言ノ葉に触れる喜び

L

歯車としての自分

 社会人としての生活が始まってから、もう半年が経った。朝起きてから会社に到着するまでのプロセスは、ほぼ何も考えなくても体が動くようになった。「会社の歯車」とか「社畜」といった言葉がとてもしっくり来る。

 

 朝の六時。ふと気づくと、僕は駅に向かって歩いていた。この時間帯だと、道には人があまり居ない。子供達がボール遊びをしたり、主婦達が井戸端会議をしたりしている光景を、最近は全く見ていない。この静かな時間が、僕を落ち着かせてくれる。駅に近づくに連れて、段々と人が増えてくる。駅のホームに到着すると、僕は階段の裏に位置する「いつもの場所」に並ぶ。入社後の二ヶ月間あれこれ試した結果、この場所が「いつもの場所」になった。ここに並ぶ人の顔も、自然と覚えてしまった。


 電車の座席に座ると、僕はすぐに鞄からイヤホンとスマホを取り出し、自分の世界に入る態勢を整える。学生達の話し声によってペースを乱されたことが何度かあったので、最近は音楽を聞きながらただひたすら寝るようにしている。眠りに入るまでの間、僕は自分の大学時代を思い返していた。スーツケースを引いた大学生らしき男が、自分の隣に座ったからだろうか。僕の頭の中には、所属していたゼミの指導教員の姿が浮かび上がってきた。同時に、かつて彼が僕に投げかけた一つの言葉が蘇ってきた。


「そんなんじゃ卒論にならんよ、君ぃ」


卒論提出の二ヶ月ほど前に、ミーティング中に僕に言い放った言葉だ。この言葉を聞いた瞬間、僕は体が震え、目眩がした。卒業が出来ないかもしれないという恐怖が、僕の頭の中を支配した。一方で、彼はケタケタと笑っていた。クイズ番組で芸能人がトンチンカンな回答をする様子を、「こいつ、頭大丈夫か?」と小馬鹿にするような笑い方だった。


 指導教員に対する進捗報告は、適切なペースで行っているつもりだった。僕の報告に対して異議を唱える様子がなかったので、順調に進んでいるものだと僕は理解していた。しかし、実際には違った。僕が今までコツコツと積み上げてきたものを、彼は一瞬で破壊したのだ。最終的にはなんとか卒論を提出できたものの、彼に対する怒りは未だに収まっていない。


 指導教員のことを考える内に、僕はいつの間にか座席で眠っていた。目が覚めると、電車は降車駅の二つほど手前の駅で停まっていた。僕は音楽を止め、静寂の中に身を委ねた。ああ、そろそろ会社についてしまう。今日は上司に何も指摘されないだろうか。そのようなことを考えていると、近くに居た大学生のカップルが、僕の静寂の空間を壊した。話の内容はよく分からなかったが、二人とも知性を全く感じさせない喋り方だ。僕は再び音楽を再生し、鬱陶しい雑音をかき消した。


 会社に向かう途中、僕はいつも会社近くの公園に寄る。出社時間が早いと上司に変なプレッシャーを掛けてしまうので、少し時間を潰すことにしているのだ。この公園は、配属された部署で花見をした場所だ。公園内のあらゆる場所で咲き乱れる桜は実に綺麗だった。部署の人達との会話も、それなりに楽しむことができた。部署自体の肌合いが自分とマッチしていたのだろうか。

 ベンチに座り、僕はゼミに居たときの自分と、会社に居る自分とを何気なく比べてみた。頭のおかしい人間が居ない分、今の方が精神的には楽なのかもしれないが、会社でも辛いことはある。そんなもやもやした結論が見えたところで、僕は立ち上がり、とぼとぼと会社へと向かう。

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