第8章:歩き始めた遥かな世界

輝き始めた確かな未来



 赤みがかった夕暮れの教室から、夏用のセーラー服を着た女子生徒が一人、廊下へと歩いて出てきた。

 その女子生徒はショートヘアの茶色の髪を揺らしながら、誰も居ない教室の鍵を閉めた。

 活発そうなその女子生徒の名前は伊東未来。

 周囲から"みっちゃん"と呼ばれている彼女は忘れ物を取りにきていた。

 そして、鍵を閉めたあと、

「私としたことが、まいこに貰ったメロンパンを忘れるなんて!」

 というひとりごとを、静けさが支配する廊下に反響させながら歩き出す。

そして一人、無言で歩き、第一階段へと差しかかる。

 みっちゃんのクラスの教室は、四階建ての校舎の三階にあった。

 一つ上の四階は、文系の部活動の部室がある。

 いつもは騒がしいが、明日からテスト期間のため、文系の部活動の活動は停止する。

 なので、本当に校舎には誰一人として居なかった。教室どころか校舎にすら誰も居ないので非常に静かだ。

 みっちゃんがこの時間まで校舎に一人で居るのは、非常に珍しいことだった。

 静寂に包まれる校舎。いつも一緒にいる黒髪ポニーテールの友達はいない。

「せっかくだし、探検していこーっと」

 そう言うと、教室の鍵の輪っかに指を通してくるくると回しながら、鼻歌交じりに上機嫌で階段を登る。

 鼻歌を歌い、リズム良く階段を登って行き、四階への最後の一歩をジャンプして踏み出す。

 そして、着地してガッツポーズ。瞬間、いきなりかけ出す。

「誰もいないからー! 走っても怒られない!! イエーイ!」

 と静寂もおかまいなしに一人で叫び、静かな四階の校舎の廊下を騒音で染め上げながら、反対側の第二階段目指して走る。

 みっちゃんは右を見ながら静かな風を切る。校庭の景色が素早く流れていく。

 窓から反射して映るみっちゃんの顔は満面の笑みだった。

 しばらく走ったあとに、第二階段が近づいてきたので前を向く。

 茶色のショートヘアと、斜めがけの茶色の鞄をたなびかせながら駆け抜けた。

 そして、第二階段、ゴールが見えた。

 減速しつつ、みっちゃんは両手をやや上げる。

 そう、ゴールテープを切るかのような動きだった。


 それからすぐ――


「わーーーーー!!!」

 みっちゃんは一際大声を上げる。

 第二階段から誰かが飛び出してきたのだ。

 その何かは、白い紙の束を大切そうに抱えていた。

 そこまで理解できたが、減速したとはいえ、急ブレーキはかけられない。

 なので、そのままぶつかった。

 そして、みっちゃんの視界が一瞬、迷子になった。

 みっちゃんは倒れた体を起こし、座る。そして、

「ご、ごご、ごめんなさい! 怪我は?」

 土下座した。

 それから、ぶつかった相手を見る。

 大量の白い紙の海の上に、ぺたんと座り込む女の子だった。

 小柄なみっちゃんより拳一つ分ぐらい身長の高い女の子だった。

 くせっ毛のある長い黒髪をもったその女の子は、みっちゃんと同じセーラー服を着ていた。

 そして、みっちゃんと目があうと、

「…、あ、いえ。…私は大丈夫です」

 そう言って、座ったまま白い紙の海を拾い集める。

「よかったー! 本当にごめんなさい」

 みっちゃんは再び謝って、白い紙の海の回収作業を手伝おうと、身を乗りだして、 白い紙の一枚に右手を伸ばす。

 が、その手は

「…やめて!」

 振り払われた。

「ぎゃっ」

 みっちゃんが驚いて手を引っ込める。

「ご、ごめんなさい」

 振り払った張本人はすぐにはっとして謝罪。

 直後、少しだけ後ずさりして、

「う、あ、怒ってる? …ごめんね」

 みっちゃんも謝った。

 それを見たくせ毛の女の子は、不安そうに言葉をつなげる。

「叩いてごめんなさい。…これはその…大切なもので…、でも大切じゃなくて…。…あ、違う、なんだろ…」

 一言発する度に、声のボリュームは小さくなっていった。

 みっちゃんはしばらくそれを見た後、

「へー、どれどれ?」

 再び右手を伸ばし、白い紙に触れる。

 手は振り払われなかった。

 恐る恐る手にとってみっちゃんは白い紙をじっくりと見る。

 それを、くせ毛の女の子はそごく不安そうに、そして恥ずかしそうに見ていた。

 みっちゃんが拾った一枚には日本語が書かれていた。

 その一枚の紙は原稿用紙だった。

 そこには、段落分けや、句読点をはじめとして、誰でも読める漢字を使い、わかりやすく綺麗な手書きで書かれた小説だった。

 書き手の丁寧さが、文字を通して、文章を通して、真摯に伝わってきた。

 その内容はファンタジー小説だった。

 原稿用紙の右上には『19』と記されていた。

 内容と照らしあわせて考えると、これは途中で、おそらく十九枚目ということだろう。

「面白い! これは、小説だよね? 一文字一文字全部手書き?」

 その一枚の原稿を読み終えたみっちゃんがシンプルな感想のあとに、聞いた。

 くせ毛の女の子は黙る。そして、うつむく。

 みっちゃんの茶色い瞳は、その姿をじっと、何も言わずに見ていた。何も言わずに待っていた。


 しばらくして、

「はい。…これは、私が書いた小説です…」

 くせ毛の女の子が恐る恐る口を開いた。

 そして、さらに言葉を重ねる。

「この小説は、失敗作なんです。…大切な賞に落ちてしまった失敗作なんです。だから…」

 目に涙を浮かべながら矢次早に言って、一回大きく息を吐く。

 そして、こぼれ落ちる涙を拭く。

 色んな思いがこもった涙だった。

 彼女には小説が全てだった。

 小さいころから本が好きで、小説が好きで、ずっと読んでいた。

 人と話すことが苦手な彼女には、小説が全てだった。

 彼女は小説を読むうち、こう思うようになった。

 いつしか、こう思うようになった。


『私も小説を書きたい』


 それが、彼女の始まりだった。

 そこから、始まったのだった。

 それから彼女は小説を書いた。

 最初に書いたのは十二歳の頃だった。

 最初に書いたのは王子様とお姫様の話だった。

 自分で読んでみてそれは、今まで読んできた小説と比べると格段に見劣りしていた。

 だが、それでも彼女はそれがとても嬉しかった。

 自分が描いた世界。それが何よりも輝いて見えた。

 そして、彼女は以後ずっと、今までずっと小説と共に生きてきた。

 今まで書いた無数の作品はずっと部屋に綺麗に置いてある。

 小説は彼女の全てだった。小説が彼女の全てだった。

 だから、その涙は止まらない。

 だけれど、それでもくせ毛の女の子は言葉を紡ぐ。

 涙と共に、何かを出すように。


「…だから! だから、捨てるところだったんですよ」

 くせ毛の女の子は、ずっと考えていたことを言葉にすることができた。

 目に涙を浮かべながら、ふっと笑ってみせながら言葉にすることができた。

「なるほど! それで? 続きはどこ?」

 そんなことはお構いなしとばかりに、みっちゃんはいつもの高いテンションのままだった。

 手当たり次第に、順番などきにせずに白い紙の海を回収していく。

「あの…話聞いてました? …捨てるところだったんですよ?」

 くせ毛の女の子のそんな暗く後ろ向きな言葉とは裏腹に、

「それならなおさら読みたい!」

 みっちゃんは前向きで明るかった。

 それがとても、くせ毛の女の子には眩しかった。

 だから、つい出た言葉、それは、

「時間の無駄だからやめたほうがいいです…」

 自暴自棄な自虐だった。

 それを、先ほどとは打って変わって硬いトーンで、

「違うよ」

 と斬り捨て、

「無駄かどうか、失敗作かどうかは、それは私が決める。読む私が決めることだよ」

 みっちゃんはきっぱりと言い放った。

「……」

 無言を貫くくせ毛の女の子を横目に、みっちゃんは白い紙を拾い集めつつ、立て続けに言葉を発する。

「その小説は、大切な賞に落ちたんだっけ? それはとても残念なことだと思う。賞でどんな評価を受け取ったのかは私にはわからないよ。でもね。それでもね。私はね、私はこの小説を読んでるとすごく安心する! この字、すごく温かい字だし文章の言い回しとかもすごくあったかいし、君ってすごくあったかいんだね。私にも読みやすい漢字を使ってくれているし、私にも読みやすく文章がかかれてる。そんな細かいひとつひとつが、小説の世界と一緒に書き手の人物像も私に語りかけてくるんだよ。全部全部、一文字一文字が全て、君の描いた世界なんだ。私はその世界にもっと触れてみたいよ」

 そしてみっちゃんはくせ毛の女の子の涙目を、真っ直ぐに見据える。

「…私はここまで感じたわけだけど、それでも、それでもこれは失敗作なのかなあ? 私はこの途中の一ページだけ読んで、『全部読みたい!』って思ったわけだけど、それでもこれは、魅力的なこの世界は失敗作なのかなあ?」


 そう言いながら、あと少しになった白い紙を拾い集める。拾いながらも続けた。

「君はこの小説を書いたとき、どんな気持ちだった? それで、どんな気持ちで書いてたの?」

 みっちゃんは拾う。

「きっと、楽しく書いてたはずだし、いいのが書けたぞーって出来たときに喜んだはずだよ」

 それが大事なものだと、かけがえのないものだと知っているから。

「そして次に、『誰かに読んでもらいたい』って思ったはずだよ。だから賞に送ったんでしょー?」

 みっちゃんは集める。

「じゃないと手書きでこんなにもいっぱい書けないよ。だから、私はこんなに書けないから、すごいなって、思うよ」

 それに、それらに、込められた思いが、願いが、熱意が。何よりも美しいものだと知っているから。


 白い紙を全部集め終わり、揃えて、

「それでも、この世界って、本当に失敗作なのかなー?」

 くせ毛の女の子へと両手で差し出す。

「……」

 ―その世界を受け取るものはいなかった。

 そして、返事もない。返事なんてなかった。

 しばらく待った。答えはなかった。

 答えを待つのをやめて、

「そっか。じゃあこれはいらないよね」

 みっちゃんは少し寂しそうに微笑んだあと、そう告げた。

 そして、白い紙を揃えながら、さらに続けた。

「まぁ『賞に落ちたから捨てる』って言うなんて、絶対に賞だけのために書いたものなんだろうし、いらないよね?」

「…っ」

 辛辣な言葉だった。その言葉を投げかけられたくせ毛の女の子は、胸をチクリとさされた痛みを感じて、一瞬唇を噛み締めた。

 そして、何か言いたげだったが、言葉にはならなかった。

「はいこれで全部かなー? それじゃあ、私が読んだら捨てておくねー! ばいばーい!」

 みっちゃんは無表情で立ち上がり、階段を降りるため、ゆっくりと歩を進める。


 直後、


「…待って!!」


 今日一番の大きな声が静かな廊下に反響した。

 しばらくして、反響が終わり、声は掻き消えた。

 静寂を浴びるみっちゃんの、歩みを止めた右足に、くせ毛の女の子がしがみついていた。

「…待って、ください!」

 彼女は必死に止める。

 なんのためか、自分でもわからなかった。

 なんで、止めたのかわからなかった。

 自分より小さいのに、真っ直ぐで強く眩しいこの女の子と。友達になりたかったのか。

 自分より小さいのに、大切なものをしっかり逃げずに見ているこの女の子と。もっと話をしたかったのか。

 どちらでもない、どちらでもあるが、どちらでもない。

 自分がここまで必死になって止めるのはなぜか。

 自分がここまで本気になって止めるのはなぜか。

 誰にも見せたことのない表情で、声で、止めるのはなぜなのか。

 そこまで考えて、ようやく気付くことができた。


 それはとても大切なことだったんだ。


「なにかな?」

 みっちゃんは必死にしがみつく彼女を見下ろす。


「…それ、やっぱり大事です」

 くせ毛の女の子はゆっくりと、だが、きっぱりと言い放った。

「なんで?」

 みっちゃんはすぐさま聞いた。

 再びうつむくくせ毛の女の子は、

「だって…」

 一度言葉に詰まる。

 言葉が紡げない口を一度閉じ、みっちゃんの足をつかむ手に力が込める。

 それを見て、少しだけみっちゃんは微笑む。理由はみっちゃんにしかわからなかった。

 そして、そのまま静かに待つ。


 


 しばらくして言葉が発せられる。

「楽しかったんです。この小説を書いてるとき、私は本当に楽しかった」

 はっきりとした声だった。弱々しい声はもうすっかり消えていた。

「書いてるとき、その小説の世界を私が創ってることが楽しくて、出てくる登場人物を書いて、動かして、その全部を紡いで、私の中の、私だけの世界ができあがっていくのが楽しくて、…本当に楽しかったんです…!」



「そして、あなたの言うとおり。…その通りです。私は…」


 一回、二回。深呼吸をしたあと。


「私は、私はずっと誰かに…、みんなに…、小説を…」


「読んで欲しかった…!」




 そう、彼女はずっと誰かに読んで欲しかったのだ。

 大切なことだった。なのに、今気付いたことだった。

『読み手があって初めて作品は息をする』という簡単なことを、彼女は忘れていた。

 いや、忘れていたのではなく、知らなかった。

 褒められるのが、自分の書いた作品が、自分だけが書ける作品が、こうして評価される喜びを。大切さを。

 その評価は、作品の価値は、賞だけで決まるものではないことを。

 その評価は、作品の世界は、一つだけではないものであることを。

 ずっと自分の殻に篭って、作品をただ、書いているだけだった。

 書いてそれで満足して、それで終わっていた。

 誰の目にも触れることはなかった。

 彼女は本当は誰かに読んでほしかった。


 だが、『読んで』と伝える勇気がなかった。

 彼女には一歩踏み出す勇気がなかった。


 そして、とある日、勇気を出して賞に送ったが、それは落ちた。

 それが彼女に初めて下された、突きつけられた評価だった。

 その評価が初めてで、一つだけで、だからその評価が彼女の全てだった。

 だから、彼女は今日この日、小説を書くことをやめようとした。

 まず賞に落ちた作品を捨てて、それから今まで書いたものも捨てるつもりだった。

 それで全部終わるはずだった。


 だが、それを、捨てる寸前のものを、捨てる寸前だった大切なものを。


 目の前の自分より小柄な女の子が拾い集めてくれた。

 目の前の自分より小柄な女の子が教えてくれた。


 評価は一つじゃないということを。


 作品をちゃんと読んでくれる人が居ることを。


 だから言葉を続ける。

 読まれる喜びを、読まれる幸せを、感じさせてくれたから。


 だから彼女は。


 もう悩まなかった。もう答えは決まっていたから。


 もう泣かなかった。もう大切なものを拾ったから。


 だから、次の言葉はもう決まっていた。


「私、家にまだまだたくさん作品があるんです!」

 迷いはなかった。怖くもなかった。

 だからはっきり言えた。だから堂々と言えた。

「ほんと!?」

 喜ぶみっちゃんに、くせ毛の女の子は問う。

「よかったら、ぜひ読んでくれませんか?」

 すると、すぐに元気な答えが返ってきた。

「うん! そうしたい! その小説もあとでまとめて全部読みたい!」

 そう言うとみっちゃんは再び、手に持っているその世界を差し出す。

 目をしっかりと合わせ、微笑みながら、くせ毛の女の子へと両手で差し出す。




 そしてその世界は――




************

 



「この後、お時間とかは…?」

「私は大丈夫だよー! 君は? ―えーっと、名前!」

 みっちゃんは、座り込んで見上げるくせ毛の女の子に左手を差し出す。

「わ、私は一年八組の水沢春香…です」

 くせ毛の女の子、春香は立ち上がった。

 それから、

「春香! よろしく! 私は二年三組の伊東未来、"みっちゃん"でいいよ!」

 みっちゃんはそう言うと、春香の手を引く。


 そして。


 春香はみっちゃんに手を引かれ、一歩踏み出した。



 あたりはすっかり薄暗くなっていた。

 だが、二人の心は明るかった。


 そして。


 登るときはお互い一人だった階段を、降りる今、二人で降りていった。

 静寂と闇を喋り声の光で斬り裂きながら二人で降りていった。

 遥かな今を、輝く未来へ紡ぐために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まいことみっちゃん 片桐バウムクーヘン @b_k_katagiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ