結:「ゾンビさん、お大事にってところかしら」

 それから、一樹が解放されたのはしばらくしてからのこと。

 一言で言えば、菜穂のバックチョークはまさに圧砕機。そんなモノから逃れるため、一樹は必死に許しを請うた。

 結果、得たのは冗談半分で昔のことをほじくり返すのは危ういという教訓――それだけに菜穂の名前で気安く『オナホ』などと口にしてはいけないと思い知らされた。



「次にそのあだ名を口にしたら、アンタの口に硫酸の入った瓶を突っ込むわよ!」

「わ、わ、悪かったってば……」

「ふんっ、しばらく口聞いてやんないんだから!」

「それじゃあ、この議論が成り立たねえじゃん」

「じゃあ、これが終わったら以降は口をきかないって事にする」

「……なんだよ、それ」



 呆れた論理だ。

 一樹はプイッと明後日の方を向いた菜穂を見ながら、締め付けられた首をいたわった。かなり強く閉められたせいか跡が残っている気がする。



「フフッ……。まったく、相変わらず仲がいいわね」



 そんなところへ聞こえてきたのが真紀の声である。

 顔を向けると、椅子に座って2人の熱弁を聞いていた真紀は少し呆れた様子で微笑んでいた。

 とっさに「仲良くありません」という声が背後から叫ばれる。

 発したのは言うまでもなく菜穂であり、一樹も同調せざるえなかった。

 加えて、なにか反論しておきたかったが、余計なことを言えば菜穂に首を絞められるに違いない。

 そうした予見から、一樹は吐露しようとした気持ちを溜息に変えて吐き出した。



「2人の意見は面白かったけど、どちらも決定打には欠けるわね」



 不意に真紀が感想を述べる。

 それが2人をなだめる目的だったのか、純粋に議論に対する感想だったのかはわからない。収束ムードの中、一樹は真紀の言葉に怯むことなく言い放った。



「まだ終わっちゃいませんよ。俺の仮説の証明はこれで終わりじゃありません」

「……まだ何かあるの?」

「はい、確かに瀬尾の論理には一理あると思います。でも、それだって確実に適応できるかというとそうじゃない。だからこそ、俺はゾンビが風邪を引くことを証明してみようと思うんです」



 と言って、固定していた留め金を外してホワイトボードをひっくり返す。

 裏面は真っ新だった――何も書かれていないのだから当然だろう。

 一樹はデカデカとした文字で自分の言いたいことを書き連ねた。



「瀬尾の論理には一定の説得力があります」

「当たり前でしょ。まず、ゾンビウイルスに勝とうとするのが可笑しいんだって」

「だけど、それにだって穴はあった。強い抗生物質を体内で生成すれば、それなりのリスクも生じる――それについては説明してないよな?」

「そ、そ、それはこれから説明するわよ……」

「そんなんだから、ダメなんだ」

「なによっ!?」

「はいはい、いちいち喧嘩しないの。一樹君も、菜穂ちゃんに突っかからないで」

「……ゴメンナサイ」

「スミマセン。以後、気をつけます」

「よろしい。一樹君、話を続けて」

「わかりました、続けますね」



 真紀に促され、一樹がボードに図を描く。

 その図は、菜穂の推論とこれまで説明してきた理論をわかりやすく表したモノだった。一樹は図を書き終えると、真紀の方を向き直って再度説明しだした。



「俺は、ゾンビウイルスがどんな環境下でも抗体を作り続けるとは考えにくいと思ってます」

「その理由は?」

「そもそも一般的なウイルスは、一定の温度以上で活動を停止するか、死滅するかのどちらかしかあり得ない。これは、ゾンビウイルスも例外じゃないはずです」

「つまり、その活動状態によっては風邪を引かせることも可能だと?」

「おそらくはですが……」

「でも、細菌類には酷環境下でも生きられる種はいるわ。もし、ゾンビウイルスがそうした生物の生態を模倣していたら、風邪を引き起こす細菌類とてタダじゃ済まないはずよ」

「言われてみると確かにそうですね。でも、風邪の原因も大抵は細菌やウイルス感染が原因です。中でも、コロナウイルスやインフルエンザウイルスなどは突然変異しやすい」

「そうしたウイルスがゾンビウイルスをおかしくすると?」

「直接ではないです。あくまでも感染した人間の身体に対して、なんらかの不良を起こす可能性があると、俺は睨んでるんです」

「具体的には?」

「40点ね」

「え?」

「答えとしては物足りないわ。まずそうなった場合、宿主となった人間の身体そのものはいったいどうなったのかしら?」

「え、え~っと、それはですね……」



 どう答えるべきか。

 一樹は次を導く答えが見つからず、戸惑いから閉口した。

 そんなとき、突然真紀がイスから立ち上がる。何をするのかと見ていると、急に目の前までやってきて「ペンを貸して」と言ってきた。

 すぐさま水性マジックペンを手渡す――なにやら、言うべきことがあるらしい。

 一樹は事務机のところへ行って、真紀のぬくもりが残るイスに腰掛けた。そして、ホワイトボードに文字を書き殴る娟麗な後ろ姿を眺める。

 すると、とっさに真紀が反転して口を動かし始めた。



「さて、2人の意見はとても面白かったわ。でも、点数にするなら、一樹君は40点、菜穂ちゃんは着眼点の面白さを評価して55点ってところね」

「やった! 楢崎より私の方が上」

「えぇ~そんなぁ」

「はいはい、いちいちそんなことで一喜一憂しないの――じゃあ、ここからは2人の意見を取りまとめつつも、私なりに解釈してみるわね」

「真紀さんも何か浮かんだんですか?」

「浮かんだって言うより、2人の着想を足して割った感じね。少なくとも、どちらの意見にも優れた点はあったし。そこから蛇足的に考察してみようと思うの」

「なるほど……。それで、どんな感じなんですか?」

「ちょっと待って。今ホワイトボードに書いてみるから」



 と言って、真紀がホワイトボードの余白に自分の考察を書く。

 真紀の描く考察は学生のレポート的な何かとは違い、簡潔でわかりやすい書き方だった。すでに一樹と菜穂が書き殴ったせいもあって、四隅に書いた感がぬぐえなかったが、それでもキッチリとスペースに納めている。

 考察を書き終え、真紀が一樹たちと正対する。

 どんな言葉が飛び出すのか――そのことを期待しながら、一樹は真紀の次の言葉に聞き耳を立てた。



「2人は『貪食』という言葉を知っているかしら?」

「貪食……?」

「私、知ってます。この前、ノーベル賞受賞した先生が研究してたオートファジーによく似た人間が持つ感染防御の性質のことですよね」

「菜穂ちゃん、正解。詳しく説明すれば、人間の食細胞が外部から侵入した異物をファゴソームという小胞で包んで分解するという働きを持つ性質の事ね」

「人間って、そんな性質があるんですか……ん、待てよ?」

「気付いたみたいね」

「その性質を応用すれば、ある程度の病原菌からの感染は防げるんじゃないですか!?」

「その通りよ、一樹君。私たち人間本来が持つ自浄作用をある程度コントロールできるゾンビウイルスが存在するとしたら、それは驚異的な能力を持つことになるわ」

「なんか指揮官であり、自らも歴戦の兵士みたいな感じですね」

「それぐらいゾンビウイルスというものが強力でなければ、この論理は成り立たない。つまり、万能ではないけれども、ある程度の強力さを持っていることが重要なの」

「なるほど」

「これを踏まえた上で、私の考察はこうよ」



 再び真紀がペンを走らせる。

 一樹は、真紀がいったい何を書くのか容易に想像が出来た。先ほどの説明があってこその事だろう。

 自分と菜穂の論理を足して割った説――つまり、巻き貝遺体には強力ではあるけれども、ゾンビウイルス自身が脆い部分も抱えているということだ。

 具体的な内容はさておき。

 一樹は羅列された文字を見ながら、真紀の言葉に耳を傾けた。



「一樹君の説では、歩行のためには筋肉の作用が不可欠。しかも、心臓や脳といった臓器の働きが必要と言うことだったわよね?」

「その通りです。だから、それらが働く体温も一定以上は必要だと思ってます」

「一方、菜穂ちゃんの説は万能さがなんなのか説明はしていないけれども、ゾンビウイルスが外部からの外敵の侵入を防ぐ抗体を持っている」

「その点についてはきちんと考えるつもりでしたけど……。まあ、概ね合ってます」

「よろしい。じゃあ、2人の説を確認したところで、改めて話すわね」

「お願いします」

「まず、さっきの貪食は菜穂ちゃんの説を補うモノね。それと一樹君の人間を食らったときに摂取するビタミンなどの栄養素が取れなくなった場合の最終手段よ」

「人間の体内からビタミンなんか作り出せましたっけ?」

「作れないわよ。あくまでもタンパク質のみに限った話ね」

「それじゃあ、栄養の摂取なんか持続できないじゃないですか」

「その通り。だから、ゾンビ自体はある程度までは臓器の働きを保っていられる。つまり、これらが指し示しているのは、臓器が徐々に不全に陥って死滅していくということね」



 確かにこれなら経過と共にゾンビが本当の意味での死骸になる。

 一樹はそう考えながらも、続けざまに真紀の説明に傾注した。



「そして、この議論の起こりのテーマである『ゾンビは風邪を引くかどうか』ということだけれど……」

「ソレですよ、ソレ。俺はそこがテーマなのに、いつの間にか、ゾンビがどうやってゾンビになるかみたいな話になってるじゃないですか」

「それは一樹君が『ゾンビの生死をどこで分けるか』ってところから始めたからでしょ?」

「……確かにそうですけど」

「まあ慌てないで、一樹君。そのことについて、私なりに考えがあるの」

「どんな考えですか?」

「風邪というモノは、大概免疫力の低下が元で発生するということは一樹君が説明してくれたわよね?」

「ええ、俺が最初に説明した話ですね」

「そもそもゾンビって、感染した人間が死後経過の仮定で変異するモノだから、当然免疫力は低下している。となると、風邪を引くのはどのタイミングでも可能と言うことじゃないかしら」

「言われると、そうかもしれませんね」

「詰まるところ。ゾンビにとって、風邪を引くというこは常態的にありうることなんじゃないかしら」

「あっ……」

「――そう。ゾンビは、いつでも風邪を引ける状態にある。いくら最強の抗生物質を生成できるからと言って即応できるわけじゃないわ」



 言いたいことがわかった。

 一樹はそれだけで自分の仮説が間違っていないように思えた。

 けれども、これは真紀の仮説。

 一部には菜穂の仮説も取り入れており、まるでいいとこ取りで様々な要素を取り入れたようなものだ。だから、完全に納得しているわけではなかったが、それでも仮説が立証されたような気がする。

 一樹はそのことを感じながらも、真紀に問いかけた。



「じゃあ、真紀さん。もし仮にゾンビが風邪を引いたとしたら、いったいどうなると思います?」

「そうね。ゾンビが風邪なんか引いてしまった日には一大事でしょうね」

「やっぱり、ゾンビウイルスなんかじゃ対応しきれないと?」

「う~ん、どこまで対応できるかはわからないわ。だけど、ゾンビが様々な抗体を保持し続けるなんてことは不可能でしょうし、対抗しきれない強力な病原体が来たら弱ってしまうかもしれないというのも事実ね」

「最強の抗生物質があったとしても?」

「……あったとしてもね。もし仮に抗生物質をフルに効かせたら、きっとゾンビウイルス自身にとって諸刃の剣になってしまうんじゃないかしら」

「そうなると立証するのって、なかなか難しいですね」

「まっ、結局のところゾンビが風邪なんか引いたら……」

「引いたら?」

「――私たちは、素直に『お大事に』って言ってあげるぐらいしか出来ないんじゃかしら?」



 そう言って、真紀は笑っていた。

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ゾンビさん、お大事に。 丸尾累児 @uha_ok

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