第5話

 ラーラの閃光は、駆け抜けるハインリヒの鎧にかすりはするがクリーンヒットするまでには至らなかった。ハインリヒはどんどんどんどん近づいて、顔が目前に迫るまで歩を止めない。


 ラーラはそこで命知らずの行動をとる。なんと戦闘中であるにも関わらず、空白の書から栞を外して、元のシェインの姿に戻ったのだ。


「お兄……」


「一体何を?」


「お兄聞いてください。私は戦う気はないです。空白の書なんて必要ありません」


 空白の書を放り投げるシェイン。地面の土がふわりと起き上がり、また眠っていく。


「悪いが私には戦う理由がある。王子が倒せと命じるならば、私はそれに従うまでだ」


「私には分かります。あなたは悪い人じゃない。だって本当にそうなら、私の言葉など聞かずに、有無も言わせず攻撃するはずです。でもあなたは空白の書がない絶好のチャンスを投げ出してまで、私の話を聞こうとしている」


「……」


「だからお願いです、騎士さん。その体をお兄に返して。もう十分あなたは王子のために戦いました。そしてあそこにいる王子はもうあなたが知っている王子ではありません、カオステラーです。カオステラーのために戦う必要なんてありません」


 一歩、歩き出すシェイン。ハインリヒは武器を身構えるが、それを行使してシェインを排除しようとは考えていないようだった。


 また一歩近づく。ハインリヒは見下ろすようにシェインの瞳をとらえた。その円らな目に、今にも降り出しそうな暗雲が立ち込めていて、刹那、箍が外れたのかポロポロと流れ出す。


「元に戻ってくださいです、お兄!」


 グッと掴まれる感触をハインリヒの体は感じた。見るとシェインがハインリヒを抱きしめており、そうしなければ今にも逃げ出してしまうかのように、ぎゅっと力強く抱きしめる。


「もう離しません!」


 後ろに控えていたレイナもその姿に感極まったのか、声を掛ける。


「タオ! やっぱりあなたがいないと、私たちはちょっとダメみたい。だから戻ってきて!」


「何故、どうしてそこまで……」


 ハインリヒは槍の矛先をシェインから地面に向けた。気力を失くしたように腕を脱力させて、大空を仰ぐ。シェインにはそれが、流れる涙をグッと堪えている姿のように見えてならない。


「おかえりなさい」


 何も変化は起きていないのに、シェインはそう言った。自分の言葉が喉を通して外気に触れさえすれば全て本当になるとでも言わんばかりに。だが無情にも時だけが過ぎ、ただただ呆然と立ち尽くす三人が取り残されているだけだった。

 



 カオステラーの演説はまだ続いている。ミハイル王女は何かを堪えるように口を真一文字に結び、王女から解放されたジャックも攻撃することなくカオステラーの話に聞き入っていた。


「その物語に出てくる王子はカエルに変身していて、王女に投げられるか、キスをされるかで魔法が解け、元の王子に戻ります。通常は前者のストーリーが採用されるのですが、男はどうしても王女とキスがしたくて後者のストーリを辿るよう試行錯誤しました。

 そこで出会うのが、王子に仕える騎士です。彼は自らの身を犠牲にしてでも王子の身を守る騎士の鏡のような存在。王子が傷つけられる場面を見れば、必ずや助け出すであろう優秀な騎士です。

 男は騎士の性格を利用すれば、前者のストーリーを回避できるのではないかと考えました。見事その予想は的中し、騎士はカエルの王子を助け出すことに成功しました。

 あとは身を任せるまま。時を過ごせば自ずと未来は向こうからやってきます。王女と、カエルの王子に憑依した男は甘い口づけを交わすのです。

 そしてカエルの王子は人間に戻り、男と王女は永遠に仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし」


 長い長い童話を聞かされたジャックと王女は、子どもが母親から読み聞かされる童話の時の反応とは異なり、目は虚ろで、ファンタジーで胸を躍らせる気持ちとは無縁だった。


「君は王女に……恋をしていたのか?」

 ジャックが尋ねる。


「違う。恋をしているんだ。現在進行形でな」


「そんなカオステラーもいるのか、意外だ。でもやり方が気にくわない。本当に王女のことが好きなら、カオステラーの力を使うんじゃなくて、もっと真正面から向き合わないと」


「分からないか? 想像してもみろ。カオステラーと一国の王女じゃ釣り合わない。農民には脱穀機を、目もくらむような花畑には蝶を、王女には王子を、だ」


「だけど君は一度でも真正面から王女に向き合ったのか? はなから諦めて背を向けて、釣り合わないと諦めたのは――」


「絆」


 エクスの言葉を遮って、王女様が呟く。


「恋愛にも絆が必要です。同じ時間を過ごして、同じものを見て、同じことで笑って、同じ花のにおいをかいで、『この花の花言葉はね』なんてお話をして。そうやって絆が生まれるのです」


 カオステラーは憤る。


「あなたも分からない人だ。そんなことが出来る身分ではないのだよ、私は。だから王子の力を使わせてもらったんだ」


「いつ私が人を『身分』という括りで見ましたか?」


「そ、それは……。私が見ている限り、一度もない」


「そう、王女も農民も国を作るためには必要不可欠な存在です。歯車が一つでもかみ合わなければ国は崩壊し、明日を生きるのも困難になってしまう。身分なんて何の物差しにもならないのです。あなたはあなた、私は私、それで世界は回っていくのです」


「それなら……本当の私でも王女に見合う存在になれたと?」


「ええ、もっと違うところで出会っていれば、私たちも結ばれていたかもしれませんね」


「違うところ? では私たちはもう終わりだと?」


「そもそも始まってもおりません。始まりのない物語を、だれが紡ぐと言うのでしょうか?」


「ふ、ふざけるな、私がどれだけあなたのことを思って……」


 王子から湯水のごとく出てくる闇が、天高く放出される。雷鳴轟く空が一瞬にして出来上がる。


「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなああああああああ!!!!!」


 邪悪な気配にジャックは気おされそうになった。と、その時――。


 いつかこぶたからもらった絆のブレスレットが輝きだす。その光が一直線にどこかへ伸びていく。光の先を目で追うと、そこにいたのは――。




 ハインリヒの体が光を帯びて、シェインは呆気に取られた。光はジャックから伸びているので敵からの攻撃でないことが分かり、ホッと胸を下ろす。


 ――でも、これはなんでしょう?


 シェインが了見している間にも、ハインリヒは既に動き出していた。


「あ、お兄。一体どこへ?」


 また逃げてしまう。また離してしまう。また。また。また。シェインの伸ばした手をするりと抜けて、ハインリヒは去っていく。またお兄がどこかへ行ってしまう。


 ――おかえりなさいって言ったのに。


 泣き出したいのを必死にこらえて、シェインはハインリヒの行く末をしっかりと見ていた。そこには王女とジャック、そしてまがまがしい覇気を宿したカオステラーがいて。




 光の距離がどんどん短くなっていく。必死の形相でハインリヒがこちらに近づいてきているのだ。ジャックは武器を構えた。


「ハインリヒ、今は君と戦っている暇はない。カオステラーが暴走してるんだ」


「分かっています。ジャック、私を空高く持ち上げてください」


「へ?」


「いいから、私を信じてください」


 ジャックは言われるがまま、腰をかがめた。なるべくハインリヒの勢いを殺さないよう、足をかけたと同時に天へ向けて力を目一杯開放する。


「うおりゃあああ!!!」


 雷雲にハインリヒが突入すると、雷鳴が一際強くなった。雲が異物を感じ取って、お腹を壊して大騒ぎしているかのように。


 次の瞬間、ジャックは心底驚いた。ハインリヒが空から戻ってきたかと思うと、雷を引き連れて帰ってきたからだ。槍は雷に包まれてまばゆい光を発している。


 ハインリヒの雄たけびが雷鳴を凌駕する。そのまま一直線に、カオステラーの頭上を打ち――壊す。


「アイアン・ロイヤリティ!」


「ぐがあああああああ!!!」


 カオステラーの覆っていた闇が一層小さくなる。反比例して空は澄み渡り、今にもスズメの鳴き声が聞こえてきそうだ。


 しかしまだカオステラーは息絶えていない。「王女……王女」と、かつて愛した女性をずっと探し続けている。


 ジャックはぐっとこめかみに力を入れる。もはや目は見えていないであろうカオステラーに、最後の一撃を下そうと剣先に意識を集中させる。


 ――もっと、違うところで出会えていれば。


「ジャイアント・ブレイブ!」


 カオステラーとともに儚く散ったジャックの思考は、もう起き上がることはなかった。




「混沌の渦に呑まれし語り部よ。我の言の葉によりて、ここに調律を開始せし」


 いつものように全てを終焉に導くのはレイナの仕事だった。しかし今回は手負いということもあって、エクスは自分が代わりになれればいいのにと、優しさを滲ませた。


「う、うう……。ここは?」


「王子!」


 闇が完全に消失した王子に駆け寄るハインリヒ。王子の肩を抱いて、起き上がるのを補佐している。


「ハインリヒ……君か」


「はい、王子。全て終わりました。もう大丈夫です」


 その時、ハインリヒを覆っていた鎧がブチブチと破れ、地面にどさっと落ちる。全てから解放されたハインリヒは、張り詰めていた表情が一変して笑顔になった。


「肩の荷が降りました」


 そしてハインリヒの懐にあった空白の書が光を放つ。導きの栞が桜の花びらのようにはらはらと舞い落ちて、地面に無事着地する。


「お兄!」


 まだ姿はハインリヒのままなのに、シェインが駆け出す。それにレイナも続いて、彼女たちが到着するときには、いつものタオの姿に戻っていた。


「ありゃあ、どこだここは? ……って、なんだよシェイン」


 いつもならあり得ないであろう、シェインがタオに抱き付き、甘えて見せる。


「ばーかばーか」


「な、なんだよ。なんで泣いてんだ」


「泣いてなんかないです。よだれです」


「きったねえな、ほら、ハンカチ」


 刹那シェインの動きが止まって「その優しさが憎いです」とタオのお腹をバンバン叩く。


「一体どうしたんだ、こいつは?」


 優しく見守るレイナに尋ねるが、彼女はタオに笑顔を向けるだけで、何も答えは

しない。


 意味は必要ない。この二人の姿が答えだと言わんばかりに。




 エクスたち一行は、それから間もなくしてやって来る城の救急隊に介抱されて、しばしの休息と相成った。


 しかしずっとこうしてもいられない。レイナの体調が回復してくるころには、も

う旅路の支度を始めているのであった。


「本当にもう行かれてしまうのですか?」


 王女は本当に寂しそうに、一行に向かって言った。


「ええ、僕たちの仕事はまだまだ山積みですから。助けを求めている人達は沢山います」


 エクスも王女と等しい寂しさを顔に浮かべて答える。


「残念です。せっかくたくさんご馳走を用意しましたのに」


「え? ご馳走?」素っ頓狂な声を上げるタオ。「そりゃあ聞き捨てならねえな。今からでも間に合うなら――」


「はいはい、お兄。見苦しいですぞ。はよ行くです」


「いてえな、おい。耳を引っ張るな!」


 城を振り返る。そこにはミハエル王女と王子が、仲睦まじそうに佇んでいる。


「なんやかんやあの二人、仲よさそうでよかった」


 レイナが呟くと、シェインがうんうんと頷く。


「恋するカオステラー。意外過ぎる展開で胸が激熱でしたね」


「ちょっとだけ胸がキュンとしちゃった。私としたことが、カオステラーに感情を揺り動かされるなんてね」


 女性陣の恋バナにむさ苦しい男が一人、割って入る。


「恋よか、男のロマンだ。早く次の想区に向かうぞ!」


 王女と王子を置いて、一行は再び歩き出した。


「次はどんな出会いがあるかなあ」


 エクスの呟きが空気に乗って、遠く遥か先にある想区にまで運ばれる。青く澄み渡った大空に、一羽、大鷲が甲高く鳴いた。

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グリムノーツ ――銀の絆―― @kadohituzi

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