放課後の風歌

満月ノヨル

第1話

 放課後の風歌


 1


 愛おしげな表情で彼女は彼を見上げている。彼の膝元に腰を下ろし、首元にぶら下りながら。見つめ合う二人の視線は、彼女の腕の長さ分しかない。

 彼女の唇が微かに開くと、小さな音を響かせた。この音が二人の始まりの合図かのように、彼の唇は彼女の唇に吸い込まれていく。優しく、いや、それでも彼女を決して逃すものかというように、力強く引き寄せた。彼女の方は、私はどこにも行かないわよとでもいうように、両手で彼の頭を優しく撫でて、全てを受け入れていた。


 私が経験したことのない光景。私にとっては妄想の世界である光景。私にはまったく縁のない光景。

 その光景に、私は魅入ってしまっていた。

 しかも、クラスでは物静かでこんな大胆なことをしないと思っていた友達。いや、友達という表現は間違っているのかもしれない。あまり話したこともなかったし、どちらかというと勉強にしか興味のないような子だと勝手に思っていたから。接する機会がほとんどなかったし、私とは違ったタイプの性格だったから。


 八木やぎしずは彼から口元を離すと、視界に私が入ったのか、ゆっくりと彼の体から起き上がる。慌てることもなく、恥じらうこともなく。そして私をじっと見つめた。

 静香の行動に遅れて、彼も私の存在に気が付いたようだ。最初ははっと驚いたようだったが、その後は静香と同じで堂々とした様子で私に視線を送っていた。

 この時になって初めて気が付いた。二人だけの放課後の教室。二人だけの甘い空間。それを私がという形で邪魔をしてしまったということを。

 体の中に熱がこみ上げてくる感覚がひしひしと伝わってくる。私はこの空間の中で混入物に他ならない。なぜ、傍観者になってしまったのか、魅入ってしまったのかがよく分からず、腹を立てる気持ちが己を襲う。ほんの数秒間の沈黙だったかもしれない。しかし、恥ずかしさと相まった自己嫌悪は、私を蝕むのには十分過ぎる時間だった。

 私の辱めな気持には反して、静香と彼は冷静な眼差しを送り続けている。いっその事、怒鳴られてしまいたい。


「あ、あの、ごめんなさい、じろじろ見るつもりはなかったの。机の中にノートを忘れてしまって、それで……」


 嘘ではない。

 明日、歴史の小テストがあるのだ。いつも机の中に全て置いていく癖で、持って帰るのを忘れてしまった。赤点常連の私だって勉強をしない訳ではない。

 ほとんどの学生は帰宅をしたか部活動に勤しんでいる時間。教室は最上階の五階。静まり返った校舎からは全く声が聞こえなかった。だからその階自体、誰もいないと思っていたのだ。

 結果として、この光景に唖然呆然と出くわしてしまった。


 私は動かなかった足を鼓舞し、教室の中に踏み込んだ。視線をぼかし、早歩きで。自分の机の中に手を突っ込んでノートを探すが、途中で探すのを諦めて全て鞄の中に放り投げる。そして、早々にその場を後にした。

 はち切れそうな鞄は、私が歩くたびにみしみしと悲鳴を上げている。肩に食い込む荷の重さが、かえって気を紛らわしていた。



 2



「でさぁ、バイトの先輩がさぁ」

「ええっ、うっそぉ、まじで! 私なんかさぁ……」


 翌日のお昼休みのこと。いつも通り私の仲間内では恋愛の話で絶えない。机をくっつけ、コンビニで買ってきたお昼ご飯を無造作に広げて、きゃーきゃーと談話している。


「ねぇ、美琴みこと、聞いてるの?」

「……あ、うん。いいじゃん、いいと思う」


 私はいつも聞き役だ。ホットな話題がないからというのも間違いではないが、皆話したがり屋さんなのだ。私くらい聞き役でなければパンクしてしまうだろう。反発し合う磁石のように弾け飛んでしまうに違いない。

 私の周りはとても恋愛が盛んだ。とはいっても、片思い絶賛中な訳で付き合っている訳ではないのだが。少なくとも、異性に対して貪欲に想いを馳せているのは確かだった。


「どうしよう、シフトのことを理由にしてライン聞けば不自然じゃないかな」

「もう、そこは思い切ってお茶でもしませんかって誘っちゃえばいいのよ」

「えー、そんなことしたら気があるって丸見えじゃんよぉ」


 いつもこんな会話で盛り上がっているのだ。

 私はキスなんてしたこともないし、ましてや手さえろくに繋いだこともない。でも、たまに彼女らがとても幼く見えてしまう時がある。間違いなく私よりも恋愛をしているのにもかかわらず。


 いつの間にか意識がそこにはなかった。

 教室全体を朦朧とした感覚で眺める。

 日常的な教室。いつもと何ら変わらない。学生達が騒ぎ、笑顔に満ち溢れている。元気いっぱいの教室だ。しかし、その教室は時に表情を変えることを私は知ってしまった。私の視覚から脳へと伝わる情報と脳に保存されていた記憶の中の情報がぶつかり合っている。どちらも同じ教室だ。あのような光景に見えるのはなぜなのだろうか。


 私の視線はいつの間にか彼女の元へと注がれていた。一つの机を椅子で囲み、お弁当を広げている集団の一人――そう、八木静香だ。静香は水筒の蓋を回し、その蓋にお茶を注ぐ。それを一気に飲み干した。

 何故だろう、昨日の出来事があってからとてもセクシーに、エロティックにさえ映ってしまう。それもイヤラシイ訳ではなく、とても大人びたフェミニンな女性として。彼女は元々こんなに魅力的だったのだろうか。私が気がつかなかっただけなのだろうか。少なくともお茶で湿った唇が、お茶を飲むためだけのものではないことを彼女は知っている。

 ご飯を食べた後、静香は席を立ち友達の元を後にする。

 予期していなかった。彼女の行き先は私の元だったのだ。

 私の友達は不思議そうに静香のことを見ている。別に縄張り意識がある訳ではないが、何事かと興味津々に視線を浴びせていた。


「あの、篠崎さん、放課後、ちょっといいかしら」


 静香は周りの視線を全く気にせず、私だけを見つめている。小さく頷いたことを確認すると、くるりと踵を返して自分の席へと戻って行った。その様子を見た私の友達たちは、お互い顔を見合っている。その顔は、次第に険しいものへと変わっていった。


「なんかさ、あの子感じ悪いわよね」

「そうそう、なんか大人ぶってるってかさ、スカした感じよね」

「そういえば、三組の加藤君と付き合っているって噂よね。この前なんか、駅前でキッスしてたらしいよ。ふしだらよね」

「うわぁ、信じらんない。無理だわ」


 たまにみんなとは同調できないことがあった。普段妄想でイヤラシイことを口にしているのに、その行為を本心では欲しているはずなのに、他人となると否定的になる。なぜ、静香がふしだらなのだろうか。妄想を膨らましている私達の方がよっぽどふしだらなはずだ。少なくとも、本当の恋をしたことのない、同じ土俵に立っていない無知な私達が、何かを言う権利なんてないのだ。

 それに、あのように映った光景がふしだらなもののはずがない。――絶対にそうだ。



 3



 放課後の教室。日は徐々に落ちていき、太陽は赤みを増しながら最後の力を振り絞って輝いている。窓からは優しげなそよ風が流れ込んできて、とても肌に心地よい。昨日と同じ静かな放課後の教室だ。唯一違うのは、この空間に彼ではなく私がいるということ。

 静香は皆が帰るまで待ちましょうと言って、自分の席で小説を読み耽っている。私と静香のやり取りに興味を持っていた私の友達たちが、ついに折れて先に帰ったことを悟ると、ぱたんと小説を閉じ、私に手招きをした。


「とても気持ちがいいと思わない? 皆、なぜこの素敵な空間を楽しまないのかしら。もしかしたら、気が付いていないのかも知れないわね」


 静香は風の香りを嗅ぐように胸いっぱい深呼吸をした。そよ風によってカーテンが揺られ、柔らかな音を奏でている。その音を楽しむかのように、耳を澄ませているかのようだった。

 静香は椅子の上で身体の向きをくるりと変えて、私をじっと見つめる。


「篠崎さん、ずっと前から話してみたいと思っていたの。でも、機会がなかったし、それにあまりあなたのお友達とは気が合いそうになくって。ごめんなさい、別に悪口を言っている訳ではないのよ」


 静香は両手を膝に乗せ、足を揃えて横に流している。スカートは皺ひとつなく、純正の長さで膝下まで垂れていた。それだけで彼女の真面目さを伝えるのには十分だった。


「昨日は彼とキスをしているところ、見られちゃったわね。――なんであんなに見つめていたの?」


 私の答えに興味があるのか、上半身を少しだけ乗り出している。昨日じっと見てしまったことに関して怒っている訳ではないようだった。

 今まであのような光景を見たことはなかった。興味本位はあっただろう。でも、本当の理由はそこじゃなかった。


「あの……笑わないでね。なんだかとても美しく見えたから……」


 正直な答えだった。

 恋愛に関して分かっている訳ではない。そのことに対して多少なりともいやらしささえ感じてしまうこともある。でも、あの光景は、男と女、愛し合う二人という以前に、言葉のない会話をしているように感じられた。とても繊細で敏感な会話。自分の気持ちを言葉の代わりに表現する会話。

 予想していた答えと違ったのだろうか。静香は口に手を添え、驚いたような表情を作る。そして案の定、笑い始めた。


「ふふっ……ごめんなさい……でも、そんなこと言うとは思わなかったから……」


 私や私の友達とは違う上品な笑い方。私達なら歯茎を見せてげらげらと笑うだろう。一つひとつのしぐさが私とは別物に感じられた。

 静香は落ち着くと、眉をあげて意味ありげな視線を送る。立ち上がると同時に、まるで一つの動作かというように椅子を机の下に静かにしまう。


「とても大人びているわね」


 椅子の背もたれ部分を軽く爪で叩き、私の前を通り過ぎていく。発せられた言葉が私に対して言っていることに気が付いたころには、静香は窓際で外を眺めていた。

 私は慌てて反対側にいる静香に体を向ける。


「私、全然大人じゃないよ。付き合ったこともないし、キスだって――。静香ちゃんは大人だよね。いつもおしとやかだし、勉強もできるし、恋だってしてるし……」

「あら、付き合ったことがあるかどうかが問題ではないと思うわ」


 静香は風になびくカーテンを、指先で一つ一つ確認するように触れながら歩く。カーテンの羽ばたく音と相まって、その音色はリラクゼーション効果のように脳を癒す。何故だろう。私が同じことをしてもその音色は出せない気がする。彼女故の音色なのかもしれない。


「私もまだまだ大人にはほど遠いけど、相手に対して真剣に向き合える人って大人だと思うの。もちろん、恋に対してもね。皆が皆、できる訳ではないわ」

「そ、そうかな」

「うん。私はそう思う。――私達の周りってさ、何かズルい子が多いと思わない? 言いたいことがあるのにはっきりしなかったり、蔭口でごまかしたりさ。恋だってそう。恋をしたいって想いは強いのに、結局自分の殻に籠っていたり。そういう子に限って、人の恋を目の敵にしようとする。自分だって恋人が出来ればするはずなのに、したいはずなのにね」


 言いたいことは分からないでもなかった。

 己の幼い心や嫉妬心。その行き場のなくなった感情は、自分の殻に収まりきらなくなると、どこかにぶつけたくなる。自分とは無二無縁の関係ない人にでも、飛び火として向けてしまう。でもそれは興味や好奇心という感情があるからこそ、意識してしまう思考。幼い心の矛盾故の思考。

 彼女は少なからず、私達よりも沢山のことを目で見て経験をしている。だからこそ客観的に見渡せているのかもしれない。


 決しておしゃれとは言えない肩まで伸びた髪が、風によって静香の頬を撫でている。リボンを首元まで上げ、シャツは不思議なくらい白く輝いている。まるでサンプルのマネキンのようだ。

 何故、このような子があのような大胆で魅力的な恋ができるのだろうか。それは、私達よりも中身は遥かに大人だってこと。私達の、少なからず私の知らない世界を知っていて、物事を冷静に判断できるんだ。もちろん、恋に対してだけではないだろう。

 似た目で判断するなとは言うけれど、恋に対して貪欲なはずの私達が、得意分野としているはずの私達が、彼女にとってはお遊びにすぎないのかもしれない。

 学園生活。自分より者たちの集まる空間は、彼女にとっては退屈なのかもしれない。


「篠崎さんは、想いを寄せている人はいないの?」

「おもいをよせている、人?」


 私にとっては難しい質問だった。

 格好いいと思う人なら沢山いる。でも、告白したい、付き合いたいと思う人がいる訳ではなかった。私も心から恋ができたら、あんな美しい光景のように果たして映るのだろうか。


「好きってどういう感情なんだろう。私にはまだ分からないかも」

「ふふふっ、篠崎さんの正直なところ、私とても好きよ。別に焦ることも何にもないとも思うわ。でもね、もしもその時が来たら、自分の感情に嘘をついてはだめよ。一緒にいたい、他の人に取られたくないっていう気持ちが感じ取れたら、素直な女心でいるべきだと思う」

「女心かぁ、それも私にはまだ分からないかも」

「そうかしら。でも、あなたなら素敵な女性になれると思うわ。旬な高校生だから無理やり彼を探すのではなく、胸の奥にあるものが、相手と自然に惹かれ合っていくことを知っているから」


 彼女には私自身、理解していないことまでもお見通しなのだろうか。私にも分かる時が来るのだろうか。

 逆光により彼女の姿は霞んで見える。

 それにしても、なんて輝いているんだろう。



 4



「美琴。美琴――孝太郎こうたろうくん来たわよ」


 母親の階段からの呼び声で、私は額を上げた。

 歴史のテスト勉強をしようと思い立ったのはいいものの、すぐに寝落ちしてしまったらしい。ノートの下に隠れていた携帯に目をやると、着信が四件。今日もやらかしてしまったらしい。

 欠伸をひとつ吐いた後、ベッドの下でくたびれているジャージに着替える。目をこすりながら開けた玄関の先には、面倒くさそうな顔をしているいつものアイツがいた。


「はぁ……おまえ、また寝落ちしてただろ」

「いやいや今日はちょっと違う。勉強からの寝落ちです。まぁ、孝太郎がいつも通り見越して訪ねてくるの、分かってるし」

「あのなぁ、夏までに痩せたいからランニング付き合ってくれって言ってきたの、お前だぞ。お前のお母さんの毎度すまなそうな顔、見てるとほんと辛いぜ」

「はいはい、無駄口はおしまい。行くよ、孝太郎」


 お尻を叩いた勢いで前のめりになる孝太郎。スポーツ部らしい短い髪のはえた頭をひと掻きし、軽快に飛び出した私のあとをついてくる。

 幼なじみの孝太郎は、いつも私のわがままにつき合ってくれる。部活の後で疲れていても、体調が悪い時でも。腐れ縁なのだ。そう、腐れ縁。

 いつしか当たり前にはなっていたけれど、彼がいなかったら今の私はいない気がする。

 走りながら思い出す。私が痩せたかった理由。

 たしか、孝太郎が海に誘ってくれたからだっけ。

 ランニングをするのも苦ではない。だって、一人ではないから。

 私の真横に走っている彼を横目で見る。私よりもこんなに大きかったっけ。このとき始めて今までにない感情を感じた気がする。

 恋って何なのだろう。好きって何なのだろう。今の私には分からない。

 静香の焦ることはないという言葉が頭の中で奔走ほんそうしている。

 スピードを上げる。すると彼も合わせるようについてきた。いつもよりも大周りな道を選び、命一杯駆け抜けていく。

 そう、これでいいのだ。

 高く飛び跳ねながら走るたびに彼の身長を超えそうになるが、やはり私には届かない。いつかは届くことができるだろうか。私にはまだ、分からない。

 一点の曇りもない満月の下で、あの時と同じ、風の匂いを感じた気がした。

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