第4話

 がちゃりと、鎧が揺れる。


 剣先が風を切る。


 そして、スイカ割りをするかのように、ジャックの頭を――。

 

 切る。


 ジャックはその瞬間目を瞑った。思考だけが時間の束縛を逃れたように、色々なことが短時間で思い起こされる。


 ――ここまでか。


 痛みはなかった。ただ、冷気だけが首元をずっとさすっていて、ジャックはそれが自身から流れる血だと思っていた。


 だがそれは、三匹のこぶたから貰ったブレスレットだった。バッファローの角が、風に揺られてジャックの首元をくすぐっている。


 ――何が絆のブレスレットだ。


 タオはカオステラーの手に落ち、ジャックはレイナのことを守ってやれず、メガヴィランに打ちのめされ、タオファイミリーは崩壊寸前。絆なんてくそくらえと、ジャックは憤った。


 そこまで了見して、ふと、自分はまだ死なないのかと訝った。あまりに長い時間が過ぎている。顔を上げてメガヴィランを見てみると、彼は城のほうを注視していて、ジャックの息の根を止めてやろうと剣を振り上げてはいなかった。


 そして城内から、桜色の強大過ぎる閃光が瞬く。


 ――ラーラか?


 光が城の窓やら鉄扉やら、隙間という隙間から我先にと飛び出してくる。大爆発の予兆のように見えて、だが爆発は起きず、光だけが放たれ、そして消えていく。


「ヴぉおおおおおおおお!!!」


 光に共鳴したのか、メガヴィランが雄たけびを上げた。ジャックなど初めからいなかったかのように消えゆく光を見つめて、この場を去っていく。


 ――助かった?


 ラーラが放った閃光のおかげで、メガヴィランの手から命からがら逃れることができたらしい。


 まだ俺達の絆は終わっちゃいない。そうジャックは信じて、ゆっくりと起き上がった。




 やっとの思いで見つけた住民の力を借りて騎士二人とレイナの応急手当てを済ませると、エクスは静かに立ち上がった。その顔は、誰がどこからどう見ても、死に急ぐ兵士のように青ざめている。


「エクス、待って」


 不意に、レイナが呼び止める。彼女もエクスの異変を感じ取って、このままではいけないと、自分が何とかしなければと、痛む体を起こした。


「大丈夫、次こそはやっつけてくるから」


 それでも、エクスの意志は固い。


「ねえ、エクス……聞いて」


「分かってる!」


 エクスは柄にもなく、大声でレイナを跳ね除けた。言ってすぐ、後悔したように下を向く。


「レイナが言いたいこと全部、僕は分かってる。だけど……僕にはやらなくちゃいけないことがあるんだ」


 レイナもエクスに倣って下を向く。意を決して顔を上げても、喉に異物が引っかかたかのように「タオのことは諦めて……」と小さく呟くことしかできない。


「そんな選択肢あるわけないじゃないか!」


 案の定というべきか、全力で否定するエクス。激昂が言葉にも伝染して、棘が付いたように聞いただけで耳が痛くなる


「でも……そうしないと、みんな死んじゃうかもしれない。もうこれ以上、誰も傷ついてほしくないの」


「そんなの! そんなの……絶対おかしいよ。タオは僕らの、仲間じゃないの?」


 エクスの声がだんだん尻つぼみになっていく。レイナを守ってあげることができなかった。その罪悪感も相乗させて、自分の弱さに涙が出そうだった。


「みなさん、こんなところに居たんですか?」


 唐突に、懐かしい声が耳に入った。シェインが二人を、にこやかな表情で見つめている。ピンと張りつめていた空気が、彼女の笑顔で緩やかに流れていく。


「シェイン!」


 エクスとレイナ、二人の声が重なる。


「後ろの人は?」


 エクスが尋ねて、シェインの陰に隠れるようにして腰をかがめていた女性が、二人の前に現れる。


「この想区の王女、ミハイルさんでございます」


「よろしくお願いします」


 どうも、どうもと、今にも談笑が始まりそうな雰囲気に、シェインはどこか違和感を覚える。ハッと思い出して、


「って、そんなかしこまった挨拶をしている場合じゃありません。私たち、カオステラーから逃げてるんです」


 と、大慌てで言い終える。


「タオには会ったの、シェイン?」


「はい、新入りさん。お兄も私たちを追っています。カエルの王子を思いっきり投げつけてしまったから」


「もしかして、この王女が?」


 王女は恥ずかしそうにはにかんだ。頬がドレスと同じ色合いで染まっていく。


「そうです。でも壁にぶつかる手前でお兄が助けてしまって」


「何ですって!」


 レイナが世界の破滅だと言わんばかりに叫ぶ。


「ど、どうしたの、そんなに驚いて」エクスは恐る恐る尋ねた。


「この想区は『カエルの王様』が舞台になってる。王女がカエルを壁に投げつけて、それで王子に戻って二人は幸せに暮らすというのが本来のストーリーなの。でも今のままじゃ――」


「想区が崩壊しちゃう?」


「そう。このままじゃ……ね」


「でもお兄はカエルさんにぴったりくっついていて、もう一度同じことができるとは思えません、姉御」


「そうねえ。……あ、そうだ! 確かカエルの王様にはもう一つ王子に戻す方法があって……」


「一体どうすればいいの、レイナ?」


「王女がカエルにキスをすれば、同じように王子に戻るはず!」


「いやいやいや!」 


 レイナが言い終える前に、王女が今世紀最大の拒絶をする。骨が折れてしまうのではないかと心配になるほど首をぶんぶんと振っている。


「お願い、王女様!」


「有りえません! 死んでも嫌です!」


「そこを何とか!」


「いやいやいや!」


 三人と王女の攻防は、倒しても倒しても姿を現わすヴィランのように、一向に終わりを見せない。王女にとってカエルの王子は、姿も見たくない、同じ空気も吸いたくない、絶対的嫌悪感の象徴らしい。


「王女様、ちょっと考えてみて」エクスが王女にいう。


「王女様にも大切に思っている人がいるでしょ。例えばお母さんとか、お父さんとか、友達とか、兄弟とか」


「ええ、この国の民は、私にとって宝物です」


「そういう大切な人たちが、王女様の行動一つで救われるかもしれないんだ」エクスは一呼吸おいて「王女様の無償の善意を見せてくれないかな」と真正面から王女の目を見据えた。


「無償の――」


「そう、無償の善意。それを成しえるのは絆の強さだけだと思うんだ。大切な人、守りたい人、かけがえのない人、代わりが効かない人。その人との絆が、その人を失いたくないという強い気持ちが、王女様を強くする。だから――」


「分かりました」


 全てを言い終える前に王女が言葉を紡ぐ。その瞳は、その表情は、手の仕草から体の動き方まで、王女であるべき風格を漂わせている。


「あのカエルとキスをします」


 三人がうなずいて、王女はにっこりと微笑む。一瞬で王女から普通の女の子に戻ってしまうあたり、末恐ろしい人なんじゃないかとエクスは一人で恐ろしい気持ちになった。


 その時――。


「やっと見つけたよぉ、王女様ぁ。もう僕から離れちゃいけないってあれほど言ったのに。これはお仕置きが必要かなぁ。ねえ、ハインリヒ」


「全ては王子の命のままに」


 カエルの王子様とハインリヒ、その後ろにはメガヴィラン、そしてカオステラーが一挙に姿を現わした。


「お待ちください!」


 王女が声高に叫ぶ。


「私たちは争う気は一切ございません」


「ほお、じゃあ何をするのかなぁ」


「あなたとキスをします」


「へ?」


 あまりの展開にカエルの王子さまは呆気に取られている。


「何度も言わせないでください。私はあなたと――」


「わ、わかってる、分かってる。みなまで言うな、王女様。ちょっと心の準備が、あれ、今日の朝歯磨きしたかなぁ。どうだったけ、ハインリヒ」


「申し訳ありません。今朝は王子の隣にいなかったもので」


「ああそうだったね」


 思わずげっぷが出てしまう王子様。具現化するほど、強烈な臭いが辺りに満ちる。


「この匂いはしてないなぁ、きっと」


 王女様は一連の流れを一つも逃さず見ていて、再び女の子としての感情が芽生え始めてしまったのか、後ろにいる三人に向き直って必死に首を振っている。やっぱり無理ですぅ、と声が聞こえてきそうだ。


 三人は何とか王女様を元気づけるためにガッツポーズを取った。絆、絆、絆と、声は出さず口だけ動かして、むくりと起き上がった嫌悪感を必死に宥めている。


「早くしてください! 私はここで目を瞑っているので」


「は、はい!」


 カエルの声が裏返る。どう見ても挙動不審だ。動きもぎこちない。まるで初期不良のロボットだ。


「では王子。私の手のひらにお乗りください」


「……う、む」


 大きなハインリヒの手中にカエルの王子がすっぽりと収まる。ここは砂漠で、この水がこぼれたら自分の生命にかかわるとでもいうかのように、後生大事に両手で救うような形でカエルを乗せる。


 そして徐々に王女様に近づく。近づく、近づく。


 王女様はというと、死へのカウントダウンが始まったかのように顔を硬直させ、微塵も動かない。目は瞑っているようだが、うっすらと開いているのが確認できる。


 あと一歩で王女様とカエルの唇が交わる、というところでカオステラーに動きがあった。


 一番初めに気付いたのはエクスで、すでに窮地に至った時のために空白の書に手を掛けていたが、何やら様子がおかしい。


 カオステラーの行動の意図を了見して、だが判断が付かない。次第にカオステラーの体から強大な闇が放出され、それがカエルの王子様に降り注ぐ。


「何をする、カオステラー!」


 ハインリヒの怒号が、エクスの「王女様、離れて!」という呼び止めと同時に発せられた。


「え?」


 王女の耳に、エクスの声は届かない。全てがカオステラーの罠で、こういう状況に招かれてやってきたのだと、エクスは全てを悟った。


 ――だけどなんでこんなことを?


 闇に包まれたカエルの王子と、王女の唇が、交わる。王女が闇に包まれてしまうと危惧したが、彼女は依然として威風堂々と王女をきちんと演じている。次第にカエル姿のカオステラーの闇が、光に変わっていく。


 眩い閃光が収まると、その中から中世的な顔立ちの、本来の姿をした王子が現れた。


「王子!」


 ハインリヒは複雑な表情をしていた。やっとの思いで王子を元に戻すことに成功したが、カオステラーに体を乗っ取られてしまったら元も子もない。


「一緒に戦おう」見るとエクスが、ハイリンヒに笑顔を向けていた。「王子様をカオステラーの魔の手から救い出してあげるんだ」


 ハインリヒはエクスに笑顔を返し、共闘を認める――かと思いきや。


「いくらカオステラーが王子の体に入っていようと、私は……王子に向かって刃を向けることはできない」


「そんなことを言っている場合じゃないよ!」


 項垂れて地面ばかり見つめるハインリヒの姿は、一国の王子に仕え、窮地を率いてきた騎士のそれとは重ならない。おもちゃを買ってもらえずに、その場でただ黙って突っ立っていれば状況が一変すると考えている子供のような幼さがそこにはあった。


「しょうがない、僕たちだけでカオステラーとメガヴィランを倒すしかない」


「がってんしょうち。姉御はまだ休んでいてください。私たちがちょちょいのちょいでやっつけてくるので」


 レイナは何か大切なことを言おうとして顔をちょっとだけ上げたが、すぐにぐっとこらえる。


「うん、信じて待ってる」


 空白の書を取り出すエクスとシェイン。導きの栞に宿るヒーロー・ジャックのことを思い描いて、エクスは彼との絆も感じ取ることができた。


 ――今すぐタオを取り戻しに行こう。


 エクスの心の呼びかけに答えるかの如く、光と共にジャックが現れる。


 ――僕達ならやれる。二人なら、いや、タオファミリー全員なら。


 ジャックがメガヴィランに向かって駆け出す。先手必勝。硬い鎧に剣がはじかれるも、ラーラの補助のおかげで隙を襲われることはない。


 ジャックの頭上に斧が振り下ろされる。ジャックはそれを回転しながらよけ、遠心力を利用して一太刀を浴びせる。微かにではあるが、メガヴィランの呻き声のようなものをジャックは聞き逃さなかった。


 相手に攻撃の隙を与えない閃光、また閃光。初めは頭から、徐々に胴体に、最後には足元を目掛けて光が炸裂する。足下に攻撃が当たった瞬間、メガヴィランの様子が変化した。


 ――まさか。重い身体を支えることができないのか。


「ラーラ! 次もメガヴィランの足を狙ってくれ!」


「了解!」


 動きの遅いメガヴィランに攻撃を与えるのは容易い。ラーラの応酬にジャックも加わり、鉄を切る火花とピンク色の閃光が混じって、花火を見ているかのようだ。


 攻撃が成功するごとに、メガヴィランの呻き声が大きくなっていく。これ以上ないくらい効果は絶大なようだ。


 しかし――。


「ぐおおおおおおお!!!」


 メガヴィランの耐久力も壮大なものだった。何度攻撃を成功させてもメガヴィランの足は止まることを知らず、二人は後退りしながら一連の流れを続けるしかない。


「何をしている? さっさと潰せ!」


 激昂するカオステラーの命令に、メガヴィランの動きが一瞬だけ止まる。やがて唯一の武器である槍を地面に向けて、放心状態の格好を取った。嫌なデジャブが、ジャックの脳裏をよぎる。


 ――まさか、また?


 後方のラーラに目をやる。今度こそ仲間を守れなければ、僕はヒーロー失格だ。強迫観念にも近い思いが、剣を持つ手を強くさせる。


 ――来る。


 不協和音を余すところなく発するメガヴィラン。猪突猛進よろしく、ジャック――ないしラーラに向かって襲いかかってくる。


「ぐおう!?」


 十トントラックを相手にしているような体当たりが、脳震盪とほぼ同時にジャックに訪れる。


 これは比喩ではなく、衝突の刹那、ジャックには剣が曲がったように見えた。何とか弾かれることだけは避けられたが、あまりの重量感に体ごと押し潰される気配があった。今は大丈夫だが、このまま数分持ちこたえられるとは到底思えない。


「ラーラ」


 体全体に力を吸いとられて、ジャックの声はか細かった。


「一つお願いがあるんだ。僕がこいつを止めている間に、奴の足目掛けて攻撃してほしい」


「でもそんなことをしたら……」


 ラーラの拒否には理由があった。彼女の魔法は決して精度のいい代物ではない。上か下か右か左くらいの方向指示は可能だが、どこどこを的確に狙えと言われれば、そう容易いことではない。


「大丈夫、僕はラーラを信じてるから」


 目をつむり、少しの間俊巡を見せるラーラ。もしジャックに万が一のことがあったら。答えが目の前にあったら了見する必要なんてないのに、どうしてもそのアンサーが欲しくて、目を開けたら何もかもが終わっていればいいのにと切に願うラーラ。


 でも、現実逃避の先に答えなんかあるはずもないとわかってもいる。あと信じられるのは、ラーラを信じると言ってくれたジャックのことだけだった。


 キッと瞳を開ける。その目に、迷いは微塵もなかった。


 初めは桜の花びら程度の小さな明かりだった。それが一秒を経過するごとにだんだんと巨大化して、野球ボールくらいの大きさにまで進化する。本来であればもっと大きな力を蓄えることもできたが、これ以上大きくしてはジャックに当たらないとも限らない。


 ラーラの意識は次に、大きさから精度に切り替わる。蜜を高くするとでも言うのか、光の玉の中で暴れまわる螺旋状の糸のようなものが、統率を取るように等しく丸みを帯びていく。と同時に、ピンク色の密度も増して、血のような赤に染色されていく。


「……そ、そろそろ限界だよ、ラーラ」


 言い終える前に、ラーラの閃光が、あたかも意思を持つかのように前進する。通った道筋が、空気そのものが赤に染まり、紆余曲折することもなくただ真っ直ぐにメガヴィランを目掛けて走り抜ける。


 ジャックが感じたのは、空気の切れる音だけだった。耳元すれすれで何者かが音速で通りすぎ、振り返る暇もないまま途絶える。


 次に耳中を染めるもの。それは絶叫に近い叫び声。メガヴィランの雄叫びに他ならなかった。


 メガヴィランは放心状態だった。立ったまま生き途絶えた樹林のごとく、静かに、眠るように呼吸を止めた無害の植物だった。やかて思い出したかのようにグラグラと体を揺らし、足下から地面に突っ伏する。砂埃が、重量に比例して舞い上がった。


「なかなかやるじゃないか、お前たち」


 メガヴィランの巨体の陰に隠れていたカオステラーがとうとう前線に姿を現わす。その手には先端が針のごとく尖ったレイピアを携えている。


「この想区は既に私のものだ。誰にも手出しはさせない」


 瞬間、カオステラーの姿を見失った。


 次にジャックの目が捉えたのは、銀に輝くレイピアだった。下を見ると、ジャックに存在を悟られないよう屈むように態勢を低くするカオステラー。右手だけを上げて、ジャックの顔面にレイピアを突き刺そうとしている。


 ジャックはその攻撃を、頭だけを右に動かして避けた。だがカオステラーの応酬はそれだけでは止まず、レイピアを引いてはまた突き出し、引いては突き出しを何度も繰り返す。


 ジャックはその攻撃も首を巡らして右に左にかわしていくが、突如腹部に激痛が走り、動作が鈍ってしまう。カオステラーが掌底を繰り出すかのごとく、ジャックの腹部に攻撃を繰り出していていたのだ。


 その一瞬の動作停止を、カオステラーは見逃さない。


 ジャックの首元を目掛けてレイピアが襲い掛かる。


「いてええええええ!!!」


 ジャックの悲痛な断末魔が響く。だがレイピアは彼に何一つ傷を負わせていなかった。


 代わりにジャックの尻部が桜色の光で満たされ、カオステラーに向かって倒れこむように押される。両者は無様に地面に横たわった。


 一体何が起きたのか。ジャックが後方に頭を巡らせると、そこには当たり前のようにラーラの姿がある。ラーラがジャックの窮地を救うべく、機転を利かせて最小限の威力で魔法を放ったのだ。


「もっと僕を丁寧に扱ってくれないか、ラーラ!」


 ラーラはジャックの命を救ったはずだが、不満満載のようで声高に叫んでいる。そしてカオステラーよりも早く起き上がり、即座に剣を振りかざす。


 カオステラーは床に寝転がりながら、ジャックの攻撃をレイピアで防いでいく。上から圧力をかけているジャックのほうが圧倒的有利なはずなのに、素早さではカオステラーのほうが一枚も二枚も上手なのか一向に隙を見せない。


 徐々に体勢を取り戻していくカオステラーは完全に起き上がり、息もつかせない応酬から完全に逃げおおせていた。後ずさるように左足を一歩後方に動かし、右手でレイピアを構えてフェンシングの態勢を作る。


 そこからは一瞬だった。目視では到底追いつくことのできない速さで、カオステラーのレイピアが襲い掛かる。ジャックは瞬きすら許されない状況下で、攻撃を何とかかわしていくが、レイコンマ数秒の遅れが蓄積されて、五手目には頬に微かな痛みが生じる。


 だがジャックは一人ではない。仲間のラーラの後方支援を受けて、何とかカオステラーの隙を作る。閃光がカオステラーの目前で瞬き、ウッと瞳を閉じた瞬間にジャックの刃がカオステラーの腹部をクリーンヒット。


 一撃を与えた――かに思われたが……。


 ジャックの的確な一太刀をガードしたのは、ハインリヒだった。


「どうして?」


 力強い押しによって、ジャックの体がいとも簡単に後方に投げ出される。風圧が地面の砂をかっさらっていく。


「王子が傷付く姿を黙ってみているわけにはいかない。私は王子のために戦う」


 ハインリヒはジャックを倒すべく、彼に向かって駆け出した。ジャックにとってその時間は無慈悲に思えた。


「やめて、ハインリヒ! 僕達は君と戦う理由がない」


「私にはある。王子を守るという使命が」


 ハインリヒから一太刀。すこぶる重い。


「だけどそいつはもうカオステラーの悪に染まってしまっている。君の知っている

王子じゃないんだ」


「だが王子の体が傷付くのは事実だ。それを指をくわえて待っていられるほど、私は強くない」


 また一太刀。地震が起きたかのようにジャックの剣が揺れる。


「君と王子の絆は確かなものだ。だけど、これはだけは間違ってる」


 さらに強力な槍がジャックの剣を弾く。ハインリヒの勢いに押された剣は「もう降参だ」とジャックの手から離れ、宙を舞い、地面に突き刺さる。


「これで最後だ、共に戦えて光栄に思う」


 曇天のような鈍色が、頭上に高々と上げられて、その時だけ光を帯びた。


「だめ!」


 エクスの体を柔らかい匂いが包みこんだ。鼻に薔薇の匂いを蓄えた髪が入って、

くしゃみがでそうになる。何者かがジャックをかばうように覆いかぶさっていた。初めそれはレイナかと思われたが、そこにいた女性はミハエル女王で相違なかった。


「あなたの王子は人に優しくあるべきと、そう教えたはずです。こんなことをしても本当の王子は喜びません」


 ハインリヒの額に、皺が一つ刻まれる。


「あなたに何が分かる? 私には王子しかいないのだ。口出しをするな!」


「今のあなたは王子への絆という盲目に乗っ取られ、何が本質化を見失っています。気をしっかり持ちなさい。もっとすぐ近くに、あなたが必要としているものがあるはずです」


 王女はそう言って、ラーラと、その奥にいるレイナのほうを見遣る。


「あなたが必要としている絆はあそこにあります。王子との間にはありません」


「私と王子の関係を愚弄するのか?」


「そういうわけではありません」


「いや、そういうことだ」


 どうしても王女の意見を認めることができないハインリヒ。槍はいつの間にかジャックから王女に向いている。


「待て、ハインリヒ」


 暴走するハインリヒを止めたのは、意外な人物。王子が王女とハインリヒの間に割って入ってきた。


「この人には手を出すな。やるのは空白の書を持つ三人だけでいい」


「な、何をおっしゃるのですか? 私はただ王子のためを思って……」


「とにかく、いらんことはしなくていい。どちらにしろこの王女は戦えない。無害な人間を巻き込む必要はないだろう」


 ラーラとレイナ、そしてジャックは呆気に取られていた。今の王子は見た目は完全に本人そのものだが、中身はカオステラーに乗っ取られているはず。なのにカオステラーの口から出てくる発言がそれに見合わないほど善に満ちている。


「こんなことって……?」


 レイナが呟く。ずっとカオステラーを追ってきた彼女でさえも、今回の異例の出来事に開いた口が塞がらない。


「仰せのままに」


 忠誠心極まるハインリヒは標的を王女から、王女という壁のいないラーラの方へ変更する。


 その時カオステラーは、ジャックをかばう王女を見下ろしていた。優しい撫で声で「そこをどいてください、王女。そうすればあなたに危害が及ぶことはありません」と告げる。


「私たち全員を見逃すと言うなら、ここをどきます」


「それはできかねない相談だ。空白の書を持つこの若き三人の勇者たちは、私たちカオステラーの脅威的な障害になる。今の内に芽を摘んでおかなければ、痛い目を見るのは私どもなんですよ」


「なりません。人を人と思わず、傷付けるのを楽しむような輩にこの人たちを渡すのは私のポリシーに反します」


 何を言っても突っぱねる王女に、カオステラーは意外なことに感慨深げに言った。


「あなたは本当に優しい人だ。優しく、気高く、王女になるべくしてなった才能あるお方だ」


「あなた……一体何を?」


「一つ、お話をさせていただきたい。これはとある男の話です」


 王子は子供に言い聞かせるような優しい口調で話を続ける。


「男はとにかく短気な性格でした。自分の思い通りにいかなければ破壊の限りを尽くしてしまうような、そんな野蛮な男です。

 その男はある日旅に出ました。いつも通り、何かを破壊する旅です。そこで一人の女性に出会いました。彼女は一国の王女で、その国の中で一番に輝いていて、花が大好きで、いつも笑顔で。男はその王女に恋をしました。だけど彼女には既に決められた人がおり、とてもではありませんが容易に近づける状態ではありません。

 男は、いずれ王女と恋仲になる男になりたいと、そう願っておりました」


「まさか、あなた……」


「男は不思議な力を持っておりました。他者に憑依して、自分の意のままに操る力です。男はその不思議な力を利用して、王女と恋仲の関係になる王子に憑依することを決めました。

 ですがここで問題が一つ。男たちの住む世界では生まれた瞬間に個々人の物語は決まっていて、それが少しでも逸れればたちまち世界は崩壊してしまうのです。つまり上手くことを運ばなければ男と王女は一緒になることができず、世界の崩壊は免れないと言うことです。男は考えに考えました。そして出た結論はこうです。

 もう一つのエピソードを使おう……と」

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