勇者と少女

50まい

勇者と少女

「わるい魔王は倒されて、せかいは平和になりました」




 小さい頃、俺は絵本が好きだった。




 童話、SF、ファンタジー…とりわけ、俺は勇者に憧れた。




 友達と一緒に当時流行っていた『ギンガマン』の真似をしては取っ組み合って笑っていた。




 学校で提出する将来の夢を書く紙に『悪をやっつけるヒーロー』と書くぐらい、俺は勇者に憧れていたのだ。




「クトーエター?」




 廃墟のような家の前を通りかかった時に聞こえたのは、日本人には馴染みのない、独特の発音だった。ロシア語。




 日本語に訳すなら、『どちらさま?』とでもいったところか。




 ぼろきれを寄せ集めたような服で体中を包まれているちいさな女の子が顔を出す。




「ズドラーストブィチェ」




 定形の挨拶をし、俺は女の子の目の高さに膝を折ると言った。




「きみに危害を加えるものじゃない」




 女の子は、子供特有の真っ直ぐな瞳でただ俺をじっと見た。




 歳は小学校ぐらいか。頭にはくすんだオレンジ色のスカーフを巻いている。




「取材の人?」




 女の子は首を傾げると言った。




 その答えに俺の眉根は知らず、寄った。




 そうか。初対面の人間にそんな質問が出るぐらい、ここには無粋な輩が踏み込んでいると言うことだ。




「違うよ」




 身の奥で燻る怒りを抑えて、俺は女の子を怯えさせないように優しく言った。




「違うの?じゃあ何をしに来たの?ここは『ゾーン』だよ」




 女の子は慌てたように言った。俺を、立ち入り禁止区域(ゾーン)と知らずに迷い込んできた旅人とでも思ったみたいだ。




 子供が持ちうる純粋さで、見ず知らずの旅人のことを心配している。




 優しい子だ。




 今はもう、世界中、いや地球自体が『死のゾーン』と化しているというのに。




「俺は日本から来たんだよ」




 そう言うと、女の子は驚きに目を見張った。




「フクシマ?」




 たどたどしく、しかし確実にその唇は「福島」と発音した。「チェルノブイリ」も、「フクシマ」も、その国独自の言葉でありながら世界共通の単語となってしまった。




 遙か前の事故だというのに、世間は忘れないのか。それともここが、ウクライナの『ゾーン』で、放射能汚染と切っても切り離せない関係にあるからか。いや、それとも…地球の放射能汚染が手遅れなレベルに来ていると、世間が気づいてしまったからか。




 歴史的な大惨事は、人の心に残る。




 百年前は、『チェルノブイリ原子力発電所』といえば、誰もがその名を知っていた。




 1986年、4月26日。旧ソビエト社会共和国連邦にあるチェルノブイリ原子力発電所が炉心溶融(メルトダウン)し、放射能は世界中に散らばった。




 8000キロ離れた日本にも、死の灰は風に乗って流れてきた。




 2011年、3月12日。その日本で、前日未曾有(みぞう)の大地震に見舞われた福島原子力発電所が、水素爆発。放射能は日本を包み込み、世界に流れた。




 二度の大災害…しかし世間は、原子力発電所を作り続けた。




 そしていつの間にか、放射能汚染は人の手に負えないところに来てしまった。




 ここまできてしまった、原因は何だったのか。それの明確な答えは、誰も出せないだろう。あえて言うのなら、それは人の心だ。人間は大きな教訓から学ぼうともせず、原子力発電所は増え続け、戦争には原子力爆弾が使われた。理由は単純だ。それにかかる手間よりも、得られる目先の利益の方が膨大だからだ。地球の資源を損なうことなく大量の電力を捻出できる、一度に大量の人間を虐殺できる。だからリスクを無視して使う。極少数の権力者は大多数の叫びを踏みつぶした。風が吹くまで待ったり、ピストルでひとりずつちまちま殺したりなんてしない。そのリスクを負うのは、当然自分たちではないことを知っているからだ。原発の危険区域からは遠く離れた絶対に安全な自宅で、発電された電気を安穏と消費している。




 原子力爆弾。水素爆弾。その威力は殺人兵器という意味で認められるところであるが、かつては公に使用する国はなかった。大量虐殺兵器は、倫理的に問題があると、表面上は善人ぶっていた国際社会は言っていた。戦争では非戦闘民を殺さない。毒ガスや細菌兵器、原子力爆弾などは非人道的であるから使わない。それが表のルールだった。人道的という単語はよく戦争の逃げ道に使われた。敵国を貶(おと)し自国の正当性を主張するために。




 人は誰でも死にたくない。それは戦争をしているどの国も同じだった。2000年にはいってから、戦争は急速に無機物化した。遠距離操作のロボットが大量に使われた。ロボット対ロボット。埒(らち)があかない戦いだ。そこで、国は誤爆と見せかけて非戦闘地域に攻撃をするようになった。一度に、できるだけ沢山攻撃できるように、原子力爆弾と細菌兵器をたっぷり搭載した飛行機を飛ばして。




 パイロットは安全な自国でのんびり本を読み菓子をつまみながらボタンを押すだけでいい。それだけで敵が大量に死んだ。戦争にありがちなPTSD(心的外傷後ストレス障害)や精神錯乱を引き起こすこともなく、殺人はゲームと化した。兵隊は殺した数を競い合い、殺戮の様を面白おかしく語り合った。涙を浮かべて国の指導者は言う。誤爆だった。でもこれも戦争を早く終わらせるための、必要な犠牲なんだ。世界平和のためだ。そして数万人が死んだ。




 素手で武器に対抗するには、相手と同じだけ強い武器を持たなければいけない。先んじたのはアメリカだった。次にロシア、中国と続いた。一国がルールに穴を開けてしまえば、あとは簡単だった。蟻が開けたちいさなちいさな穴でも徐々に大きくなり、最後には堤防を決壊させてしまうように、モラルの全ては弾けるように破裂した。国は人道という仮面を被ることをやめた。やらなければ、やられるのだ。戦場は無法地帯となった。雨の代わりに爆弾をばらまき、町は徹底的に壊滅させられた。難民が溢れた。




 気がついた時には、もう手遅れだった。




 多かれ少なかれ、地球上で放射能に汚染されていないところなどなくなった。滅ぼしたはずの細菌は人の手によって蘇った。より殺傷力の強いものをと求めた結果だった。医学も進歩していたが、人の数は確実に減った。平均寿命は見る間に縮まった。より安全な場所を求め、地上より地下で暮らす人が増えた。放置された病院、研究所、原子力発電所、それらすべてに国の管理が行き届くわけがなかった。




 今、人の心には、常に絶望感がつきまとっている。メディアは連日地球滅亡説をとりあげ騒ぎ立て人心を煽る。まるで、かつて黒死病(ペスト)が大流行した時のように、死は人の間を踊り狂った。いかにして生きるかより、死をみつめ、死を恐れない思想が持て囃された。




 放射能つながりで、チェルノブイリとフクシマに関することも、よく耳にした。この少女が、俺を見て最初にメディア関連かと思ったのも、そういう経緯なのだろう。




「はやくでていったほうがいいよ」




 優しい少女は急かす。




「大丈夫。ここの線量は、それほどでもないよ。チェルノブイリの事故は、もう大分前の話だから」




 俺は微笑んだ。嘘だった。年月を経て、消えるものもあれば、蓄積するものも、ある。しかし俺はここを今出て行くわけにはいかなかった。




 女の子は、ぱっと明るい顔になった。




「うん。パーパも言うの。ここは全く危険なところじゃないって。溜まり水を飲まないとか、歩いて行っちゃいけないところにいかないとか、少しのことに気をつければ、何にも怖くないもん。魚だって、茸だって食べるよ」




 俺は曖昧に笑った。少女の美しい心を汚したくなかったから。




「ひとを探しているんだ」




 俺は言った。女の子は首を傾げた。




「取材の人?じゃなかったら、ここには誰も来ないよ」




 俺が探す人間は、一目見たら忘れられない容姿を持っている。女の子がこう言うからには、本当に見ていないに違いない。




「その人の名前は何というの?」




 無邪気に、親切に少女は聞いてきた。俺は、胸につかえた錘を押し下げるようにして、声を発さなければならなかった。




「…ディヤーヴォル」




 それを聞いた途端、女の子はひっと息を飲んだ。




「それは、名前?」




「いいや。渾名(あだな)だよ。本当の名前は、知らない」




 女の子の震える声に、俺は安心させるように笑った。




「お兄さんは、警察か、司祭様なの…?」




 どちらでもないよ、と俺は首を振った。




「その人は、悪い人なの…?」




 その問いに、俺は無言で女の子を見た。




 悪い人。




 人格のことはわからない。しかし、あいつは、俺にとって絶対的な「悪い人」でなければならない。どうしても。




 『魔王(サタン)』。そう呼ばれるものがいる。




 この地球を滅ぼさんとする悪い奴だ。




 俺は、その魔王を、殺さなければならない。




 ずっと、追いかけてきた。いろんなところに行った。いろんなものを見て、いろんな事を知った。けれど俺はただ奴を追った。ひたすら追いかけ続けた。追って、追って、追って。




 ふと立ち止まった。




 小さい頃、俺は、勇者になりたかった。絶対悪を倒す正義の味方でありたかった。




 しかし今、俺は走る意味がわからなくなっている。やるべきことはわかる。やらなければならないこともわかる。しかし、その理由が…強固たる意志が、辿るべき足下の道が、俺には今見えない。




 荒廃した大地、荒んだ人の心、争う命、人は奪い合い、誰かを呪いながら生きている…。




 もう、手遅れではないのか。この地球は、元に戻るのか。自然も、人の心も。




 地球や他の動物にしたら、人間こそが悪だろう。




 ならば俺のしようとしていることは間違いではないのか。汚れた地球、汚れた人間を滅ぼそうとする「魔王」は、人間以外にしたら「救世主」に違いない。




 人間ですら暗く澱(よど)んだ世界を見て一度は思うはずだ。昔のような綺麗な地球が見たい。心の底から明るく笑いたい。この世界は、もう、取り返しがつかないところまで来てしまったのかもしれない、と…。




 正義は一体、どこにあるのだ。




「…ここの、自然は元に戻ると思う?」




 俺は女の子の質問には答えずに言った。




「戻るよ」




 女の子は、躊躇なく言った。




「もうね、百年もしたら、ここは地球上で一番綺麗なところになるって。放射能はみんな消えてなくなって、人もみんな戻ってくるって」




 にこにこと女の子は笑っていた。誰かから、おそらくは彼女の家族から繰り返しそう聞かされていたのだろう。淀みない声だった。現実として、ここには彼女の家族以外は、誰ひとり住んでいないにもかかわらず。




「…どうして、ここに住んでいるの?ここが『ゾーン』であることを知っているのに」




「ここは、生まれた土地だから」




 俺がそう聞くのが不思議で仕方がないように、彼女は首をこてんと倒した。




「ここじゃなくても、もっと緑が豊かで、命を脅かす放射能も少なくて、住みやすい安全なところが沢山…」




 俺はふいに声を詰まらせた。




 なんだか色々な感情がこみ上げてきて、自分が言っていることが、正しいのかわからなくなっている。




 世間一般では、俺の言うことは確実に「正しい」筈だ。しかし、この少女にとっては、きっと俺の言葉こそが「間違っている」のだろう。




 正しいことは、何だ。間違っていることは、何だ。誰か教えてくれないか。「悪は倒す」。しかし、その悪がわからないのだ。




 「魔王」こそが悪だと。倒すことが正義だと。誰か、俺に言ってくれ…。




「ここが、あたしが一番住みやすいところ」




 女の子は白い息を吐きながら、純粋で曇りのない瞳で俺に言う。




「ここが、あたしにとって一番安全なところ」




 俺は戸惑いながらもじっと少女を見た。少女は本心から言っている。『死のゾーン』とまで呼ばれ、外部からの立ち入りは厳しく制限され、接触も飲食も禁止され、木々は赤茶けて枯死し、放射能降り注ぐこの土地が、この世界で一番安全で、一番住みやすいところだと。




「だから、あたしはここを守って、ここで生きて、ここで死ぬ」




 少女の声は静かに、迷いなく俺を射た。




「そうか」




 不思議と荒れていた俺の心も静かに凪いでいた。いや、少女のその声が、荒くれた俺の心の舵を決めた。




 地球はもうだめだと、そういう声も確かにある。地球を見捨て、月へ、宇宙へ逃げている人間も、もちろんいる。それを批判する声もある。ただ、俺はそういう道もあって良いと思う。




 どこで生きるのかは、自分で決めれば良い。どこで死ぬのかも、自分で選べば良い。




 生きたいと足掻くのも、死ぬとわかっていて動かないのも、自由だ。




 人は皆自由だ。自由なのだ。俺も、この少女も。自分の意思で、何だって出来る。




「きみに会えて、よかったよ」




 俺は少女のちいさな手を包み込んだ。手袋越しでも、奇妙に短い指は5本以上あるのがわかった。数代にわたって死のゾーンに住み続けている代償をこの子は確かに払っている。それでも言うのだ。ここで生きて死ぬと。その汚れなき真っ直ぐな心で。




 少女は恥ずかしそうに手を引っ込めると、にこりと笑った。




「探している人が見つかると良いね」




「ありがとう」




 俺は少女と別れて手を振る。




 きっと、長生きは出来ないだろうあの少女の命が、生きると言ったあの少女の命を、俺は守らなければならない。




 放射能によって朽ちることを受け入れた少女、地上で暮らす人、地下で生きる人、この地球。その全てを俺は守らなければいけないのだ。なんとしても。




 ひとつひとつの命を、生きると誓った希望が、外部からの圧倒的な力で断ち切られるなんてことがあってはいけない。




 俺は立ち止まり後ろを見た。




 しとしとと雨が降り出してきた。遠く小さくなった少女は、それでも俺を見送ってくれている。霧雨でけぶる木立の中、朽ちかけた家の前で、少女の被っていた橙色のスカーフが靡く。




 俺は少女に背を向けた。そして二度と、振り向くことはなかった。




 この土地が元に戻ると、なんの迷いもなく言えるあの少女のように、前を向き、顔を上げて歩こう。




 まだ、地球がだめになると決まったわけじゃない。未来はわからない。




 そう、百年後には、この宇宙中で一番綺麗な星だと誰もが讃えているかもしれない。




 そのために俺は、俺が出来ることをする。




「勇者は悪いまおうを倒して、せかいを平和にみちびきました」




 小さい頃、俺は絵本が好きだった。




 童話、SF、ファンタジー…とりわけ、俺は勇者に憧れた。




 悪を倒す勇者。地球を救う勇者。




 俺はもう、迷わない。




 何があっても、決してもう迷わないことを、誓う。




 それでも弱い俺が、迷いそうになったら、この木立を思いだそう。俺の守るべき、心優しい少女を。橙色のスカーフを。




 確かにここは、世界中で一番綺麗なところなのかも、しれない。

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