴方様は右大将。お妹様も入内遊ばし、やんごとなきお身の上ではありませんの?」
そうお答えすると、殿が目をそらされました。
「そう、妹は女御、見鬼です。私は、見鬼ではない。」
「私も見鬼ではありません」
殿が目を丸くする。
そう、私はあやかしのたぐいを見ない。私の目に映るのは、ごく普通に見えているものだけだ。
「見鬼でないから、おやめになられますか。」静かにそう申し上げると、殿はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、もうあやかしには懲り懲りです。」
殿が自分の手に視線を落とされる。
「妻は私には見えないものに怯え、傷ついてボロボロになってしまいました。見えない私には本当には同情することも難しい。」
胸がぎゅうっと痛かった。きっとこの方はそうやって一人傷ついていらしたのだとわかったので。
源氏の君のどことなく殿を軽んじる気配は、殿が見鬼で無いことも関係あったのかもしれない。
そう思うと源氏の気持ちに対する気持ちが一層冷えた。。
同じくあやかしを見ない私を、源氏の君は軽んじておられて、だからあのようなご無体をなさろうとするのではないかと、思いついたので。
あやかしなぞ見てなんになるだろう。
無駄に怯え、くたびれ果ててしまうだけだ。
「あんな思いをまたしたいとは思いません。私は私と同じものを見る人に隣にいてもらいたい。」
その切実な思いは信じることができると思う。
私はそっと殿の頬に手をあてて視線を合わせた。
「私も、そう思います。」
殿の腕が私を抱き寄せて。
そういうことになった。
私が殿と結ばれても、源氏の君はなかなか私を手放そうとせず、出仕も中止しようとはしなかったのだけど、私たちはそれを逆手に取って、六条院を出ることに成功した。
私はもう日陰者ではない。
右大将の北の方として世間にも認められ、内大臣の父にも喜んでもらった。
前の北の方のことは追い出してしまったようになったけど、それも仕方ないと割り切ることにした。前の北の方は殿よりもあやかしばかりを見て、取り憑かれてしまったのだ。それをかわいそうと思わないわけではないけれど、殿だってもうヘトヘトだった。まだ六条院に通っておられた頃に、着物に焼け焦げをいくつも作ってこられたことがあった。出掛けに前の北の方に火の付いた中身ごと香炉を投げつけられたらしい。物の怪に憑かれてそんなことをしてしまうのが哀れならば。常に許すことを期待された殿だって十分哀れなのではないか。自分には見えも感じもしないものをどこまで理解できるというのだろう。
「お義父さま、この秋に生まれた子ですの。抱いてやってくださいませ。」
私の唇に浮かぶのは勝利の笑みだ。
源氏の君に対してだけでなく、私を日陰者に追いやり続けた運命に対して、私はその軛から放たれたことを事挙げして勝鬨を上げる。
殿がそっと私の隣に立ち、寄り添う。
大切な、優しい方。
私たちはこうして生きていく。
髭黒の妻 真夜中 緒 @mayonaka-hajime
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